この世の中には、自分と似ている人間が三人はいるらしい。誰に言われるでもなく、何故か知っている知識の一つだ。彼女もその知識は知っていたが、自分がそんなものにまさか振り回されているとは知らなかった。彼女は誰も知り合いがいることのない高校に入学したはずなのに、妙に視線をチクチクと感じていた。興味というより、好奇心。好奇心というより、白い目。とにかく良い意味で自分が注目さているのではないと、誰に訊かなくても自分でわかった。でも、何で自分がそんな風に見られるかはどんなに考えても、分からなかった。


「名前おはよう」
「おはよう、いなちゃん」
「相変わらず暗い顔だなぁ」


 いなちゃんとは、彼女が話せる友達の一人だった。稲荷(いなり)という名字なので、いなちゃんというあだ名で呼ばれることが多い。彼女と同じで高校入学と同時に、こちらへ越してきて、何故彼女がどこか皆から一線を置かれるのか分かっていないという仲間でもある。そんな環境でも人間は生きていけると悟って、一年経った。運よく今年も、いなちゃんと同じクラスだった彼女はいなちゃんの腕に抱き着いて、重い足取りで教室へと向かっていく。


「あ」
「……」


 いなちゃんの小さい声に、彼女は何気なく視線を落とした。前から賑やかで、背の高い集団がやってくる。いなちゃんは背筋を伸ばしたまま、彼女と昨日見たドラマのことについて話した。彼女も相槌を打つが、心臓がどきどきしてそれどころじゃない。ギロリ。そんな効果音を付けてもいいほど、鋭い視線を感じて彼女はじわり、と泣きそうになる。賑やかだった低い声も、一瞬だけ静かになった。


「来週楽しみだね」
「うん」
「……もう行ったよ、だいじょうぶ?」
「だ、だいじょばない」


 すんすんと、鼻を鳴らして涙目の彼女にいなちゃんは眉を下げて、彼女を抱き締めた。過ぎ去った集団を視線で追えば、運が悪くその集団の一人と目が合った。シャープな目がふたりを捉えたと思ったが、表情を変えることなく彼は視線を逸らした。







「ねえ、名字さん」
「!」


 基本的に教室を離れない彼女が唯一教室の外に出るときは、自動販売機で紅茶を買うときだけだった。彼女が振り向くと、クラスメイトの角名倫太郎が立っていた。背の高い角名に見下ろされ、彼女は条件反射で泣きそうになった。涙ぐみ始めた彼女の目に、角名は表情に出さずとも焦る。女子に泣かれて、動揺しないほど、冷たい人間ではないのだ。角名はとりあえず距離を開けようと、一歩後ろに下がった。


「あのさ、名字さんって侑の強烈なファンだったって本当?」
「……」
「名字さん?」
「あつむ?……ごめんなさい。角名くんあつむ?くんって、だれ?」


 彼女は心から申し訳なさそうに、眉を下げた。そんな彼女の表情に、角名は珍しくシャープな目を見開く。スラックスの尻ポケットに突っ込んでいた手を出して、思わず彼女の肩を掴んで、「本当に?知らないの?宮侑だよ、侑って」もう一度質問を繰り返した。みや、あつむと彼女の唇が呟いて、彼女の白い顔が一瞬で青白くなる。彼女の中で、ファンと侑が上手く結ばれないらしい。


「みやあつむ、くんのファンじゃないです。でも」
「でも?」
「自意識過剰なかったら、私は何か宮侑くんを怒らせるようなこと……したっぽくて」
「……した、っぽい?って、どういうこと?」
「……よく分かんないんだけど。
 初めて会ったときから、睨まれたり……、無視?されたり、するから」
「初めて……?まって、名字さんさ」


 角名は自分の頭が混乱し始めていることが分かった。自分の中の彼女への認識と、事実が間違っている可能性が高い。


「侑と初めて会ったのって、いつ?」
「え?高校入ってから、初めて会った、けど……」


 彼女は困惑気味に首を傾げる。何当たり前なこと聞いてるの?とでも言いたげな様子に、角名は普段ならしない愛想笑いをしてしまった。あーあ、侑……これは思ったよりも、深刻なんじゃないの。






「名字さん」
「な、なに」
「昨日は驚かせてごめん。これお詫び」
「え、いいよ、悪いよ」


 彼女は翌日、いつも飲んでいるパックの紅茶を角名から渡されて、大きく首を横にふった。角名は勝手に彼女の机へ置いて、自分の席へと戻って行く。その光景を見守っていた、いなちゃんがすっかり見慣れてしまった困り顔で紅茶を見つめる彼女の元へ駆け寄った。


「名前」
「いなちゃん、どうしよう、これ」
「角名くんと何かあったの?」
「あ、なんか、昨日ね」


 いなちゃんの腕を掴んで、昨日のことを話そうとしたときに、鋭い視線を背筋に感じた。「いなちゃん……もしかして」「うん、すっごい治くんがこっち見てる」「……こ、こわい」「あ、でも、角名くんがなんか話しかけに行ったよ」彼女は背後で行われる会話に、どきどきしていた。そして、騒がしい足音がして、がしっと肩を強く掴まれた。大きな手に、強い力だった。彼女が驚いて振り向くと、焦ったように眉を寄せる宮治がいた。こんなにも、近い接触はしたことがなかった。


「名字さん、ほんまに」
「ひ」
「え」


 彼女の目から勝手に涙が溢れてくる。いよいよ、かと。彼女は今まで視線だけではなくて、いよいよ何かされる、言われると思ってしまったのだ。怯え切って小さくなって、涙を零す彼女の様子に周りのクラスメイトも、治も、角名も全員焦った。「え、え、どうしよう、俺何もしてへん」「ごめん。名字さん驚いたよね……治」「え」むしろ治の方が泣きそうになって、角名と意味のない視線の押し問答をしてしまう。痺れを切らしたいなちゃんは彼女の腕を引っ張って、彼女を立たせた。


「名前行こう。この子朝から具合悪かったの」
「そうなん?」
「……」
「名前歩ける?」


 いなちゃんの言葉に頷いて、のろのろと教室を出て行く彼女の姿に治は頬を引き攣らせた。


「なあ、角名の言っとることほんまだったら、やばない?」
「ヤバいでしょ。あんなに怯えてるんだから」


 角名の言葉に、治は意味もなく天井を見上げた。

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