ばん!ガイ!へん!



 彼女は朝から元々凹んでいた。朝起きた時点で、察した。やけに眠たくて、身体が重い。でも、休むほどではない。彼女はのろのろとベッドから這い出て、学校へ行く準備をする。今日は体育もないし、移動教室も少ない。教科書の殆どは学校のロッカーに置いている。だから、彼女の背負うリュックにはあんまり物は入っていない。それなのに、とてもリュックが重かった。



「名前ちゃんおはよう」
「ちーちゃんおはよう」
「見て見て、これ朝のコンビニで見つけたの」

 彼女は教室に到着して、大人しく自分の席でぼーっとしていた。友達のちーちゃんがひょっこりと、彼女の視界に現れる。ちーちゃんって動きがなんかコミカルっぽい。かわいいなぁ。彼女の頬が自然とゆるくなる。ちーちゃんは両手で嬉しそうに、期間限定のチョコをもっていた。

「名前ちゃんも一緒に食べよう」
「え、でも」
「いいからいいから!
 抹茶と、いちごと、キャラメル!どの味がいい?」
「じゃ、じゃあ、キャラメル」
「はい。私は抹茶にしようかな」

 個包装されたチョコをありがとう、と受け取る。ちーちゃんがさっそく食べるので、彼女も食べようとして泣きたくなった。開けれない。どんなに力を込めても、開けれない。開けやすいために、チョコの袋には、ギザギザと凹凸があるのに。上手く指が、爪が、引っ掛からなくて、開かない。袋が不憫なほど、歪んでいる。しかも、所々ビヨンビヨンに伸びてしまっている。クシャクシャになったチョコを見つめて、泣きそうになっている彼女に、ちーちゃんは首を傾げた。

「名前ちゃん貸して」
「あっ」
「名前ちゃん、はい開いたよ!」
「ありがとう……美味しい」
「ね、美味しいよね」

 チョコを片頬に含ませて、眉を下げる彼女に、ちーちゃんはいつも通り笑いかけてくれた。



 彼女は佐久早との昼食を断って、中庭のベンチに座っていた。中庭と言っても、日陰で寒くて、あんまり生徒は来ないところだった。彼女はわざとそこを選んで、寂れたベンチに座った。座ろうとして、ちょっと迷って、佐久早のために、と持ち歩いているハンカチを引いて、座ることにした。佐久早は時々不運に巻き込まれて、ハンカチを落としたりするのだ。

「……見つけた」
「なんで」

 ふと、彼女の落ちている視線に人影が現れた。顔を上げると、少し息を乱した佐久早が立っていた。彼女は佐久早の登場に焦って、視線を逸らした。逃げる気力もないほど、彼女は弱っていた。佐久早は彼女らしくない態度に、少し眉を寄せる。どうして返事しないの?そう口を開こうとして、佐久早は閉じる。佐久早はイトコの妹を思い出して、姉と兄を思い出して、マスクの中の口をモゴモゴとさせた。

「名字」
「……」

 彼女は上から感じる佐久早の視線から逃げるように、顔を伏せたまま左に逸らしてしまう。そのとき、じゃり、と地面が擦れる音がした。

「名字、こっち見ろ」
「……えっ」

 彼女は頑なに下を向いていたのに。その視界に佐久早が入って来て、とても驚いた。佐久早は彼女の顔を下から覗き込んでいた。器用に地面に膝が付かないように、しゃがみ込んで。きっと彼女が同じ体勢をやろうとすると、一分も持たない。佐久早の黒い瞳と目が合って、彼女は余計に泣きたくなった。いや、もう、遅い。この時期は遅いのだ。もう泣きたくなった時点で、泣いてしまう。彼女の瞳から、ぽろぽろ涙が零れ落ちる。彼女は見えた。佐久早が見ていた。泣き出す自分を驚いたように見つめるのを。

 見られたくない。佐久早先輩に、泣いてるとこ見られたくない。彼女は自分の目元を袖で隠して、強引に何度も何度も涙を拭う。涙は止まらない。止まることを知らない。だって、ずっと朝から我慢していた。この理由もなく、泣きたくなる衝動を何度も何度も耐えていたのだ。

 今日は佐久早に会いたくなかった。佐久早は彼女にとって、まだこんな状態で会える相手ではないのだ。いつも佐久早らしいと感じることを、佐久早らしいと感じれないかもしれない。煩わしいと感じるかもしれない。尊敬している先輩のことを、自分のことを信頼してくれている大好きな先輩を。そして、何より佐久早に嫌われることが、呆れられることが、怖かった。

 佐久早に今日一緒に食べれないと伝えたとき、「なんで?」とシンプルなメッセージが返ってきた。その時点で、察して欲しいと思う自分がいた。ただ一言、分かったと言ってくれれば解決したのに。言葉にし難い、この気持ちを、事情を、佐久早に伝えることが出来るほど、彼女は大人ではなかったし、佐久早と仲が良くなかった。

「ちーちゃん、ごめん。私ちょっと図書室行ってくる」
「そっか。あっ、待って、これ持ってて」
「え、これ」
「行ってらっしゃい。私食堂行ってくるね!」

 ちーちゃんが彼女の手に、握らせたのはカロリーメイトだった。何も聞かないのに、ただただ優しく見守ってくれるちーちゃんに、彼女は胸が痛くて、有り難かった。だから、佐久早の「なんで?」に返せなかった。間違えて既読もつけてしまって、そのことも彼女を追い詰めた。何度も何度も上手いことを言おうとして、でもそれさえも疲れてしまって、結局佐久早を無視する形になってしまった。佐久早に嫌われると思った。でも、まさか自分のことを探し出してくるとは思わなかった。

「名字」
「……」

 佐久早が彼女の名前を呼ぶたびに、彼女は首を横に振った。それでも、佐久早はしつこく彼女の名前を呼んだ。

「名字こっち向いて」
「……」

 若干彼女も泣き疲れて来た。あと、佐久早の体勢が心配になった。彼女がそろそろと顔を上げる。

「やっとこっち見たな」
「……」

 彼女はまた泣きたくなった。佐久早はちっとも、一ミリも、怒っていなかった。呆れてもいなかった。表情はいつも通りの真顔。何を考えているか分からない。でも、眉間は寄っていない。それだけで、かなり穏やかな表情に見えた。見える気がした。なんなら、いつもより、ずっと優しかった。自分を見つめる佐久早の目には、心配にも似た感情がある気がした。

「おこって、ないんですか……?」
「名字が返事しなかったこと?何回も呼ぶのに、俺のこと無視したこと?」
「ぜんぶ、ですっ……」

 佐久早の静かな声に、彼女は自分で答えながら涙を我慢できなかった。また顔を隠そうとして、佐久早が「隠すな」と言った。

「名字こっち見ろ」
「……」

 ぐすぐすと泣く声で、グズグズと鼻を啜る音が小さく響いた。彼女はもうどうにでもなれ、とヤケクソで、佐久早の目を見る。黒々とした瞳。何でも見透されそうで、自分の浅はかさが突き付けられそうで、苦手な瞳。彼女は涙で溢れて、じわじわと視界が滲む。すぐ見れなくなる。そのことが、悲しいのか、安心するのか、それさえも分からない。ただ泣いて、顔を伏せようとするたびに、佐久早は「こっちを見ろ」と言ったし、何度も彼女の名前を呼んだ。

「そのまま……目閉じるな」
「うっ、うう」
「俺がいいって言うまで、目閉じるの禁止」
「……」

 なんでですか。彼女は唐突な理不尽に眉を寄せたが、佐久早がずっと自分を見つめてくるので、彼女も見つめ返した。泣いてる彼女は佐久早がいいと言うまでに、やっぱり目を閉じてしまう。そしたら、佐久早は飽きせず「やり直し」と言うではないか。

「う、もう、むりですっ」
「そのまま……」
「ううっ」

 いつの間にか、新記録が出そうだった。新記録と引き換えに、彼女の目は潤いを失っていた。彼女がぱしぱしする目を我慢して、じっと佐久早を見つめる。中々迫力のある面構えになっていたが、佐久早に言われたことに夢中な彼女は気付かない。

「よし」
「え?それ閉じていい、のよしですか!?」
「うん、閉じていい」
「……うードライアイ」

 彼女がぱちぱち瞬きを繰り返すと、佐久早は屈伸をするように膝を伸ばした。そのまま立ち上がるときに、じっと彼女の顔を覗き込んだ。彼女は驚いて、ぱちくり、と目を見開いた。もう何も零れなかった。

「涙、止まったな」
「!」
 


「で、何があったわけ?」
「え、えっと……」
「名字は理由もなく、連絡無視するヤツじゃないだろ」
「さ、さくさせんぱい……」
「違うの?」
「ち、ちがくないです!」



「今度からはちゃんと言って」
「すみませんでした」
「理由が分かったからいい。今日は早めに寝て」
「はい」
「じゃあ」

 そう言って、佐久早は自分の教室へ帰って行った。その背中を見送っていた彼女に、背中から迫る影があった。

「名前ちゃん」
「わあ、ちーちゃん」
「佐久早先輩に慰めて貰ったの?顔元気になってるよぉ
「え、えっと、うん、まあ、えへ」
「こうやって、ぎゅーとかされた?それとも頭撫でて貰ったり?」
「えっと」

 ちーちゃんの言葉に、彼女はそこで初めて気付いた。こんなにも胸が、心が満たされているのに、佐久早にどこも触れられていないことを。佐久早はただ彼女を見つめて、彼女の名前を呼んで、会話をした。ただ、それだけ。でも、彼女の心はぽかぽかと温かい。彼女は佐久早の瞳を思い出して、カッカッと頬を赤くしてしまう。

「えっ!学校では言えないことされたの!?」
「ち、違うよ!」

名字と佐久早が睨めっこ中、食堂でカツカレーを食べてるちーちゃん
(私も生理前気分上がらないから、よく分かるなぁー。しかも、今日低気圧じゃん、このダブルパンチは無理だよ
 

あとがき

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