ふれあう冷たさを知らない/鏡花

私は駄目な人間なんです。それがなまえの口癖だった。私はそうは思わない。なまえは確かにちょっと天然な所があるけれど、手先が器用で要領も良く、おまけに優しくて料理上手。非の打ち所のない人。だから、彼女が何故そんなにも自分を卑下するのか、分からなかった。私は駄目な人間なんです。なまえがそう云う度、そんな事はないと首を振る。すると、彼女は困った様に笑んで、私の頭をひと撫でする。とても優しい手つきで、けれども、何処か拒絶を含んでいた。彼女には彼女の過去がある。私に私の過去があるように。決して踏み込む事は許されず、易々と暴いて良いものでもない。分かっている。明るく誰にでも優しい、柔らかな笑顔を浮かべるなまえにも、人に知られたくない過去があってもおかしくはないのだ。今と過去、密接に結び付いてはいるけれど、だからといって、現在の姿がそのまま昔に繋がるわけではない。
私がなまえについて知っている事は、異能を持っていない事と事務員である事、それから谷崎兄妹の後輩に当たるという事だけ。住所も家族構成も、何も知らない。それはそれで構わないのだ。まだ出会って日も浅いし、他の社員の事だってそんなに詳しいわけじゃない。大抵の人が寮で生活しているから住所だけは分かるけれど、休日に何をしているかだって知らないし、家族構成なんて論外だ。だというのに、こんなにも胸がざわつくのは何故だろう。

「鏡花ちゃん」

柔らかな声が自分の名を紡ぎ、寸の間心臓が飛び跳ねた。パソコンに向けていた顔を上げ、なまえを見遣る。動揺を悟られぬよう首を傾げてみせれば、彼女は困ったように笑った。

「太宰さん知らない?」
「知らない」
「そう……また入水かなあ」

時計を見上げ、手に持った書類に目を落とし、次いで小さく溜め息を吐いた。彼が社内にいない事は日常茶飯事で、大抵はそこら辺の川を流れている。時々喫茶処で給仕の人をーー心中のお誘いだけれどーー口説いていたりもする。それに一々目くじらを立てていてはやっていけない。だから、一人を除き放置しているような状態だった。
ちょっと探しに行ってくるね。そう云ってなまえが踵を返そうとしたから、待ってと声を掛けた。きょとんとしたなまえは、普段より幾分か幼く見えた。

「一緒に探す」
「え、でも、お仕事あるでしょう?サボったら国木田さんに怒られちゃう……」
「平気」

横目で資料室の方を見る。少し前にそこに入っていった国木田さんが戻ってくる気配はない。今、社内には国木田さんと私、そしてなまえだけだから、暫くは抜け出しても気付かれないだろう。それに、そこまで怒られはしないだろうという自信があった。太宰さんをちゃんと連れて帰る事が出来れば。
青い光を放つパソコンをスリープモードにして、閉じる。作成中だった書類も、丁度一段落したところだった。立ち上がって駆け寄る。困惑気味のなまえの手を取って、そっと扉を開いた。行こう。私の言葉にはっとしたように足を動かしたなまえが階段を踏んだところで、扉を静かに閉めた。とんとんとんとん。軽やかに階段を下りて行く。なまえは昇降機を滅多に使わない。以前、他に使う人がいるかもしれないでしょうと云っていた。私は健康なんだから譲らなきゃ、とも。確かに使用者はいるかもしれない。だけれど、其の人だって健康体かもしれないし、なまえだけが我慢する事はないと思う。思うけれど、云いはしなかった。彼女はそういう人なのだ。気遣いの出来る人。気遣いをしすぎて、自分に負担を掛けてしまう人。優しい人。
階段を下りきり、正面玄関を押し開ける。途端に侵入してくる太陽光。廊下の薄暗さも相俟って、常より眩しく感じた。ぎゅっと瞼を閉じる。そんな私の耳に、くすりと笑い声が届いた。

「鏡花ちゃんって意外と強引だね」
「嫌だった?」

瞬間、嫌われたかもしれないという不安に支配された。握ったままの手に自然と力が籠る。なまえに嫌われてしまうのが怖かった。お願い、嫌わないで。何故こんなにも怖くなるのか自分でもよく分からない。ただ、彼女に嫌われる事は、私の人生を大きく左右する気がした。そんな私の手を柔く握り返し、なまえは微笑んだ。温かい笑みだった。

「ううん。ありがとう」

陽の光に照らされた彼女は、何より綺麗だった。
今度はなまえが私の手を引く。汚れを知らない白魚の如き手は、ふんわりと柔らかい。私の手には豆がある。そしてなんとなく硬い。人の命を奪う為の道具を使っていた名残りだった。
街中へと繰り出した私達は、宛てもなく彷徨い歩いた。初めは川沿いを、流れている様子はないので次は喫茶処、それでも見付からず雑踏に紛れて歩き回っている。会話はないけれど、不思議と息苦しさは感じなかった。どころか、ふわふわとして暖かい。決して気温のせいだけではない。なまえの優しさが、繋いだ手から伝わってくるからだった。こんな時、ふと、なまえと私が実の姉妹だったら、なんて下らない妄想が降ってくる。周りから見ればきっと私達は姉妹に見える事だろう。だから、それが現実のものになってしまえばいいのに、と。一人っ子が嫌なわけではない。確かに留守番する時などは寂しいと感じる事もあったが、その分両親の愛情を独り占め出来た。不満などない。けれども、そう、私はなまえを独占したいだけなのだった。私が男であれば、年齢差はあれどお付き合いという形で可能だったかもしれない。しかし同性である以上それは不可能に近い。だったら、血の繋がりがあれば。そんな思考が巡る。
私達が辿り着いたのは、何時かの公園だった。変わらず小さなかわいらしい花が咲き、彼方此方で鳩が暢気に歩いていた。私の視線は自然と一台の車へ向かう。クレープの移動販売。彼処のクレープは本当に美味しかった。きょろきょろと辺りを見回しているなまえを見上げる。すると、私の視線に気が付いたらしいなまえが、どうしたの?と小首を傾けた。あれ、と指差した先にクレープ屋を見付け、なまえがふふと笑った。

「食べる?」
「うん」

なまえは猪口冷糖、私は迷いに迷った末、苺の乗った生クリームたっぷりのものを。長椅子に腰掛け、そっと食べ進める。美味しいね。うん。クレープを頬張るなまえは、とても幸せそうだった。甘いものが好きなのかもしれない。そういえばよく乱歩さんにお菓子を持ってきていたなと、甘党な名探偵を脳裏に浮かべた。
ふわふわとした時間だった。なまえといると何時もそうだった。ふわふわ、ふわふわ。クレープの甘さもそうだけれど、きっと、なまえの纏う雰囲気が。優しく柔らかく、包み込むようで、人を安心させる。
私より先に食べ終わったなまえが、ティッシュで手と口周りを丁寧に拭いた。

「ねえ鏡花ちゃん」

優しい声に名前を呼ばれる度、私の心臓がどきりと跳ねるのを彼女は知らないだろう。

「私ね、本当に駄目なんだ」

柔らかいのに、優しいのに、温かいのに。常にないほど、悲しげな声音だった。クレープを食べるのをやめ、じっと顔を見つめる。憂いを帯びた横顔だった。

「おかあさんの期待に応えられない、駄目な子なんだ」
「お母さん?」

鸚鵡返しすれば、なまえはうんとひとつ頷いた。

「でも、でもね。皆といると、こんな駄目な私でも、誰かの役に立てるんじゃないかって思えるの。生きててもいいかなあって」

そう云ったなまえは、頼りない迷子に見えた。
私はなまえの過去を知らない。現在だってそんなに知らない。住所も、家族構成も、何も。けれど、それでもいいのだと思う。私に暗い過去があるように、彼女にも辛い過去がある。それは当然の事で、無理に知る必要はないし、土足で踏み入れようとも思わない。ただ、こうして隣に座ってクレープを食べたり、手を繋いで歩いたり。そんな事をこの先もしていけたら、充分過ぎるほどに幸せだった。そして時折、ぽつりぽつりと、語りたくなった時に語ってくれれば、それでいい。

「なまえ」

此方を向いた彼女の目に、もう翳りは見えない。普段通りの、柔らかく優しく温かい光を宿している。

「また、散歩しよう」
「うん」

次は太宰さんを探す為ではなく、純粋に、なまえとヨコハマの街を巡ろう。美味しい喫茶処で食事を摂って、遊園地で遊んで、何かお揃いの物を買おう。彼女が哀しみに沈んでしまわぬように。彼女が冷え切った過去に囚われてしまわぬように。
なまえには、氷の冷たさなんて似合わないのだから。


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