ハシバミ


 彼女は最悪だと思った。目の前で目を見開いて、自分を見下ろす男を初めて怖いと感じた。

「名前何しとんの?」
「お、おさむくん……」
「自分が何しとるか分かっとる?」
「そ、それは」

 治は彼女の小さな手が持っている弁当から視線を彼女に戻して、威圧的に見下ろした。意識をしていなくても、目付きは鋭くなって、声も低くなっていく。いつもなら彼女は涙を浮かべて、すぐ折れるはずだった。彼女は項垂れるかのように頭を下げたかと思うと、次の瞬間、勢いよく顔を上げて、治を睨み上げた。

「治くんに関係ないじゃん」

 今まで一度も見たことのない彼女の怒りを露わにした表情に、治は思わずたじろいでしまう。名前こんな尖った声でるんや。いやいや、今はそんなこと考えとる場合ちゃう。治は軽く頭を振り被った。

「ハァ?関係ない?」
「そうだよ」

 彼女はそう言うと空になった弁当箱を片付けて、ランチバックへ仕舞う。完全に彼女の横顔は表情がなくなっており、かなり治に腹を立ているようだった。治は彼女の態度が信じられなくて、言葉が出てこなかった。名前は自分が何をしとるのか。分かってへんのか?彼女は治に話すことはない、用はないとでも言うように、治の隣を通って、家庭科室から出て行こうとした。

「ちょお待てや」
「……なに」

 大きな手が彼女の細い腕を掴む。彼女は初めて、この大きな手を怖いと思った。でも、怖いと思ったことを治にバレたくなかった。強がりでしかない。彼女は努めて、平坦な声だけで答える。絶対に振り向いてやるもんか。

「まだ話は終わってへんやろ」
「だから、話すことないよ」
「……」

 やっと何も言って来なくなった治に、彼女は解放されると気を抜いてしまった。掴まれている手を引き抜いて、早くこの場を離れたい。彼女はぐっと手を引き抜こうとして、逆に引き寄せられてしまった。

「名前ええ加減にせぇよ」
「!」

 彼女は顔面いっぱいに広がる治の顔に、目を見開く。信じられなかった。確かに。治はそこら辺の男の子より背は高く、力も強かった。男女差なんて、分かり切っているつもりだった。でも、たった片手を引っ張っられただけで、自分の踵が浮くなんて思ってもみなかった。ああ、そう言えば、治くんって、侑くんと喧嘩してるとき、いつも胸ぐら掴み合ってたっけ。私は女の子だから、恋人だから、譲歩してくれて、これなのかな。……なんて、納得するわけないじゃん。

 腹の底から、ふつふつと湧いてくる感情はきっと怒りだ。治に対する、怒りだ。きっと治の譲れないところに触れてしまったのだろう。それでも、このやり方は頂けない。彼女は絶対に泣いてやるもんかと、唇を噛み締めた。そして、目の前の男を睨み上げる。

「名前がそんな奴だと思わへんかった」
「私も治くんがこんな最低な人だと思わなかった」
「人としてやっちゃあかんことはあるやろ?」
「その言葉そっくりそのまま返していい?」

 治はイライラとする感情に身を任せていけないと分かっていた。どんなに怒りの感情を覚えたとしても、目の前の女の子は自分の好きな子で、恋人なのだ。どんなに自分が許せないことをしていても、キョウダイと同じように扱ってはいけない。さっきから怒鳴りたくなる気持ちを必死に抑えているのに、彼女には何にも伝わっていないらしい。むしろ、治をわざと苛立たせるような態度を取っているのだとしか思えなかった。

 付き合って数ヶ月しか経っていない。それでも、こんなに彼女の本質を見落としているだなんて、信じたくなかった。彼女がそんな子だなんて、信じたくなかった。親が早起きして作った弁当をなんでもない顔で、捨ててるような子なんて。

「いい加減にせえや!」

 きらい。率直にそう思った。治くんなんか、きらい。最初に言ったのに。付き合うときに、言ったのに。「私大きい音が苦手なんだ」って。耳がじーんってして痛いし、びっくりして心臓がドクドクするのもイヤ、すごく怖いから、イヤだって。そしたら、治くんはキョトン、として、私に耳打ちしてくれた。

「こんくらいの大きさならびっくりしん?」
「え、しないよ?」
「じゃあ、これから名前と話すときは、こんくらいの声で喋るわ」
「ええ、こんなに小さかったら、近くないと聞こえないよ」
「フフ、冗談に決まっとるやん」

 なんて、優しく笑ってくれた。本当に、治は彼女と一緒にいるときは、普段よりも声が小さかったし、大笑いして彼女がびっくりしたときは、すぐにハッとして、大きい手で口を押さえてくれた。

 溢れてくる涙に、目の前の男がたじろぐのが分かった。その反応にも、彼女は怒りが湧いた。私が泣いたぐらいで、動揺するなら、最初からこんなに風にしなきゃいいのに。そんな風に彼女の中は怒り狂っているのに、彼女はぽろぽろと涙を流して、治を睨むことしかできなかった。

「え、あ、名前」
「しらない」
「え」
「治くんなんて、きらい。さわらないで」

 明確な拒絶だった。彼女は感情のままに、腕を振り解いた。初めて彼女に拒絶された治は、面白いほどに動揺して、一歩二歩とよたよたと後退った。彼女はそんな治から少しでも離れたくて、振り向かずに走った。とにかく走った。身体の痛みは気にならなかった。



「名字さん大丈夫か?」
「銀島くん」 

 銀島は隣の席の、クラスメイトが心配で堪らなかった。ぐすぐすと泣いている彼女は調子が悪い日らしい。まだ少し肌寒い季節だ。彼女はブランケットを膝にかけて、すっかりベタベタになってしまった袖で溢れてくる涙を拭っている。

「お腹すいた」
「え、名字さんお昼食べとらんの?」
「うん」

 どういうことだ、と銀島は目を丸くした。そのとき、予鈴ギリギリに彼女の友達が教室に飛び込んできた。その手には、購買のゼリーや ヨーグルトがあった。友達は彼女の元へ駆け寄ると、机に戦利品を並べて、彼女の頭をよちよちと撫で始める。そして、なぜか銀島が睨まれた。

「ちょっと銀島サン、男バレの教育はどうなってるのかしら?」
「え、急に何」
「名前何食べる?」
「フルーツゼリー」
「はいはい。開けてあげるねーアーンする?」
「しない」
「はーい」

 彼女はプラスチックのスプーンを包む袋を開けて、友達が開けてくれたフルーツゼリーをもそもそと食べ始めた。やっぱり、その横顔は覇気がなく、元気がなさそうだ。銀島が彼女につられるように、眉を寄せて悲しそうな表情になっていると、ずいっと友達が銀島に詰め寄ってきた。その顔は笑顔だったが、背後に般若が見える。え、マジで、なに?銀島は戸惑うことしか出来なかった。絶対、俺とばっちりやろ。

「治と何かあったん?」
「治くんしか、ないでしょ。誤解されたことが悲しいんだってさ」
「誤解?」
「そー誤解」

 彼女は今日一日ツイていなかった。朝の占いは見れなかったが、絶対に十一位だったに違いない。今日は救いのないほど、最悪なことしか起きていないのだから。そもそも朝の占いが見れなかったのだって、予定日とズレてきた生理の所為だった。腹の痛みで目を覚まして、殺人現場のようなベッドや下着を片付けて、食べたくもない朝ご飯を口に押し込んで、薬も押し込んだ。学校に何とか到着したと思ったら、思い切り転んだ。周りにあまり人が居なかったのが救いだった。でも、弁当は救えなかった。

「え?賞味期限切れのおかず?」
「そう!本当にごめんね!それだけ避けて食べて!」
「わかっ……お母さん」
「ん?」
「私お弁当ひっくり返しちゃった」
「……汁物だから零れて、全部ダメになってるかもね」
「ご、ごめんね」
「いや、お弁当に汁物って危険なの分かってるのに、横着したお母さんが悪いから。
 しかも賞味期限切れてるし。学校でパンとか、売ってる?」
「うん、売ってる」
「じゃあ、お昼はそれで大丈夫そうね」
「うん」
「あっ!午後から暑くなるって言ってたから、お弁当の中身捨てといて。
 まだこの季節だから保冷剤も入れてないし」
「ん、分かった」

 なんと、彼女の母までツイいない日だった。彼女は思い出した。ああ、私とお母さん誕生月同じだった。きっと、お母さんも十一位だったに違いない。彼女は申し訳ない気持ちを抱えながら、家庭科担当の教師に事情を話して、家庭科室の生ゴミのゴミ箱に捨てる許可を貰ったのだ。まさか家庭科室の冷蔵庫が、恋人の治のおやつ置き場だなんて知るはずもなかった。ちなみに、保健室の冷蔵庫にも治のおやつ置き場があったりする。主にチョコやゼリーなどの、暑さに弱い食べ物たちの避難場所になっているらしい。

「うわ……タイミング悪いなぁ」
「でしょー?
 まあ、治くん食べること大好きだから、言いたいことも分かるけどさ。
 一言欲しかったんだよねぇ?名前」
「……ウン」

 彼女は友達の言葉に、ぎこちなく頷いた。人間も、やはり生き物なのだ。三大欲求をバカにしてはいけない。彼女はフルーツゼリーを食べ終えて、午後に備えて薬を二錠口の中に放り込んだ。なーにが、痛みに負けるな、だ。負けるわ。そうだ。我慢なんか、しない。彼女は治に掴まれた手首をカーディガンの上から、そっと撫でた。すごく痛かった。手首も、心も。治が家庭科室に現れたタイミングは本当に最悪だった。いつも通り美味しそうな(汁まみれにはなっているけど)お弁当を捨てるのは、やっぱり罪悪感が伴う行為だった。持って帰っても、お母さんが処理に困るだけだし、と自分に言い聞かせて、えいっとお弁当の中身をゴミ箱に捨てる所を丁度治に見られたのだ。治から見れば、せっかく親が作ってくれた弁当を捨てる最低な娘に見えたことだろう。

 でも、治ならちゃんと事情を聞いてくれると思った。私がいつもより顔色が悪いことに気付いてくれると思った。実際は全然予想と違った。めちゃくちゃキレていた。治の怒りに身を任せる一面は、割と見る機会がある。名物と言われるほどに、キョウダイの侑と日々殴り合いの喧嘩をしているからだ。彼女も、その喧嘩を見たことがあるが、まさか彼女は自分もその扱いを受けるとは思っていなかった。

「でも、名字サン意外やなぁ」
「え?」
「名字サンってあんまり怒るイメージないやん?
 治に凄まれても、落ち着いて事情説明しそうやなぁって思って」
「……」

 銀島の言葉に彼女は視線を泳がせた。まるで、叱られることが分かっている小さな子のような反応だった。銀島がぱちぱち、と瞬きをして、友達に視線を向ける。友達はまた彼女の頭をよちよちと撫でてて、彼女の代わりに口を開いた。

「名前もお腹空いてたし、お腹痛かったし、でコンディション最悪だったんだって」
「あー」
「治くんに説明しようと思ったけど、
 それ以上に怒ってる治くんは怖いし?疑われて悲しいし?
 たださえ情緒不安定なのにねぇ」
「何というか……本当にタイミング悪かったんやなぁ」
「そういうこと。
 名前落ち着いたらさ、ちゃんと治くんと話しなよ」
「……うん」

 彼女の返事は歯切れが悪かった。



 やっと放課後になって、彼女は早く家に帰ろうと軽いリュック背負って、教室から出ようとした。出れなかった。塗り壁が目の前に現れた。いや、塗り壁のようなデカい治に阻まれていた。彼女がちらりと視線を上げれば、治は申し訳なさそうに眉を寄せて、彼女を見つめていた。まだ教室に残っているクラスメイトの、視線が痛い。どうしたどうした、と遠目に言われている違いない。日常的に目立っている治には、大したことがないかもしれないが、彼女は居心地が悪くて眉を寄せる。

「本当にすまん!」
「……」

 大方、銀島に真相を聞いたのだろう。彼女は目の前で頭を下げる男を見て、そう考えた。

「名前がそんなことするわけへんのに、決め付けてごめん」
「……」
「名前は大きい音怖いの知っとったのに、怒ってごめん」

 彼女は不思議なくらい、素直に頷けなかった。治は自分の非を認めて謝っている。そうだ。治だって、話せばちゃんと分かる男なのだ。ここで私が謝れば、解決する。分かってる、全部頭では分かってる。でも、心が納得しない。

「おさむくん」
「……」

 びっくりするくらい冷たい声が出た。自分でも、こんな声出せるんだなぁと彼女は頭の片隅で、そんなことを思った。治は顔を上げて、泣きそうな顔をしていた。

「すごく痛かった」
「え」

 彼女はそれだけ言うと、治と扉の隙間を器用にすり抜けていった。



 あれから電話も、LINEも全部未読無視にした。治と話がしたいのに、電話に出る気分じゃなかった。一日経って、自分の行動にじわじわと後悔し始めていた。治が食べることが好きなのは知っていたけれど、大切にもしていたことは知らなかった。それこそ、恋人の彼女にもキレてしまうくらい。それに、彼女もきちんと説明しようとしなかった。生理で身体がだるくて、もう何もかも億劫で、そんな中で治に誤解されてショックだった。でも、私も同じだよね。治くんにこうあってほしいって、理想押し付けてる。口に、言葉にしてない癖に。

 電話も、LINEも23時には止んでいた。彼女はもう治に嫌われてしまったのだろうか、と心配になった。最初にきらいと、言ったのは自分の方なのに。呆れてしまっただろうか。彼女は重いからだを引きずって、玄関の扉を開けて、学校へ向かう。そして、悲鳴を上げた。

 のっそり、と黒い塊がいた。いや、彼女の家の前でしゃがみ込んでいた治がいた。

「おはよう」
「……おはよ」

 治は昨日と変わらず、申し訳なさそうに彼女を見つめていた。彼女は治からの挨拶ですら、無視しそうになった。私ってこんなに意地っ張りだった?治の顔を見るまでは、ちゃんと治と話そうと思っていたのに、私もごめんねって言おうと思ったのに、勝手に口がへの字になる。治の隣を通り過ぎて、学校に行こうとも考えたが、足が動かなかった。しゃがみ込む治と、その隣で突っ立っている彼女はシュールだった。ふと、治が口を開いた。彼女は顔を向けなかったが、視線だけ治の方へ向ける。

「名前……昨日は……」
「?」
「だったから……で……んって、思ってる」
「え?」
「?」
「治くん聞こえない」

 つい、聞き返してしまった。何か言っていることは分かるが、本当に何を言っているのか聞こえないのだ。内容が分からない。治はもう一度口を開いた。

「だから……って」
「え?なんて?」
「昨日は……って、思って……やけど」

 もーさっきから聞こえない!どんなに耳を澄ませても聞こえない!だんだんと彼女はイライラして来た。今度こそ聞いてやると思って、治と同じようにしゃがみ込んで、耳を寄せた。すると、にゅっと治の腕が伸びてきた。気付いたときには、遅かった。

「つかまえた」

 しまった!ハメられた。わざとだったのか。治は腕の中に、彼女がおさまったことに眉を下げる。彼女は治のやさしい表情に戸惑ってしまったが、治くんなんでそんな顔するの。私ばっかり子どもで、バカみたい。やさしく抱き締められながら、彼女は治をにらみ上げる。治の手に引っかかったことが悔しかったのだ。私はちゃんと真剣に聞こうとしてたのに。こんなこと、しなくたって。彼女は治の腕の中で暴れて、口から勝手に言葉が飛び出てきた。

「はなして!おさむくん、なんかきらい」

 意地を張っているときって、どうしてこんな言葉はするする言えるのだろう。本当に言いたいことは、何度頭の中で練習しても言えないのに。

「昨日は本当にごめん」
「やだ、はなして」
「でも」
「おさむくん、きら」
「俺だって何度もきらい言われたら、傷付くわ」
「あ……」

 治を押し抜けようしていた手から、力が抜けた。目の前で眉を寄せて、悲しそうに、苦しそうに、傷付いた表情をする治に、彼女は顔を青くした。自分をやさしく抱き締めていた温もりが離れて行こうとする。彼女は首を横に振って、治にしがみ付いた。自分で言った言葉の大きさを理解して彼女は涙が溢れてきた。いや、泣きたいのは治くんじゃん。私だって、治くんにきらい、なんて言われたら、傷付く。治くんにきらいって言われても、治にもう一回会いに行こうって思えるかな。会いに行けるかな。すごく怖くて、できないと思う。彼女は拒絶されたら、どうしようと手が震えた。散々拒絶したのは自分の癖に。

「すき、治くんすき、ごめん、ごめんなさい」
「……名前」
「嫌いって言ってごめんなさい。
 ちゃんと事情言わなくて、ごめんなさい……本当は昨日言いたかったの」
「ん、俺も怒ってごめん。痛い思いさせて、ごめん」

 治は彼女の頭を撫でながら、抱き締めて、ほっとした。良かったぁ。名前に振られたら、ほんまにどうしようかと思った。今回のことは本当に反省しようと思った。早とちりしてしまったことはもちろん、彼女が怖がりと知っていたのに、分かっていたのに、怖がらせてしまった。痛い思いをさせてしまった。腕の中の彼女は小さくて、柔らかかった。朝顔を見たときも、顔色が悪かった。大切にしたいと思った子を自分で傷付けていては、何の意味もない。

「治くん本当にごめんね」
「んーん、俺こそ……名前!手!」
「あ、ちょっと痣になっただけ、だから」
「うー、ほんまにすまん」
「大丈夫だってば」

 彼女のカーディガンの袖から覗く布が気になって、優しく捲れば、そこには湿布貼ってあった。きっと湿布の下には、治の手の痕が思い切り残っているだろう。彼女は意気消沈して、項垂れる治に眉を下げた。今回は互いが悪かったということで、一件落着かと思ったが、治が引きずりそうだった。彼女はピコン!と思いついて、治に耳打ちした。

「治くん、じゃあお願い一つ聞いて?」
「!」
 
 なんでも!なんでもする!そんな風に何も言わなくても、伝わってくるようだった。治は目を見開いて、真剣な表情で彼女を見つめてきた。

「お詫びに今日のお昼食べさせて?」
「?」
「こっち私の利き手だから、食べづらいの。だめ?」

 彼女が治を伺うように、小首を傾げる。治は言葉を無くして、首を横に振った。ダメなわけない。そもそも、そんなのお詫びにならないと治は彼女をぎゅう、とやさしく抱き締めた。

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