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勇者は魔物を奪われる







 突然にして、その男はやって来た。


「あー、やっぱり。こんなところにいたのか、ジオスグラード」

「な…どうして………」

闇を全て集めたような真っ黒の髪に、ジオとは少し色の違う、血のように赤黒い瞳。
ジオはその男を、以前も見たことがあった。


「どうして、だとぉ? ひでぇじゃねぇか、ちょっと前までは一緒に行動してた仲だろ。なあ、ジオスグラード……いや、今は“ジオ”か?」


びく、と肩が勝手に震えた。近頃は全く呼ばれなくなった名称に、ざわざわと全身の血が蠢くのが分かった。


ああ…、ついにこの時が、来てしまった。

ジオは暗闇に呑まれながら、消え行く視界の中でそう思った。
聞こえるのは男の笑い声と夜の悲しい風の音だけで、他のどんな物音も、全く聞こえない。

ジオは憎いくらいに美しく男を照らす月夜を睨みながら、最後に頬を伝う涙の感覚を最後に、意識を失ったのだった。












「…あ…、あん…」


体を優しく這う手の感触に、耳に吹き掛けられる吐息。
際どいところばかりを触れる勇者の手に、ジオは夢うつつの中で甘く吐息を漏らした。勇者にしては珍しいくらいに焦らして、あまり性急ではない。普段の勇者は、ジオが少しでも美しく淫らな吐息を漏らすと途端に我慢できなくなって深い口付けをしてきたり、ジオの腫れ上がった陰部を獣のようにむしゃぶりつくものだ。そんな勇者を知っているからこそ、ジオはその手の触り方に違和感を覚えた。そして段々と意識が浮上していくにつれ、思考もクリアになっていく。その中で、勇者とは少し違う、鼻で笑うような音が聞こえた。


「…お前、普段もこんな風に人間を誘ってんのか? とんだ淫魔になっちまったもんだな、ジオスグラード」


「……っ!!」


低く色気のある声に、ジオは一気に目が覚めた。

激しく飛び起きると、そこにはジオを跨がるようにして覆い被さる、あの黒髪の男の姿があった。
男は驚いてこちらを睨み付けるジオにその整った顔をニヤリと歪めた。


「怒るなよ。ちょっと触っただけだろ?」


ニヤニヤと笑う男は、剥き出しのジオの体を、脇から腰にかけて再びする、と撫でた。ジオはハッとして、その手を激しく叩き落とす。


「触るな!」


激怒するジオに、男は方眉を上げて「ほぉ」と感心したような声をあげた。


「ちょっと見ねぇ間にエロい体になっちまってるもんだから、すっかり男に慣れたのかと思ったが…相変わらずプライドの高ぇワンちゃんだなァ」


その指先がピン、とジオのぷっくりと女のように隆起した乳首を弾くと、ジオがぴくん、と肩を揺らす。それはほとんど無意識で、ジオはハッと顔を赤くさせて息を呑んだ。その様子に、男は意地悪く笑う。


「…へえ、随分と感度イイじゃねぇか。勇者に殺されてすでに死んじまってると思ってたが、まさか飼われてその上慰みものになってたとはなァ? あの自尊心の塊だったフェンリルの王が、見る影もねぇな!」


ケタケタと笑う男に、ジオは憎らしいと言った様子で顔を歪める。


「…好きで飼われていたわけではない。それ以上この俺を馬鹿にすると、貴様を噛み殺すぞ…ヴラド」


「はあ〜、どーぞご勝手に? 人間に飼われてメスになっちまったワンちゃんにこの俺を殺れるっつーなら、ぜひ殺られてみてぇもんだなァ…ククッ、ハハハ!」


ヴラドと呼ばれた男は、ジオに睨まれてもものともせず軽快に笑った。その細められた赤黒い瞳を睨みながら、ジオはどこか遠くの方から意識が呼び戻されているような感覚に陥る。


(…ここに来たのも、何ヵ月ぶりだろうか…)


窓の外は、勇者の部屋にいた時に窓から見ていた景色と全く違う、深く暗い森が辺り一面を覆う世界に、暗く厚い雲に覆われた薄暗い空。
少し前まではこの世界が当たり前だったと言うのに、…なぜかジオにとっては、この薄暗さがおかしく思えてしまうのだ。


ジオは現在、石で出来た部屋で簡素な汚いベッドに横たわっていた。恐らく、この目の前でケラケラと笑っているヴラドという魔物が勇者の部屋から連れ出し、寝かせたのだろう。この部屋には見覚えがあった。


(魔王様に差し出される生け贄の、保管場所…)


魔王城にいた頃、痩せ細った人間の女がここへ連れられているところを、ジオも実際に目にしたことがあった。魔王に差し出す手前、せっかくの生け贄を弱らせてはいけないと簡素ではあるがベッドを設置したようだが、所詮喰われる生け贄のためだけに内装を整えるはずもなく、石造りの剥き出しの壁に酷く寝心地の悪いベッドが置いてあるだけで、お世辞にも快適な空間とは言えなかった。あの頃はこの部屋を見ても何も感じなかったが、勇者の部屋で暖かいベッドやソファで慣れてしまった以上、どうしても目についてしまう。


問題は、魔物のジオがどうしてこんな場所にいるかである。

しかし、ジオには大体の予想がついていた。
勇者に捕らわれ、勇者のそばにいたジオは、逃げることもせずにのうのうと人間たちと暮らしていた。そんなジオは勇者の居場所ももちろん知っているし、飼われていたとすると勇者が奪われたペットを取り返しに来るだろう。そして捕らえたジオからは、勇者について有力な情報を得られる。こんなにいい話はない。ジオは勇者のことを話し、用が済めば殺されるだろう。そんなことは、とっくに分かっていた。


「魔王様…」


ヴラドはとっくに部屋から消えていた。無反応になったジオをつまらなく思ったのか、扉を使うこともなく、さっさとその場から消えたのだ。

しかしジオはそんなヴラドを気にするわけでもなく、ぽつりと魔王の名を呼ぶ。


「……」


魔王の名を呼んだはずなのに、脳内に浮かぶのは、別の人物の顔。それはほんの少し前まで毎日見ていた、優しい笑顔の人間。毎日自分に愛を囁いてくれた、人間の男の顔。


「―――勇者……」


もう、会えないかもしれない。


初めから、見つかったら最後だと感じていた。

死んだことになっていれば、ジオは見つかることは少ないと思っていた。しかし、どこから情報を得たのか―――大方、城中で噂されていた『勇者が魔物を飼っている』件から跡を辿ってきたと思うのだが…まさかヴラドに見つかるとは、思いもしなかった。

ヴラドは軽薄そうに見えて、執念深い性質を持つ種の魔物だ。かつてはジオと同じ人型の高位上級魔物で、別の隊の隊長をしていた。今は…ジオが捕らえられて以降は、どうなっているのかよく知らない。しかし一人で行動に出るくらいには、魔王様からの信頼を得ているに違いなかった。


「勇者……ゆう、しゃ…」


暗くて、湿り気のある空気が、こんなに居心地が悪いなんて。

自分は一体、どれだけのあいだ人間の世界にいたのだろう。
どれだけの間、人間のそばにいたのだろう。


どれだけの間、勇者に愛されていたのだろう。


「……たすけて」
















「魔物がいない!?」


事件が起きたのは、夜が明ける直前のことだった。

勇者は任務を終えて魔物の住む部屋に戻ると、その部屋がいつもと違うことにすぐさま気が付いた。

そしてそこにいるはずの魔物が、忽然と姿を消していることに、一瞬で気が付いたのである。


「…やっぱり逃げ出したのか。窓が開いてやがる」


グレイグが苦虫を噛み潰したかのような顔で開け放たれた窓を見つめる。そこから吹き抜ける風は、冷たくカーテンを踊らせていた。


「―――いや、どうっすかね」


グレイグの声に反応したのは、同じく部屋で辺りを見渡すヘシオドスだ。
ヘシオドスはゆっくりと窓から鍵のかかっていない檻、散らかっていない床やインテリアを眺めると、ため息をついた。


「不自然なほどに、綺麗じゃないすか。確かに連れ去られたんなら、あの魔物ちゃんの性格上もう少し部屋は散らかるかもしんねーけど、自分から出て行ったと言ってもこんなに綺麗にして逃げるもんっすかね?」


「逃げるのにどうして散らかす必要があるんだよ。そもそも、元々あの魔物は捕らわれていたんだ。例え手枷や檻がなくとも、元々逃げ出す可能性は十分にあった。それが今日、たまたま逃げ出されたということだ」


グレイグは鼻で笑い、ソファに座る勇者に視線を寄越した。勇者は暗く沈んだ顔で、忽然と姿を消してしまった魔物を思い返すように窓の外を見つめる。


「…ジオ……」


勇者はゆっくりと立ち上がると、開かれた窓にそっと近付く。そして、そのすぐそばに設置された机を撫でた。そこは、ジオがいつも座って絵本を読んでいた場所だった。


「勇者様…大丈夫っすよ。ジオちゃんは帰ってきますって。きっと、散歩してるだけっす」


ヘシオドスが珍しく落ち込む勇者をなだめる言葉を並べる。その声音と表情は、本当に勇者を心配しているようだった。

グレイグはあまり口出しするのも良くはないと思っていたが、魔物が逃げ出した以上、危害が出る場合を考慮してすぐに部下に連絡をした。城下町に厳重警戒を言い渡し、人型で白髪の魔物、もしくは大型の獣を見たらすぐに連絡するよう伝えたのだ。


グレイグが呆然とする勇者の肩に手をかけようと腕を伸ばしたその時―――勇者が、グレイグの名を呼んだ。



「グレイグ騎士団長…これを見てくれ」


勇者の指先が、机の上に出来た丸い染みを指差す。
グレイグは眉を寄せながらそれを見ると、「これがどうした?」と勇者の顔を見た。

勇者は先程までの沈んだ顔はどこへやら、次の瞬間には強い意志で固められた表情で、言った。


「ジオの涙の痕だ……!」


勇者の言葉に、グレイグよりも感情共鳴の魔法が優れているヘシオドスがすぐさまその小さな染みに手をかざす。
すると、ヘシオドスが驚いたように俊敏な速さで手を引っ込めた。


「ジオちゃん……! 勇者様、これは……っ」


ヘシオドスの指先に未だに残る、ジオの悲しいほどの薄暗い感情。
誰かを想って泣いたジオが、何者かに連れ去られたのは一目瞭然だった。


「グレイグ騎士団長、ジオは逃げ出したのではない。何者かに連れ去られたんだ」


「な……なんだと!?」


グレイグは唖然として勇者を見つめ返す。しかし、勇者は唇を噛み締めると、焦ったように部屋から出ようとした。それを、ヘシオドスが止める。


「待てよっ勇者様! どこへ行くんだ!?」


「ジオを助けに行くんだよっ…!」









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