同じ温度に



「好きです」

 放課後の教室で、彼女は伝えた。中学の頃から奇跡的にいつも同じクラスだった男の子に、調子のいい彼は毎年「今年も同じクラスだったね。運命かな」と笑いかけてきた。ただの社交辞令と判断できる自分で良かったと、彼女は自分のことを心底毎年褒めていた。彼からすれば、ただのいつも通りのノリだろうけど、彼女からすれば、彼から貰える貴重な言葉たちの一つだった。同じクラスになって六回目の夏に、彼女は我慢が出来なくなった。奇跡的に関係性をもっても、もたなくても、来年はどうせ同じクラスになんて、なれないから。きっと彼は知らない土地に行ってしまう。ましてや、進学先も気軽に聞ける仲ではなかった。

「……名字さん」
「ごめんね。
 自己満足で告白しちゃって……、卒業する前に言いたかったの」

 今日は月曜日。男子バレー部は休みの日らしい。そして、及川に今カノジョはいないらしい。放課後の教室、ふたりは日直で残っていた。黒板は俺が消すねーと背の高さをフル活用した及川は、早々に仕事を終えて、彼女の元へ戻って来た。彼女は自分の字に自信がなくて、前の席なんかに座らないでほしいと思った。でも、その気持ちと同じくらい、及川が近くに居て嬉しいと思った。及川は意外にも冷房が苦手らしく、「ちょっと暑いねぇ」なんて言いながら窓を開けていたときだった。彼女の口から本音が零れたのは。夏の薄手のワイシャツの、大きな背中に、すごく手を伸ばしたかった。掴めないと、触れないと知っていても、手を伸ばしてみたいと思ってしまった。

 及川が驚いた顔をして振り返る。彼女は困った顔をして笑い返してしまった。及川くんがしたい表情しちゃった。生ぬるい風が及川の首筋に触れる。及川は少しだけ、迷った。エゴだった。

「全然気が付かなかった」
「結構態度に出てたよ」
「えーそれなら名字さんは大女優だね」

 及川は椅子に座って、彼女に向き直った。日誌の上に投げ出されて小さく拳を握っている彼女の手が、やけに目に付いた。

「名字さんは俺が触っても、やじゃない?」
「え、……やじゃないよ」
「良かった」

 いつもより穏やかに笑って、及川は彼女の小さな手を両手で包んだ。予想通り、それはカチンコチンだった。及川は温めるように彼女の手を撫でて、彼女の言葉に応えた。

「俺で、良ければ」
「え」
「俺の彼女になってくれる?ってこと」
「えええ」



「え?名字さんと付き合ってること言っちゃダメなの?」
「……だって」

 及川くんもこんな子が彼女って言いたくないでしょ、とか。歴代のカノジョたち比べたら、私なんて、とか。彼女の事情の癖に、及川の所為にするような言葉しか出てこなくて、彼女は口を噤んだ。

 初めてふたりで帰る帰り道なのに、彼女はよそよそしい様子だった。及川に自然に手を差し出されて、「わ、私手汗酷くてっ」と自爆したら、腕を差し出された。及川という男は想像よりもずっとスマートで、慣れていた、彼女はぎこちなく及川の腕に腕を絡ませながら、これなら手の方が良かった……!と大いに後悔していた。夕日が差す住宅街をふたりで、並んで歩く。なんて事ない光景が、及川相手だと途端に、とても贅沢なものに感じるから、とても不思議だった。

「名字さんが言いたくないなら、分かった」
「ご、ごめんね。我儘言って」
「じゃあ、俺からも一つワガママ」
「え」
「いいでしょ?お互い一つずつ」

 ニコッと笑う及川は全然怖くなかった。及川は腕を絡ませたまま、彼女の両手を大きな両手で包んで、リップ音を立てた。彼女はえっ、と思い切り目を見開く。

「本当は名字さんみたいな素敵な女の子が、俺のカノジョって言いたいんだからね」
「えっと」
「名字さんが恥ずかしがり屋だから仕方ないけど。
 それだけは忘れないで」
「……うん」
「じゃあ、帰ろう。そう駅前のアイス屋さん知ってる?」

 全てお見通しだったらしい。彼女は及川のことが怖くなった。これ以上好きにさせて、どうするつもりなんだろう。



 及川徹という男は予想よりずっと、マメだった。部活がオフの月曜日は必ず彼女の予定を尋ねてくるし、教室や廊下で目が合うと、その場で接触はないものの、ポケットの中のスマホはよく震えていた。高校生活をバレーに捧げる男子高校生と、受験生として勉強に勤しむ女子高生のふたりは、ふたりの時間はとても多いとは言えなかったが、ふたりは確実に互いの時間を重ねていた。予定と違っても、約束が破られても、ふたりは衝突しなかった。いや、出来なかった。

 互いに、何となくこの恋は高校卒業と同時に終わると分かっていたから。だから、衝突して変に時間を過ごす暇なんて、なかった。

「名前お願い。英語の宿題見して」
「いいけど。受験だいじょうぶ?」
「私の受験する学部は英語ないの」
「ええ、そんなとこもあるんだ」
「だから、学校の成績だけ、とりあえず!」

 彼女が友達にノートを渡したとき、ブレザーのポケットの中の、スマホが震えた。自分の席へ急ぐ友達の背中を見送って、彼女はスマホをポケットから取り出す。メッセージの内容を確認して、顔を上げる。丁度視線が合った。及川は少しだけ彼女に笑いかけて、絡んで来た男子生徒との談笑に戻る。

【今日時間ある?】



「ここのパフェが可愛いんだって」
「徹くんそんなに甘いもの食べれないじゃん」
「そうなんだけど。
 でも、名前とふたりなら食べれると思って来たんだよ」

 それなりに賑わっているオシャレなカフェに、ふたりは放課後寄り道していた。彼女は夕方から塾だった。その前の、少しの時間を一緒に過ごそうとしていた。ふたりで他愛もない話をしていたが、ふと及川が口を閉じた。及川にしては珍しく歯切れが悪かった。彼女は分かりやすく及川のことを心配した。及川は「違うよ、体調が悪いとかじゃなくて……」と困った顔をしていた。いつもの、スマートな及川らしくなかった。

「徹くん?」
「いやぁ、正直名前とここまで続くと思ってなくて……名前は誠実だからさ」
「えっと?」
「俺もちゃんと向き合わないとって思って、恋人として」
「……別れ話?」
「……」

 及川は眉を下げて、笑う。十八歳、正解の分からない男の子の素顔が垣間見えた瞬間だった。



 及川徹の、バレーボールが終わった。高校生活の、バレーボールが終わった。「お疲れ様」「かっこよかった」なんて、薄ぺっらい言葉しか、彼女はかけれなかった。それでも、及川は「ありがとう」と笑ってくれた。



「……もっと素敵なものだと思ってた」
「あはは。名前ってさ、時々めっちゃ少女マンガチックなこと言うよね」

 彼女は及川が普段使っている布団の中で、小さくなっていた。先ほどまであんなに動いていたと言うのに、目の前の男はとても元気そうだった。下着とスウェットのズボンを身に着けた及川はペットボトルの水を飲んで、彼女の頭を撫でた。「身体だいじょうぶ?」「だいじょうぶ。ちょっと痛かったけど」「水飲む?」「飲ましてくれる?」彼女が自分の腕に顎をつけて、ねだると、及川は少しだけ驚いた顔をして、もちろん、と彼女に口付けた。

「名前本当に俺で良かったの」
「何が?」
「……初めてだったじゃん」

 もしょもしょと気まずそうにしている及川は、いつもの及川と違って、全然自信がなさそうだった。彼女は胡坐をかいた及川の膝に頭を乗せて、及川に笑いかける。

「徹くんじゃなきゃ、ダメなんだよ」
「うわ、名前そういうのどこで覚えてくるの」
「思ったこと言っただけだよ」
「もーなにそれ、可愛過ぎじゃん」

 両手で顔を隠して、オーバーなリアクションをする及川に、彼女はケラケラと笑った。



「名前ってさ」
「うーん?」
「背中綺麗だよね」
「え、そう?」
「うん、すごく綺麗」

 及川は布団からのそのそと這い出て下着へ手を伸ばす、彼女の背中にキスを何度も落とした。くすぐったい、と彼女は楽しそうに声を上げるが、正直及川はそれどころはなかった。

「と、とおるくん……?」
「んー?」
「んー、じゃなくて、あの、どうして私の」

 下着を取るんです?彼女は指先に触れた下着が及川の手によって、遠ざけられてしまった。後ろを振り返ると、非情に気まずそうな顔をした及川が居た。彼女は首を横にふる。及川も、首を横に振る。

「まって、私今日初めて」
「うん、分かってる」
「なら、私の上からどいてほしい、なぁ……?」
「……やだって言ったら、名前怒る?」
「知ってるくせに」

 徹くんに求められたら、甘えられたら、私がうん、としか言わないの。知ってるくせに、分かってるくせに。彼女が恨めしく及川を見上げれば、及川はこちらの毒気が抜かれるほどの、甘ったるく無邪気な笑顔で、彼女の名前を呼んだ。




「ちゃんと取っといてくれたの」
「そりゃあね、可愛いカノジョの為だからね」

 華やかな卒業式が終わって、及川と彼女がふたりで会えた頃にはすっかり日は沈んでいた。ふたりで何度かお喋りしたことがあるカフェで、ふたりは最後の悪足掻きのように制服を身にまとって、ふたりでパフェを突いていた。彼女は及川から渡されたネクタイを嬉しそうに両手でもって、三年間という時間を思い返すように指先でやさしく撫でていた。そのやさしく、おだやかな表情に、及川の顔が歪む。

「予想外だった」
「またそれ」
「だって、本当にそうなんだもん。高校最後の……」

 恋がこんなにも、温かくて、心に残るものだなんて、思っていなかった。及川はこの土地を離れる。宮城県という土地ではなくて、日本という土地を離れて、海を渡る。及川はいつかの彼女のように恨めしそうに、彼女を睨んだ。彼女はチョコバナナパフェの、バナナの部分を美味しそうに食べていた。彼女は少しだけ、目尻が赤かった。でも、もぐもぐと美味しそうに頬を緩めている表情に、嘘はなかった。

「名前もう少し、寂しそうにしてよ」
「……だって、散々泣いたじゃん。泣くのって疲れるんだよ」
「でも」
「今日だから言うけど、私徹くんに新しいカノジョが出来る度泣いてたからね」
「うそ」
「ホント」

 目を見開いて驚く及川に、彼女はにっこりと笑いかけた。



 彼女は及川に家まで送ってもらって、お礼を言おうとした。今日という日が終わってしまう。でも、終わってしまうことに、安堵している自分も正直居た。だって、あと徹くんとどれだけ居られるんだろう、とか。徹くんが居なくなった後、私はどんな風に過ごすんだろうとか、とか。そういう不安をもう抱えなくていい、ってことでしょう。

「じゃあ、ありが」

 及川は強引に彼女を抱き締めると、彼女の耳元で囁いた。「やっぱり、帰したくない」と。彼女は大きく目を見開いて、何を言ってるの?と及川の胸を押すが、何の抵抗にもならなかった。及川は自分勝手に彼女をきつく抱き締めた後に、短く時間だけ伝えて、また迎えに来ると、放心している彼女を置いていった。



「わざわざ私服に着替えたと思ったら」
「だって、制服だったら面倒でしょ」

 及川が彼女を連れてきたのは所謂ホテルだった。そういう目的の、ホテル。彼女は初めて踏み入れる空間に、少しだけ居心地の悪さを感じて、及川のコートを引っ張った。へーこんなもんか、と興味本位できょろきょろしていた及川は後ろで心細いのか、困った顔をしている彼女に甘えられると、眉を下げて、抱き締める。たった数か月なのに、彼女はよくも、まあ、俺の心に入ってきたものだ。及川はそのまま彼女を抱き上げて、ベッドへ押し倒した。

「きゃっ」
「先にシャワー浴びたい?」
「と、とおるくん」
「俺はね……」

 及川は色っぽく笑うと、彼女の耳元で吐息交じりに呟く。幾度となく、彼女を蕩けさせてきた声だ。「今すぐ名前のこと抱きたい」彼女は息を呑んで、及川の首に腕を回した。そこから、言葉を交わさなくても、よかった。もどかしそうに互いの服を脱がし合って、ひたすら肌を重ねた。彼女は声が枯れた。ふたりで一緒のシーツで眠り落ちそうになったときに、彼女は腹いせに及川の頬を思いきっり引っ張った。もう声は出なかったから。



「ん……?」

 彼女は身体に残るだるさを感じながら、腕を動かした。ただシーツに擦れる自分の、腕の音しかしかなかった。嫌な予感がした。彼女はベッドの上で飛び起きて、辺りを見渡した。誰も居ない。自分以外の、誰でもいない。脱ぎ散らかした服も、自分のものだけだった。彼女は裸のまま、お風呂も、トレイも、全て見て回ったが、どこにも居なかった。ベッドサイドテーブルに、一枚の紙と、お金が置いてあった。彼女は頼りない足取りで、テーブルに近付いて、その紙を手に取った。

【彼女が名前で良かった。ありがとう】

 衝動的に、彼女はその紙をぐしゃぐしゃに丸めたくなった。込み上げてくる感情のままに、ベッドを何度も何度も殴った。とおるくん、さいてい。こんな終わり方って、ない。シーツには嫌になるくらい、及川の匂いが残っていた。彼女は自分の身体を見下ろして、また声にならない声を上げて、泣いた。今までキスマークなんて、付けたことなんか、なかったくせに。どんなに泣いたって、ここに及川はいない。戻ってこない。でも、十八歳の彼女は泣くことしか出来なかった。



「はあ、さむっ」

 及川は目が痛くなるほどの、寒さの中歩いていた。背中を丸めて、歩いていた。そして、込み上げ来る感情に声を殺した。頬が冷たかった。



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