佐久早聖臣、高校二年生の春。彼には悩みがあった。少し前まで、佐久早の目の前には頬を赤くして、賢明を想いを告げてきた同級生がいた。佐久早は首を縦に振らなかった。答えが分かっているのに、なぜ告白して来るんだろうか。佐久早はマスクの中で、ため息をついた。



 佐久早は部活の帰り道に、従兄弟に悩みを打ち明けた。

「明らかに増えた」
「告白のこと?」
「……」

 数が少ない佐久早の言葉でも、古森には特に問題がない。すぐに何が増えたのか、検討がついた。佐久早は古森の問いかけに、こくり、と頷いた。古森は佐久早の言葉に、自身も身に覚えがあった。何故だろうかと考えて、すぐに分かった。

「大会に出たからじゃね?」
「大会に?」
「大会出る回数多くなると、応援くる子も増えるじゃん?」
「……」
「だから佐久早のこと知る奴が増えて、告白してくる子増えたんじゃない?」
「……理解できない」
「だろうなぁ」

 古森は佐久早の顰めっ面に苦笑いしながら同意した。

「あーあんまりおすすめしないけど、とりあえず誰かと付き合っちゃうとか?」
「誰かと?」
「佐久早の恋人っていうイスに誰も座ってないから、みんなワンチャン狙うんじゃない?」
「……」

 佐久早は思い切り眉を顰めた。ワンチャンなんて、ねえよ。そして、中学時代のある一人の後輩の姿が思い浮かんだ。その後輩は緊張した面持ちで、佐久早の恋人のイスに腰掛けている。いや、よく見たら、空気イスだった。僅か数センチ、彼女の腰は浮いていた。

「名字って井闥山だったよな?」
「名字さん?あーそう言えば、入学式のとき躓いてた」
「名字は足元注意爛漫だからな」
「でも、いい子なんでしょ?」

 古森の言葉に、佐久早は頷いた。名字名前。佐久早の中学の頃の後輩で、委員会が一緒なだけだった。でも、その委員会が一緒というだけの関係性でも、彼女の人柄を知るには十分だった。



「名字ちょっといいか」
「……え!佐久早先輩!お、お久しぶりです」
「うん、久しぶり」

 彼女は移動教室から帰る途中に、中学時代の先輩と再会した。その先輩こと、佐久早聖臣は相変らず仏頂面で、マスクをしていた。一緒に移動していた友達にはさっきに教室に行ってもらう。佐久早は彼女を視線で呼ぶと、そのまま人通りが少ない屋上へと続く階段の踊り場まで歩いて行った。その後ろ姿は猫の恩返しのムタのようだった。彼女はちょっとだけ、このまま猫の事務所まで案内してくれたいいのに、と思ってしまった。人気のない廊下をのそのそと歩く佐久早の後ろ姿にはそう思わせてしまう、不思議な雰囲気があったのだ。

佐久早は周りに誰も居ないことを確認して、彼女に向き合った。彼女は何の用だろう?と思いながらも、じっと佐久早を見上げる。きっと大事な話に違いない。

「今日は名字に頼みがあって、会いにきた」
「え、私にですか?」
「ああ、頼む前に三つ確認したいことがある」
「はい」

Q1現在恋人はいるか?
Aいいえ

Q2現在好きな人はいるか?
Aいいえ

Q3恋人がいることに抵抗はあるか?
Aいいえ

 彼女の答えを、佐久早は持参していたバインダーにチェックを入れていく。満足そうに頷いて、佐久早はバインダーの紙を一枚入れ替えた。そして、彼女にバインダーを見せる。

「佐久早聖臣の恋人役……?」
「ああ、名字には俺の恋人役をやって欲しい。
 もちろん、本当の恋人じゃなくて、あくまで役だけ」
「……名前を貸すって感じですか?」
「そうだな。簡単に言うと、そんな感じ」

 佐久早がこくり、と頷く。彼女はバインダーに挟まれた紙の内容を確認する。身体的接触は基本無しだとか、相手の希望で関係性はいつでも解消できるだとか、色んな注意事項が書かれていた。ボールペン講座のような綺麗な字だった。彼女は戸惑いながらも、佐久早の言いたいことは分かった。でも、いくつか疑問も生まれる。

「さ、佐久早先輩、聞いてもいいですか?」
「なに」
「なんで恋人じゃなくて、恋人役が必要なんですか?」
「俺には理解できないけど、部活で全国大会とか出るようになったら、
 告白される回数が増えた」
「は、はい」
「告白される機会を減らしたいなら、恋人を作ればいいって古森に言われた」
「な、なるほど」

 古森先輩って、そんなこと言うんだ。佐久早の間違った伝え方のせいで、古森はあらぬ誤解を受けた。

「俺は今誰かと付き合う気はない」
「だから、恋人ではなく、恋人役」
「そう。それに、便宜上恋人役ってだけで、相手には恋人として振る舞って貰わないと困る」
「そ、そうですね……?」
「名字がいいと思った」
「え、ど、どうして私なんですか?」
「俺は名字のことを信頼してる。名字は良いヤツだから」

 彼女は佐久早の言葉に大きく目を見開く。こんなに手放しで他人から褒められたことはあっただろうか。悲しいことに、最近はあんまりない気がする。しかも、あんまり他人を褒めなさそうな先輩から、褒められた余計に嬉しかった。彼女は嬉しい気持ちと、佐久早にそんなことを言われる覚えがないと疑問がまた生まれる。納得していない彼女に、佐久早は言葉を続ける。

「名字は他人がヤダって言ったことをしない。
 自分の尺度で測ったりしない。
 他人の声に耳を傾けることができる良いヤツだ」
「……えぇ?それは当たり前じゃないですか?それくらいなら、誰で」

 困惑して、彼女が眉を下げる。佐久早は頑なだった。強い意志で、首を横に振った。

「誰でもじゃない。名字がいい、名字じゃないと意味がない」
「さくさせんぱい」
「俺の恋人役を頼むなら、名字しか居ない」
「……」

 彼女は初めてだった。「自分ではないと、いけない」なんて、言われることが。佐久早の言葉に、彼女の心が揺り動かされた。

「……佐久早先輩、わかりました!彼女役引き受けます!」
「ありがとう、助かる」

 こうして、円満なお付き合い(のふり)スタートしたのだった。

あとがき

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