レディーの瞳から涙が一筋流れ落ちた。僕は目の前の状況が飲み込めず早まる呼吸を抑えることしかできない。
もう二度と、その口から名前が呼ばれることはないと思っていた。それなのに目の前の彼女が発した言葉は間違いなく自分の名前だったのだ。
レディーが微笑み、ゆっくりと目が閉じられた。もしかして…なんて思ってしまった僕はバカかもしれないが、それが最期のように思えてなんだか泣きそうになったのだ。
レディーの口元に耳を近づける。スースーと規則正しい呼吸が聞こえてきた。眠ってしまっただけのようだ。
「…はぁ」
思わず胸を撫で下ろした。おそらく極度の緊張からくるストレスが一気に解放されたのだろう。それもそうだ。レディーは人さらいによって誘拐されてきたのだから。
どんな経緯があったかはわからないが怪我の状況から見て酷いことをされたのはわかる。頬に傷を追うなんて前のレディーだったら発狂していたことだ。
「なんで来たんだレディー」
安全のため記憶を消してまで突き放したのに、目の前に現れるなんて予測不可だ。
「…」
ゆっくりと見下ろす。痩せてはいるがいつもと変わらないレディーの寝顔だ。何度も隣で見てきた顔。愛おしさがこみ上げてくる。
でも今この状況を闇の集団に知られるのはまずいことだ。下手すればレディーは殺されてしまう。
「プルート!」
ドラコは屋敷しもべを呼び出した。はい!と返事をしながら大急ぎで部屋へと入ってくる。
「なんでしょうかドラコ様」
「頼みがある」
「私にできることでしたら」
「アレが誰かわかるか?」
ドラコがベッドを指差すとカロンが大きな目玉が飛び出るのではないかというくらい大きく目を見開いた。
「もしやレディー様ですか…?」
震えていた体が、ドラコが頷くことで更に震えた。ヒェェと言いながら部屋の中をバタバタと暴れまわっている。
落ち着けと言うように、ドラコはプルートに足をかけた。勢いよく転がったプルートは頭を抱えながら「なぜここへ?」とドラコへと尋ねている。
「僕が聞きたい」
「怒っておいでで?」
「ここは危険なんだぞ当たり前だろ」
「でもドラコ様」
「なんだ?」
「なんだか嬉しそうです」
レディー様が来て。
プルートがにこやかに笑った。ドラコは顔を赤くしたが、確信をついてきたプルートに負け、唇を綻ばせた。
「…そうだな。嬉しいさ」
でも、それ以上にレディーの状況は危険だ。安全な場所へ帰さなければ。
ドラコが寂しそうに呟いた言葉にプルートは頭を下げた。プルートは知っていたのだ。全てレディーのためだと。知っているからこそ、ドラコが浮かべた笑みが苦しかった。
「でも怪我の治療が優先だ。このまま帰すわけには行かない」
「わかりました」
「いいかプルート。レディーがいることを他の死喰い人に悟られるな」
「はい。もちろんです。屋敷しもべの誇りにかけて閉心術を使わせて頂きます」
「よし。下がっていい」
「あ、レディー様のお召し物はどうなさいますか?」
あぁそうか。レディーの服はボロボロだったな。どんな状況だったか知らないがなぜかスーツだ。
レディーが眠るベッドへと近づく。スーツの胸元によく知るマークが入っていた。思わず眉間にシワが寄る。
「これは魔法省のマーク…」
まさかとは思うがレディーは魔法省へ潜入したということか?ということは死喰い人で魔法省の役人であるヤックスリーに会っている可能性が非常に近い。それにヤックスリーが服従の呪文で操っているパイアスも。
奴は非情だ。レディーが女であろうと侵入者であれば問答無用で攻撃するだろう。その時受けたキズがこの頬のキズならあいつのことは一生許さない。
「ドラコ様…?」
「あ、あぁすまない。おそらく隣の部屋にレディーが前置いていったドレスがあるはずだ。持ってきてくれ」
「かしこまりました」
プルートが部屋から出て行った。静かな空間がまた流れる。ドラコはベッドの横の椅子に腰掛け、レディーの様子を見守った。
またどうせ会えなくなるのだ。見守るくらいバチは当たらないだろう。
「初めましてレディー。僕はドラコ・マルフォイ。いきなりこんなことを言われたら戸惑うかも知れないが…」
僕は君が好きだ。
ドラコは眠るレディーに静かな声で語りかけた。子守唄を歌うように、優しい声で、ゆっくりと。
レディーのことはずっと前から知ってるよ。君は洋服が大好きで、友達にオルガとランドールがいる。ランドールには三年生の時に惚れ薬を盛られた。四年生で新しい兄ができ、ウエディングドレスで踊ったんだ。
五年生の時に来た校長が大嫌いで、そいつのせいで僕らは喧嘩して、また仲直りをした。六年生は…そうだな。
レディーの前からある男が一人消えた。
その男はレディーをひどく愛していて、毎日恋い焦がれていた。でも記憶を奪う必要があったんだ。男はこの世で最も恐ろしい男に命を握られていた。だから男が愛するレディーがその恐ろしい男にバレることを、何としても避けたかったんだ。
君を愛するその男の名前はドラコ・マルフォイ。
ドラコは何度も君を思い浮かべて謝ったよ。そして毎日こう呟くんだ。
「もしまた…巡り会えたなら。もう一度僕と恋をして欲しいと」
ドラコが俯くと涙が一つ、手の甲に落ちた。視界は自分の手と、涙。しばらくそのままでいると、自分の手にか細い手が置かれた。
ハッとして顔を上げる。
レディーの手だ。彼女はまた瞳に涙をいっぱい溜めていた。
「大好きよドラコ…あなたを忘れたことなんて一度もない……」
「あ…」
「あなたとまた恋をしてもいいの?」
ドラコがレディーを抱きしめるなんてすぐだった。抱き寄せた細い体がしなやかに湾曲する。
心臓は早く動いて、涙が止まらなくて、でも幸せだった。
恐ろしい世界も。身近にある闇も。脅される日々も。もう、どうでもよかった。ただ目の前にいるレディーを二度と離したくないと、今はただ、それしか考えられなかったんだ。
(僕らはまた恋をする)
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