あた婚! | ナノ

いや……意外とオレのこと見てたんだなって思ってよ

ここ最近の政宗は特に忙しそうだった。夜遅くに帰宅し、朝早く出社する。定時に帰宅している華那とは違い、帰ってくる時間はいつもバラバラだ。おかげで何日も顔を合わせることがない。顔を合わせたところで何かあるというわけではないが、ここまで生活時間が合わないとなると、さすがに色々と心配してしまう。

なんせここ最近、政宗がちゃんとした食事を摂っている形跡がまるでなかったのだ。料理好き(と勝手に思うことした)の政宗が、料理をした形跡が見当たらないのである。その代わりに栄養ドリンクやゼリーといった物のゴミが、ゴミ箱からよく見られるようになっていた。

平日はともかく休日も仕事なのかしょっちゅう出かけている。前に政宗は休日に働くとバカをみると言っていた。休みはきっちりととると宣言したあの彼が、休みの日に仕事をする必要があるほど忙しいのかもしれない。

どうやら政宗は本気でこの会社の業績を立て直す気でいるようだ。睡眠時間を削って、ろくに食事も摂らず働き続けている。そんな様子が安易に想像できてしまう。せめてちゃんとした食事と睡眠をとってくれているのなら、華那も政宗の忙しさのことなんて気にも留めなかった。最近は一人で食事をしていると、嫌でも政宗のことを考えてしまうほどである。今晩もテレビを見ながら広い部屋で一人の食事をしているが、自分でもおかしいくらいテレビの内容が頭に入ってこない。いま食べている食事も味がしない。

「政宗の奴、今頃会社で一生懸命仕事してるのかなー……。当然だよね、なんたって政宗は社長だもんね」

全ての者の頂点に立つということは、全ての責任が伴うというものだ。政宗は雇い主、華那は雇われた者。華那は上の命令に従うだけでいいが、雇い主は雇った者達の生活を支える義務がある。そのプレッシャーは華那のような平社員には一生わからないだろう。政宗のミスが全ての社員の生活を脅かす。

故に政宗は常に最善の結果を残す必要があるのだ。失敗は決して許されない。政宗が頑張って経営を立て直そうとしているおかげで、華那達は生きるために必要なものを手に入れることができているのだ。

「……もしかしなくても、あたしは政宗に感謝しなくちゃいけないのかしら」

いつもの時間に帰宅して、ご飯を食べて、好きなことをして寝る。それだけの生活を繰り返している自分が急に情けなく思えてきた。政宗は食事も睡眠も、自分がしたいことも我慢して働いているのに、ここでこうして安穏と過ごしていてもいいのだろうか? なにか政宗にしてあげても、罰は当たらないのではないだろうか?

「………ご飯、作ってあげるくらいしても、いいよね?」

華那が政宗の家に強制的に越させられたとき、空腹だった自分に政宗はおにぎりを用意してくれた。一応は女とみなしてくれているようで、コンビニに行こうとしていた華那に夜道は危ないからと、わざわざおにぎりを作ってくれていたのだ。あのとき食べたおにぎりは本当に美味しかった。いまも思いだしただけでほっぺたが落ちそうになる。そういえばあのときの借りをまだ返していない。

「所詮あたしが作ったものだし、食べてくれない可能性は大だけど……」

それでも、忙しく働いている政宗のために何かしたいという気持ちは本当だ。このままの状態が続くと、いつ身体を壊してもおかしくない。深い意味なんてない。ただ借りを作りっぱなしは嫌なだけよ。意味もなく自分に言い訳をしつつ華那がキッチンへ向かったときだ。この時間には珍しく玄関のドアが開く音が聞こえたのである。政宗がこの時間に帰ってきたことは一度もない。一体どうしたのかと思いながら、華那はバタバタと慌ただしい足取りで玄関に向かう。

「政宗? 珍しいね、こんなに早く帰ってくるなんて……」

政宗の姿を見るなり、華那は言葉を失った。政宗の顔は誰の目から見てもわかるほど赤くなっていたのだ。息も少し荒い。見るからに立っているだけで精一杯という様子に、華那はかける言葉が見つからなかったのである。

「ちょ、ちょっと、政宗! アンタ一体どうしたのよ、フラフラじゃない。あ、まさか酔っ払ってる?」
「Ah? オレは大丈夫だ。今日は……疲れたからもう寝る」
「どこが大丈夫なのよ、ねえ……」

反射的に政宗の身体を支えようとした華那を、政宗は左手で鬱陶しげに払う。靴を脱ぎ、覚束ない足取りで自室に向かおうとするが―――駄目だった。華那に抱きつくように倒れ込んだ政宗を、華那は咄嗟に腕をまわして慌てて支えようとする。後ろに倒れそうになるのを、両足を踏ん張ってなんとか耐えた。政宗の背中に腕をまわしただけで、彼の体温がどれだけ熱いか瞬時にわかった。これは酔っ払っているのではない。十中八九熱がある。だからふらふらだったのだ。

「政宗? 政宗? あたしの声が聞こえてる? ねえってば!」

政宗は華那の肩に頭を乗せたままぴくりとも動かない。熱で意識が朦朧としているのかもしれない。

「……とりあえず、部屋に運ばなきゃ」

意識がない人間を運ぶのは一苦労だが、いまはそんなことを言っている場合ではない。ぐったりとした政宗の両脇に手をまわし、足を引きずりながらも必死に引っ張っていく。思えば政宗の自室に足を踏み入れたことは一度もない。勝手に部屋に入ることに多少抵抗があったが、華那は覚悟を決めて政宗の部屋の扉を開けた。

初めて入った政宗の部屋はとてもすっきりとしたものだった。広い部屋にはベッドとパソコンデスク、あとは見るからに難しそうな沢山の本が詰まった本棚だけ。この部屋には政宗の趣味が垣間見える物が何もない。この沢山の本だってきっと仕事に関するものばかりだ。この部屋でも仕事をしているのかもしれない。この男がいつ休んでいるのか不思議に思えてきた。

一先ず政宗をベッドに寝かすと(むかつくことにダブルベッドだった)、華那はバスルームに向かい洗面器に水をたっぷりと入れると、今度は自室に向かいタオルを用意した。再び政宗の部屋に戻り、洗面器にたっぷりと入った水にタオルを無造作に突っ込んだ。そしてそれを絞り、政宗の額に当ててやる。

「……やっぱりスーツのままじゃ苦しいよね。できることならパジャマに着がえさせてあげたいところなんだけど」

いくらなんでもそれには抵抗があった。一先ず上着を脱がし、シャツのボタンを上から二つ目まで外してやる。華那はウっと言葉を詰まらせながらも、今度はズボンに手をかけた。別にズボンを脱がすわけじゃない。ベルトを外してやるだけだ。だから恥ずかしがることはないのよ、華那! 何度も自分にそう言い聞かせ、華那は目を硬く閉じながらベルトを外していく。すると多少は楽になったのか、政宗の表情が少しだけ緩んだように見えた。それでも未だ息の荒い政宗を、何度もタオルを代えながら華那は心配げに見つめていた。

***

目を開けると、辺り一面真っ暗だった。時計が時を刻む音がやけに煩く感じるほど静かでもある。時計の針は夜中の一時を指している。政宗は気だるげに頭を動かし、置かれている家具の配置からここが自分の部屋だと認識した。一体どうやって部屋に戻ったのか思いだせない。おまけに額がやけに冷たい。額に手をやると、濡れタオルがベッドの上にずれ落ちた。本当に、何が起きたのだろう。と、静かにドアが開けられ、細い明かりが部屋に差し込んだ。首だけ動かし扉のほうを見ると、そこにいたのは両手で何かを持っている華那だった。

「政宗。よかった、目が覚めたのね」
「どういうことだ……なんでお前がオレの部屋にいやがる?」

華那はベッドの傍に腰を下ろすと、ベッドの上に落ちていた濡れタオルを拾うなり、傍に置いていた洗面器にそれを浸した。十分絞っって政宗の額に乗せてやる。濡れタオルの冷たさが火照った身体にはやけに気持ちいい。

「覚えてないの? 帰ってくるなり、あんた熱でぶっ倒れたのよ。で、今まであたしが看病してあげていたというわけ。少しは感謝しなさいよ」

そうだ。体調が優れなくて、いつもより早めに仕事を切り上げた。熱があるのかもしれない。そう思ったら余計に熱が上がったような気がして、なんとか家に帰りついたまではよいものを、そこからの記憶がない。

ああ、そこでオレはぶっ倒れたのか。この程度でぶっ倒れるとは思ってもなかった。

「ここ最近ちゃんとご飯食べてなかったし、寝てもなかったでしょ? 身体壊して当然じゃない。仕事も大切だけど、自分の身体は仕事以上に大切なの、わかってる?」
「……なんで華那がそんなこと知ってんだよ」

政宗が帰宅する頃には華那は既に眠っていたし、朝だって彼女が起きるよりも早く出社している。ここ何日も顔を合わせていなかったのに、どうして彼女は自分の健康状態を把握しているのだろう。すると彼女は苦笑しながら「ゴミ箱見ればわかるわよ」と言ってのけた。

ああ、成程。ゴミ箱を見れば栄養ドリンクの空き瓶が転がっていると嫌でもわかる。帰ってくるのが遅いくせに、彼女が起きる時間にいないのならちゃんと寝ていないこともすぐにわかることだ。なんら不思議なことじゃない。だが……一言でいえば意外だった。

「なに、その不思議そうな顔は?」
「いや……意外とオレのこと見てたんだなって思ってよ」

政宗は華那がどういう生活をしているか知らないし、知りたいとも思っていない。それはきっと彼女も同じだろう。でも、それでも。彼女は政宗を見ていた。自分の意志ではなかったのかもしれないが、それでも政宗より相手のことを理解していたことになる。

「あの会社を本気で立て直そうとしているんだなって思ったら、なんか情けない気持ちになっちゃったの。政宗は寝る時間を削って、ろくに食事も摂らないで、自分のしたいことを我慢して働いているのに、あたしは何もしていないから……」
「それがオレの……上に立つ者の責任だろうが。上に立つ者は下の者を食わしていかなくちゃならねえ。だから華那が気にすることはねえだろ?」
「でも………一応は、夫婦……なんだし。気にするなって言うほうが無理よ」

不本意とはいえ一緒に暮らしている以上、相手のことを考えるなというのは不可能だ。日常の些細な部分から嫌でも相手のことがわかってしまう。だからあたしはあたしで、できることをしたいと思ったの。いま政宗のために何ができるのか。色々と考えた結果、華那はこれが最善だという考えに至った。

「仕事面で関わることはできないから……いまは、これが一番かなって」
「………お粥?」

華那は小さな土鍋に入ったお粥を差し出した。まだ温かいのかほくほくと湯気がたっている。

「あたしが作ったものだから味はそんなに美味しくないと思うけど……でも、何か食べなくちゃ。あ、卵酒も作ったの。よかったら飲んで」

何ができるのか。眠っている政宗を見ながらずっと考えていた。仕事面は彼の秘書の小十郎がしっかりとサポートしてくれる。だから自分の出る幕はない。ならば、華那にできて小十郎にできないことは何か。

「あたしにできることといえば、政宗にちゃんとご飯を食べてって言うことだと思うんだ。だからまずはお粥を作ってみたんだけど……」

華那にしかできないこと。それは政宗の健康管理だ。仕事面でのサポートなら小十郎は完璧だ。だが仕事面以外のことになるとやはり難しい。きっと小十郎もここ最近政宗がろくに休んでいないことに気がついていたはずだ。何度も休むよう助言をしただろう。けれど政宗は適当な相槌でその場を濁し、自宅でも仕事をしていたに違いない。

「お粥なんて何年ぶりだろうな……。いや、もしかしたら十何年ぶりか?」

そう言って政宗はれんげでお粥をすくい、口に含んだ。てっきりいらないと言われるかもしれないと思っていただけに、文句の一つも言わずお粥を食べてくれたことに華那は驚いていた。いらないと言われたところで無理やり食べさそうと思い、あんなことやこんなこと、あらゆる手段を考えていたのが無駄になってしまった。

「…………えっと、味はどうかな?」

第一関門はクリアした。となると次の関門が待ちうけている。味だ。食べてもらうという問題をクリアしたら、次は味の判定が待っている。美味いか、不味いか。なまじ料理が得意な相手だと更に緊張する。華那は神妙な面持ちで政宗のジャッジを待っていた。

「……今なら余程の味じゃない限り、何食っても美味いって言う自信があるぜ」
「つまり何日もろくに食べてなかったから何を食べても美味しく感じるせいで、正確なジャッジができないって言いたいのね。なによ、食べられたってことは余程の味じゃなかったってわけでしょ。素直に美味しいって言えばいいものを……。あ、もしかしてそれは新手の美味しいっていう意味の表現だったりする?」
「………煩ェ」

政宗は更に二回、三回とお粥を口に運んでいく。本当に美味しくなかったら一口食べただけで手を休めるはずだ。嫌味ったらしいことを吐く口とは裏腹に、手は素直に動いている。それがなによりの証拠だった。華那は満足そうに微笑んだ。

この男の性格は少しだけわかった。とにかくこいつは素直じゃない。一度わかってしまうとなんだかおかしくなってきた。笑った華那の顔が本当に嬉しそうで、政宗は面白くなかったのか明後日の方向へそっぽ向いた。このままじゃどこか悔しい。どうして悔しいと思ったのかはわからないが、何故か悔しいのだ。見ていて腹が立つくらい嬉しそうに笑っているこの女に、どうにかしてひと泡吹かせられないものか。政宗の口元が妖しい笑みを浮かべた。

「風邪を治すには人にうつせばいいいんだってな」
「それは単なる迷信でしょ。ってちょっと、まさかあたしにうつす気じゃないでしょうね? お、恩を仇で返す気?」
「まさか。ちゃんと感謝してるぜ……?」

言うなり政宗は華那の唇に自分の唇を押しあてた。時間にすれば僅か数秒。しかし華那にはとてつもなく長く感じられる時間だった。

「っと悪ィな。処女には刺激が強すぎたか?」

耳元でいつもより声を低くして囁くと、彼女の頬はあっという間に真っ赤になる。本人にその気はなくても、彼の声は熱で少しだけ掠れていたのだ。してやったりの表情をうかべている政宗を、華那は呆然と見つめていた。

「………っいきなり何するのよこのヘンタイー!」

政宗が病人ということを忘れて、顔を真っ赤にさせた華那は彼の頭をおぼんで力いっぱいぶった叩いてしまった。

「ま、政宗? 政宗ってば? ちょっ、お願い返事してってばー!?」

普段ならこの程度の攻撃、政宗にはなんともない。避けることだって造作もないし、そこからカウンター攻撃だって余裕で繰り出せる。しかし熱で魘された身体は、政宗が思っていた以上に彼から俊敏さを奪っていたようだ。華那の攻撃が見事に彼の頭に直撃し、彼はそのままベッドへと倒れ込んでしまった。

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