あなたが夜を呑み干す前に/L

「貴方はきっとわたしがいなくなっても泣かないしほんとは好きじゃない嫌いだって言っても傷付いたりしないだろうから、だから、さよなら」



目覚めると机に置き手紙があったLの話



何日かぶりの睡眠から意識が覚醒する。まだ薄暗い部屋だ。時計を見れば午前四時。眠りについたのは昨日の午後四時だったから、丸十二時間寝ていたことになる。最近では長い方だ。彼女と寝食を共にするようになってからは、世間一般で言うところのまともな生活習慣を営んでいたから。だがここ数日は久方の難事件に出会って、文字通り寝る間も惜しんでいた。それが解決したのが昨日の午後三時四十七分のこと。少しだけ彼女の温もりに触れて、すぐ寝付いてしまった。彼女は自室に戻ったのだろう。
閉じていたパソコンを開く。立ち上がるまでの時間、早速甘味を摂取しようと机に置かれたショートケーキに手を伸ばした。その時だった。私は机上の封筒に気が付いた。真っ白で、表にただ一言「Lへ」とだけ記された封筒。その丸っこい字には覚えがあった。というか、こんなことをするのは一人しかいない。なるほど、ならばケーキは彼女が置いたものか。
随分とかわいらしいことをする。微笑ましい気持ちになりながら、私はケーキを口に運ぶ。ふんわりと甘く優しい、確かに彼女の味だ。勿体なさを感じて一口だけでフォークを置く。もっとゆっくり、じっくり、味わって食べなければ。愛しい彼女の手作りならば。
あっという間に口の中で解けて溶けゆくスポンジを名残惜しく思う。この余韻が覚めぬうちにと封筒を開ける。封はしていなかった。彼女のことだ、もし封がしてあったなら私がハサミを使わず無理やりにこじ開けるだろうと思ったに違いない。それは間違いではない。わざわざハサミを取りに行こうなどとは思わない。が、それは他の者が書いたものならの話だ。彼女のくれた手紙、その封筒、大切に扱うに決まっている。
私は勿体ぶるかのようにゆったりとした動作で便箋を取り出す。封筒と同じく真っ白なそれが彼女の笑顔と重なって、なんだか眩しかった。
さてどんなことが書かれているのだろう。胸を躍らせながら、丁寧に三つ折りされた恋文を開く。

「は、……」

しかし、そこに書かれていた文章は、言葉は、決して愛の言葉などではなかった。
私としたことが、数秒思考が停止してしまっていた。未だ完全に覚醒していない脳が見間違いを起こしたのではないか、読み間違えたのではないかと、もう一度、一字一字じっくりと、噛み締めるように読む。だが、何度読み直しても声に出してみても、そこに書かれていたのは紛れもなく。
別れの、言葉だった。
私はふらりと崩れ落ちた。絨毯が敷いてあるとはいえ、床にぶつけた膝がじんじんと痛む。次いではらりと紙が手から零れ落ちる。あまりの衝撃で力が抜けてしまったのだ。が、そんなことは気にならないほど、脳内は混乱していたし焦燥を覚えていた。
彼女が、私の前から、消える、いなくなる、だって?冗談じゃない。私は初めて、彼女に対して抑えきれない怒りが込み上げた。
元来控えめな性格で自身を過小評価するきらいがある彼女だった。根が真面目ゆえだろう、些細な失敗でも自分を責めては苦しんでいたことは知っている。自分に価値を見い出せず悩んでいたことも知っている。しかし、それとこれとは話が別だ。いや、根底に横たわっているのは間違いない、が。
私の愛を見縊らないで頂きたい。
私がどれほど彼女を愛しているか。いなくなっても泣かない?嫌いと言われて傷付かない?そんなはずはない。そう、こうしてふつふつと湧き上がる怒りを言語化している間にも、いや、この手紙に書かれた言葉を理解してからずっと、私の眼からはぽたぽたと雫が流れ落ちているのだ。これを涙と呼ばずなんと呼ぶのか。
白状しよう、今のこれは強がりだ。親とはぐれた幼児のように情けなく泣き喚いてしまいそうになるのを、なんとか理性が押し留めている、その結果の怒り、そして言語化だった。
ああ、だが、こんなことをしている場合ではないな。目の前の現実に絶望し思考停止するのは愚か者のやることだ。為す術なくこのまま最愛を失うか、無様でもいいから足掻いて藻掻いてもう一度この腕の中に閉じ込めるか。ーー私はもちろん、後者だ。
手始めにワタリへ内線を掛ける。この朝方に非常識だということは私とて理解している。だが非常事態なのだ。私の彼女へ捧げる愛は、彼もよく分かっている筈だった。なれば、常から手足の如く動いてくれる彼が動かない筈はない。

「……どうしました」

数回のコール後、普段より掠れた声が応答する。

「朝早くにすまない」
「いえ」
「なまえがいなくなった」

沈黙。普段であれば何かしらの返事を寄越す彼が、黙ってしまった。寝起きということもあるかもしれない。告げられた現実を飲み込むのに時間が掛かっているのだろう。つまりは、それほどのこと。

「……朝の散歩、というわけではなさそうですね」
「ああ。置き手紙がありました。別れの手紙です。……しかし、私は彼女を手放すつもりなど毛頭ありません」

それ以上の言葉は必要なかった。



「見つけました」

肩を跳ねさせた彼女は、恐る恐るという風に振り向いた。目を大きく見開いて、その美しい瞳がうっかり零れ落ちてしまうのではないかと心配になってしまうほど。私が一歩近付くと、彼女は一歩下がった。

「どうして……」
「それはこちらのセリフです」

小鳥の囀りを思わせる声が震えている。ああ、目には涙だって溜めている。それさえかわいらしいと、ずっと眺めていたいと、そう思ってしまう私は異常だろうか。
彼女と私ではリーチの差が大きい。ずかずかと歩み寄ってしまえば、彼女を腕の中に閉じ込めるなど容易なことだった。柔く、簡単に折れてしまいそうに細い、その体。抱き締めて、この温もりに再び触れられたことに思わず涙が溢れそうになった。もうずっと当たり前に傍にあると信じてやまなかった。彼女が消えてしまうなどという考えは、片隅にすらなかった。だからこそ絶望は大きかった。
だがしかし、私は学習する。二度と味わわぬため、ならば彼女がいなくなってしまわぬよう、しかと捕らえて離さなければいいだけのこと。

「どうして私の前から消えようとしたのです」
「それは、」
「貴女がいなくなって、私が泣かないとでも?貴女に嫌いだと言われて、貴女に拒絶されて、私が傷付かないとでも?とんでもない。あの手紙を読んだ時の絶望感といったら……」
「……泣いた、の……?」
「泣きました」

信じられない、と言いたげな彼女。どうにか信じてもらえる術はないだろうか。ああ、そうだ、とズボンのポケットから取り出したのは私を絶望の底へと突き落とした置き手紙。ほら、と広げてみせる。ところどころ滲んでしまっている。私の涙のあと。

「ほんと、に、泣いたんだ……」

彼女は俯く。私は抱き締める。いつまでそうしていたか、不意に彼女がぽつりぽつりと語りだした。

「本当は……本当は、ちょっとした出来心だったの。この手紙を読んだら、どんな反応するかなって。ドッキリ、のつもりで。……だけど、書いていたら、あながち間違ってないなって、本当に、傷付くことも泣くことも、ないんだろうなって。そう、思ったら、私……」

貴方の傍にいることが、辛くなってしまった。
嗚呼。そんな考えに至らせてしまったのは、私の落ち度だ。昔から他人と接するのは苦手だったとか、誰かに恋をしあまつさえ溺れるほどの愛が芽生えるなど初めてのことなのだだとか、そんなことは言い訳にならないだろう。彼女はいなくならないと確信していた昨日までの私のように、私の愛に疑念を抱く余地など欠片も与えないようにしなければならない。いや、むしろ、今までが無意識に我慢していたのかもしれない。嫌われたくないという思いが、私のこの際限のない愛に歯止めを掛けていた。それで不安になるのなら。

「これからは、思う存分愛します。いえ、今までだってそうしてきたつもりでしたが、どうやら伝わっていなかったようなので」

手始めに、と口付けを贈る。啄むような軽いキス。何度も何度も、唇の柔らかさを味わうように。

「覚悟、して下さいね。そんな考えが過ぎる余裕もないほどに、たっぷりと愛して差し上げます。……こう見えて私、結構重いですよ」



prev back next
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -