トワイライト捨て猫のおめざめ

ATTENTION
作中にヒロインの喫煙描写が含まれます。
ご了承の上、閲覧下さい。


「あれ? 黒田ってタバコ吸うんだっけ?」
 部活前、黒田がスポーツバッグから取り出したサイクルジャージを広げると、隣で着替えを済ませた友人は黒田の周囲を嗅いだ。
「んやぁ。つか、まだ未成年だし」
「すっげーヤニ臭いぞ」
「やっぱり? いい加減文句言ってやろ」
「誰に?」
「隣人だよ。ベランダでタバコ吸ってんのか、一晩外に干してたジャージにニオイ移ってんだよ。どんだけ吸ってんだっつーの」
 大学に入学して3ヶ月。隣で引っ越しが行われた形跡はないから、ずっと隣人は変わっていないのだろうが、どんな人が住んでいるのか黒田は知らない。
 生活リズムが違うから顔を合わせないだけだと思ったが、日中干した洗濯物にタバコのニオイが移っていることはない。黒田と同じく昼間は外出し、夜は帰宅しているのだろう。
 厳つい兄ちゃんだったらとか、陰湿そうなオッサンだったらとか、諸々不安はあるが、周囲が気付くほどのニオイ移りは、それを着用する黒田にとって不愉快でしかない。
 バイトを終えて帰宅するとき、アパートの隣人の部屋を見上げると、カーテンの隙間から明かりが漏れていた。
 ――今日こそ文句を言ってやる!
 そう意気込んだものの、直前で怖じ気付いた黒田は隣人の部屋の玄関前で地団駄を踏み、素通りして帰宅した。

 今日こそは、今日こそは――と、何度も気合いを入れた黒田に、その『今日』を決行するチャンスが訪れたのは、最初の『今日』から1週間ほど経った頃だった。
 その日着たジャージを洗濯して外に干すという作業は黒田の寝る前の日課だ。
 冬生まれのせいか、めっきり暑さに弱い黒田は7月上旬のやわらかな初夏の訪れに、容赦なく冷房を使用している。
 冷気を閉じ込めていた部屋のベランダの窓を開け、物干し竿に腕を伸ばしたとき、鼻先に届くニオイと、真隣から聞こえる話し声に、ピタリ、動きを止めた。
 ――これは、現行犯に文句を言ってやる絶好のタイミングだな。
「もう、出て行って1ヶ月よ。寂しくて死にそう」
 てっきり、隣人は男だと思い込んでいた黒田。聞こえた女性の声に小さな衝撃が走る。
「何が気に食わなかったのかしら。ご飯だって身の丈に合わない高級品用意してたのよ。私が仕事で居ない昼間に寂しくないように暇潰しも与えてきた」
 隣人は誰かと電話をしているようだ。
 盗み聞きとは、なんとも悪趣味だが、黒田は好奇心が抑えられず、身動き取れない。
 せっかくの涼しい空気が外へ逃げ、タバコのニオイが部屋に入ってくるのに、息を殺して耳を澄ませた。
「代わりなんて居ないわ。あのしなやかな身体が忘れられないの。自分のご機嫌で私の素肌にすり寄る温もりだって、こんなに覚えてる。他なんて考えられない」
 ――生々しいんだよ!
 どうやら隣人は恋人に逃げられたようだ。
 相当甘やかし、自ら作り上げたダメ男に捨てられた――と、黒田が解釈するには十分だ。
「もうすぐ夏がくるっていうのに。どうしてるんだろ。――うん、もう少し待ってみる。どうせ今夜も眠れないから」
 通話を終えた隣人は、はあ、と溜め息を溢し、室外機に置いた灰皿にタバコを押し付けると部屋に戻った。
 仕切り板の隙間から覗き見えた吸殻についた真っ赤なルージュの痕に黒田の想像が掻き立てられる。
 ド派手なメイクを乗せた、いかにも頭の悪そうな女を想像していた。
 だが、自分の想像力がいかに乏しいか、黒田は翌朝痛感するのだ。
 案の定、一晩煙に当てられ不快なニオイが染み付いたサイクルジャージをバッグに詰めて部屋を出ると、隣人と顔を合わせることとなる。
「おはようございます」
 細身のパンツスーツを着こなし、髪を一纏めにした気の強そうな女だった。
 愛想笑いもなく、ただ挨拶の言葉を呟いた唇はタバコのフィルターに残っていたほど紅くない。
 健康的な血色の良い唇だ。だが、考え方によっては、あんな色を差さなくてはそうならないのか。
 黒田はぼんやりと彼女を見つめたまま、首だけ折って会釈した。
 視覚が奪われて、声が出なかったのだ。
 ピンヒールを鳴らし、彼女の伸びた背中を見つめるだけで精一杯で、また、『今日』を逃してしまった。
 我に返ったとき、隣人の残り香が鼻先を擽った。
 自分のサイクルジャージと同じ不快なニオイなのに、不思議と艶めく甘さが混ぜ合う香り。
 それからの黒田は、暇さえあれば彼女のことを思い浮かべていた。


next page 2/3→

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -