夜うさぎと仔ねこちゃん
次の瞬間は早かった。
「挨拶代わりだ」
男が一瞬のうちに間を詰めてきたかと思うと、次の時にはもう鼻の先に拳がせまっていた。
「何の…」
つぶやきかけた言葉だったが、迫る拳に危険を感じてそれ以上を諦める。
言葉を切って体を大きく後ろへ反らせ、転回する。
その差は数ミリといったところだ。
「っ、何のあいさつかな?」
後方へふわりと飛び下がり、十分に距離をとったところで私は詰めていた息を吸い込み、声を張り上げた。
「こんな町中であばれちゃダメなんだよ!」
「なにかたいこといってんのさ、こんなに面白い機会またとないだろう?」
にこにこの笑顔で拳をボキボキとならすその男に、自分の主人とは似ても似つかない末恐ろしさを感じて身震いした。
相手の強さはわかっているが、多分その強さに恐怖を持ったのではない。
こんなにも整然とした町中でさえ、彼の破壊性は変わらないのだということが加恋には怖かったのだ。
栄えた理想卿のお江戸も、彼にとっては荒廃した故郷となんら変わらないただの戦場でしかない。
それが夜兎というもの。
それが、夜兎というものだった。
「恐ろしい血、つくづく…」
つぶやきに、神威と呼ばれる男がピクリと反応を示した。
薄い唇から、くすくすと笑い声をもらす。
「難儀なやつだねお前も…」
「同情してくれるの?」
「まさか」
ギラッと、神威の目の色が変わる。
来る、と本能が知覚した途端に神威の体は私の寸分先にまでせまっていた。
とっさに、左手がすぐ下の腰の方へ伸びる。
しかしそれは何にも触れることなく空気を掴むだけ…
(あっ…わたし、また刀を屋敷に)
その仕草を目ざとくとらえた神威が、瞳を光らせて拳を打ち込んできた。
「ぐっ!」
体が笑ってしまうほど派手に後方へ吹っ飛ぶ。神威は殴った体勢から一瞬の無駄もなく、地を蹴って距離を詰める動きにつなげてきていた。
「お前の今の動き…
俺は知ってるぞ、いまの動きは
サムライのそれだ!」
尻餅をついた状態から、はっと上空を見上げると不敵な笑みのうさぎが月の光を覆い隠している。
「おまえ、奴らに取り込まれたナ!」
ガシャァァァン!!!
すんでのところで攻撃を避けた加恋にかわって、ほこりをかぶった廃材が派手な音をたてて粉々に飛び散る。
サムライ。
神威は確かにそう言った、異国の血を持ち異郷の血で戦いに狂っているはずの、この少年が。
「けほっ…神威くん、侍を…」
侍を、知ってたの?
喉元まで出かかっていた言葉はしかし音になることはなく、またも迫る攻撃の手から逃げるための動きに飲み込まれた。
神威は格段に強くなっていた。
それはいっそ、惚れ惚れとしてしまうどの狂気をまとっていて。
こんなに残酷な明るさをもった戦いなんて、この世に二つとないだろうと思わせるような激しさだった。
「逃がさないよ」
神威の蹴りが腹部に入った。
体をひねって衝撃を軽減させながら、吹っ飛ぶ体を見知らぬ家の屋根の上で立て直す。
私はなんとも言えないやりづらさを感じていた。
(ーーーー狭い!)
この人とやりあうには、この場所は綺麗すぎてせますぎる。
江戸という場所になんの思入れもない神威は、この場所を好きに暴れまわれるのに、この場所が好きな私は全くもって自由に動けないでいた。
妙な不条理さだった。
「加恋、おれ君のことが好きなんだよネ。」
屋根の端に、いつの間に満面の笑みで立っていた。
赤髪の男は、怖いくらいに出会った時と顔が変わっていない。
「だからさ、逃げまわるなんてつれないことするなよ。
こっちを見てよ…」
神威が一歩踏み出すごとに、瓦がパキと音をたてる。
「なんで…」
「あれ、知らなかった?結構感情は表に出てるタイプだと思うんだけどな」
「ううん、知ってるよ」
神威の目がすうっと細められた。
面白いものを見るようなその目は、彼の言う「好き」の意味を物語っている。
神威の言う「好き」というのは、もちろん少女漫画に出てくるような甘酸っぱい色恋沙汰のそれではない。
ようするに、嫌な目のつけられ方をしているのだ。
美味しい獲物として、遊びに最適な的として気に入られてるのだという自覚が、加恋にはあった。
目を見れば分かった。
人間の感情にはどちらかというと疎い加恋だったが、こと「好き」という感情となると、自分の中にある気持ちを比較対象としてみることができた。
沖田総悟という男に惚れているのだ。
自分が彼に向けている目と、神威の射殺すような青い目は違うということくらい、加恋にも分かった。
それだけはわかっていた。
だからーーーーーー
(そう、だから私はただあそこに帰らなきゃ。)
「神威くん…私も神威くんのこと、好きだよ」
君が私に言ってるのと
似たような意味でね。
「…!」
白い喉元に突きつけられたのは。
「御用改めである」
差し出した手帳の紋章が、月明かりに鋭く光っていた。
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