彼女はブレザーのジャケットを脱いで、カーディガンで過ごすようになった。どんどん温かく、暑くなっている途中で、毎日学校に行くことが楽しみだった。特に委員会という正当な理由で、男子バレー部が使用している体育館付近に行けるときは絶好調だった。

 そして、今日は絶好調の日だった。るんるんとお花を飛ばしている幼馴染に、優しい別所は嬉しそうだね、と声をかけてやる。体育館へ向かう彼女の足取りはとても軽い。くるん、と振り向いた彼女が、にこにこの笑顔で答えた。

「だって、昨日昼神せんぱいと話せたんだ。昼神せんぱい犬飼ってるんだって」
「へえ」

 俺も知ってる。やっぱり、別所は優しかった。余計な一言が生む亀裂のすごさは、妹のおかげでよぉく知っている。

「昨日も話せたのに、今日も話せるかもしれない!」
「……話せると良いね」
「うん!」

 純粋喜び100%で彼女が笑うので、別所は彼女の肩をぽんぽんと叩いた。その仕草は彼女を励ますときに、別所の癖だった。彼女が不思議そうに首を傾げる。別所はいつも通り省エネな表情筋で、困ったように笑うだけだった。



 別所は幼馴染の頭に葉っぱが生えているような気がして、つい目を擦ってしまった。当然、彼女の頭に葉っぱも蕾も、ましてや花すら生えていない。彼女は体育館の中からでも見える場所で、水やりをしていた。妙にジョウロが似合うなと思っていると、そんな彼女が顔を上げる。視線の先には昼神がいて、彼女は手を振っていた。丁度体育館にやってきたらしい。彼女はジョウロをもったまま、昼神の元へ駆け寄っていく。

「ピクミンがピクミン育ててるのかと思った」
「えぇ……じゃあ、私は何ピクミンですか?」
「うぅん、そうだなぁ」

 その姿に、別所は本人も分からないほど、眉を下げた。名前はピュアだよなぁ。彼女は昼神と話せば話すだけ、仲良くなれていると思っている。何より彼女自身は些細な会話を重ねて、昼神のことを知って、さらに好きになっているのだ。例え自分と同じほどの気持ちではなくても、可愛がっている後輩という位置くらいはイケるのではないかと考えている。

 でも、昼神にとっては違う。きっと昼神から見れば、彼女はずっと同じ位置にいる。前にも後ろにも動いていない。昼神がここでいいかと決めたラインからは、決して内側へ行くことはできない。

 人知れず、別所は悩む。このまま彼女の恋を見守るべきか。さり気なく真実を告げてやるべきか。自分で気付くのと、人に言われるの、どっちが傷付かずに済むんだろう。表情が乏しくても、やさしい別所は悩んだまま今日も答えが出せなかった。

 そんな別所がもんもんとしている間に、彼女は自分で真実に辿り着いてしまった。

「昼神せんぱい、こんにちは」
「お、名前ちゃん、こんにちは次美術?」
「はい、そうです」

 彼女はいつかの昼神のように、スケッチブックと薄っぺらい美術の教科書を腕に抱えていた。美術の教科書は他の教科と違って、厚みがない代わりにサイズが少し大きかった。スケッチブックと良い勝負だ。彼女が持っているとさらに大きく見えた。

「そっかぁ。美術室って、遠いから移動大変だよね」
「ですよねえ、特に一年生の教室から遠いんです」
「あはは、分かる。俺も一年の頃そう思ってた」

 昼神は何も言わずに、表情に出さずに、不思議に思う。彼女の様子がおかしい。俺に喋りかけたときはいつもと同じだった気がするけど。調子でも悪いのかな?ふたりで何てことない世間話をしていると、後ろから昼神を呼ぶ声がした。昼神が振り返って、昼神越しに彼女がひょっこりと顔を出した。そこには重たそうな荷物を持った生徒がひとり。

「あ、お話中でした?すみません……昼神先輩で見えませんでした」
「大丈夫だけど、ミナちゃん大荷物だねぇ」
「そうなんですよ!さっき先生に押し付けられて!職員室まで運んでほしいって!」
「で、俺にも手伝えって?」
「はい、お願いします!」
「いいよ、俺も職員室に用あるし」
「ありがとうございます!……え、用なかったら、手伝ってくれなかったんですか?」
「うん」

 昼神はにっこりと、意地悪く笑うと、ミナちゃんと呼んだ彼女と同学年の生徒から、八割の荷物を受け取った。ぽかん、としている彼女に視線を向けると、昼神はまたにっこりと、笑った。

「じゃあね、名前ちゃん」
「あ、はい」

 同級生は彼女に向かって、申し訳なさそうにペコッと軽く頭を下げた。でも、嬉しそうに昼神の隣へ並ぶ。二人は楽しそうに話しながら、廊下を歩いていく。その後ろ姿に、彼女は先ほど感じた違和感の正体を知った。あ、昼神せんぱいと私だ。あの二人は。傍から見ても同級生の昼神への好意は分かる。それが恋情なのか、ただの先輩への敬愛なのかは分からない。でも、ミナちゃんと呼ばれた同級生も、彼女と同じように昼神に懐いている。それは事実だった。

 そして、昼神は彼女にも、同級生にも、興味がない。私は昼神せんぱいがどんな絵を描くか気になる。どんなものが好きか、嫌いか。なんなら、許されるなら、いつか昼神せんぱいの悩みだって知りたいと思っていた。でも、昼神せんぱいは私のこと、何か尋ねてくれたことあったっけ。思い返しても、見つからなかった。昼神せんぱいに意識されてないことは分かってたけど。でも、下の名前で呼ばれてるのは私だけ、だと思ってたのに。

 彼女にとって、唯一の好きな人からの特別がなくなってしまった。特別だと信じていたものは、別に特別ではなかった。ミナと呼ばれた同級生は、昼神と同じ委員会に所属していて、よくある名字の持ち主だった。そのせいで、委員会でも三人ほど同じ名字がいたため、分かりやすいように下の名前で呼ばれているだけ。そこに、昼神の特別な感情はない。委員会内では昼神以外の生徒にも、ミナちゃんと呼んでいる。そんな背景を知る由もない彼女は、薄っぺらい教科書を腕の中で折り曲げてしまっていた。

あとがき

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