あた婚! | ナノ

訳せば「この程度の鍵なら簡単に開けられる」と言っているのだこの男は

「これからどうなさるおつもりですか、政宗様……?」
「Hum……そうだな。Hey 小十郎。音城至華那の身辺を至急調べろ」
「かしこまりました」

静かに部屋を後にした小十郎を見送ると、政宗は椅子に深く腰掛けた。小十郎は有能な部下だ。政宗がやれと言ったことは必ずすぐやり終える。数時間もすれば完璧な資料を自分の下へ持ってくるに違いない。

「……あの女には悪いが、逃がすわけにはいかねえんだよ」

政宗の静かな呟きが、暗い部屋の中に溶けていった。

***

本当は離婚したかった。バツイチになることも受け入れていた。酔った勢いで結婚しちゃいましたーなんて今は恥ずかしいだけの話でも、月日が経てば笑い話になるかもしれないじゃない。耐えることだってできたはずだ。でもあたしは伊達の社会的権力に屈してしまった。

仕事を失うことを恐れ、仮面夫婦を演じることに同意してしまったのだ。伊達のことなんて知ったことじゃないし、はっきり言ってしまえばどうでもいい。伊達の社会的立場なんて知ったことじゃない。あたしが勤めている会社が伊達グループの系列だってことすら知らなかったんだ。いや、これはいけないわね。知らなかったでは済まされないもの。大事なのは、全ては我が身欲しさ故であって、決して伊達のためなんかじゃないってことだ。

「そんなふうに頭を抱えて後悔するくらいなら、なんでさっき嫌だってはっきり言わなかったの?」
「うう………」

とりあえず遥奈と自室に戻った華那は、ベッドの上で頭を抱えて唸り声をあげ続けていた。政宗の前ではかっこよく夫婦ごっこを演じてみせると啖呵を切ったが、時間が経てばそのときの勢いは消えていき、それとは逆に後悔の波が押し寄せてきていたのだ。

政宗の申し出を断り仕事を失ったとしても、アルバイトをして生計を立てることだってできる。アルバイトをしながら再就職先を探すことだってできたはずなのだ。つまり政宗の脅しに屈する必要はなかったということである。そんなこと考えたらすぐにわかるはずなのに、何故あのときの自分は気づかなかったのだろう。まさかまだ酔っていたとでもいうのか。そんな考えが堂々巡りして、華那はすっかり落ち込んでいたのだった。

「……やっぱりよくない! こんなのよくない! 好きでもない人と結婚だなんて……やっぱりよくないよ」
「そう? 相手は世界をも相手にする企業の次期社長だよ。今も自分が経営している会社をいくつ持っているそうだから、既にそこの社長だし……考え方によっては玉の輿じゃない。会社のみんな言ってたよ。目指せ、玉の輿で寿退社ってね。実はこれが一番難しいことなんだから華那ってば凄いじゃない」
「……本当にそう思うのならその棒読みで喋るのやめてよね」

華那は少し涙目になりながら、恨みがましい視線を遥奈へと投げつけた。だが遥奈は読んでいる雑誌から目を離すことなく、涼しい顔でページを捲っていく。そんな彼女の冷たい態度が華那に更なる追い討ちをかけた。近くにあった枕を手に取るなり、寂しさを紛らわすかのようにぎゅっと力強く抱き締める。枕に顔を埋めたら目元あたりが薄っすらと濡れていた。

「……でも遥奈の言うとおり考え方一つかもしれない。所詮夫婦ごっこ、仮面夫婦よ。お互い他に好きな人がいても不思議じゃないわ。そうよ、政宗だってそう思っているからこそ夫婦でいろって言ったに違いないわ! アイツの顔、あの顔は相当女慣れしているとみた! 愛人の一人や二人いてもおかしくなーい!」

政宗は夫婦でいろと言ったが、それは戸籍上の話だ。何も一から十まで本当の夫婦でいろとは言っていない。他に好きな人ができようがお互いの知ったことではないのである。何故なら二人の間には恋愛感情がないからだ。華那と政宗の関係は言わば「契約夫婦」、一種の仕事のようなものである。そう考えると少しは元気がでてくるというものだ。

「うーん……それはないんじゃないかな」
「……人が折角前向きに考えようとしているときになんで邪魔するかな!?」

華那は口を尖らせながら、ジト目で遥奈を睨みつけた。遥奈は読んでいた雑誌から顔を離し、ようやく華那と向き合う形となる。

「政宗さんは華那が思っている以上に仕事には真面目に取り組んでいて、会社経営の才能もあるみたいなの。自分の利益となるならなんだってするでしょう。おそらく今一番注目されているやり手の企業家よ」
「それがどうかしたの? つかなんでそんなことを遥奈が知っているのよ?」
「政宗さんが華那と離婚したがらない理由は自分のためというより会社のため。酒に酔った勢いで次期社長が結婚し、離婚した。そんな噂が世間に広まれば、伊達グループの信用は落ち、あっという間に伊達グループの株価は下落すると思うわけ。会社としてはそれだけは避けたいことでしょ」
「そ、そうでしょうね……。次期社長としては避けたいことよね、うん」
「で、ここからが本題。会社の次期社長に愛人が発覚したら、マスコミは挙ってネタにするでしょうねー。そうなっちゃうと会社の信用に関わる問題に発展しちゃう。するとあら不思議、株価も下落の一途を辿りましたとさ」
「……つまり会社のためにあたしと離婚しなかった男が、外で愛人を作るわけがないって言いたいわけね」

政宗が華那と離婚を嫌がったのは会社のため。政宗もそう断言していたのだから、それは間違いない。大企業の次期社長が酒に酔った勢いで結婚し、離婚した。マスコミからすればこれほど面白い記事のネタはないだろう。面白がって記事にすることは目に見えている。

それだけは避けたいが故に政宗は好きでもない華那と結婚し続ける道を選んだのだ。全ては会社のため、後に続く社長という玉座を守らんがために。自分の利益のためならばそこまでするような男が、外に愛人を作るという真似をするとはどうも思えない。バレたときのリスクを考えるのなら、最初から作らないほうが利口である。

「じゃあ何、政宗はあたしと離婚するまで女を作らないつもり!? 言い換えればあたしも政宗と離婚するまで我慢しろってことォ!?」
「結婚してもう堂々と浮気宣言までしちゃう? そうだなァ、政宗さんも数年でいいとは言っていたけれど、今となってはそれすらも怪しいかもしれないよ。案外一生このままかも……」
「やーめーてー。一生アイツに縛られるなんて絶対に嫌だからね! あたしの目標は一日でも早く政宗と離婚することなんだからっ!」

政宗との離婚が成立すれば何もかも丸く収まる。いつか来るであろうその日まで耐えるしかない。それまで我慢だ我慢。と、華那は必死になって自分に言い聞かせていた。

「でも政宗さんって本当に凄い人だったんだね。あれは人の上に立つ器だよ。ほら、この雑誌」

そう言って遥奈から手渡されたのは、彼女がさっきまで読んでいたものである。表紙を見ただけでは何の雑誌かわからないが、ファッション雑誌や芸能雑誌ではないことだけは確かだ。華那は訝しげにペラペラと数ページ捲っていく。

「遥奈……これって経済誌?」
「そうそう。で、百二十六ページにある特集記事を読んでみて」
「百二十六ページ……百二十六ページ……って、ま、政宗ェ!?」

遥奈に言われたとおり百二十六ページの特集記事に目をやるなり、華那は素っ頓狂な声をあげた。そこにはなんとスーツ姿の政宗の写真が掲載されていたのである。誰かと対話しているかのようなその写真の隣には、細かな文字で政宗と記者のインタビューが掲載されていた。

「な、なになに……。今注目のイケメン若手企業家に聞く経営のノウハウ……何よこれ?」
「何って政宗さんのインタビュー記事。その記事を読むなり、政宗さんってかなりのやり手らしいの。現に政宗さんが会社経営に関わりだしてから、会社の成績が上がっているらしいよ。会社もいくつか任されているそうだし、おまけにこのルックスでしょ? 会社内部にファンもいるらしいよー」
「そうか、この記事を読んだから政宗のこと詳しかったんだ……」

確かに記事を読む分では、政宗は企業家として成功しているように見える。この外見も高じてか会社内外にファンができて、どういうわけか株価も上がった。どうやら政宗自身も「独身イケメン社長」ということを多少ならずとも売りにしているようである。

そして記事の最後のほうには、近々政宗が正式に伊達グループの社長になるようなことを仄めかすことが書かれていた。政宗の父親、つまり伊達グループの現社長が、引退するための準備を行っているらしい。

「確かにこんな大事な時期にこのスキャンダルはマズイ……よね」
「ま、諦めることね。あ、そろそろチェックアウトしなくちゃマズイんじゃない?」
「あー、そうよね。急いで帰り支度をしなくちゃ。ふふ、まあこれでしばらく政宗の顔を見なくていいとなれば、清々するってもんよ!」

結婚はしたが一緒に暮らすとは約束していないし、相手の住所も連絡先も知らされてはいない。こちらからコンタクトをとることはまず不可能だ。となると必然的に会うことはもうないということになる。少しの間だけでも政宗の顔を見なくて済む。それが今の華那にとって唯一の救いだったのだ―――が。

「……な、ななななな………!?」

自宅に着くなり、華那は身体をわなわなと震わせていた。目は開いたまま閉じることをせず、大きく開いた口は塞がらず開きっぱなしである。華那の自宅はどこにでもありそうな安い1LDKのアパートで、そこで彼女は一人暮らしをしていた。一人暮らしなので持ち物はそれほど多くはないが、充実な暮らしを送っていたのである。少なくとも、あのホテルに泊まる前日までは。

「な、なんでうちに何もないのよォォオオオ!?」

一人暮らしなので決して家具は多くはないが、これは異常だった。何もない。本当に何もないのである。それはまるで引越ししたての頃のように、物件を見に行った頃のように何一つ置かれていなかったのだ。家具を置かないだけでこれほど広く感じるのかなどというくだらない感想は頭の隅に追いやり、華那は何もない部屋で呆然と立ち尽くしていたのだった。

泥棒にでも入られたのか。しかし部屋には荒らされた形跡がない。というより何もない。荒らされた形跡すらわからないほど何もないのだ。まさか泥棒がこの家にある物を全て持って行ったとでも言うのか。しかしそんな真似をすれば近所の誰かが必ず気づくはずだ。

「そしてなんでアンタが他人の部屋の真ん中で、胡坐をかきながら偉そうに座っていらっしゃるのかしら? どういうことか説明してよね政宗!?」

何もない部屋の真ん中で政宗が胡坐をかいて暇そうにしていたのだから、次々と襲いくるありえない出来事に華那の頭の回路が切れかかっていた。訊きたいことは山ほどある。まず政宗が何故自分の家の住所を知っているのか。鍵をかけていた部屋にどうやって侵入したのか。部屋にあった家具をどうしたのか。そもそも何をしにここにやってきたのか。それこそ考え出したらきりがない。

「しかし随分と狭い部屋だな。よくこんな狭い部屋で暮らせるもんだ」
「そりゃあアンタみたいなお金持ちが住む家とじゃ月とスッポンでしょうね……。まさかそんな嫌味を言いにわざわざ来たわけじゃないわよね?」
「当たり前だ。……オレはアンタを迎えに来たんだよ、華那」
「迎えに? どこへ? 何のために?」
「決まってんだろ。これから一緒に暮らすんだよ、オレの家で。なんたってオレ達は夫婦だからな」
「い……一緒に住まなくちゃいけないのォ!?」

名義上だけの夫婦だけだと思っていた華那には、政宗の言葉はあまりに残酷だった。華那が政宗の家に住むことになれば、唯一の憩いの場が奪われたということである。おまけに家にあった家具は既に政宗の家に送られてしまったと言う。持ち物全てが政宗の手の中に収まってしまったわけである。

「こっちには色々と監視の目っつーモンがあるんだよ。結婚したっつっても一緒に住んでないんじゃ誰だって怪しむだろ? 完璧に演じてくれるのなら、協力してくれるよな?」
「うぐ……。そ、それは百歩譲っていいとして、なんであたしの家の住所を知っていて、どうやって侵入したわけ!? 事の次第によっては訴えるわよ!」
「忘れたのか。オレはアンタの雇い主だ。住所なんて小十郎に調べさせればすぐにわかるし、これくらいのsecurityなら簡単に破れる」

確かに雇い主なら住所を知ることくらい朝飯前だろう。だが後者の言葉は聞き捨てならない。訳せば「この程度の鍵なら簡単に開けられる」と言っているのだこの男は。

「つーわけでさっさと行くぜ。いつまでもこんな狭い場所にいられるか」
「え、ちょ、待ってよ……! ってうわ!?」

政宗は戸惑っている華那を横抱きにすると、何事もなかったように玄関へ向かって歩き出した。華那も必死になってジタバタ暴れてみるが、政宗は全く動じない。アパートの外には一台の高級車が駐車しており、それが政宗の車だと華那にもすぐわかった。遠目ではよくわからなかったが、近くに寄ればそれがどんな車種かすらわかる。初めてみる高級車に華那は目を丸くさせた。

「………フェラーリ599。ねえ、これって三千五百万以上しなかった……?」
「そうだったか? 金額はあんま気にしねえから覚えてねえな」
「この金持ちめ!」
「ガタガタ煩ェな。黙って乗れ!」
「仮にも奥さんなんだから乱暴に扱わないでよ!」

それこそまるで荷物のように、政宗は抱えていた華那を車の中へポイッと放り投げ、
無理やり押し込んでいく。その扱いに華那は頬を膨らませ、口を尖らせた

「……なんでこんなことになっちゃったのよー!?」
「だから煩ェっつってんだろうが!」

結局二人の口喧嘩は政宗の自宅に到着するまで続けられたのであった。

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