先輩 04

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 夢を見た。小さな彼女が座り込んで泣いている。そんな彼女に駆け付けようとして、気付く。伸ばそうとしている自分の手が酷く小さかった。
「……」
 飯綱はパチっと目を覚まして、あーと声を漏らして両手で顔を覆う。たっぷり10秒項垂れて、両手を離して、勢いよく起き上がる。
「よし、顔洗お」
 自分になりケジメつけて、飯綱は自分の部屋から出た。洗面所は妹に占領されていた。
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「どうしよう」
 彼女は顔を青くして悩んでいた。目の前には、図書室の扉。先週といい、今週といい、気まずいことばかり起きている。先々週までは何も考えずに、開けていたのに。
 普段、飯綱とは委員会のとき週番の時ぐらいしか喋る機会がない。そのはずなのに、昨日は偶然廊下ですれ違った。渡り廊下で、互いに移動教室の帰りだった。挨拶をしながら、すれ違うはずだった。ちょうど、通り過ぎるときに彼女がつまずいてしまった。飯綱もとっさに支えようとしたが、ワンテンポ遅れて、彼女の腕ではなく、手のひらを掴んでしまった。
 もう、条件反射だった。きっと誰が相手でも、彼女は手を振り払ってしまっていた。
「うう……」
 彼女は飯綱の驚いて、傷付いた顔を思い出して、蹲りそうになる。ただでさえ、勝算がない恋なのに。自分で可能性を摘んでしまうなんて。今日サボりたい。行きたくない。来ちゃったけど。いや、でも、今日逃げたら、余計に悪化する。頑張れ、私。彼女は顔を上げて、そろそろと図書室の扉を開ける。
 あ、飯綱さんまだ来てない。彼女が拍子抜けしていると、後ろに気配を感じた。振り返ると、飯綱が「うおッ」といつもの調子で驚いていた。
「急に振り返るなよ、びっくりするだろ」
「す、すみません」
「素直か。そいや、今日新刊入ってくる日だったよなー」
 先生、バーコード用意してるかなぁと飯綱はカウンターへ入っていく。唖然としている彼女を置いて。彼女は嫌な予感がした。ハッと我に帰って、慌てて飯綱の背中へ追う。なんと言えばいいか、分からない。でも、このままだとマズイ。それだけは分かる。
「いいず……わっ」
 急に視界が遮られる。目の前にずい、と出されたのは、黒い線が並ぶバーコードの束。いつもスカスカのカウンターの上に、ダンボールが置かれていた。先生の達筆な字で、今月の新刊と書いてあった。
「バーコードあったわ。俺、今日受付やるから、バーコード貼る係な」
「わ、分かりました」
「バーコード一枚しかないから。貼るの間違えるなよ?」
「分かってますよ!」
「あはは」
 彼女がムキになって返せば、飯綱は普段と変わらない様子で目を細めて笑う。爽やかで好青年。お手本のような笑顔。あっ、飯綱さん昨日のことなかったことにしようと、してる。私が謝らなくていいように、話題にすら出さないんだ。飯綱さん気にしてないみたいだから、まあいっか。って、そんな風に思わせたいのかもしれない。小さな手で持ったバーコードの束に皺がよる。
「……やです」
「ん?」
「いやです」
「イテッ」
 ペシンッと軽い音が響く。彼女が飯綱の背中をバーコードの束で叩いだ音だった。飯綱は後ろを振り返って、ギョッとした。彼女が泣きそうになっていたから。
 飯綱は慌てて図書室の中を見渡した。幸いにもまだ生徒は彼女と飯綱の2人だけだった。良かった、と胸を撫で下ろしている間も、彼女の暴走は止まらない。
「飯綱さんッ」
「ハイッ」
「昨日のことなかったことにする気ですかッ」
「えっ、ええ?」
 なんだ、この一夜の過ちを咎めるような言い方は。やめろ、誤解を招く。心の中で突っ込みながら、飯綱まで勘違いしそうになる。
 俺は昨日彼女のトラウマを思い出すようなことしちゃっただけで。彼女にこんな潤んだ目で責められるようなことはなかったよな?……そうだよな?
 飯綱が必死で考えているのにもかかわらず、彼女は眉を釣り上げる。彼女からは飯綱が昨日のことをなかったことにして、謝るチャンスすらくれないのだと悲しくなっていた。今ここで飯綱に線を引かれたら、もう今以上に飯綱と近付けなくなる気がする。先輩と後輩の距離を、壁を越えれなくなる。根拠はない。ただの直感だった。
「飯綱さんッ!昨日のこと謝らせてください!」
「!」
 目を三角にして、語尾にびっくりマークをたくさんつけて、彼女は謝らせろと言う。とても詫びを入れる態度ではない。むしろ、戦う気マンマンにしか見えない。彼女は信じていなかったが、佐久早の言う通り飯綱は割と単純なタイプだった。だから、彼女の雰囲気に呑まれて、飯綱もムキになってしまった。
「謝んなくていいいから」
 飯綱もびっくりマークをいっぱいつけて返したかったが、相手は彼女だし、後輩だ。飯綱は顔だけ怒って、声は努めて普段と変わらない大きさにする。意図ではなく、無意識のクセだ。妹と言い合いするときと、同じ声量。飯綱は大抵姉にも、妹にも口喧嘩で負ける。
 飯綱の言葉に、彼女はカァッと顔を真っ赤にする。もちろん、怒りに近い興奮のせいである。
「なんでですか!私は助けようとしてくれた飯綱さんの手を振り払ったんですよ!失礼です!」
「失礼じゃない。俺がちゃんと助けられなかったから……」
「だから、飯綱さんのせいじゃないですってば!」
「俺のせいとかじゃなくて、俺が嫌なんだって」
「え?」
 飯綱に何を言われても、言い返す気がいたは彼女は口を大きく開けていた。開けていたが、予想外なこと言われて上手く喋ることができなかった。飯綱は悔しそうに、でもどこか悲しそうに顔をぐしゃっと歪めて、自分の手を握りこむ。
「手握られんの嫌なくせに」
「……なんで知ってるんですか」
 彼女は言い捨てられた言葉に、目を見開いた。昔から馴染みのある友達しか知らない、嫌な記憶。昨日は思い出さなかった記憶が頭に過ぎって、思わず低い声を出してしまう。飯綱はしまった、と分かりやすく動揺して、彼女から視線を逸らす。まるで、浮気がバレた恋人のようだった。彼女はズイッと飯綱に寄って、誰に聞いたんですかッと問い詰める。
「……いや、それは」
 口をもごもごさせる飯綱に、彼女はピンッと閃いた。
「聖臣くんに聞いたんですね?」
「ウッ」 
 本当に飯綱さんはいい人だ。いい人ゆえに、嘘がつけない。気遣うときはとても思慮深くて、大人っぽいのに。かっこいいのに、すごく優しいのに、スマートなところだってあるのに、なんでこんなに格好が付かないんだろう。なんで、こんなに可愛い人なんだろう。彼女はまだ自分が知らない感情で胸がいっぱいになるのを感じた。彼女は慈しむように飯綱を見上げて、尋ねる。
「なんで、聖臣くんに聞いたんですか?」
「……正直、本人以外から聞くの良くないって分かってたんだけど」
「けど?」
「好きな子のこと、知りたいと思って。しかも、知らない所為で、俺が傷付ける可能性あるかもって思ったら、余計に……」
 ごめんな。勝手に踏み込んで。それに、知っても傷付けちゃったし、本当ごめん。飯綱が眉を下げて、悲しそうにする。彼女はブンブン、と首を大きく横に振った。ああ、もう、やっぱりズルい。飯綱さんって、やっぱり年上で大人だ。
「飯綱さんて他人に手触れられるの平気ですか?」
「まあ、知り合いなら……?」
「じゃあ、私触ってもいいですか?」
「え、うん?」
彼女の脈絡のない質問に、飯綱は戸惑いながらも頷いた。彼女はずっと握られている飯綱の拳を優しくほどいて、握り締める。
「飯綱さんなら、繋がれてもいいですよ私」
「エッ」
「もちろん、こういう意味で」
 するり、と飯綱の指の隙間に、小さくて細い指が絡んでくる。いわゆる、恋人繋ぎになっていた。飯綱を真っ赤にして、エッエッといっぱい混乱して、キリッと顔を引き締める。
「ちゃんと俺と付き合っ」
 彼女もキッチリ頷く準備をしていた。見つめ合う二人はいい雰囲気そのもの。
「スミマセン」
「!」
「!?」
 反射的に振り向く飯綱、そして飯綱の背中に隠れる彼女。いつか現れたピカピカの一年生が戸惑うように本を持って立っていた。
「あ、借りますか?」
「いや、返却です」
 二人が付き合うまでには、あともう少し時間が必要らしい。

あとがき

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