あた婚! | ナノ

終わったって言うわりには俺のこと思いだしたりして、どこか矛盾してねえ?

バレた。よりにもよって一番知られたくない男にバレてしまった。昨夜政宗がお仕置きと称して華那にセクハラ行為を働き、結果としてこの男には一番知られたくないことがバレてしまったのである。

お昼休みの社員食堂の片隅で、華那はうどんを食べながら酷く落ち込んでいた。昨日の夜からずっとこの調子だ。こんな状態なのに仕事でミスがなかったことは奇跡に近い。今朝、自宅には既に政宗の姿はなく(最近は特に忙しいらしく、自宅でもなかなか会う機会がない)、気まずい空気を覚悟していた華那には政宗の不在は有難かった。

悪かったわね。どうせあたしはまだ処女よ! 誰とでもそういう行為をする女よりマシだもんね! 

沸々と湧き上がる怒りに身を任せ握った拳でテーブルをダンッと叩くと、振動でうどんが入った器に波紋が広がっていく。華那の傍を通りかかった社員の一人がびっくりして、手に持っていたトレイを落としかけていた。。

別に今まで誰とも付き合ったことがないというわけではない。人並みに恋もした。告白もした。お付き合いをし、キスだってした。ただキスよりも先が……なかっただけである。キスより先の行為をしたくなかった、というわけじゃない。なんとなく、この人とそういうことをしていいのだろうか、そう思ってしまっただけだ。自分にとって大切な初めてが、本当にこの人でいいのだろうか。そんなことを考えるとキスより先に足を踏み出すことができなくなっていった。そんなこんなのうちに二十五歳を迎えていた、ただそれだけである。

………なんて、あたしの考えが固いだけなのかなあ。だってあたしはももう二十五歳だし! さすがに二十五歳で処女は拙いのかしら……?

昨夜、処女だとバレた途端政宗の反応が急に変わった。とりあえずセクハラをやめてくれたことは素直に有難かったが、彼はどことなく戸惑っているようなふうだった。あと、少しの罪悪感が見え隠れした。

既にこんなことをした時点で紳士という言葉とは無縁だと思うが、一応は気を遣ってくれたのだろう。政宗が言うにホテルでは裸で眠っていただけで、特に何もなかったとのことだった。自分にとって大切な初めてがこんな形でなくなってしまったことを、華那は少なからずショックだっただけに、彼の口から飛び出した事実はあまりに衝撃的だった。

やっぱり初めては好きな人と。こればっかりは譲れないわ。そういえば、と華那は思う。彼女の恋愛遍歴は決して多いほうではない。むしろ少ないといえる。だがそんな中たった一人、この人とならいいかもしれないと思った男性が一人だけいたことを思い出した。

その人は大学の先輩で、大学内でもどちらかといえば人気のある人だった。同じサークルに入ったことがきっかけで、その先輩は何かと華那の世話を焼いてくれたのである。そんなことを繰り返していくうちに良い雰囲気になり、華那から告白しめでたくお付き合いが始まった。その日を境に毎日がとても楽しくて、この人とならキスより先にいってみたいと、華那が心からそう思うようになった男性でもあった。

……ま、結局は駄目だったんだけどねえ。無意識のうちに長い溜息が洩れた。

「―――なに溜息なんかついちゃってるのさ、音城至」
「げっ……猿飛」

テーブルを挟んで向かい側の席にいたのは社内でも情報通として有名な猿飛佐助だった。一体いつからそこにいたのだろう。考え事に集中してしまったせいで周りが見えなくなっていたようだ。華那はあからさまに嫌そうな顔をうかべる。よりにもよっていま一番会いたくない相手が目の前に座っているのだから無理もない。

「うわ、なにその反応。傷つくなー」
「冗談でしょ、それ。本当はなんとも思ってないくせに」

冷めた表情でなるべく無関心を装いながら、華那は淡々とした態度をとっていた。それが演技だと気づいているのかいないのか定かではないが、佐助は含みのある笑みをうかべている。

「ご明察。さすが音城至、俺様のことよく理解してんじゃん」
「煩いな。誰が猿飛みたいな奴のこと理解しているものですかっ!」

その余裕たっぷりな態度が華那の神経を更に逆撫でする。冷静でいようと意識してみるが、佐助が何か喋るたびに華那は冷静さを奪われていた。佐助はなにやら嬉しそうに笑顔を浮かべている。華那からすれば不気味なことこの上ない。

「ちょっと、なにその顔……気持ち悪いわよ」
「んー? いやあ、嬉しくってさー。だって俺様のこと考えてたんでしょ? 音城至がそういう反応をするときは、大抵俺のことを考えていたときだって知ってるし」
「なんのことかしら? あたしは昔付き合っていた最低な男のことを不本意ながら思い出していただけよ」
「ひっでーな、それ。俺様ショックなんだけど」
「酷いのはどっちよ!? どう考えても悪いのは浮気したアンタでしょ、猿飛!」

テーブルを力いっぱい叩くと、佐助は「おっかねー」と軽口を叩いてみせる。それでもいまの態度を崩さないあたり非常に腹立たしい。華那の鼻息は自然と荒くなっていた。

この就職難でやっとの思いで決まった就職先に、まさか昔付き合っていた大学の先輩がいるなんて思いもしなかった。部署が違うという点が唯一の救いだが、同じ部署の元親と仲がいいので佐助と会う確率はどちらかといえば高い。佐助の顔を見るたびに華那は嫌でも昔のことを思い出してしまう。なにせこの佐助こそ、華那がキスよりも先に進みたいと思った、最初で最後の彼氏だったからである。

「その猿飛っていう言い方も他人行儀で気になるなー。昔みたいに佐助先輩って呼んでくれても全然構わないよ、俺は。なあ、華那?」
「………っ! あんたとは他人だから他人行儀で大いに結構。用がなかったらさっさとそこからどいてくれませんか、猿飛さん?」

佐助に名前を呼ばれただけで酷く動揺してしまう自分に嫌気がさす。名前を呼ばれただけなのに、昔のような淡いときめきが心を支配するからだ。好きな人に名前を呼ばれただけで嬉しいと聞くが、あれは本当だった。大学時代、まだ佐助と付き合う前の話だ。佐助に名前を呼ばれただけでその日一日良いことがあるんじゃないかと思っていたときだってある。その名残なのか、別れた今でも名前を呼ばれただけでドキドキしている自分がいた。

佐助は心の機微に敏感だ。だから華那が動揺していることもばれているに違いない。口では憎まれ口を叩いているが、佐助はそんな彼女の本心を見抜いてしまっている。現に佐助がわざとらしく華那と呼んだだけでこのザマだった。嫌みたっぷりに猿飛さんと呼んでみたところで、佐助の余裕が感じられる態度を崩せるはずがない。残念ながらこの勝負は華那の完敗だ。

「それと。俺は浮気してないって何度言えばわかってもらえるわけ?」
「はあ? 見知らぬ女と街中で抱き合っていた。これのどこが浮気してないっていうわけよ」

友達と飲みに行った帰りのことだった。道路を挟んだ向かい側で、偶然にも佐助と見知らぬ女が抱き合っている光景を目撃してしまった。ほろ酔い気分が一気に冷めた華那は、愕然とした表情で佐助を見つめることしかできずに立ち尽くしていた。

華那だけでなく友達の何人かがその光景を一緒に目撃しているため、酔った華那の見間違いというわけでもない。一体どういうことなのかその場で問い詰めれば未来は変わっていたのかもしれない。でも華那にはそれができなかった。足がすくんでその場から動けなかった。思うように身体に力が入らない。情けないほど動揺してしまい、その日はどうやって家に帰ったのかはっきりと思いだせないほどだ。

翌日の大学での佐助の態度はいつもと変わらないもので、まるで昨日の夜の光景が嘘のようだった。そしてこれこそが、華那から別れを切り出すきっかけとなってしまった。

「浮気じゃないっていうなら、あの夜抱き合っていた女性は誰だったか教えてくれたらよかったじゃない」

でも佐助はそれを拒んだ。女と抱き合っていたことを否定せず、その女が誰なのかも言えない。華那だけではなく友達も一緒に目撃しているのだから、抱き合ってなんかいないと嘘をつかれても傷つくだけだが、あっさりと肯定されても悲しいだけだ。

「あたしとしては、もう終わったことだからどうでもいいけどね」
「終わったって言うわりには俺のこと思いだしたりして、どこか矛盾してねえ?」
「…………」

佐助の指摘は尤もだった。終わったというのなら思いだしたりもせず、いまのようなわざとらしい態度をとる必要はない。華那の態度は意識しているが故の態度である。少なからず意識している自覚があっただけに、華那は反論するための手札がない。何もできない代わりに、悔しそうに唇を噛み締めた。

「ま、それはともかく。俺は音城至に用がなかったわけじゃない。この前のこと長曾我部から聞いたけど……お前、兄貴なんていたっけ?」
「いっ、いたわよ!」
「でも兄貴がいるなんて話、一度も聞いたことなかったぜ? お前の家行ったときも兄貴に会わなかったし」
「あっあのときは仕事で地方に行っていたから……家にいなかっただけよ。最近こっちに帰ってきてね、実家よりあたしのアパートのほうが会社に近いからって、家が見つかるまでの間一緒に暮らすようになったの。街を案内しているときにあんた達に見つかっちゃって……。ほら、やっぱり家族に会社の知り合いを見られるのって恥ずかしいじゃない?」

よくもまああることないことスラスラ出てくるものだ。政宗と知り合ってから、嘘をつくスキルが上がったような気さえする。きっとこの会話も小十郎経由で政宗の耳に入るのだろう。あとで政宗に何を言われるかわかったものじゃないが、佐助達会社の知り合いに結婚のことがバレるより、政宗のお仕置きのほうが遥かにましだというものだ。特に佐助は大学時代からの付き合いだけに、いつもより念を入れて嘘をつく必要がある。一瞬たりとも気が抜けない。佐助の疑いの眼差しが華那に突き刺さって、まるで鋭い針に刺されたかのように全身がチクチクする。

「ふーん……」
「なによその目は……ふう、そろそろお昼休みが終わるのでわたくしはそろそろ失礼させていただきます!」

これ以上一緒にいたらどこでボロが飛び出すがわかったものじゃない。華那は椅子から立ち上がるなりすたすたとカウンターに向かい食器を返す。食堂を出る前に一度佐助のほうを振りかえると、彼はまだ華那のことを見ていた。華那は腹立たしい気持ちの全てを込めて、佐助に向かって「あかんべー」をして食堂を後にした。

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