幼馴染 04


「佐久早ー今日の課題見せて」
「やだ」
「じゃあ、教えて」
「やだ」
「なんで」
 ヘトヘトになる体育授業の帰り、彼女は思わず振り返る。そこには幼馴染がクラスメイトに絡まれていた。佐久早も、次の授業は移動教室らしい。傍に教科書を挟んで、手をスラックスのポケットに突っ込みながら歩いている。彼女は丸まった大きな背中から、目が離せない。足が勝手に前へ出て、口が勝手に動いた。
「き、聖臣くん」
「ん、何」
 距離は二メートルもない。佐久早はいつものように振り返った。振り返ってくれた。クラスメイトは彼女と佐久早の顔を見て、「俺先に行ってるな」と佐久早に手を振って去っていく。佐久早も、「後でな」と頷き返していた。で、なに。と、佐久早に見下ろされて、目が合って、言葉に詰まってしまう。正直、用はなかった。ただ、ちょっと気になることがったのだ。
「えっと、聖臣くん最近忙しかった?」
「いや、別にいつも通りだけど」
「そ、そっか……」
 じゃあ、聖臣くんに避けられてるのは……私の、気のせい?まだ彼女が何か言いたそうにしているのに、佐久早は「もういい?」と首を傾げる。
「あ、えっと」
「授業遅れる。何かあったら、LINEでもして」
「う、うん、ごめんね」
 彼女は意味もなく泣きそうになった。佐久早から逃げるように、つま先を見つめた。彼女は俯いた視界で、記憶よりもずっと大きな上履きが方向転換して、遠ざかっていく後ろ姿にまた泣きそになる。どうして、こんな感情的になってるんだろう。生理終わったばっかなのに。彼女が漏れそうになる嗚咽に耐えていると、ぎゅむと頭部に重みを感じた。
「部活終わったら、連絡する」
「あ」
 彼女が顔を上げると、どこかバツを悪そうにしている幼馴染がひとり。彼女の濡れた瞳を見て、佐久早は顔を顰めた。
「だから、そんな顔するな」
「うん」

「もしもし?」
「今、部活終わった」
「お疲れさま。えっと、どっちかの部屋で話せたらって思うんだけど……」
「俺はどっちでもいい」
「じゃ、私の部屋で。聖臣くん、ご飯とお風呂済ませてから来る?」
「うん」
「じゃあ、また後で」
「分かった」
佐久早は通話を切って、ポケットにスマホを突っ込む。隣にいる従兄弟の視線が鬱陶しくて、思わず舌打ちがもれた。

「聖臣くん、お疲れさま」
佐久早は記憶と何も変わっていない玄関をぼんやりと見つめていた。とんとん、と軽い足音に顔を上げる。晒されたふくらはぎがやけに眩しく見えた。両手を広げて彼女が階段から降りてくる。
「部活終わりにごめんね」
「別にいい。おっぽも風呂入ったの」
「うん、時間あったから」
「そっか」
「うん」
草臥れたスニーカーを脱いで、佐久早は玄関の隅っこにちょこんと靴を揃える。いつの間にかすっかりデカくなった幼馴染の背中。そんな幼馴染の背中が小さく丸くなっているのが、どうしようもなく可愛いと思った。今すぐその背中に飛びつきたくなった。飛びついて、「おい」と呆れた顔で、もしくは少し怒った顔で叱られたい。本当は怒ってないけど、危ないだろって、言って欲しい。
昔の自分なら、出来たかもしれない。それこそ、佐久早とまだ身長があまり変わらなかった頃なら。きっと、私は聖臣くんの人間関係の中で大分許されている方だと思う。部活が終わった後の時間を私に使ってくれるし、今日も聖臣くんの部屋がいいって言えば、部屋に入れてくれた。何より、聖臣くんが触れて「泣くな」って励ましてくれる。
充分、彼女は佐久早に大事にされている。幼馴染として、かなり大事にされている。でも、嫌だと思った。それだけじゃない。もっと、佐久早に許されたい。
これから先、ずっとずっと先の未来でも、佐久早と一緒に居たかった。自然に疎遠になるのも、急に気まずくなって話せなくなるのも、どっちも嫌だ。
「聖臣くんっ」
「わッ」
「……私と、同じ墓に入って」
「は?……ハッ!?」
佐久早はいきなり小さく温い生き物に軽く突進され、身体が前のめりになることはなかったものの、驚きの声が出てしまった。危なねぇだろ、と文句を言おうとした口が、そのままポカンとなる。今、コイツなんて言った?
「私、聖臣くんとずっと一緒に居たい。聖臣くんは私以外の子と付き合っちゃダメだし、好きになっちゃダメ」
「……」
「……」
 やっちまった。彼女は佐久早の背中に抱き付きながら、早々に後悔が押し寄せて来た。普段の自分とは違うことを口走ってしまったし、脈絡がない。聖臣くんも絶対意味分かんないって思うし。どうしよう。佐久早の背中に額を押し付けて、彼女は祈った。どうか怒りも呆れもしないでくれ。なんかいい感じに普段の空気にしてくれ。お願い、聖臣くん。いつもの彼女なら、そんなこと一番聖臣くんに期待しちゃダメでしょ、と一刀両断するクセに。
「おっぽは俺のことどう思ってんの」
「……え?」
 腕をぐいっと引っ張られ、彼女は佐久早の膝に乗っかる形になる。目と鼻の先に、佐久早の顔があった。癖っ毛の前髪が肥大に触れて、擽ったい。
「まさか俺にだけ他の奴好きなるな、付き合うなとか言っておいて、おっぽは俺以外好きになってもいいとか言うなよ」
 佐久早は怒っていた。眉はこれでもないほど寄せられて、目も吊り上がっている。でも、彼女は全然怖くなかった。この幼馴染は拗ねると、下唇を少し突き出す癖がある。山のように唇がなるときは怒り。漢数字の一のように真っ直ぐになればなるほど、怒りがピークに達し、無になる。それこそ、口を聞かなくなるくらいの。
 でも、今の佐久早は怒って拗ねているだけ。
「……言わないよ。好きになってもいいの、聖臣くんだけでいいから」
「……」
 彼女の頬が薄らと赤く、声が震えていた。いつもより、小さく弱く見えた。佐久早は眩しいと目を細めるようにして、彼女をじっと見つめることができなかった。今見つめ返してしまったら、今までの自分たちの境界線を完全に超えてしまうと思った。進んだら、きっともう戻れない。なかったことには出来ない。でも、それでも、今のままでは嫌だと気づいてしまったのだ。二人とも。
「聖臣くんは……?」
「……俺も、お前だけでいい」
 お前。本当に遠慮がないとき、佐久早は相手を“お前”と呼ぶ。あだ名でも、本名でもなく、お前。こんなときくらい、名前で呼んでよ。あと、ちゃんと好きって言って。そんな思いを込めるように、彼女は佐久早の首に腕を回した。

あとがき

- ナノ -