マギ | ナノ


濡れた袖振る鬱金の此岸

 よろめきながら、白龍は珂燿の腕の中から身を起こした。力の抜けたその腕を解く。庇ってくれた珂燿の様子を確かめようと、白龍は痛む身体を捻り後ろを振り返った。

「珂燿、大丈夫、か……?」

 玉艶や神官らが去っても残っていたジュダルが、そんな白龍を見つめながら声をかける。
 母親を恨むだけの器を壊して、運命を恨ませてやらねば……ジュダルは一石を投じる事にした。回りくどいことは嫌いだ。白龍に、珂燿が何なのかを解らせてやろうではないか。

「珂燿も散々だよなぁ。主人じゃない奴の為に、こんなになっちまって」
「や……めろ!」

 ジュダルが壁に埋まったままの珂燿の髪を掴み、無理矢理仰向かせる。失神しているらしい珂燿は、勿論抵抗出来るはずもなく、ジュダルのされるままだ。
 触るな、と白龍は珂燿を捉えるジュダルの腕を掴んだ。ジュダルは何もわかっていない白龍を睥睨し、よく見ろ、と顎をしゃくる。

「今ほっといたら、それこそ珂燿が死ぬぜ」
「な……おい珂燿? 珂燿っ!?」

 ジュダルの言葉に白龍は戦慄した。まさか、まさか……そんなことはない、こいつがこの程度で死ぬはずが無い。何かの間違いだ。こっちが驚くくらい頑丈だから、きっと何も無かったように目を覚ます。目を覚まして、いつものように若君、と笑いかけてくれるに違いない。

「嘘、だ……」

 白龍は痺れが残る腕を持ち上げ、珂燿の顔に触れた。冷たい、息もしていない。玉艶が去ってどれ程時間が経った。
 壁に半身を埋めた珂燿は、力無く四肢を投げ出していた。外界に対してなんの何の反応もしない。白龍は珂燿の名を呼んだ。

「珂燿!」
「ちょっとどいてろ」

 玉艶に痛め付けられていた白龍は、ジュダルの膂力でも簡単に振り払われてしまった。
 ジュダルは珂燿の髪を掴み、上体を壁から引き出してやった。変わらず彼女の腕は力無く垂れ下がっている。立ち上がった白龍は、珂燿の背中を見て目を見開いた。それ横目に、ジュダルは血に濡れた珂燿の首筋に手を当ててバルバッドでやった時のように、魔力を珂燿に吹き込む。

「がッ!」

 電撃でも喰らった人間のように、珂燿の身体は大きく撥ねる。そして、彼女は溜まっていた血を口から大量に吐き出した。

「ぐっ、げほっ……」
「珂燿っ! ジュダル!」
「怒んなよ。また動き始めたんだから助けたって見りゃわかんだろうが」
「……どう、やって」
「俺がマギだから」
「マギが……一体」

 珂燿が息を吹き返した事に安堵しながら、異様な状況に白龍は困惑した。治癒魔法といえるものではなかった。ただ、純粋な魔力を珂燿に注いだだけのように見えた。それで、なぜ珂燿は反応を示したのか。
 珂燿は一体どうなっているんだ。ジュダルは一体何を知っているんだ。玉艶は一体何を言っていたんだ。
 蘇生を終えたジュダルは、珂燿の髪から手を離す。珂燿の身体は重力に負けて、地面に溜まっていた水を撥ねた。

「わかんねぇならこいつに聞いてみろよ。俺が言っても信じねぇだろ? ああでも、まず「お前の本当の主は誰だ?」っ聞いた方がいいな。ゴシュジンサマの質問には素直に答えるだろうから、そこはっきりさせといた方がいいぜ」

 珂燿は横向きに倒れたまま、呼吸を確保するように咳込む。眼球だけを動かして、焦点の合わぬ虚ろな目で白龍を見上げた。白龍の目には死体のように冷たくなっていた身体に、段々と生気戻って来ているように見えた。

「………………」

 本当、というのはどういうことだ。それではまるで、白龍が違うようではないか。
 アラジンと初めて会った時、様子がおかしかった。イスナーンはこの手に余ると笑った。玉艶は兄のお人形と言った。

「珂燿……」
「いいかげんそれは離してやれよ。お前がもし運命を恨むなら、俺が腕を掴んでやる」

 白龍の肩を叩きそう囁くと、ジュダルも姿を消した。
 残された白龍は、呼吸をするだけで精一杯のようで、まだ立ち上がれない珂燿の傍らに膝をついた。

「なあ、珂燿……」
「わか……ごぶじ、ですか?」
「あいつも、ジュダルも、解らないことを、言うんだ。まるで、お前が俺のものじゃないみたいに」

 珂燿の方が重傷だというのに、こんな時にでも白龍の心配をしている。その忠誠は、献身は、一体何処に端を発している。
 白龍は珂燿の来歴を知らない。兄が拾ってきたと言い、自分に与えてくれた従者だ。自分に仕えるのが当然だと、白龍は深く考える事はなかった。
 ……考えないように、していた。幼な心に見ていた二人は、固い絆を結んでいるようで。自分の従者なのに、白雄といる時はその間に入り込めなかった。

「珂燿……お前の本当の主は誰だ?」

 ジュダルに言われた事を、そのまま白龍は問い掛けた。組織の人間であるジュダルが、白龍の為になることをするはずが無いとわかっていた。それでも、弱り切った心と身体が、幼い頃からあった不安に負けた。
 白龍が尋ねた途端、珂燿は答えたくないことを聞かれたように顔を強張らせた。

「な……ぜ」
「答えてくれ……珂燿」
「わたしの、主……は……」

 ただ一言でいい。白龍のものだ、そう言ってくれたら、自分はもう迷わない。だから……応えてくれ。
 そう願う白龍の視線の先で、兄と同じ色をした瞳が、揺れる。身を起こす事もできずにいた震える唇で、珂燿は名前を告げた。

「練、白雄です」

 噫、と白龍は嘆息する。冷たい手に心臓を捕まれた様な痛みを感じた。

「お前は、俺の、従者だろう。俺のものなんだろう。どういう、ことだ……!」
「……白雄の命で、貴方のものになりました。従者となるように命じられ、貴方を守るという役目を果たすために私は今ここにいます。」
「ずっと、か……?」

 白龍の中で、今まで積み上げてきたものが音を立てて崩壊していく。騙されていたのか。否。珂燿はずっと従者として相応しい仕事をしてきた……騙しているわけではない。珂燿は確かに白龍の従者で、白龍の為に生きていた。
 だが……この答えは裏切りに等しかった。心が、裏切られた。その忠節は、白龍に捧げられたものではなかった。珂燿の献身の理由は、己ではなく、兄であると……受け入れたくない。
 青い瞳の眦から雫が落ちる。雨に打たれ続けていた二人には、それがもう涙なのかさえわからない。

「私は、貴方の従者です」
「俺の従者と言いながら! 何故兄上の名を呼ぶんだ! お前はっ、ずっと……兄上の命令で、俺に仕えていたのか!?」

 例え始まりがそうだったとしても、それでも今は白龍のものだ、白龍を選び、白龍の傍にいるのだと答えてくれれば希望はあった。けれど……珂燿の答えは白龍の望んだものではなかった。

「……はい、白雄の命が無ければ、私は……貴方の傍にいない」
「なんだよ、それ。お前も、違うのか……」

 まだ何かを伝えようとしている珂燿が途切れ途切れに言葉を紡いでいるが、白龍の耳にはもう入ってこなかった。
 滑稽だった。珂燿だけは自分を裏切らないと思っていた。いや……確かに、裏切ってはない。裏切る前、最初から、根本から間違っていた。

「わかぎみ……?」
「兄上のものなら……いらない」
「っ!」

 自分のものじゃないのなら、いらない。
 たった一つ残ったものさえ自分のものでは無かったと解ってしまい、白龍は頭がおかしくなりそうだった。何に縋ればいいのかわからない。息の仕方さえ忘れてしまいそうになる。

「…………………」

 今はもう、これ以上珂燿の姿を見ていられなくて、白龍は雨の中で踵を返した。その背中に制止の懇願を受けても、振り返る余裕など今の白龍には無かった。

「まっ、て……!」

 珂燿は石畳に爪を立てて、這いずりながらも白龍を追いかけようとした。肉体の再生は終わっておらず、立ち上がるどころか大きな声も出せない。小さな背中が雨の向こうに消えていくのを、見ているしか出来なかった。

「すてないで、はくりゅ……さま」

 白雄のものであるのは、仕方ないじゃないか。そうじゃないと、珂燿はここに存在していられない。だって、本当はとっくに消えていてもおかしくないのに、それでも役目に縋り付いて存在を保った。全ては白龍の傍にいたかったからだ。
 珂燿には、選べる自由なんて最初から無かった。

「だって……わた、し……」

 肘をついてなんとか上体を起こし顔を上げても、珂燿の視界にはもう誰もいなかった。

「……て、いたかったの……」

 存在を与えられるのは、選定が成された後のこと。意志を与えられるのは、契約が済んだ後のこと。
 選べたことなどほとんど何も無かった。白龍の従者でいる事を選んだのは、珂燿が出来た少ない選択の一つであることは間違いなのに。
 聞いてくれたら、良かったのに。「誰に仕えたいか」と聞いてくれたら……事実ではなく、珂燿の願いを聞いてくれたら、答えられたのに。珂燿は聞かれなければ、答えられないのに。

「私は、ただ……」

 無理が祟った珂燿は糸が切れた人形のように、白龍が去った場所に倒れた。


異説 白の王、紅の君

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