茅蜩症候群
 氷が入ったグラスに水を注いだとき、カランカランと鳴る音が、どこかで聞いたことがあると思った。
 水に浮かぶ氷同士がぶつかる音。どこで聞いたのだろう。
 ベルの音? 違うな。楽器の音色ではない。自然の中で奏でられる音。何だったかなあ。
 カラカラカラン……カラカラカラン。
 聞いた音を何度も反復する。
 カナカナカナ……カナカナカナ。
 あ、そうだ。茅蜩だ。さっきの氷の音は茅蜩の鳴き声に似ていた。
 茅蜩は太陽が沈む頃に鳴く。だから、茅蜩の鳴き声を聞くと、もう一日が終わってしまうと、憂鬱な気持ちにさせられる。きっと、茅蜩の鳴き声自体が物悲しいせいでもあるだろう。日曜日の夜に放送されるサザエさん。このアニメを見ることで、明日が月曜日であるという現実に直面し、憂鬱になってしまう人がいて、これをサザエさん症候群というらしい。じゃあ、私が茅蜩の鳴き声を聞いて憂鬱を感じてしまうのは、茅蜩症候群だ。茅蜩症候群は今思いついた造語だけど、おそらく多くの人が共感できる感覚じゃないかな。
 小さい頃、夏休みはよく外で遊んだ。だけど、夏休みの終わりがけは、机に向かっている事が多かった気がする。
 私は、八月の頭には夏休みの宿題を終わらせるようにしていた。
 だけど、ゆー君はずっと宿題には手をつけないで、夏休みが終わる三日前辺りになってから、慌てて宿題に取り掛かる子だった。当然、三日で宿題を一人で終わらせるのは少々無理があり、私もゆー君の宿題を手伝わされるのが、毎年のパターンだった。毎年、ゆー君の担任の先生は、私が書いたものだとは露知らず、ゆー君の読書感想文を読んでいたのだ。
 私達が宿題に取り組んでいる間も茅蜩は鳴いた。一日の終わりに鳴くから、まるで夏休みの残り時間を告げられているように聞こえてきて、私とゆー君は茅蜩症候群にかかりながら、涙目で宿題をしていた。

「考え事か?」ひょいっとゆー君が顔を覗きこんだ。
「え、ああ……うん、ちょっと昔のこと思い出してた」
「ふーん」
ゆー君はソファーへどかっと座る。「なんか水注いでからボーっとしてたからよ、急に具合でも悪くなったかと思ったよ」
「茅蜩症候群にかかってたからね」
「茅蜩症候群……って何それ?」
 説明がめんどくさいから、ふふっと笑って誤魔化す。ゆー君は首を傾げ、ソファーに寝転んだ。
 今、私とゆー君は大学生と高校生。蒸し暑い外ではしゃいで遊べる程の、無邪気さと若さは失ったため、クーラーを効かせたゆー君のアパートに来て、涼んでいる。

「そういえば、ハル姉は夏休みの宿題無いのか?」
「ないよ。大学生だもん」
「えー、ずるいな大学生」

 ゆー君はソファーでぶーぶー不満を言いながらゴロゴロする。私は水で喉を潤してから、ゆー君の方を見た。
「あのね、私とゆー君は歳が離れてるでしょ? だから、私だって一年前は高校生だったし、大学生になりたいならゆー君は三年後になれる。ずるいとかそういう話じゃないんだよ」
私の言葉にゆー君は喉を唸らす。ゆー君に口喧嘩では負けたことが無いのが、私が持つ数少ない誇りだ。
「宿題と言えば……ゆー君はもう宿題終わった? もうゆー君は高校生なんだから、まさか夏休みが終わる三日前まで取っておくことはしてないよね?」
「宿題はちょこっとやったけど、まだ大分残ってるな。でも、まだ今日は八月の十七日。全然慌てる時期ではないだろ?」
ソファーの上で腕を頭の後ろに組み、ふふんとゆー君は笑う。その笑みには余裕が見られたが、私は、ゆー君に机に置かれていた紙をゆー君に手渡した。あまりの事態に渡す手が震え、その様子にはゆー君も気づいたらしい。
「どうしたハル姉?」
「その紙……ゆー君の高校の八月の予定表だよね? 十八日は『出校日』って書いてあるけど」
「は? しゅ……出校日て」
「十八日は明日だよっ!!」

 わああああああああ!!!
 二人で同時に叫んだ。ゆー君は予定表が目に当たりそうなくらいスレスレに顔を近づけて、詳細を読んでいる。
「『十八日の出校日は課題の提出日ともする』…………あああ!! ハル姉!!」
 ゆー君が懇願の眼差しを私に向ける。
「……しょうがないなあ」

 テーブルに課題を広げ、それぞれの担当を決める。例年通り、読書感想文は私が書くことになった。

 さっき、大学生だから夏休みの宿題は無いって言ったけど、どうやらゆー君が高校を卒業するまでは、私には夏休みの宿題が出される宿命らしい。
 それはなんとも悲しい宿命というか、情けないというか……ああ、こんなにも惨めな気持ちになるのは、外で茅蜩が鳴き始めたからだ。

 変わらない毎日が、当たり前のようにやってくると心のどこかで信じていた。
 運命が動き出す二ヶ月前の話。

おわり。
ーーーーー
セトがやって来る約二ヶ月前の話でした。


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