Nebra sky disk | ナノ


藍玉の螺旋

 それは、少しだけ古い記憶。とても優しい、温かな記憶。

 寝付けなかったヤムライハは、ゆっくりと身体を起こした。これからの生活に対する不安、感じた事のない不規則な上下の揺れ、消える事の無い波の音で眠る事が出来そうになかった。
 冴えてしまった目を持て余して、与えられた部屋を出たヤムライハは、夜の闇に落ちた暗い船内を壁伝いにゆっくりと歩いた。暗い闇が、彼女の心を更に重くした。真実をひた隠し、自分が何者かを教えてくれない人達と一緒にいるのが辛くて、逃げるように国を出た。情が深かった故に、傷も大きかった。多感な年頃の少女の心の中は、猜疑心に溢れていた。
 甲板への扉を開けば、そこに広がっていたのは……空を埋めつくす満天の星。魔法道具の灯りに邪魔される事の無いその輝きは圧巻だった。驚いたヤムライハが言葉を失っていると、甲板から誰何の声をかけられた。

「誰だ?」

 甲板に燈された一つの灯り。その隣に、誰かが座っていた。
 星はあっても、月はない夜だった。顔の判別はできず、声も聞いた事がない。杖を持っていなかったヤムライハが怯えて後ずさる様に動き始めたのを見て、人影は自身の顔を照らす様に灯りを顔の高さまで持ち上げた。ヤムライハが見た事の無い照明器具に照らされた男の顔は、東方の民らしい顔立ちをしていた。

「君は……?」
「………………」
「何かを見に来たのか?」

 青年に問われた目的があって来たわけではない。初めて会った人間に緊張してなんと言葉を返そうか迷っていると、青年はもう一つ言葉をかけてくれた。

「それとも、眠れないのか?」

 次の問いは、はいかいいえで答えられた。
 小さくヤムライハは頷く。ヤムライハは灯りを持っていないというのに、青年にはそれが見えたのが、幾分か声を柔らかくして、ヤムライハを手招いた。

「やりたいことが無いなら、こっちに来るといい。眠気が来るまでの話相手ならしてやれる」

 ヤムライハが動くのを、急かすでも青年はじっと待っていた。どうするか迷っていたヤムライハだが、青年のもつ静かな雰囲気に未知の恐怖は薄れ、灯りに吸い寄せられるように歩き始めた。ここは、シンドバッドの所有する船なのだ。あの国から連れ出してくれた人の船だから、大丈夫だと思えた。

「どうぞ。さっきは怖がらせて悪かったな」

 隣に腰を下ろそうとしたヤムライハに、青年は自身の尻の下に敷いていたクッションや、羽織っていた上着を差し出した。海上の冷たい夜風と、突然知らぬ人間に声をかけられた恐怖に冷えていた身体には、ほっとできる温かさだった。

「……貴方の分は?」
「俺は慣れているから良い。女の子なんだし、温かくしとかないと眠気も来ないだろ?」

 気にするな、と小さく笑った青年は、ヤムライハが羽織った上着を前で合わせるのを見届けてから、甲板に置いている紙に向かい直した。こんな夜に何をしているのだろうかとヤムライハも気になって、一緒に紙を覗きこむ。罫線が引かれた紙には、沢山の点と、小さな文字が描かれていた。

「船に乗るのは初めてか?」
「……ええ」
「船酔いは?」
「大丈夫……」
「そうか、羨ましいな。俺はいくら乗ってても全然駄目だ。この大きさでもがぶられたらすぐに気持ち悪くなる」

 ヤムライハに話しかけながらも、青年は手を休めずに忙しなく手元の紙と空を交互に見る。

「お兄さんは……何をしているの?」
「星を見ている」
「占い師……?」
「いいや、学者。俺は天文学者で、これは位置天文学。星を見て、航海の指針にしやすい星を纏めているんだ。シンドリアへの航路は全然開拓が出来てないから……」
「星で、航路がわかるの?」
「ああ、海上だと天体を使わないとむしろわからないんだよ。なにか島でもあったらいいんだが、この海域は全然ないからな……」

 説明を終えた青年の放った問いが、ヤムライハの消えていた警戒心を蘇らせた。

「……君は、ムスタシムから来たのか?」
「! どうして、それ」
「シンに聞いた。ムスタシムの子を連れて来たって」
「…………………」

 黙り込んでしまったヤムライハに、青年はそれ以上質問を重ねることは無かった。
 代わりに、青年の指は星を示した。

「……あっち、南の水平線を見てごらん。水平線ぎりぎりに見える、オレンジ色をした星だ」
「?」
「あれはムスタシムでは見る事の出来ない星だ」
「見えない……星」

 その指先を辿った先には、確かにオレンジ色に輝く星があった。青魔導士であるヤムライハはあまり星には詳しく無いものの、ある程度の知識はあった。言われてみれば確かに、青年が示した周辺の星は、見覚えが無いものばかりだった。

「そう。シンドリアに着けば、もう少し高度がつくから見えやすくなる」
「シンドリアはどんな国?」
「良い国だ。何も無い。太陽と海と風しか無い国」
「え、え……?」
「でも、俺が戻る度に、あの国は前に進んでる。先達のいない生活しながら、手探りで進んでいるから、きっと君も、すぐに馴染める。楽しそうじゃないか? 大陸の人間はした事の無い生活をしてるんだ」
「…………そうね、楽しそう」
「だろう? シンドリアって言う国は……」

 知らない事を知る楽しさは、ヤムライハもよく知っていた。未知は恐怖だけはない。驚きや、楽しさも持っているのだ。いつしか、ヤムライハは青年の言葉に耳を傾けていた。青年の声は穏やかで、澱みない。憂いに病んでいたヤムライハの心を、静かに漱いでいった。
 そうして……いつしか眠りに落ちていたらしく、ヤムライハは気付いたら寝台に横たわっていた。上着が掛けられていたので夢ではないと思いながら、昼に船の中を歩き回っても一向に青年の姿は見つからなかった。終いには、シンドバッドに誰を探しているんだ、と尋ねられた。

 その日の夜、寝付けなかったヤムライハが再び甲板を訪ねると青年は同じ場所にいた。夢でも幻でも無かった事にヤムライハは安堵しつつ、青年に声をかけた。青年は邪見にせずに眠れないヤムライハを迎えてくれた。青年の雰囲気は義父が魔法の研究をしている時に似ていて、居心地が良かった。
 青年は色々な話をヤムライハにした。彼が使っている見た事も無い観測機や、星の動き方、そして、一番多かったのは星座の物語だ。海を荒らす蛇の話、それを退治した英雄の話、天に上がっても仲の良い双子の話、業突く張りな烏の話、動物に変身した神の話……。穏やかな声で紡がれるその話を聞いているうちに、いつもヤムライハは眠りに落ちていた。

 そんな夜の逢瀬を続けていたある日、青年の姿が見えなかった。天候が悪い日を除けば、いつも青年は甲板にいた。今日は波が少し高いが、星は出ている。どうしていないのか。
 ふと、ヤムライハの脳裏に、暗い海に落ちたのではないかという可能性が浮かんだ。青年は体力がないという事は今までの会話からよくわかっていた。もし、何かの拍子に、彼が暗い海に落ちてしまったら……。

「っ……」

 ヤムライハは船縁に駆けより、夜の海へ身を乗り出したところで動きを止めた。青年の名前が、わからなかったのだ。
ヤムライハは知らない。彼は聞いた事にはなんでも答えてくれるけれど、自己紹介はしていなかった。マグノシュタットでの経験から、ヤムライハは自分の事は何も語らなかったし、青年が尋ねたのも最初の日のあの会話だけだった。二人きりだから、名前も必要なかった。

「お兄さん!」
「どうした?」
「きゃあっ!」
「おおっ?」

 喉の奥から声を絞り出して夜の海へ精一杯叫んだ直後、背後から答えられてヤムライハは飛び上がった。駆足になった心臓を押さえて振り向けば、探していた青年が立っていた。その手に、湯気の立つ二つのカップを持って。

「その、なんだ。今日は早かったな……ほら、君の分」
「あ、ありがとう……これは何?」
「野羊乳、さっき絞ってきた奴で、臭みもあんま無いはずだから君も呑めると思うんだが……」
「……野羊。さっき絞った!?」
「ああ、船底で野羊を飼ってるの、知らなかったか?」
「知らなかったわ」
「気になるなら今度昼にでも見に行ってみるといい。今は俺が無理やり起こした揚句に搾乳したから機嫌が悪いだろうから」

 これを用意していたから、青年はいつもの時間にここにいなかったのだ。
 ヤムライハは青年からカップを受け取り、口に含んだ。牛とは違う風味がしたが、飲めない味ではない。

「温かい」
「呑めそうか」
「うん」
「それは良かっ……忘れてた、これ」
「?」
「魔法の棒だ」
「魔法、の棒?」

 ヤムライハは首を傾げた。青年は魔法だと言ったが、なんの命令式も無い、単なる乾燥した木の棒だ。魔力を注いでも、動くはずがない。
 青年は微笑みながらヤムライハに棒を渡し、使い方を教えた。

「そうだよ。これで掻き混ぜてみな」
「………………ん!」
「旨いか?」
「ええ、風味が全然違う。美味しい」
「誰にでも使える素敵な魔法だ」

 いつものように二人で並んで、話を始めた。たまに青年がくしゃみをする事があるから、暖なるかとヤムライハが青年に近づき、今では二人の間の距離は殆ど無くなっていた。

「お兄さんは、名前はなんていうの?」
「あら、言ってなかったか? それは悪かったな」

 青年はペンを置いて、夜空を見上げた。そして、迷いながら星を指差した。

「多分、あの星だと思うんだ」
「何が多分なの?」
「あの藍玉色をした星が……俺の名前の星、だと、思う」
「思うって、どういうこと?」
「わからないんだ、同じかどうかは……」

 穏やかで優しい青年が、この時だけはとても淋しそうな顔をしていたから、ヤムライハはそれ以上聞けなかった。
 その日、シンドリアへ着く最後の晩に青年がヤムライハに語った物語は、天から落ちてきた少年と、彼を拾った優しい魔導士の話だった。

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