共通√|前編


 放課後、彼女は走っていた。体調不良も忘れて、走っていた。教室の扉を開けて、自分を待っていた友達の机に向かっていく。まさに猪突猛進だった。机が揺れるほどの勢いで、机を掴まれた彼女の友達(ちーちゃん)は驚いて、スマホを落としそうになる。
「ちーちゃん、聞いてっ!」
「うわ、びっくりした」
「わ、私の運命の人見つけたかもしれない!」
「えっ、詳しく」
 高校生になって、二回目の春の終わりかけ。そんな微妙な季節に、彼女に初恋が訪れようとしていた。

 佐久早聖臣は階段を降りようとして、足を止める。見覚えのある背中がたんたん、と足音を立てて小さくなっていく。なぜか両手が軽く広がっていた。まるで、ペンギンがパタパタと歩いているようだった。アイツ、未だにあの降り方してんのか。佐久早は止めていた足を動かして、目の前の背中を追いかける。佐久早本人も気付かないうちに、早足になる。なんだか、そうしないといけない気がして。
「うわっ」
 腕一本もない距離で、佐久早よりも小さな背中が傾いた。佐久早は舌打ちをしながら、手を伸ばす。その両手は何のために広げてんだよ。佐久早は両足でちゃんと同じ段に立って、倒れ込んでくる彼女を受け止める。彼女はぎゅう、と瞑っていた目を開いて、あっと口も開ける。彼女の視界に逆さまになった幼馴染の顔が映る。こちんッと幼馴染の高い鼻が目元に当たって、くすぐったい。むず痒い赤ん坊のような顔をする彼女に、佐久早は彼女を支える腕に力を入れる。無意識の行動だった。
「聖臣くん、ありがとう。びっくりした」
「……」
 びっくりしたのはこっちだ。佐久早は自分の腕から彼女の体重が離れていくのを感じても、中々腕を離すことができなかった。
「ちゃんと立ったな?」
「うん、両足で地を踏み締めてる」
「……」
 佐久早が両腕を離しても、彼女はちゃんと佐久早の一段下で立っていた。佐久早のため息に、彼女はごめんねと眉を下げる。佐久早はチラッとだけ彼女に視線を投げて、そのままスタスタと階段を降りていく。その反応がもう謝らなくていい、という意味だと知っている彼女は、佐久早を追いかけようとして足を止める。
「聖臣くん髪に糸?ついてる」
「……ン」
「私取っていいの?」
「ああ」
 彼女は佐久早に頭を下げられて、目をぱちくりと瞬きをしたが、本人がいいと言うなら、いいか。彼女は糸を指で掴んで、取れたよと佐久早に声をかける。佐久早はふるふると頭を振って、じっと彼女を見つめてきた。
「いいよ。これくらい、さっき助けてもらったし」
「それもそうだな」
「うん。聖臣くんの髪ふわふわいいなぁ」
「ふわふわつーか、癖っ毛なだけだろ」
「うぅん、でもさぁ」
 彼女が佐久早の頭を見上げて、考え込んでいると、佐久早もじっと彼女を見つめたままだった。
「聖臣くん?」
「……今日ルナ持ってんの」
「……」
 無意識のうちに、彼女は自分の腹を撫でる。先ほど階段を踏み外したのは、うっかりではなく立ちくらみだったのかもしれない。彼女が持ってると頷いたのに、佐久早はきゅっと眉を顰めた。
「きよお……」
「行くぞ、おっぽ」
 あ、ちょっと懐かしいあだ名。佐久早は昔から、彼女のこと「おっぽ」と呼ぶ。佐久早にとって、彼女の両腕は尻尾のようで、彼女を連れて歩くとき、佐久早は必ず彼女の腕を引っ張っていくのだ。佐久早の行動と、あだ名のおかげで、彼女は大人しく佐久早について行く。無口な幼馴染は心配しているとも、教室まで送るとも、わざわざ口にしないのだ。

 もう少し早く幼馴染に会いたかった。いや、これでも運が良い方か。彼女は保健室のソファにバスタオルを引いて、座っていた。
 幼馴染の読み通り、彼女は教室に向かう途中で体調を崩した。なんなら、体調を崩す現象も来てしまった。急遽、幼馴染は教室から保健室へと目的地を変更した。その変更が命とりだった。ポーチを持っていない、なんなら今何もしていない。彼女が青い顔でそう説明すれば、佐久早は彼女にバスタオルを押し付けて保健室を出て行った。恐らく職員室にいる保健室の先生を呼びに行ったのだろう。保健室にも生理用品はあるだろうけど。どこにあるのかは分からないし、探す気にもなれない。彼女はよろよろとバスタオルをソファに引いて、その上に座った。座ると不快感が100%だったが、やっぱり立つ気にもならなかった。
 彼女がぐらぐらと揺れる視界に耐えていると、保健室の外から足音が聞こえてきた。聖臣くんだぁ、と彼女は力を振り絞って、顔を上げた。保健室の扉が開く。そこには、顔色が悪いクラスメイトが立っていた。
「あれ、先生は……?」
「あ、たぶん職員室?」
「まじか
 彼女のクラスメイト、古森元也は項垂れてなぜか彼女の隣へ座った。彼女は隣に感じる気配や体温に、ビクッと肩を揺らした。色んなものに過敏になる時期だからだろうか。いつもより近いクラスメイトとの距離感が、なんだかイヤだった。彼女は少し横に移動しようかと思ったが、動いた方が不快感が増すことに気付き、大人しくすることを選んだ。
「……」
「……」
 彼女は無意味につま先を揺らしてしまう。落ち着かない。自然と隣に座っている男の子は、本当に古森元也だろうかと疑問に思った。どうしてあの古森くんと居て、私気まずいって思ってるんだろう。生理だから?ううん、古森くんだったらそんな壁容易く乗り越えるはず。たかが、クラスメイトの彼女からそんなプレッシャーをかけられて古森も不憫である。
 しかし、古森元也という男はそう思われるから古森元也なのだ。古森元也はクラスで一番喋りやすい男子で、密かに一番モテる男子だった。バレンタインにチョコをいっぱい貰うし、告白だってされる。バレンタインの際は、義理だらけだってと笑うが、義理に擬態した本命チョコがどれだけあっただろうか。
 古森元也がモテる理由は、単純に喋りやすく、大人っぽいからだ。よく赤ペンの蓋を無くしたり、弁当の箸を忘れて、周りから割箸を貰っていたり、うっかり屋なところはあるが。そんなことは些細なことだ。古森元也は同年代男子に足りていない大人っぽさを兼ね備えている。その大人っぽさは静かな落ち着きではなく、当たり障りのない気遣いである。
 シンプルに言えば、古森元也は人が触れて欲しくないところは絶対触れないのだ。たったそれだけでも、古森は同年代の男子の頭一個分飛び抜けているのに。それに加えて、人が寄り添って欲しいところに寄り添うことができる。
 しかも、これらの心遣いが行動で、そして言葉で出来ること。それが古森元也の魅力だ。だから、古森元也と一緒に居て気まずいなどと思うことはないのだ。天と地がひっくり返っても。でも、今日はそんな日だったらしい。
 それは色んな条件が重なってしまった。夏目友人長で言うならば、妖力がない人間が何かしら条件が重なって、妖が見えたしまったときと同じだ。古森元也といて、気まずい。だからつい口を滑らせた。
「古森くんって佐久早くんと従兄弟なんだよね」
「……」
 古森はとろとろと顔を上げて眉を寄せる。彼女は古森と目が合って、自分の判断を間違えたと気付いた。古森の表情が明らかに悪化した。しまった。こんな言い方したら、まるで私聖臣くんのことが好きみたいじゃん。いや、隣人愛としては好きだけど。体調悪い相手に、恋の手引きを頼む最悪なヤツになってしまった。
 しかも、相手はあの一癖も二癖もある幼馴染だ。いや、ワンチャン古森元也なら上手く躱してくれるか?古森元也だし!彼女はすぐさま逸らした視線を、そろりと元に戻した。
「……」
 先ほどと変わらず古森は困ったように眉を寄せていた。彼女は罪悪感で消えたくなった。古森くん絶対考えてる!めっちゃ考えてる!
「佐久早好きな子って大変だよね」
「エッ」
「好きな人のことは知りたいのに、当の本人がアレだと聞けないよね」
「え、えっと」
 あかん。完全に遅れをとってしまった。せめてチャンスとかばかりに恋愛相談をしたのではなく、話題にしましたと弁解せねば。そう思ったが、体調が悪いのに、一生懸命喋ってくれている古森の話を渡るのもし辛い。彼女が静かに困っていると、さらに古森は眉を下げる。
「でも、そこ乗り越えないと佐久早と恋人にはなれないと思う。女の子も佐久早も衝突させないように、取り持つのは少しめん……大変かなぁ。ごめんね」
「う、ウウン、こっちこそごめんね」
 話題選び間違ってごめんね。大人しく黙っていれば良かった。彼女は自分も体調が悪いので、頭がぐるぐるしてきた。話題の渦中の幼馴染を思い出して、泣きそうになる。聖臣くん早く戻って来て。助けて、この空気を何とかしてくれ。生理中の自己嫌悪。これ以上に最悪なものはない。彼女は我慢ができずに、泣き出してしまった。
 気まずい雰囲気が悪化した。
「ごめんね、せっかく相談してくれたのに」
「……」
 ここに佐久早と彼女が幼馴染であることを知っている、彼女の幼馴染(女の子)がいたら古森を止めてくれただろう。これ以上、彼女にトドメを刺すのはやめてあげて、と。古森の優しさが彼女を容赦なく追い詰める。ふたりして、悪循環になっていた。彼女が泣きながら、首を横に振ると、古森の手が伸びて来た。
「そんな目元擦ったら……あ」
「!」
 古森はふらっと身体が倒れる感覚に、開いているはずなのに何も見えなくなっていく視界に、やべっと眉を寄せた。
 ◇
「……?」
 彼女は反射的に瞑った目を開ける。ビックリした。額をくすぐった妙に柔らかい感触は、古森の前髪だったらしい。キスするかと思った。意図的ではなく、事故的な意味の。彼女は自分の膝を見下ろして、息を飲む。
「……こもりくん?」
 顔面蒼白。彼女は正当防衛で人を殺してしまった俳優のような顔になって、古森の肩に触れそうになる。あ、揺らしちゃダメかも。彼女の膝に、頭を預ける……いや、偶然倒れ込んでしまった古森は息が荒く、苦しそうだった。彼女はごめん、と思いながら、そっと古森の額に触れた。
「あつい……ど、どう」
「おっぽ」
「きよおみくん!」
 佐久早が保健室に戻ると、彼女が泣きついて来た。しかも、従兄弟に膝枕をしている。なんだ、このカオス空間は。佐久早が固まっていると、保険医がテキパキと指示をくれた。佐久早は自分のサマーニットを引っ張ってくる彼女の話をウンウン聞きながら、古森をベッドに運ぶ。「はいはい、こっちで着替えようね」「あ、はい」彼女は保険医に簡易的なシャワールームに押し込められ、制服を貸して貰えることになったのだった。

あとがき

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