とろける魔法は夢の底/ドストエフスキー

※貴族パロ





今年は作物の育ちが悪いらしい。そんな話を風の噂で聞いた。父は平民の生活や実態を教えたくはないようだが、そういった事というのは、意識せずとも案外耳に入ってくるものだ。身の回りの世話をする下女達は平民の出がほとんどであるし、彼女達は元来お喋りな質なのだから。聞き耳を立てれば、ほら、多種多様な噂話が聞こえてくる。どこぞの姫に片想いを募らせている従者がいるだとか、どこそこの侍女は館の主人と密通しているだとか。恋愛に関するものの多さには目を見張るものがあるけれども、同時に、情報量の多さや正確さ、迅速さは侮れない。一体どこから仕入れてくるのやら。湯気の立ち上るカップを手に、首を傾げてみせた。
今日も雲一つない晴天で、突き刺す日光が眩しい。最後に雨が降ったのは果たしていつだったか。思い出せないほど降雨は少ない。私としては、雨の日はどうにも頭が痛くなってかなわないから、今の天候の方が喜ばしいのだけど。しかし、民衆はそうではないらしい。

「どこぞの領主が襲われたそうね」

私の言葉に、従者はぴたりと動きを止めた。どこでそれを?と訊ねる声は優しい。

「噂話」
「なるほど……全く、下女たちの口の軽さにはほとほと呆れてしまいます」

秀麗な顔を苦笑で歪ませて、彼は言う。それが私の父に対する建前であるということを、私は知っていた。彼は常々、情報がいかに重要で強力な武器であるのかを私に教えていたから、たとえどんなに些細な、噂に過ぎない情報でも、私が耳に入れていると、お気に入りのカップにとびきりの紅茶を注いでくれる。私はその瞬間を大層気に入っていた。今もまた、彼の持つティーポットから紅色をした紅茶がカップに注がれる。
小皿に盛られたクッキーは、さくさくとしていて甘すぎず、私の好みがそのまま具現化したような心地になる。まあ、私の好みなど、料理長には全て把握されているのだろうけれど。それでもやはり、この上質なクッキーと紅茶の組み合わせは、間違いなく最高峰。毎食これでもいいのに、なんて呟いてしまった日には、軽く説教されてしまった。冗談に決まっているのに。

「ねえフェージャ、領主が襲われたのって、やっぱり、作物の育ちが悪いからなのかしら」

ついこの間耳にした噂と、今回の噂を繋ぎ合わせてみる。彼は、大正解です、と笑んだ。しかし、何故作物の育ちの悪さと領主を襲うことが繋がるのかは分からない。小首を傾げていれば、彼の形の良い唇が言葉を紡ぎ出した。

「そこの領主が、平民のなけなしの食料を奪ってしまったからですよ」
「ふうん……」

なるほど。つまり、飢えのせいという事。

「……パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」

思ったままに呟けば、彼は驚いたように目を丸くした。言うようになりましたね、と。それが決して褒め言葉ではない事を、私は分かっていた。





各地で立て続けに反乱が起こっている。その情報を届けたのは、下女達ではなくフェージャだった。この間のような、唯領主を襲うだけでなく、館を取り囲み金品や食料を全て奪い、最後には火を付け燃やし尽くす。捕えられた領主やその家族は、今は牢に入れられているようだが、何れは処刑されるだろうと言う。反乱を起こした者達は、自らを革命軍と名乗っているらしい。革命である以上、これまで圧政を敷いていた貴族達を生かしてはおかない筈だ、というのが彼の見解だった。
私は実感が湧かず、興味なさげにふうんとだけ返した。反乱は徐々に首都へと近付いているという話であるから、王城が、そしてこの館が、取り囲まれるのも時間の問題なのだろう。それでも、現実味が全くと言っていいほどなかった。平民の話はよく聞くが、しかしだからと言って理解し同調出来るわけではない。何故なら私は、生まれも育ちも、どこまでも貴族の娘なのだから。三つ子の魂百まで。雀百まで踊り忘れず。幼い頃から培われた価値観を覆す事は、容易ではない。分かったふりをしても、心の底では首を傾げているのが私だ。

「父上様は、その件で召集を掛けられたそうで」
「ええ、知ってる。今朝方、王城に向かわれたわ」

道中、襲われないといいけれど。ぽつりと零した冗談半分の呟きに、彼は苦い顔をした。その表情に、失言をしたと悟る。縁起でもない事。冗談でも言うべきではなかった。そして、それは現実のものとなってしまった。
訃報を届けたのもまた、フェージャだった。父は帰り道、革命軍を名乗る武装した集団に襲われ、護衛兵の奮闘も空しく命を散らしたという。私は只、そう、とだけ言って黙った。涙は出なかった。心にぽっかりと穴が開いたような気がしたが、目に見えるものではないから、気のせいかもしれない。
母は私を産んですぐ亡くなってしまったらしいから、実質この館の主人は私という事になる。しかしそれもほんの僅かな期間だろう。革命軍の勢いは、衰えを知らない。王朝の崩壊も秒読みだった。いや、もう既に崩壊していると言ってもいい。だから私は、館の使用人達を全て解雇し追い出した。彼らは皆平民出身であるのだから、犠牲者となる必要は無い。だと言うのに、目の前の彼は、未だに私のお気に入りのカップに紅茶を注いでいる。

「出ていくよう言った筈よ」
「ええ。ですから、出て行った後、戻って参りました」
「クビという意味なのだけれど」
「承知しております」

彼は穏やかに微笑んで、どうぞ、とクッキーの盛り付けられた皿を置いた。呆れて物も言えない私は、溜め息を吐いて、クッキーを一つ齧った。料理長の作った物とは違うけれど、間違いなく絶品だった。どうやら彼は料理の腕も一級だったらしい。一体どれほどの才能を持っているのやら。こんな所で散らすには惜しいと思うのに、傍にいてくれる事が嬉しいと思ってしまった私は、最後まで、貴族らしい我が儘な本性を変えられないのだろう。
館の中はがらんとしていた。当然だ、今この館には、私と彼の二人しかいないのだから。火を灯した蝋燭を、そっと倒す。瞬く間に広がる炎は、やがて館を焼き尽くすだろう。外から喧騒が聞こえてくる。彼らが中に押し入って来る前に、命を絶つつもりだった。煙の充満する部屋は、些か息苦しい。

「……今ならまだ、逃げる事は可能ですよ」

背後に控えていた彼は、感情の読めない声音で囁く。私は首を振って拒否を示した。

「何を今更」

革命の波はもう止まらないだろう。その先に待っているのが栄光であろうと破滅であろうと、そこに私は、私達は、いらないのだ。旧体制は、根こそぎ壊してしまえばいい。

「けれど、そうね……もし生まれ変わるなら、また貴方と出会いたい」
「私もです」

差し出された小瓶に口を付け、一気に飲み干す。甘ったる過ぎて吐き気がするほど不味かった。彼もまた飲み干し、私を抱き締めた。

「……なまえ」

彼は初めて私の名を呼んだ。私の体を包み込む温もりも、名を呼ぶ声も、最初で最後のものだ。頭がふわふわとするのは、何も飲み込んだ毒のせいだけではないだろう。こんなにも心地よく死ねるのなら、一人ぼっちでない最後を迎えられるのなら、きっとこれ以上の幸せはないのだ。
意識が底に沈む直前、館に雪崩込む民衆の叫声が聞こえた気がした。


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