16告白+
目を開けると、似てはいるがいつもの部屋とは違う照明が天井に付いていた。
ふわりとわたしのものではない香りに包み込まれる。華やかなものではないけど、お香のような薬のような、日本では珍しいエキゾチックな香り。人に寄っては苦手かもしれないけど、わたしには魅惑的で酔ってしまいそうな。
この、香りは……。
『起きたようです』
ふと声が聞こえて。誰かが側にいるんだ、と声の方へ首を傾ける。
そして黄色い目と視線がぶつかって、体が凍った。
「っ……!!!」
悲鳴は声にならなかった。
大蛇が――ベッドに隠れて一部しか見えないけどこんな頭の大きい蛇は見たことない――鎌首をもたげ、こちらの様子を窺っていた。
蛇はわたしを覗き込むように頭を近づける。これが蛇睨みか、恐ろしくて動くことができない。
咬まれる、むしろ、た、食べられる……!
「目覚めたか」
ぴた、と蛇の動きが止まる。
驚いたことに蛇は『はい』と返事をして、するすると後ろに引いて行った。
緊張が解けて心臓がどくどくと早鐘を打っている。
恐る恐る蛇が引いていった先を見れば、ベッドの隣に置かれたソファに掛ける、あの人と目が合った。
彼は肘掛けに置いた腕を曲げ、手で頭を支えたポーズでこちらを見ている。その顔は、いつもよりも疲れているようだった。
「ヴォルデモート様、」
名前を呼ぶと彼は小さく溜め息を吐いた。呆れたような、安心したような、そんな様子で。
「具合はどうだ」
その問いかけに、わたしは倒れてたのか、と気付かされた。
身を起こして、体の様子を確かめる。特に異常はなさそうだ。姿くらましのせいで少し疲れが残っているようだが……。
姿くらまし。
はっとして記憶を辿っていく。
ドビーに交渉して……ポッターに会って、どこかに連れてかれて――どこだったか全く説明できない――なんとか戻ってこれたような……それで……。
ふ、と男の死体の映像が浮かぶ。
自らの銀の手で首を絞め、力尽きていたあの姿。とても苦しそうだった。
あのときの恐怖が蘇ってくる。
わたしが地下牢から去ったあと、何が起こったんだろう。ポッターはどうしたんだろう。あの男の人はどうして死んだの?上から聞こえた叫び声は何だったの?
内臓が掴まれたかのように苦しい。冷や汗が滲む。
「どうした?」
様子がおかしくなったことに気がついて、ヴォルデモートはソファから腰を上げ、わたしの肩を掴んで瞳を覗き込むようにして様子を確かめた。
恐らくだけど、他人の心や記憶を読むことができるのかもしれない。そういう場面が何度かあった。
暫くして、重々しく口を開く。
「他人の死は、恐れるのだな」
その声色は、何かに怒っているようだった。
「しもべ妖精よ、ナナシに飲むものを」
ヴォルデモートがパチリと指を鳴らして呟くと、暫くののち、しもべ妖精が姿現しをした。彼に深々と頭を下げ、わたしにホットレモネードを差し出す。沸き立つ湯気の先に見えるのはハンスだ。
無事だったんだと胸を撫で下ろすも、その両耳に痛々しく包帯が巻かれていることに気がつく。体を起こしてマグカップを受け取りながらも、そちらから目が離せない。
「ありがとうございます。ハンス、耳……」
「こ、これは……」
大きな瞳が上下左右に泳ぐ。
「罰なのです……。ナナシ様を危険な目に合わせてしまった……報いなのです!!」
ハンスは悔やむように耳をぎゅうっと抓った。そこからじわじわと包帯に血が染み込んでいく。
「やめて、」
止めようと手を伸ばせば、側に立っていたヴォルデモートにその腕を掴まれ、わたしは驚いて顔を上げた。
「貴様がナナシの世話係か」
「……さ、左様でございます……」
赤い瞳が冷たく細められる。
「そんなものでは足りぬ。死をもって償え」
部屋に、緊張が走った。
するりと。大蛇が行く手を封じるように長い体でハンスの周りを囲む。
ヴォルデモートはハンスへと真っ直ぐに杖を向けた。ハンスの大きな瞳が恐怖で見開かれる。
わたしのせいで、ころされてしまう。
「ッ……待ってください!」
反射的に体が動いて、わたしはハンスを庇うようにヴォルデモートの前に立ちはだかっていた。
ゴトンと音を立ててマグカップが落ち、ホットレモネードが絨毯に染みていく。
初めて、立ち向かっている。
睨みつけられて脚が竦んだ。今、立っていられるのも不思議だった。
「ナナシ」
絶対零度の囁きで呼ばれ、背中が凍る。
「そこをどけ……」
なんとか首を横に降る。
ヴォルデモートは眉を寄せて苛立ちを露わにした。
「お前は自らが死ぬことの恐ろしさを知らない。他人の死に触れていくうちに、いかに死が恐ろしいかを知るだろう」
「もう……知っています」
「いいや、これっぽっちも理解していない……今も自分の命より、そいつの命を優先しているではないか」
「ナナシ様! ワタクシめが悪いのです! ワタクシめを庇うなど!」
後ろからハンスの涙声がキィキィと喚く。
「ハンスは何も悪くないよ。わたしが全部悪いの」
自分でも信じられないほど落ち着いた声色でそう伝えると、ハンスは何も言えなくなったらしく、啜り泣く音しか聞こえなくなった。
「お前が何と言おうと、そいつは死ぬのだ。さあ……最後だ。そこをどけ」
「……それならわたしも……」
知らない人が死んでいるだけでもあんなに恐ろしかったのに。
自分のせいでハンスが死んだらどんなに苦しいだろう。
考えただけでも心が張り裂けそうになる。
そんな目に合うくらいなら。
「わたしも死にます」
言い切ったと同時に、乾いた音が部屋に響き渡って。
ぐらりと視界が回って、気が付いたらわたしはベッドに倒れ込んでいた。頬にビリビリと衝撃が走っている。
「ナナシ様!!!」
暫く、何が起きたかわからなかった。口の中に血の味がして、頬をはたかれたのだと気づく。頭を上げれば、ヴォルデモートと目が合った。その表情はとても歪んでいた。
「ナギニ。そいつを牢に入れておけ」
『殺さないのですか?』
ヴォルデモートは返事をしなかった。
ナギニと呼ばれた大蛇は悟ったのか、尾でハンスの背をピシリと叩いて促し、部屋を後にした。
わたしは茫然とヴォルデモートを見つめ続ける。その歪んだ表情の理由がわからなかったのだ。怒っているのは勿論だけど、悲しんでいるようにも、困惑しているようにも見えて。
そんな訳ないと思いながらも、何故だか胸が締め付けられるように痛い。
彼は再び、ベッドの横のソファに腰掛ける。
「ポッターに会ったようだな」
沈黙は、ヴォルデモートによって破られた。
先程のやり取りは無かったかのようにその声は落ち着きを取り戻している。
首を縦に振ると、彼は言葉を紡いだ。
「どれだけ軽率な真似をしたか、わかっているのか? お前は記憶を失うところだったのだ」
衝撃が走った。
そんなことになっていたなんて微塵も思い出せなかった。
だからわたしは倒れて――まさか、彼がここに連れてきて……側に居てくれたのだろうか。
「ポッターに……聞きたくて……」
「お前如きに何ができる!!!」
わたしの言い訳に、彼は声を荒げる。
ずしん、と胸に鉛が沈むようだった。惨めで仕方がない。
ヴォルデモートの為にポッターから情報を得ようと必死だった。でも結果としてわたしは何も得ることはなく、記憶を失いかけて、きっと迷惑を掛けた。
きっと、失望された。
絶望がじわじわと体に巡っていくような感覚。頬の痛みがより一層強く感じられる。泣いてしまう方が楽だろうに、不思議と目は乾いていた。
「何故、死を恐れない……?」
絞り出すような問いかけ。
以前、同じ質問をされたことを思い出す。名前を聞かれた後だった。あのときは”何の為に生きてるかわからないから”と答えた。
今は違う。
「大切な人が死ぬ方が……怖いから……」
わたしの答えを聞いて、堰を切ったようにヴォルデモートの口から言葉が溢れた。
「勝手な奴め」
「周りが死ぬ方が怖いだと?自分が傷つくのが怖いだけだろう」
「ナナシ。お前がその様な理由で命を投げ出すのは、俺様への裏切りだ」
「お前は俺様のものだ。お前の意思で死ぬことも許さない。……俺様は、お前を……」
何かを言いかけて、彼は歯軋りをしながら俯く。
その姿から目が離せなかった。責められているのに、彼を愛しいと思う気持ちが募っていく。
「ヴォルデモート様……」
どうしても続きが気になって、わたしは彼の名を呼んだ。
長く、浅い、溜め息が聞こえる。
迷い、躊躇っているようだった。
暫くして彼はか細い声で、わたしの名を呟いた。
「ナナシ」
「……お前を……、失いたくない……」
言葉がそのまま心臓に落ちていく。
そのまま絶望を溶かして、温かい血が巡り始めたような感覚に包まれた。
死の恐ろしさを教えようとしたのは、わたしを失いたくないから……?
彼は、わたしが死ぬのが怖い……?
居ても立ってもいられなくなって、ソファに座るヴォルデモートに近付いた。彼は俯き続ける。更に寄り添っても振り払われなかったので、わたしはそっと彼の膝に跨った。少し驚いたのか、彼はやっと顔を上げる。
一瞬躊躇して、でもどうしても抑えられなくなって。
わたしはヴォルデモートに口付けた。
彼の唇が戸惑うように動いたので、そっと離す。
けれど溢れる感情が止まらなくて、わたしはもう1度口付けた。
ヴォルデモートは動かずに受け入れるだけで一向に深める気配がないので、たどたどしくも彼の唇に舌を這わす。
「やめろ……」
彼の手がわたしの行為を阻むように肩を掴んだ。
「今は……加減ができない」
その手が震えているのに、気が付く。
きっと愛が怖いんだ。
今まで理解できなかったものを、拒み続けてきたものを受け入れることができないんだ。
でもとっくの昔に、それでもいいとわたしは決めている。
「あなたになら、どんな風にされてもいい……」
また自分を軽んじるようなことを言ってしまった。でも本心だ。
「あなたには要らないものかもしれない。けど、わたしは……あなたを愛してます」
ついに。
わたしはヴォルデモートへの愛を言葉にして伝えた。
赤い瞳が揺れている。綺麗だと思った。
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