トワイライト捨て猫のおめざめ 2

 嫌味ったらしい上司と、全く使えない部下に嫌気が差すのはいつものこと。ほとほと疲れて帰宅するなんて、名前にとって、もう何年も繰り返す慣れた日常だ。
 それでも、1ヶ月前までは自分の帰りを待ってくれる存在のために頑張れた。自分が居なくては生きていけないと錯覚し、居なくなる日が来るなんて思いもしなかった。
 自由を奪い、飼い慣らし、その存在に依存していたのは名前の方だったのだ。

 いつまでも待ち続けることは出来なかった。
 名前には時間が限られているのだ。
 あと数週間もすれば、名前は引っ越す。本社へ転勤が決まっていた。
 これは栄転だ。嘆くことはない。身を削り働いた結果なのだから、喜ばしいこと。
 だが、突然姿を消したその存在が気掛かりで仕方なかった。
 アパートから名前が消えてしまえば、2人を繋ぐ唯一の手掛かりを失ってしまう。
 ――アイツを待つ場所がなくなってしまう。
 名前は今夜もタバコを咥え、アパートの前の通りを見下ろしていた。
 街灯の下に、アイツが現れるのを待ち続けていた。
「……もう、部屋の中で吸おうかな」
 煙のニオイを嫌うアイツが居ないなら。でも、もし戻ってきたとき、部屋のニオイで機嫌を損ねてまた出ていったら。
 会社の人たちは名前がこんな悩みを浮かべる夜を過ごしているとは知らない。
 女だからとナメられないよう、目尻を上げるためのアイラインも、媚びない真っ赤なリップも、後れ毛一切無しの纏め髪も、名前にとって、戦闘の装備だ。
 無防備なところは心の拠り所にしか見せたことない。
 とても生きにくい世界を自分の手で造り上げてしまった名前は他の世界で生きる術が分からない。
 アイツが居た頃は世界の変化を望んだことなんて一度もなかったのだ。

 タバコの火を消し、部屋に戻ろうとしたところで、名前は視界の端、何かの気配を感じて首を捻る。
 隣のベランダとの仕切り板の隙間で、アイツと良く似た毛色が流れた。
 名前は咄嗟にベランダの柵から身を乗り出し、叫んだ。
「ユキ!」
 そこには目当ての姿はなく、隣人である黒田が洗濯物を干しているだけだった。
「え? なんでオレの名前知ってんだ?」
 肩を落とした名前。黒田は突然のことに目を見開いた。
「はい? 私、キミの名前なんて知らないけど」
「いや、だって、あんた……今『ユキ』って」
「ああ。それは……えっと……」
 名前は正直に話すことを躊躇った。親しいわけでもない他人に話して、うっかり脆くなった感情が揺さぶられ、弱々しく取り乱してしまうことを恐れたのだ。
 それに、以前出勤前に顔を合わせた際、名前が挨拶したにも関わらず、無愛想だった黒田に良い印象は持っていなかった。
 これが会社ですれ違った他人からの対応なら気にも留めないのだけれど、何故名前がここまで黒田に注視しているかというと、玄関先で黒田を一目見た瞬間、どことなくアイツに似ていると思ったからだ。
「あー、もしかして人違い?」
 苦笑を浮かべる黒田に名前は小さく頷いた。
「それ、あんたがずっと待ってるヤツ?」
「なんで……知ってんの?」
 名前の胸にひゅっと心地悪い風が吹き抜けた。
 名前が黒田のことで知ってる情報なんて何一つない。かろうじて見て取れるのは、銀髪と、やけに引き締まった腕、それから干したばかりのジャージに記された大学名くらいだ。彼が大学生だということさえ、たった今知った名前は、警戒心を込めて無意識に黒田を睨み付けた。
「別にっ、聞くつもりはなかったんだぜ? この前、たまたま洗濯物干してたらあんたが電話してて。聞こえちまっただけっつーか……」
「ふーん? 洗濯物干すなんて一瞬のことなのに? 随分タイミングが良いのね」
「それはっ……」
 まさか、盗み聞きするために息を殺してました、とは言えない黒田が口ごもると、名前はふっと鼻で笑った。
 警戒したって、もうすぐここを引っ越す名前にとって、所詮、黒田は行きずりの人。
 縁もゆかりもない相手だからこそ、余計な言葉が漏れた。
 とうに日の落ちた薄暗い空間と夏の生温い風のせいでセンチメンタルになったのだ。
「良い歳して哀れでしょ? 職場じゃ人と群れないから息苦しくて、だからって今更ヘラヘラすんのもなんか違うし。他に癒しがなかったから……捨てられたくせに、未だにアイツの帰りを待ってるの」
「……なんで諦めねーの?」
「さあ? 分かるなら、諦め方だって分かるんだろうけどね」
「あんたの言う癒しっつーのがどんなのか分かんねーけど……案外近くに居るかもしんねえぜ?」
 黒田にとって、これは渾身のセリフだった。鼻の下をゴシゴシと掻き、照れを隠そうと顔を伏せる。
 だが、名前はそんなこと微塵も気付かず、仕切り板の向こうに消え、タバコに火をつけた。
「あのさ、オレ、あんたにずっと言いたいことが――」
 意を決して口を開いた黒田だが、タイミング悪く、名前も口を開いてしまい、その言葉は遮られる。
「近くに居るなら早く帰って来れば良いのに。私、もうすぐ引っ越さなきゃいけない」
「……え?」
「転勤。アイツが帰ってくるの待つために仕事放り出すわけにはいかないから」
「そんな大事なヤツなのに?」
「結局、自分の人生とアイツのこと天秤にかけたら、自分が一番大事だったって……そういうことなのよ」
 心の中では認めていた。アイツのことが何より大切なら、今の仕事を辞めてここに住み続ければ良い。でも、築き上げたキャリアを投げ捨てることは出来なかった。
 それを言葉にしたら、自分が酷い人間のように思えてしまう。
 他人から疎まれるのは平気なくせに、自分自身を嫌いになっては、孤独の世界の住人として生きる場所を失うことと同義だ。
「別に良いんじゃね? そいつだって自分のために出て行ったのかもしんねーし。あんたが自分を責めたって、そいつには届かねーよ」
「酷いね、キミ」
「あんただって結構ひでぇよ」
「私、何かした? あ、さっき言い掛けてた、言いたいことってなに?」
 黒田は届きもせず、報われもせず、ただ痛めた心がそのまま滲み出たような顔付きを引き締めた。無理矢理不機嫌そうに眉を吊り上げ、仕切り板の向こうに顔を出し言った。
「タバコ、外で吸うのやめてくんね? 洗濯物にニオイがつくんだよ」
「……あ、ごめんなさい」
 黒田の目に映る、名前の指先が挟んだタバコの真っ赤なルージュの痕。
 黒田がそれを最後に見た夜だった。
 翌日には灰皿は撤去され、洗濯物から洗剤のニオイしかしなくなって。
 その数週間後、黒田の隣の部屋は空室となったのだ。


←1/3 backnext 3/3→

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -