3

 ヒグラシの物悲しい鳴き声と風鈴の涼しげな音がとけあって 夏の風情をつくりあげていた。
 夕暮れの赤みが暗くなり始めた空の濃紺にとけはじめ 紫をつくる。



 ――真夏、電柱がおりなす都内の道路にて。


 谷山麻衣は、買い出しのため足早にスーパーへ向かっていた。








 渋谷サイキックリサーチの雑用もろもろを任されてから三か月。高校が夏休みにはいり毎日だらだらと過ごせる日がくると思いきや 麻衣は予想以上にバイトに追われていた。
 ほんとうにあのワガママな所長さまは、と口をとがらせるが たしかに稼ぎはいい。ガマンガマンと口の中で繰り返せば 怒りの芽はすぐに地中深くにかくれ消えてゆく。

 事務所の紅茶があと数杯分しかのこっていないことに麻衣が気付いたのは今日の午前だった。すぐに買い出しにいこうと慌てて外にでようとしたら 積んであった書類をおもいきり床にぶちまけてしまったのだ。麻衣が所長のナルから冷たい視線を送られたのはいうまでもない。
 それからつい一時間ほど前まで 麻衣はちらばった書類の整理をずうっとしていた。どうやら書類はきちんと分類わけされていたようで それを元に戻さなければならなかった。しかも内容はことごとく英語だったので 英語といえば日本の義務教育でしかふれていなかった麻衣にとしては それらを分類わけするのはなかなかに至難のワザであった。ナルやリンが麻衣にすこしでも助けを申し出なかったのはいうまでもない。「あの白状ものどもめ」と麻衣は再度口をとがらした。

 書類整理をやりとげ こんどは慎重に外にでたあと 追加の紅茶とお客さまに出す用のお菓子を少々、ひとり暮らしで学んだ節約ショッピング術を駆使して 買い物を済ませた次第だ。
 しかしおつかいは、帰るまでが おつかいだ。麻衣はまだおつかいを済ませていなかった。

 足早に太陽がほとんど落ちた道路をあるきながら 左腕にある時計を確認した。短針はすでに六を指している。
 事務所をでてから五十分、買い物をすましスーパーを出てから三十分がたっていた。
五十、引く、三十、イコール、二十。これはなんの数字?答え、事務所をでてから買い物を済ませるまでの所有時間。

 では、残りの三十は?


 答え、麻衣がまいごになっている時間(注意書き:現在進行形である)。




「うわ〜ここどこだあ?」

 つい間抜けな声色のひとり言をもらした麻衣は なぜか両隣を平屋に囲まれた道路を歩いていた。ここは都内有数の繁華街、渋谷にもかかわらず、平屋だ。さきほどまで麻衣に平行してどこまでも続いていた電柱の姿もみえない。
 麻衣は事務所からすこし離れた場所にある格安スーパーをでたあと、ほんのすこしだけ寄り道をしたのだ。店に入る前まで青かった空が 出たときに赤くなっていて、かすかにヒグラシの鳴き声がした。それがどうにも風情があって、音のでどころを探そうとあたりを見回していたら、一角に神社のようなものが見えた。ようなもの、というのはそのあたりでは珍しい木の群集にかくれるようにして色の落ちた鳥居が見えるだけで 神社の名前が掲げてあるなにがしかもその周りにはなかったからだ。
 なぜか麻衣はその鳥居にひかれた。そして、ヒグラシの鳴き声がそのあたりの木からきこえることに気付いた。
 鳥居の奥にあるであろう社務所にぶら下がっているのか、風鈴のような音もきこえた。
その一角に魅入られるようにじっとしていたのはどのくらいだったのか 麻衣には思い出せなかったが、強めの風がふき 手にもっていたビニール袋がたてた大きな音に意識が戻された。

 神社からは嫌な感じがまったくしなかったが、しかしまるで麻衣を誘うようにそこに存在する神社にこわくなり、逃げるように踵を返したのだ。

 だが、振り返った麻衣の目の前にはあたりには平屋が一面にひろがっていた。ついでに空は赤から紫へのグラデーションから紫から紺へのグラデーションにすり替わっていた。
 べつにトンネルをくぐったわけでもないのに、タイムマシンにのったわけでもないのに、この風景の変化である。
 雑用ではありながらも 渋谷サイキックリサーチに務めている麻衣の理解ははやかった。――なんらかの心霊現象にまきこまれた。


 ふと、麻衣は己の左のほうの道から、いやな気配を感じた。
 考えるまえに、それとは逆の方向へと身体はうごきだす。

 一歩一歩足をふみだすたび、右手にあるビニール袋がはでな音をたてたが そのようなことは構いもせず、麻衣はにげた。何からかは分からないが、あの気味の悪い気配と、しいていうなら左右にずっと続く平屋からだろうか。

 二回ほど、十字路があったが 曲がるのもなぜだが怖く麻衣はただただ真っ直ぐに走った。あたりに人気はなく いつの間にかヒグラシの声も風鈴の音もきこえなくなっていた。

 ――じぶん以外、なにもいない

 喉がからからに乾ききって、声をだそうにもだせそうにない。恐ろしいというのはこういう感情をいうのか。身体が緊張しきって 麻衣は思うように身体をうごかすことができなくなっていた。

「あっ」

 もはや自分のものとは良いがたいほど動かしにくくなっていた右足と左足がもつれあって、麻衣ははでに転んだ。こんなときでも――こんなときだからこそかもしれないが握りしめていたビニールとともに麻衣は土の地面に倒れこむ。
 反射的に手をついたおかげで顔は無事だったが、むき出しの膝小僧を思い切り地面にぶつけたため 思わずうめいた。喉が張り付いたようなかんじだったのでうめき声も掠れている。

 ふと、とてつもなく生々しい音が麻衣の横たわった足元からきこえた。麻衣がつくりだす音いがいには無音だった世界にひびいた音。ぬめついたモノとモノがぶつかりあったときに鳴る音。擬音語でいえば ぬちゃり といったところだ。立て続けにその音がなる。そして、音がだんだんと大きくなっていく。
 顔の前面に地面があるからか土の匂いでいっぱいだった麻衣の鼻に 鉄くさい臭いがとどいた。

 今まで以上に麻衣の心臓の鼓動がはやくなる。声がでない。涙があふれる。震えで身体に力がはいらない。腰が抜けたようだ。
 土をつかむようにして、意識をただただ自らの四肢に集中させて前へ前へと這いずりよる。綺麗に整えられた爪の間に土が入り込んだが麻衣にそんなことを気にしている余裕はなかった。

 ――見ない、見ない、あたし、ぜったい見ない。たすけて、たすけて

 呪文のように麻衣は口の中で唱えた。思わず閉じたその眼裏に冷たい顔をしたナルがうかんだ。たすけて、再度口の中でつぶやく。

 そして、音が止んだ。


 まさか、助かったのか。
 麻衣は薄目をあけた。そして同時にそれをひどく後悔した。

「ひいっ」

 狭い視界は桃色のナニかでいっぱいだった。麻衣の顔を覗き込むようにしてその人型のナニかは目の前でぴたりと止まっていた。頭部であろう部分は抉れたように凹んでおり、その部分からは形容しがたいどろどろとした液体がこぼれ落ちている。反射的に麻衣は顎をひくように身を引いた。鉄の臭いが生臭いものにかわっている。

 麻衣の鼻のあたりに なまあたたかい風があたる。近い。顔の寸前まで、ナニかが近づいている。


 おん くろだのう うん じゃく そわか


 その空間に、麻衣のたてる音とナニかの音いがいの何かが ながれてきた。


 おん くろだのう うん じゃく そわか


 まただ。麻衣は目をとじたまま、その音に耳をかたむけた。心地のよい、水面を連想させる穏やかな音で ひとつひとつの発音が胸にしみわたっていく。いやな感じはしなかった。


 おん くろだのう うん じゃく そわか


 三度目のそれが耳に入った瞬間、麻衣はヒグラシの鳴き声と風鈴の音をきいた。
 思わず目をあけると すでに平屋はなくなっていた。そのかわり紫色を背景に電柱が列をなしていて 麻衣の数メートル横をバイクがいきおいよく駆けていった。
 気づくと麻衣はアスファルトの上にうつ伏せるように転んでいた。冷えた土とかわって 灰色の地面は太陽より吸収した熱をまだはらんでいた。
 アスファルトに麻衣の涙がぽたりと零れ落ち、その灰色を黒くそめていく。

 人通りの多いところからはすこし外れているが、渋谷は渋谷だ。歩行者用道路のど真ん中で倒れこんで涙している麻衣は大注目をあびていた。麻衣は恥ずかしそうに縮こまるが あいにくと身体はまともに動きそうになかった。腰も抜けているし、全身に力がまるで入らなかった。
 そんな麻衣の目の前に手が差し出される。指の長いキレイな手に一瞬みとれるが顔あげると 予想をうらぎらない面をした青年がいた。その体格のよい長身のおかげか、和風顔でありながら白いジャケットスタイルがひどく似合っている。長いしっぽのような髪を右肩に垂らしており、それが麻衣の目の前でふわりと揺れる。涼しげな目元はひどくやさしげで漂う白檀香にひどく懐かしさを覚え、麻衣は安堵のため息をついた。






 男に支えられるようにして 麻衣は渋谷のちいさな公園にある少し小汚いベンチに連れられた。男の声をきくとすぐ、麻衣はあの平屋の空間で耳にした声がその男のものだということに気付いた。あれがなんだったのかはよく分からないが 麻衣を助けたということははっきりとわかる。
 土下座する勢いでお礼を言い続ける麻衣を男は「気にしないでください」とその心地のよい声でさとした。
男は自らを九と名乗り、麻衣が心霊調査にかかわっているということをきくと、彼もソッチ系の関係者だとつげる。そしてケガをした足を軽く治療してもらいながら(九という男はなぜだか救急セットをつねに持ち歩いているという)麻衣は自分があったことを一から離した。

「あのう、九さん。結局あの平屋の空間っていったいなんだったんでしょう?」
「あの人ならざる者がなんなのかは分かりませんが、あの空間はアレがつくりだしたものに違いありません。その証拠に、アレが消滅したと同時に空間が消えたでしょう?」

 そういわれても麻衣はずっと目をつぶっていたので九がいったいあの化け物になにをしたのかは分からなかったが、幽霊退治をしたのであろうことは分かった。
こんな繁華街でなんでわざわざあたしを、麻衣の心の声を承知しているように九は苦笑した。治療はおわったようで、膝に貼ってある大きな絆創膏が目についた。いつの間にやっていたのか、土の詰まった爪までも綺麗にされていた。麻衣は少し気恥ずかしく感じながらも 表情までも涼しげな男の顔をみて礼をいった。


「逢魔刻というのを知っていますか?ほかには黄昏時ともいいますが」
「たそがれ、ってのはきいたことあるかも。夕方ってことですが?」
「そう、そんな感じ。太陽がおちて、空が赤から濃紺へとかわる時間帯のこと。この時間帯はちょっとアブナい時間で、魔物や幽霊が活発にうごきだし、人にちょっかいをだすんです。
おうまがどき。アウ、魔物のマ、トキと書いて逢魔刻です」

 子どもに説明するようなゆっくりとした易しい口調だ。手元の手帳に「逢魔刻」とずいぶんと達筆な字で書かれたそれを麻衣はじっくりと眺めて、九にならって発音した。

「そうです。運がワルいことに谷山さんはちょうどその時間帯に、アレに目を付けられてしまったんでしょう。もしかして、気分が落ち込んだりと感情がマイナスに向かっていませんでしたか」
「落ち込んだり……?」

 すこし考えて、麻衣は声をあげた。今日は午前中から書類ちらばり事件で落ち込んだり憤ったりしていた。

「身に覚えがあるようですね。それにしても、その神社というのがすこし気になりますね。谷山さんがみた名無しの神社はこのあたりに存在しませんし、僕があの空間に入ったときもそのようなものは見かけませんでした」
「うーん、なんだったんだろう。あまり、嫌な感じはしなかったんだけど」
「でしたら、魔に狙われた谷山さんを守ろうとしたのかもしれませんね。神社というのはバリアーのような役割も持っているんですよ。神聖な場所ですから魔は入ってこられないんです」
「え。そんな、まさか」

 苦笑した麻衣に九は「邪推ですが」と付け加えたがその顔は 自信があると主張していた。

「そろそろ、歩けますか?闇がふかくなるまえに、かえりましょう。事務所までおくります」

 そこまでしてもらうのはさすがに申し訳ないと麻衣は断ろうとしたが、桃色のアレが頭をよぎり、結局厚意に甘えることにした。

 事務所までは十分もかからなかった。それほど近いところにいながらもあの空間ではあんなに走っても一向にたどり着けなかったのだ。ぶるりと震えた麻衣に気づいたのか、九はふと麻衣の頭をその右手でなでた。左手は渋谷サイキックリサーチのドアを開けているところだったようだ。事務所の灯りがもれて、九と麻衣の重なり合った影をつくりだしていた。
 驚きに声を上げる前に、聞きなれない響きをもったことばが紡がれた。


 おん まりしえい そわか


「えっと、九さん?」
「これ以上変なものが谷山さんをストーカーしてこないように。お呪いです。
それでは、また会えましたら」

 九は麻衣の手に自分のそれを重ねる。手に重みをかんじた。あの空間からでた直後からすっかり忘れていた 今日の一日のすべてといえる、紅茶のはいったビニール袋だった。
 肩をおされなかば無理やり事務所の中にいれられると、九は背をむけ人ごみの中へと消えていった。
 頭をなでられ 長身をすこしおりまげ、その偏差値の高い顔をほころばせながらそんなことを言って、落ちないひとはいるんだろうかと、かすかに残る白壇香の匂いにさらに顔を赤くしながら麻衣は現実逃避をした。


 所長さまから「遅い」の一言をちょうだいするまであと十数秒前のことであった。





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