錆びていく星座/芥川

コツリと響く足音は、冷ややかさを纏っていた。彼は身震いしそうなほどに暗い瞳と同様の雰囲気を持っている。それは彼の全身を巡り指先にまで行き渡って、だから足音ひとつとってもそこには残酷なまでの冷たさが存在している。

「君、なまえのことが好きでしょう」

振り向くことなく告げられた言葉に、一瞬足が止まりかける。決して唐突ではなかった。自分自身、分かり易いことは承知していた。その上、聡明なこの人が、気付かぬ筈もないのだ。何れは聞かれるだろうと思っていた。だというのに、これほどまでに心臓が脈打つのは、予想以上に彼の声が恐ろしかったからだ。それは喩えるならば、地の底から響いてくるような、そんな声音。
コツリコツリと響き続ける足音は、僕の返答を待たず長い廊下の先へ進んでいく。追いつくために早めた足は、みっともなく震えていた。

「君が誰に惚れようと勝手だけれどね」

漸く出口に辿り着き、眩しい光の下へ出て、急激な明るさの変化に目を細めた僕をちらりとも見ず、彼は再び口を開いた。

「なまえは私の妹だよ」

その言葉が意味するところは、普通に受け取るのであれば、単純に"妹に手を出すな"ということなのだろうが、彼が普通ではないことは誰もが知っていた。彼は実の妹を1人の女性として愛しているのだ。つまり、それは恋敵に対する忠告。

「……承知しております」

そう答えるより他なかった僕は、しかし彼の人の狂気さえ呑み込んでしまえるほどにこの想いが成長する予感をひしひしと感じていた。





彼女はマフィアに属してはいたが荒事に携わることはほぼない、所謂事務員であった。異能力を持っているとの噂もあるが、真偽のほどは分からない。それは、太宰さんの異常なまでの執着と、およそ妹に向けるべきではない感情が、彼女を覆い隠してしまうからだった。彼女の詳細な個人情報は、太宰さんと、首領と、もしかしたら幹部の方は知っているかもしれない。謎に包まれた存在ではあるが、僕にとってはどうでもいい些末な事だった。ただほんの少しのお喋りと、頭を撫でる優しい手つき、その際に感じる仄かな温もりさえあれば。

「芥川くん」

彼女は自身の兄と同じように、僕をそう呼んだ。鈴のようなそれは、いつだって僕の背筋を震わせた。紛れもない歓喜と、僅かばかりの興奮によって。
白魚の如き手に招かれるまま、彼女の隣に腰掛ける。ふわりと香った甘い匂いは、彼女の持つバスケットに入っているマフィンからだった。一つ取った彼女の手は、自身の口ではなく僕の口へとそれを押し付けた。戸惑いつつも一口齧れば、口内に広がる甘み。美味しい、溢れた呟きに満足したのか、彼女の手は僕の口許から離れていき、そのまま、齧りかけのマフィンは彼女の口の中へ消えていった。思わずあ、と呟けば、こてりと小首を傾げられる。あまりにも自然な動作で行われた、間接キスだった。鮮やかと言い換えてもいい。恐ろしいことに、それは全て無意識なのだった。彼女は僕を異性として見てはいないのだ。"兄の部下"という認識から、"弟のような存在"に昇格したのもつい最近で、だから異性として見られるにはまだ相当な時間が掛かるだろうことは想像に難くない。だが、欲に塗れた僕は、一刻も早くそういう対象として見られたかった。

「なまえ、さん……」

それは間接キスですよ、と。告げようとした僕を遮ったのは、彼女を愛してやまない彼女の兄だった。

「やあなまえ。こんな所でどうしたんだい」
「お兄さま……マフィンを作ったから、芥川くんと一緒に食べていたところなの」

それは数秒にも満たない僅かな時間だったが、太宰さんはたしかに僕に殺気を向けていた。彼女の作ったマフィンさえ、他者の口に入ることが気に食わないのだ、彼は。

「私にもくれないかい。それと、少し話があるのだけれど、いいかな」
「ええ、勿論」

太宰さんの愛は異常ではあったが、決して彼女を傷つけることだけはなかった。たとえ周りの人間をどれだけ損なおうとも、彼女だけは、決して。

「ごめんね、芥川くん。じゃあ、また今度」
「はい」

優しく笑い掛けた彼女は、その笑みのまま太宰さんに顔を向けた。途端、僕を射殺さんばかりに睨んでいた太宰さんが、頬を緩ませ微笑みを浮かべた。
去っていく二人の背を見つめながら、彼女の無垢さについて思う。あんなにも狂気的な愛を注がれているのに、一切気付いていないのは、太宰さんが隠すことに長けているからというのもあるだろうが、彼女が純真無垢すぎるというのも要因だろう。それこそ太宰さんの過保護が原因なのだろうとは、簡単に予想できた。彼女は謎に包まれてこそいたが、一度接すれば誰からも好かれる存在だった。人を虜にしてやまない。そんな彼女を放っておけない気持ちも分からなくもないが、太宰さんの場合、彼女の傍に長く居すぎたことで毒され、ああなってしまったのではないだろうか。薬も過ぎれば毒となる。彼女の微笑みは心に溜まった澱みを浄化させるが、同時に心のどこか大切な部分が致命的に壊れてしまう。太宰さんのように。
深夜、道を歩く彼女を見つけたのは、まさに偶然の産物だった。ふらふらと覚束無い足取りで、酔っているのかと思った。女性が1人で出歩くには危険すぎる、酔っているのなら尚更。慌てて駆け寄った僕は、声を掛けようと口を開いた。だが、肝心の声が出なかった。喉の奥に引っ掛かったまま、二酸化炭素だけが排出されていく。あまりにも、それは目に毒だった。彼女は涙を流していたのだ。白い頬を、透明な雫が伝って、滴り落ちる。満月に照らされた彼女の顔は、薬になどなりはしない、ただただ見た者の心を甘い毒で満たし、壊していく。

「……なまえさん、」

ゆっくりとした動作でこちらを向いた彼女は、僕の存在に初めから気付いていたかのように、優しく、微笑んだ。

「芥川くん」

それ以上、僕も彼女も、何も言わなかった。言葉もなく、目と目を合わせていた。僕は彼女が泣いている理由を知らない。知る日はきっと来ないだろう。それでもいいと、思うのだ。僕の心もまた、大切な部分が、致命的に壊れてしまっていたのだ。否、彼女と出会った瞬間から、既に壊れていたのかもしれなかった。彼女に壊されるなら本望だと思ってしまうくらいには。
不意に、彼女は空を見上げた。星、呟く声に釣られるように、僕もまた空を見上げる。月がその存在を強く主張する中、ささやかな光を放つ星々が、空一面に広がっていた。月に隠されるようにしていたが、弱々しいとは思わなかった。

「きれい、ね」
「はい」

月が綺麗ですね、という言葉は、彼女には似合わない。星こそ彼女を表す最適な言葉。誰かに照らされなくとも、自ら輝き続けられる。
思わず手を伸ばした。届く筈もないのに、零れ落ちてこないだろうかと。心だけでなく、この想いさえも錆び付いて壊れてしまう前に、彼女を手に入れられたらと。そんなこと、どれだけ望んでも叶いはしないというのに。


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