〇〇は人生だ


 名字名前は悩んでいた。彼女は大学を卒業して、一人暮らしを始めた。初めてのことばかりで戸惑ったし、実家の有難さも心から感じたが、それ以上に一人暮らしの解放感は最高だった。自分の好きなものを部屋に詰め込める楽しさは彼女を夢中にさせた。たまに泊まりに来る恋人が「名前こんな趣味だったんか」と些か驚いていたので、今後同棲する際はふたりで部屋のインテリアは要相談だな、と彼女は秘かに思った。

 よく沈むソファに座って、彼女はスマホと睨めっこしていた。彼女の恋人は親しみが溢れていた地を離れて、今日も色々と奮闘している。彼女も中学の頃に転校を経験した身だ。新しい土地はワクワクもするが、同時に心細くもなるもの。そこで、支えてやるものがやっぱり恋人だろうと、彼女は気合を入れていた。



 尾白アランはため息をはぁ、とついた。心の中に居座る感情は何とも言えない寂しさと、切なさだった。これから最愛の恋人に会うと言うのに、こんな顔で会う訳にはいかない。それでも、尾白は元気がなかった。駅から彼女の家まで、徒歩で五分もかからない。初めて彼女の家に向かった頃は想像よりも、明るい道で安心したことを覚えている。寮暮らしの尾白は、どうしても彼女の一人暮らしが心配になる。セキュリティがいくらばっちりだと言われても、心配なものは心配なのだ。その為、ふたりは互いに「行ってきます」と「ただいま」のLINEのやり取りだけは毎日していた。

 ちゃんと彼女が尾白と分かった上で玄関を開けるために、尾白が電話してから彼女が鍵を開ける段取りになっている。

「名前ー、着いたで」
「はーい。
 鍵開けてあるから、入ってきて」
「開けっ放しか?ぶようー」

 尾白が玄関の扉を開けると、白いフリフリが目に入ってきた。いや、白いフリフリのエプロンを身に纏った彼女がお玉をもって、尾白の迎えを待っていたようだ。

「アランくんおかえりなさい」
「……え、た、だたいま?」
「ご飯にする?お風呂にする?……」

 彼女はノリノリだった。まるで、新婚のような気分だった。言葉を切った彼女は視線を落として、もじもじとエプロンのフリルを指で弄る。そして、恥ずかしそうに顔を上げて、人差し指を自分の頬に当てながら首を傾げて、尾白を見上げる。

「それとも」
「それとも?」
「タ・ワ・シ?」
「うんうん、もちろん名前に……は?」

 もうこれ以上ないぐらいに、彼女は可愛らしくポーズを決めている。花丸である。尾白は満点をあげたいくらい、可愛かった。ただおかしい言葉が聞こえてきた気がする。尾白は目の前の光景を疑った。彼女はいつの間に取り出したのか、自分の顔の横にタワシを持っていた。あの、茶色くて、ゴワゴワした奴である。名前若干刺さっとるで。痛くないんか。

「たわし?」
「タワシね!はい、どーぞ!」
「あ、ありがとう……?」

 彼女はこれまたこれ以上ないほど、無垢な笑顔で尾白にタワシを渡してきた。しかも、両手で丁寧に、渡してきた。まるで、バレンタインデーに渡されるチョコのようだった。

「イヤイヤ!なんやねんこれ!そこはワタシやろ!?新婚さんもびっくりやわ!
 タワシで何すんねん!お背中流します〜!って?やましいわ!」
「……あらんくん」
「ハッ!」

 彼女が両手で口元を覆って、尾白を見上げる。尾白は彼女の表情にしまった……!と冷や汗をかいた。つい!思わず!思い切りツッコミをしてしまった!社会人になって第一歩を踏み出した地は自分が育った環境と全然違うのだ。国が違うわけでもないのに、地方が違うだけで、テンションも文化も大きく異なるとは、尾白は知らなかった。自分が息を吸うように言うネタが、ノリが通じない。それは尾白が思っている以上に、ギャップがあったことだし、地味にメンタルにくる。あかん。フラストレーションがたまっとるからって、爆発させてしもた。

 確かに名前とは普段から、コントみたいなやり取りはしている。しているが!あくまで、ゆる〜いノリだ。彼女にこんなにガッツリツッコミをしたことはなかった。何より彼女はどちらかと言うと、ボケで。しかも、多分生粋の、天然の奴で。本人は本気で否定するし、自覚もないけど。しかも、お笑いは好きだが、お笑いのテンポが速いと着いてこれないことだってある。ほら、みろ。その証拠に、目の前の彼女は目を大きく見開いて、固まっているではないか。

「あ、名前すまん。びっくりし」
「良かった!」
「えっ?」
「アランくんに突っ込んで貰えてよかった!ボケ弱いかなって心配してたの!」
「ええ?」



「名前、俺の為に……!」
「えへへ」

 尾白は彼女が準備してくれた食卓について、感激のあまり口元を大きな手で覆う。テーブルを挟んだ向こうでは、彼女が照れ臭そうに笑っていた。ネタばらしをすると、新しい環境で笑いの要素が不足している尾白の為に、彼女は準備していたのだ。ベタベタな内容だったが、思ったよりもウケて彼女は良かった!ととても安堵した。

「俺名前と結婚するわ」
「あはは、ありがとう」

 真顔で言い切る尾白に、彼女は嬉しそうに笑う。高校生の頃に、互いに言いたいことを言い合う関係になってから、尾白の愛情表現は常にオープンだった。何かしら感激すると、すぐに「名前と結婚する」と言うのだ。そのおかげで、彼女も付き合って長いのにまだ彼が結婚する気があるのか、ないのか問題には悩まされていない。具体的な話も進めていて、少なくとも一年か二年は仕事に集中したいという彼女の意志の元、実際に籍を入れるのは二十代半ば辺りを互いに考えている。



「わわ、片付けくらい私がやるってば」
「あかん。ご飯作ってもらったんやから」
「でも」
「それに今からこないなことで遠慮しとったら、名前苦労するで?」
「え?」
「結婚したら、共同生活なんやから」
「!」

 彼女は目を見開いて、顔を真っ赤にする。結婚する、という言葉には慣れている癖に、少しでもこれから先の生活を仄めかすと彼女は照れるのだ。その違いはイマイチ尾白には分からないけれど、彼女が可愛いから問題はない。「ほら、座っとって」と尾白に背中を押された彼女は、よく沈むソファで大人しく尾白を待つことになってしまった。



「アランくん?」
「ん、治からみんなで稲荷崎メンバー集まったよーって連絡あっただけや」
「アランくんは行かなかったの?」
「予定合わへんかったから」
「そっか」



「なんでやねん!」
「……あかん。手首のスナップが甘いわ」
「し、師匠」

 俺は何を見せられているんだ。沢山あるわけではないオフの日は、尾白は彼女の家に行くことが多い。基本的に尾白に全信頼を置いている彼女は尾白に合鍵を渡すほどだった。今日のお昼は友達とランチなの〜と言っていた彼女の為に、今日は俺が飯作るわとエコバックに材料をいっぱい詰め込んで、彼女がいない家に行ったと思ったのに。目の前には、なぜか稲荷崎高校のジャージ姿で、「なんでやねん!」とツッコミを繰り出す彼女と、同じく稲荷崎高校のジャージを着て(しかもちゃんと肩にかけとる)、腕を組んで首を横に振っている旧友が居るのか。誰か説明してくれ。

 しかも、旧友こと北信介は尾白に気が付くと、お、よう来たなとでも言うように、当たり前のように尾白を迎え入れた。

「おお、おかえり」
「ただいまーって、お前、他人ん家で何しとんねん
 ……いや、それ言うたら俺もなんやけど」
「あ!アランくんおかえり!」
「名字さんはまだ突っ込みが甘いから、あそこで素振り100回や」
「わ、分かりました!師匠!」
「わー待て待て!俺の彼女に何させとんのや!お前は!」

 北の言葉に大きく頷いて、部屋の隅に行こうとする彼女の肩を掴んで止めれば、彼女はきょとん、として尾白を見上げる。なんや、その可愛い顔は。俺がしたいわ!北も彼女ほど可愛らしくはないが、きょとん、としてじっと尾白を見つめる。あかんあかん、怖いわ。そして、北が口を開こうとした瞬間、思い切り扉が開いた。

 今、北と尾白と彼女がいる部屋をリビングとして、その後ろにもう一部屋あったりする。「結構広い部屋やなぁ」「住宅手当てがある会社を選んだので」と彼女が誇らしげに胸を張っていたのが懐かしい。

「北さんばっかりずるいわ。俺もボケたい」
「こら、侑。まだ早い」
「なんでお前らまでおんねん!
 てか、なんで治が侑のユニフォーム着て、侑がおにぎり宮のTシャツ着とんねん!
 ややこしいわ!」
「わー!」
「さすがアランくんやー!」

 尾白が脱力しながら突っ込み倒せば、宮双子は両手を上げて喜んだ。特に侑は尾白のツッコミが懐かしくて、思わず涙ぐんでいた。北はおー、と試合のときのように、真顔で拍手をして尾白の突っ込みを讃えていた。彼女は尾白の楽しそうな様子に、うんうん、と笑顔で頷いて、尾白の腕の中で満足しそうにしていた。

「え、待って!俺はなーんも!一ミリも!把握できてへん!どういうこと!?」
「アランくんこれどーぞ!」
「おぉー、ありがとう!やっぱ、うどんには七味やな!ってちゃうわ!
 一ミリも!や!」
「はああ〜!見た!治見たか!?アランくんの突っ込みやっぱ最高やわ!」
「見とる見とるー名前ちゃんキッチン借りてええ?」
「うん、いいよ。治くんの料理楽しみ!あ、北くんのお米も!」
「んじゃ、俺も手伝うわ」

 自由か、コイツら。尾白の横では、絶え間なくボケ倒してくる侑が小さな子どものように、甘えていた。キッチンでは治を真ん中に挟んで、自分の可愛い彼女と、本当にボケどうか読めない元主将がきゃっきゃっと料理をし始めている。なんや、これ。全然ついていけない尾白の横で、侑は穏やかな表情で呟いた。

「アランくん」
「……」
「アランくんと名前ちゃんに子どもが生まれたら、こんな感じなんかな」
「……」

 尾白が侑の方へ振り向けば、「俺が長男やで」と侑がウインクを決めてきた。尾白はフッと優しく微笑んで、侑に思い切り突っ込んだ。

「なんでやねん!こないに大きな子どもいりません!」
「名字さん、あれがほんまもんのツッコミや」
「わあ!本当に手首のスナップすごいね!」
「……なぁ、ふたりのコントまだ続いとるん?」



 文字通りどんちゃん騒ぎだった。やはり、このサプライズのぷち稲荷崎会は彼女が企画したものだったらしい。侑がボケては尾白がツッコミ、北が真顔でふたりの進展を聞けば、侑と治が冷かし、バレーボールの話題、治のお店の話題、北のお米の話題、話す話題は全然尽きなかった。鍋もきっちり、締めまで食べて、懐かしくて、とても楽しい会だった。

「にしても、アランくんはほんまにええ彼女おるなぁ」
「せやなぁ。アランくんのお笑い不足のために、俺ら呼ぶって中々出来へんよ」
「しかも、俺まで呼ばれるとは」
「えへへ、アランくんがねぇ、北くんのね、
 分かりにくいボケが恋しいって言ってたから」
「そんなに俺のこと、忘れらへんかったんか」
「わ!寄りかかってくんなや!」
「そんなつれへんこと言わんでも……」
「怖い!真顔で言わんといて!怖い!」

 尾白はにじり寄ってくる北に怯えながら、わはは、と呑気に笑っている彼女が愛おしくて仕方がなかった。まあ、努力の方向が若干ズレているけども。そんなところもひっくるめて、彼女は尾白が人生を共にしたいと思う女性なのだ。



「今日は楽しかったねぇ」
「そうやな」
「ふふ、しばらくは大丈夫そう?」

 三人を見送って、お風呂に入ったふたりはふぅ、と息をついて、ソファに座っていた。彼女の手には、尾白が淹れてくれたホットミルクがあった。彼女はちびちびとホットミルクを飲みながら、尾白に問いかける。尾白はソファの背に長い腕を乗せて、彼女の方へ大きく寄ってきた。おやおや、アランくんの様子が……?彼女が不思議そうに首を傾げると、尾白は三人には見せない顔をして、彼女の頬にキスをした。

「まだつっこみ足りへん」
「ええ」
「ここに」
「!」

 尾白の大きな手が、パジャマの上から彼女のお腹の下あたりをねっとりと撫で上げる。彼女はその言い方には、頬をぶわぁと赤くすると、尾白を押しのけた。

「アランくん!下ネタに走るなんて、芸人失格だよ!」
「いや、俺芸人ちゃうから」
「あ、そうだった。って、こら」
「まあ、つっこみ足りへんのは本当なんやけどな」
「も、もう、おやじくさいって、あっ」
「はいはい。そんな酷いこと言うお口は塞いでまうよー」


 下ネタオチなんてサイテー!
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