★オバケコウモリは昇悪魔の夢を見るか? 下

・『オバケコウモリは昇悪魔の夢を見るか?』サンプル 下編(全3編)
・デリック×日々也中心。
・エクソシスト静雄とヴァンパイア臨也の世界観の近代ヨーロッパ。
・日々也がヴァンパイアの幼体のオバケコウモリなパラレル。


【3】

オバケコウモリと過ごすようになって、もう四日目だ。オバケコウモリと暮らすことには徐々に抵抗がなくなってきている。鳥類よりも扱いやすいし、言うこともそれなりに聞く。あともう少し、心を開いて表情を見せて欲しいものだが、オバケコウモリにとって十倍以上も背丈の違う人間になど、逆に捕食されるのではないか、と怯えている可能性もあるので、それはまだまだ難しいか。
午後の授業を受けるデリックはだらだらと惰眠を貪りながら、時折こうして起きて、オバケコウモリについて考えていた。祓魔師の兄のお陰で、こうして教団から資金を頂き、神学校に通わせてもらっているのだ。一般人よりは悪魔について詳しくないこともないが、それにしてもオバケコウモリは正体不明のままと言って良い。デリックは、未知の生態が自分の手によって解き明かされる未来を見た。それはそれはもう、この界隈では有名になること間違いなしだろう。そうすれば賞金も手に入るし、ひょんなことでオバケコウモリを手に入れて良かったなあと、思える日も来るかもしれない。そんな打算を働かせていると、頭の上にチョークが落っこちてきた。教師がチョークをデリックに向かって投げたのである。テキストを読めと怒られたのである。今時そんなことするやつがあるか、とデリックが溜息をつき、ブロンドを掻き上げると、あー、とか、えー、とか、余計な感嘆詞をくっつけながら彼は渋々教科書を読み始めた。
オバケコウモリは、少なくとも暫くはずっとあのままでいると思っていたデリックは、その予想を大きく裏切られることになる。またしても黄昏、魔物が目覚める時に自室に帰ってきた彼は、自分のベッドの上にオバケコウモリが座っているのを見た。しかし今までとは大きさが比べ物にならない。六十センチメートルくらいの、人形である。しかし動いている。呼吸している。マントの下で胸がゆっくりと一定のテンポで隆起と沈降を繰り返している。デリックは驚いて、え、と声を上げる。しかしオバケコウモリは凛とした声で、ただ一言、

「おかえり」

言葉を発したのである。これにはもっと驚いた。まさかオバケコウモリが喋るとは思わなかったからだ。今までずっと、ぷきぃ、とだけ鳴いてきた小さな存在が、いきなり大きくなって、そして言葉を持つようになるなんて。
しかしデリックはその可能性を否定するに至る。もしかしたら今までの鳴き声も、自分に対して返答していたのかもしれないのだ。ただ、人間がその言葉を言葉として認識できなかったのであって。デリックは混乱している頭の中で、嫌に冷静にそんな学術的なことを考えていた。さっきまで居眠りしてしまっていた自分とは大違いである。
そうしている間にも夕陽は加速し、既に地平線に沈もうとしている。窓の外ではちらほらと明かりが点き始めている。オバケコウモリがベッドから降りた。そして椅子に座ったかと思うと、その上で膝立ちになり、部屋のランプを点けるのを見て、やっとデリックは正気を取り戻した。

「ランプ、点けられるのかよ」

オバケコウモリのテキパキとした所作は、どこで学んだものだろうか。

「お前さ、それどこで知ったの?もしかして、お前の住んでいたところでも、人間みたいな生活してるのか?」
「ひびや」
「はい?」
「ひびや」

オバケコウモリは椅子に座ったままデリックを見上げて、ムッとした顔で一つの単語を言い続ける。

「何だよそれ」

デリックがさっぱりわからない顔をしているのを見て、オバケコウモリは溜息をついた。表情といい動作といい、随分と大人びた言動である。
オバケコウモリはデリックを指差した。

「でりっく」
「ふぁい!?」

突然名前を呼ばれて驚いて飛び上がった彼は、オバケコウモリが自分の名前を覚えていたことにも驚く。昨晩の意味が伝わっていたのだろうか。それとも、兄たちとのやり取りの間で既に知っていたのかもしれない。
そして次に、オバケコウモリは自分自身を指差した。

「ひびや」

つまり、自分の名前について言っているのだろうか。やっとデリックは理解すると、このオバケコウモリの名前はヒビヤだと、しっかり頭の中で紐付けた。

「ひびや?」

ヒビヤはゆっくりと頷いた。間違っていないらしい。デリックは、そうかぁ、と感心すると、ヒビヤ、ヒビヤ、と名前を連呼する。あんまりやるものだから、ヒビヤは、またムッとした。しかしその耳は赤くなっている。照れているようだ。
デリックは上着を脱いで通学鞄をベッドの上に放り投げると、夕飯を作りにいく、と言い残して部屋を出ようとする。しかしヒビヤが追いかけてくる。

「とまと」
「ああ、ご飯か」

自分で言葉を発することができるのはとても助かる。デリックは一度、二階へ降りると倉庫から買い置きのトマトを探すが、この時期ではもう手に入れにくいので、ドライトマトしか残っていなかった。ヒビヤの歯がどれくらい生えているのかわからない状態で、固いものを与えるわけにはいかない。こうなったら、水でパンをふやかして離乳食の様に与えてやろうか、と考えたところで、倉庫にヒビヤがやってきた。歩きながら食材の詰まれた箱の中を見比べていく。そしてその中の一つ、赤い果物に目をつけたヒビヤは、両手でその果物を持って見せた。石榴が良いらしい。

「あれ、石榴食べられるんだ。買ったはいいけど特に使い道なかったから、ヒビヤはそれ食べてもいいよ」

デリックは一旦石榴を預かると、台所に戻り、包丁で四等分にして皿に置いた。ヒビヤに皿を渡してやる。

「ありがと」

ヒビヤは礼を言うとそのまま振り返らずに階段を上っていく。段差が大きくて、ゆっくりしか昇れないのを見たデリックは、ヒビヤを抱えると自室の扉を開けて、先に入れてやる。突然抱きかかえられて驚いたヒビヤは息を呑んだ。

「別に何もしねえよ」

じゃあ俺は夕飯作らないとだから、とデリックはドアを閉める。ヒビヤに一人で食事をさせるのは可哀想だが、兄が帰ってくるまでに支度を済ませないと怒られてしまうし、かといってヒビヤと一緒に三人で食べることは危険すぎる。デリックは仕方なしに、包丁を手に取った。



リゾットが冷めてから随分経つ。月は高く昇っているし、町はいよいよ静かだ。日付が変わったかもしれない。兄は未だに帰ってこない。超人的な力と身体を持つ兄のことだ、ちょっとやそっとでは死ぬようなことはないだろう。誰かを殺すことはあっても。
デリックは既に夕食を済ませてしまっていた。残っているのは、鍋に残った一人前だけである。台所でただぼんやりと、窓から差し込む月の光と、ランプの中で揺れる蝋燭を眺めていた。
そこでやっと、ダン、という音が一階から聞こえて来た。勝手口の扉が開いたのだろうと、デリックは階段を下りる。疲れた顔の兄が帰ってきた。血の匂いがする。慌てて救急箱を取りに行こうとすると、いらねぇ、と呼び止められる。

「シンラさんのところ、行かなかったのか」
「こんなもん、大したことじゃねえよ。寝てれば治る」
「俺はシズオ兄ちゃんがどうなろうと知らないけど、傷口をそのままにするとカスカ兄ちゃんが怒ると思うから、もう一回外に出てでもシンラさんとこ連れてくよ」
「あいつは誰の味方でもない、やつもただの異形だ。イザヤと手を組んでるようなやつと関わってられるか」
「じゃあここで消毒するから、傷見せろよ」
「ちっ」

長兄、シズオは、デュラハンと結婚してその身を滅ぼした青年を快く思っていないようだった。唯一の人間の友であった彼が、死神に身を捧げると誓った時から態度を一変して以来、ずっとそのままである。彼は、今は闇医者として人と妖の狭間で生きているが、シズオは彼に裏切られたと思っているのだ。独りよがりで、勝手な考えかもしれないが。
デリックは、直接話に聞く彼と会ったことはないので深いことは知らない。が、シズオと敵対するあのヴァンパイアとも繋がりがあるとかないとか聞くと、どうしても警戒してしまうのである。しかし、兄の傷を完治できるのもまた彼だけなのであるから、運命とは皮肉なことである。
デリックは、シズオのコートが数箇所に渡って小さく裂けているのを見た。見慣れた、ヴァンパイアの風の刃によるものである。

「逃げやがったよ、あいつは」

ヴァンパイアも逃げ足が早いようだ。特に今回は、いきなりその傷を付けてきてそのまま去ったらしいから、いよいよわけがわからない、とシズオはデリックが出したティーカップを握り潰す。まるで癇癪持ちの親父だ。片付けが大変である。
デリックは兄の腕や足に消毒液を付けて、そのまま包帯を巻いていく。ヒビヤの手当てと違って随分な手抜きだが、それでもすぐにシズオは完治してしまうので、互いに気にしたことはなかった。しかし、今回は妙に出血が酷いのが気になる。傷は浅いのに、血だけが垂れて何度も伝ってきて、デリックの袖を塗らしてしまう。

「これ痛くないの?」
「野暮だな」

ふうん、とデリックは返すと、大量の包帯をシズオに持たせる。

「代えるのは自分でやれよ」

めんどくせえなあ、と呟いて、シズオはコートを持って自室へ入ってしまった。リゾットを温めて、持っていかなければならないと思うと、デリックは、俺こそめんどくさいよ、と呟いた。
デリックはリゾットを部屋に届け、そのまま自室に戻る。ヒビヤは椅子に座って窓の外を眺めていた。彼が部屋に入ったのに気付き、ヒビヤは振り返る。テーブルの上には皿があった。石榴の皮が綺麗に積まれている。

「ごめんな、一人で食べさせて」

ヒビヤは表情を変えずにデリックを見つめている。その視線は袖口に注がれている。

「ああ、これ?俺のじゃないよ。兄ちゃんが仕事帰りでちょっといろいろあったんで、それの手当てしてたら付いただけだ」

デリックが説明するが、ヒビヤには伝わっていないらしい。そのまま暫くすると、ぷい、とそっぽを向いてしまった。拗ねたりしているわけではないだろうが、単に興味が無くなったのだろう。
窓から空を見る。月が高い。デリックは欠伸をするとベッドに入った。

「悪いけど、俺はもう寝るよ。明日もあるし。おやすみ」

ヒビヤはその布擦れの音を聞くだけである。眠る気配は無い。彼は夜行性の隣人に、少しだけ申し訳なく思いながら眠りに付いた。
昼、デリックは苦々しい顔を全面に出しながら教師を睨んでいた。厄介な題材なのに期限の短い課題が出されて、不機嫌になっている。午後はすぐに帰らなければヒビヤがおなかを空かせるので図書館に寄る時間はないのである。どうにか自宅の教会の書物で調べられないものかと思案する。そして夕方、吉報が入るのだ。
郵便屋が勝手口の向こうで自分を呼ぶ声が聞こえ、デリックは荷物を受け取った。差出人はカスカである。薄いが、手紙ではない。何かの紙が入っているようだ。
大きめの封筒に鋏を入れると、デリックはその文書に目を丸くする。これこそが、自分にとって求めていたものだと。そして、それは一石二鳥であることにも気が付いた。付属されていたカスカ直筆の手紙にも目を通す。
つい最近、隣国の北の地で祓魔師団体の手によりオバケコウモリとヴァンパイアが捕獲され、観察した結果がレポートになった。その写しが、これだという。兄の持つ人脈は幅広い。もしかしたら、自分とヒビヤのために集めてくれた情報なのかもしれない。デリックはすぐに感謝の手紙を書こうとした。が、期日の早い中級悪魔の資料調査の課題が先である。デリックは表題から読み始める。
読み終わる頃、ヒビヤがデリックのベッドからもそもそと起き出してきた。しかし、デリックは文書の内容を頭で反芻しており、それには気付かなかった。
ヴァンパイアとオバケコウモリには性別が無い。男の研究員と女の研究員が同時にその場に居合わせたが、男から見れば女に見え、女から見れば男に見えるという、仕組みは謎だが、姿を同時に二つ持つ幻影なのだという。また、悪魔の幼体であるオバケコウモリは段階を踏んで成長する。個体差があるようだが、人の言葉も徐々に覚え、行動を真似、より人間の町に溶け込めるように育つ。しかし、成体となる時、何に成るかは定まっておらず、これも個体差がある。人語を介す検体のヴァンパイアから聞き出すには、オバケコウモリは上級以上の悪魔に数多くに分岐するという。即ちそれはヴァンパイアのみならず、サキュバスにも、バフォメットにも成りうるということである……。
デリックは震えだした。ヒビヤに、まさかあのバフォメットになる可能性があるとはにわかに信じがたかったからだ。
バフォメット。別名サタナキア。配下に三匹の上級悪魔を従え、自らの軍勢として放つ山羊の角を持った悪魔。勿論、その三匹にも沢山の悪魔の群れを率いる力が有り、その全てが更なる悪魔を呼んだ際には地上は焦土化すると言われている、凶悪な悪魔の総大将である。
まだあんなに小さいヒビヤが、そんな大妖に成長するなんて。もしかしたら恩を忘れて、自分を殺すどころかこの町を焼くかもしれない。やはり兄の言ったように、早めに捨てておくべきだったんじゃ……デリックはぐるぐると頭の中をかき混ぜられた気分だった。
ヒビヤが眠そうな顔で、デリックの足元に近づいてくる。

「とまと」

『トマト』を『食事』であると覚えたらしいヒビヤが声をかける。しかしデリックは、その手を思い切り振り払った。

「そんなの知るか、勝手にしてくれよ!悪魔!」

ヒビヤはその声に驚いて、びくりと体を震わせた。そしてそのまま黙って元来た道を戻り、部屋の隅で大人しく座った。
デリックは歯の根が合わなかった。この町が、自分が消滅する未来を、この手で作ったのかと思うととても課題などやる気になれなかった。突然、うわあああ、と声を上げて、机に突っ伏した。知りたくなかった、オバケコウモリはずっとそのままであると信じていたかった、デリックは泣き言を繰り返し続ける。時は残酷であると、彼は言う。



デリックがヒビヤを避け始めて数週間が経つ。このところ学業が忙しかったこともあり、デリックは殆どヒビヤと会話をしなかった。食事を滅多にやらないので、痩せ細ってしまったヒビヤは、ただ毎日ぼうっと部屋の隅に座っているだけだった。痩せこけた頬は、前ほどの可愛らしさがない。肌もくすみ、目も虚ろだった。そんなヒビヤを見ることに、少し気の毒にも思ったが、デリックはできるだけヒビヤに関りたくなかった。万が一が起こった時に、あれを育てたのは自分ではないと、自らを守れるように、ヒビヤを犠牲にしたのである。
コウモリの羽さえ、悪魔の証さえなければ、ヒビヤを愛せていたかもしれない。デリックは時折そう思う。意外にも自分はヒビヤを気に入っていたのだ。元々、動物が好きだ。手に乗ったり肩に乗ったりする小動物らしさも好きだったし、今の愛らしい人形の様な姿も嫌いではない。性格は少々無愛想でもあるが、文句を付ける程でもない。黒い羽も気にならなかった。あの理不尽な事実を突きつけられる前までは。
デリックは自室に入るのがますます嫌になっていた。そもそも接したくないし、接するにしてもどう接していいかわからないヒビヤを目の前にして、ぎこちなく生活するのが苦しかったからである。小鳥を飼っていた時とは話が違うのだ。明確な意思と心がある相手に、傷つけてしまった相手に、今更どうすることもできない。どうするつもりもなかった。
それでも彼は帰ってくる。眠るために、その部屋に入る。一日の数時間は共に過ごさなければならないのである。さっさと翌日の準備をしたら寝てしまおうと、デリックは思っていた。自室のドアを開ける。ヒビヤが、自室の床の真ん中に座っていた。いつもは端に寄っていたのに、位置が違うことにデリックは顔をしかめる。しかしヒビヤの様子がおかしいことに気が付いた。ヒビヤの体がぶるぶると震えている。
ヒビヤはデリックが部屋に入ってきたのを見ると、目を見開いた。そして瞬く間に走ってきて、叫びながら彼を突き飛ばしたのである。

「見ないで!」

デリックは咄嗟の対処ができず、階段を転げ落ちた。強く尻を打って、何するんだと怒鳴る。しかしそれは途中で遮られた。痛い、というヒビヤの悲鳴が聞こえてきたのである。久々にヒビヤの、大きな声を聞いたデリックは、ヒビヤに何かしらの異変があったことに気が付いた。彼は立ち上がると、ゆっくりと自室の扉を開けた。そこには元のヒビヤの姿はない。ただし、既視感のある体が、床に手を着いて呼吸を荒げていた。

「ひびや……?」

名前を呼べば、金の双眸が此方を向く。その目は爛々と輝いているようにも見える。あの紅い月の夜に、二つの赤い光を見たのを思い出した。
ヒビヤは殆ど人間と同じ体躯をしていた。だが、その背には大きなコウモリの羽を生やしている。月光にくっきりと浮いたその翼が、一度だけ、ぱたりと羽ばたいた。ヒビヤは腰を上げると何か言いたげな表情をした。そして此方に向かってくるのを見て、デリックは叫びながら部屋を飛び出した。
ヒビヤが覚醒した。成体になった。デリックは教会を飛び出して、街道へ走る。今日は隣町での仕事で本当に良かった。優秀な祓魔師の力があれば、バフォメットの進行も食い止められるかもしれない。自分の足が遅いのが気に食わなかった。シズオくらい体力と力があれば、自分だって問答無用で祓魔師に飛び級できるし、尊敬だってされるのに、どうして同じ血を継ぎながらこうも差が出てしまうのか。デリックは自分を恨んだ。早く、早く。この街道を走り抜けて、隣町の墓場に急がなければ。グール共を叩き潰すシズオに、すぐに帰ってきてほしいと頼みに行かなければならない。あの悪魔は危険だ。大人しいのは今までだけだったんだ。何をされるか、もう分からない。もっと走りたい。もっと急ぎたい。デリックは息を切らせながらまっすぐに夜道を駆け抜けていく。あまりに一心不乱に走ったものだから、ある異変に気付かなかった。
いつのまにか、目の前が霧に包まれていたのである。何も見えない。デリックは足を止めた。それまで心だけで動かしてきた足が突然止まることで、がくんと膝が重くなる。体重が足元に集まってきて、ふらつきながらなんとか座っては駄目だ、こんなことしている暇はない、と歩こうとする。その瞬間、突風が霧を晴らした。一瞬の出来事である。すぐ後にデリックは鋭い痛みを感じた。服の数箇所が細かく切り裂かれている。頬に付けられた傷から血液が、どぷっと溢れ出す。それほど痛くもないのに、頬をはじめとした身体の部分部分ががみるみるうちに塗れていく感覚に、デリックはそれこそ、ここに居てはいけないと、今までの知識が警鐘を鳴らしていた。これはただの風ではない。ヴァンパイアの、見えざる剣である。

「ちくしょう!」

デリックは悪態をつくと無我夢中で引き返した。祓魔の方法を知らない学生が、上級悪魔に勝てるわけがなかった。いざという時のために聖水こそ持ち歩いているが、あくまでも、下級悪魔への対抗手段であって、そんなものが効くような相手ではないのだ。銀の杭と、銀の銃弾がいる。倉庫の戸棚に保管してあったはずだ。あの猟銃を手にしなければ、ここでヴァンパイアに生き血を抜かれる。しかしデリックは、それだとしても迎撃ところか、撃退できるとは思っていなかった。脅しと、時間稼ぎにくらいしかならないことを頭では理解していた。けれども藁に縋る思いだった。教会に行けば救われるのだと、一般民衆と同じような考えを持ちたかったのだ。
今のところ、視界の範囲にヴァンパイアは居ない。霧も晴れて、町の郊外に戻ってきた。人々は既に寝静まり、民家に灯りは無い。真っ暗な道を紅い月だけが照らしており、光源はそれしかなかったものだから、不吉なこと極まりなかった。
走っている間、ぬちゃぬちゃと靴の中から音がしていた。水溜りを踏んで、雨水が靴の中に入ってしまった時と同じ、不快な気分だ。空は腹が立つくらいに晴れている。確認するまでも無くその液体は自らの鮮血である。デリックは吐き気がしてきた。痛みを伴わない出血など、絶対にしたくなかった。そんな現実味のない現象など、悪魔の標的にされた市民が経験すればいい話だった。教会で日々を送る自分が、どうしてこんな目に遭わなければならないんだ。全てのはじまりは、あのオバケコウモリのせいなのか。デリックは自問自答を繰り返す。
教会が見えてきた。すぐに裏路地に回って、勝手口に転がり込む。階段を駆け上がり、倉庫の戸棚から古びた猟銃と銀の杭を取り出した。銃の扱いなんて習ったこともない。人の撃ち方も知らない。それでもデリックは銃弾を装填するしかなかった。静まり返る自宅に、自分の呼吸だけが大きく響いている。不気味だった。早くこの鼓動が落ち着かないか、デリックはそればかり祈っていた。あんまり大きくしすぎて捕食者に見つかったらどうしよう……。ガチガチと震える手足では、銀の弾丸を何度も取り落としてしまった。詰め込めない。自分の手先の不器用さと小心者さに呆れ、背筋を凍らせながら弾丸を拾う。やっと一つだけ無理矢理押し込めることができた。この引き金を引けば、まずは一発、撃つことが出来る筈だ。そう信じて、デリックは残りの弾丸を持てるだけポケットに突っ込みながら猟銃を抱え込む。ずしりと重い。退魔の武器を初めて持ったのだ。
デリックは階段を下りる。聖堂には十字架やら聖遺物やら、悪魔が嫌いそうなものが多数鎮座している。その程度で怯むような悪魔ではないことはよく分かっているが、気休めにはなるだろうと、端の長椅子に座り込む。闇に目が慣れてきたから身動きすることができるが、欲を言えば明かりを点けたかった。蝋燭だけでも、あるのとないのとは大きく違う。主に、心の面で。
その時、階段の方から、カタン、と音が発せられた。デリックは息を呑んで銃口を階段へ向ける。階段から降りてきたのは見慣れた顔であった。

「おかえり」

ヒビヤはデリックを見るなり、ほっと安堵した。あのまま飛び出したまま、何かに巻き込まれたら大変だと思っていたからである。ヒビヤとしてはデリックを驚かせるつもりなど、一つもなかったのだから。しかしそれがデリックに伝わる筈が無かった。近づくヒビヤに、ますます悲鳴をあげて体を震わせて銃を向けるデリックの目尻から涙が零れ落ちた。その様子にヒビヤは落胆する。けれども、どうしても安心してほしかったのでヒビヤは敵意がないことを表すために両手をあげる。

「私は危害を加えない。今まで助けて、世話をしてくれたのに何故デリックを襲わなければならないのか」
「うるさい!」

デリックは猟銃の引き金に指を沿わせる。これ以上近づけば撃つ、と威嚇する。ヒビヤが喋ることができることよりも、デリックはヒビヤのその存在が恨めしかった。あのヴァンパイアの仲間であるかもしれないのに、迂闊に近づかせたくなかった。共闘している可能性だってないわけではないのだ。それでもヒビヤは、ゆっくりと近づいてくる。

「デリックに、私の話を聞いてもらいたい」
「誰が聞くもんか、悪魔の話なんて!」
「違う、私は悪魔の眷属……だけれど、自らを悪魔だと思ったことは一度も無い」
「誰だって生き物は自分を正当化したがるもんだ、それは動物ですらそうだろう」
「そうかもしれない。でも私にはデリックに私の話をする義務がある。全てを知らなければ、ますますデリックは我々から……」
「うるせえよ!」

ガウン。激昂したデリックが引き金を引いた。轟く銃声。完全に感情任せだった。浄化の弾で、ヒビヤを撃ったのだ。ヒビヤはこれで滅された。デリックは、はあはあと呼吸を乱しながら、ヒビヤの死体を確認しようと、立ち上がろうとする。しかしヒビヤは、悲しい顔をしてデリックの前に立っていただけである。消えたようにも思えたデリックは、ヒビヤの周りに風が起きたのを、遅れてきた空気の流れで把握した。単に、ヒビヤは飛んで避けただけだったのだ。

「なんで、なんで当たらないんだよ……」

デリックは、ヒビヤが本当に成体になったのを見て、呆然とした。そんな力が有り余ってることをアピールしているなら、もういっそ自分を殺してくれと、ヒビヤを退治できなかった絶望の淵に立たされた身で、それだけ願っていた。
ヒビヤはまっすぐにデリックを見つめていた。両手は挙げたままである。が、ヒビヤはデリックの姿に異変を見つけると、光のような速さで彼に駆け寄った。
ぎゃあ、と叫んだデリックの口を押さえながら、その頬の切り傷を見た。独特の刃による傷であることに気が付いたヒビヤは、頬の血を舐め取ると、傷口に唇を寄せた。デリックは一瞬で大人しくなる。濃い、生命力の高い若い血の味を感じながらヒビヤは無心にその血を口に含み……床に吐き出した。
てっきり、全て血を啜られるかと思っていたデリックは、ヒビヤが同じようにして、他の傷口の血も吸い出しては吐き出すのを見て、何がなんだかわからなかった。その手で持った銃弾を腹に捩じ込めばヒビヤは死ぬだろうと、頭では分かっているのに体は固まってしまって動かない。金縛りのように、ただただヒビヤが血を吸っては吐く行為を、ぼうっと見つめていた。
ヒビヤの足元に血溜まりが広がって、ヒビヤの靴に、マントに染み込もうとするのを見る頃には、ヒビヤはそっとデリックから顔を離していた。

「驚かせてごめんなさい。でも、こうしなければデリックは死んでしまうところだった」

どういうことだ。搾り出したのは吐息だけだった。殆ど音になっていないデリックの言葉を理解したのか、ヒビヤは説明し始める。

「この切り傷は、ヴァンパイアのマーキング。眠りに入ったところで確実に収穫できるようにするための血の印。ヴァンパイアたちは、気紛れにこういった印を残していく。大した痛みもないものだから人間はあまり気にしないけれど、本来の目的はそうではないから」
「どうして」
「マーキングされた体の血は、その周りを少しでも抜かないと催眠効果のある特殊な毒が回る。そうして眠ってしまった人間は三日三晩眠り続ける。その状態でヴァンパイアから逃れられた人はいないよ」

ここまできて、デリックは本当に自分の命が救われたことにやっと気が付いた。しかし、まだ安心できたわけではない。ヴァンパイアのマーキングが外れたってヒビヤが自分の血を吸って飲んでしまったら意味がないのだ。

「だけど、俺はまだお前を信じたわけじゃない。悪いな、人間は悪魔よりも疑い深いんでね」

デリックは猟銃に再び手をかけると、ヒビヤをぎろりと睨む。ヒビヤは、それでいい、と頷いた。

「疑っていてもいい。けれども、少し、私の話を聞いてくれないか」
「それを信じてやる理由も、義理もこっちにはないんだぜ」
「信じなくてもいい。それでも聞いて欲しいんだ」

そしてヒビヤは語り始める。オバケコウモリの見ていた世界と、悪魔の世界を。

「私は数百年前に、この世界ではない魔界で生を受けた……」

両親はおらず、歳の離れた兄姉が一人、生まれた月が殆ど変わらない兄姉たちがニ人居た。生来の人見知りが災いしてか、他に親しい人もいなかった。故に私は殆どの時間を読書に費やした。日々の生活に関ることだけでなく、敵対する天使や、捕食対象である人間のことも学んだ。高度な文明を持つ貴方がたを、ただの餌だと思いたくなかったのかもしれない。
ある時、一番上の兄姉が、人間界へ散歩に行こうと私たちを誘った。私たちが日常飲み食いしている血は、どんな人から生産されているのかと、どのようにして兄姉に狩られ、死んでいくのだろうと、単純な興味だったと思う。上の二人が兄姉についていくというので、私も渋々同行した。この町を兄姉は気に入っていた。貴方の兄の祓魔師にさえ会わなければ、最も良質な血を持つ人間が集まると言っていた。その時、森に入っていく貴方を見た。兄姉たちは貴方に狙いを定め、襲いかかろうとした。それを止めたのも、私たちと敵対する貴方の兄だった。仕掛けたのは此方だから当たり前なのだけれど、私たちは彼らの戦いに巻き込まれた。私は攻撃を避ける兄姉の肩に必死で捕まっていたけれど、うっかり手を滑らせてしまって……そして、貴方の持っていた鳥篭にすっぽりと、入ってしまった。それが始まりだったと思う。
気を失っていて、目が覚めたら鳥篭で驚いた。貴方の兄が強力な力を持つ祓魔師だと知っていたから、私は何としてでも逃げ出したかった。結果として、それは叶わなかったのだけれど、貴方は傷ついた私を庇ってくれ、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。はじめは貴方の素性がわからなかったから警戒してしまっていた。あの時は怒鳴ってしまってごめんなさい。実は、貴方たち人間の言葉は私には最初から全てわかっていた。今はこうして話すことができるけれども、あの時は人間の言葉にして上手く伝えることができなかった。不便をかけました。
もう一つ謝らなければならないことがある。申し訳なかったけれど、この前、貴方宛に届いた書物を見てしまった。貴方が私を怖がった理由を知りたかった。中身を読んで、無理のない話だと思った。結論から言うと、少なくとも私はバフォメットにはならないし、ヴァンパイアになるつもりもない。確かに、私たちオバケコウモリは、自らの才能と適性に沿って成体の悪魔になるけれども、私はどの悪魔にもなったりはしない。なりたくない。
私は天使になりたいのです。白い衣を着て、燦々と光を振りまく、天使に。人を呪って捕食して、泣き叫ぶのを笑うより、人に幸をもたらして、その笑顔を祝福したい。
私の同族に漏れず貴方がたも、悪魔が天使になれるものか、と嗤うでしょう。けれども私が一度でも人間の血を吸ったことがありましたか。確かに、先ほど貴方の血を啜りました。しかし、それは目の前で貴方に死なれたくなかったからなのです。回る毒と、迫る死から引き離したかっただけなのです。まだ貴方に何も恩を返せていないのに、ここで亡くなられては、私はどうしてこれから生きていけましょうか。
言い訳じみていると、貴方は笑いますか。ならば私の翼を御覧になって下さい。赤茶けて、くすんでいるでしょう。私たちオバケコウモリとヴァンパイアは、人の血を吸った量が多ければ多いほど、この羽を黒くします。兄姉のヴァンパイアをまだ覚えていらっしゃいますか。あれは禍々しい闇の色をしていたでしょう。一度も血を飲んだことのない私とは比べ物にならないはずです。
私は貴方に危害を与えません。むしろ恩を返し続けましょう。約束します。悪魔が神に誓うなど、許されないことなのは、わかっています。それでも、私は命を賭して誓います。また、私は私の命のある限り、貴方がた人間を悪魔の侵攻から守りましょう。例え身内であろうとも、この身を持って滅しましょう。
ですから、どうか私をここに置いて下さい。魔界で光を得るには、遮る者が多すぎる。貴方がたの元で、天使への修行をしたいのです。私はまだ完全な悪魔ではありません。せめて未だ不確定なオバケコウモリの間だけでも、この地で生かせてはくれませんか……。

「私を、天使にして」



サンプルはここまでとなります。続きは『オバケコウモリは昇悪魔の夢を見るか?』でご覧いただけます。
『この因縁、立ち入り禁止×6』にて頒布します。詳細は此方


2013.10.01

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