short | ナノ


▼ 1

不健全注意





乱れたシーツと床に落ちてしまった枕。ベッド脇にあるゴミ箱の中には使用済みの避妊具。この部屋はむせ返るような情事後の男女の匂いに包まれていて、名前は一人ベッドの上に衣服を何も身につけていない状態のまま、脚を折り座っていた。手に持っている数枚のお札は、先ほどまでもつれ合っていた男から渡された物。それを数えて自分の荷物の中にしまい込む動作は存外雑なものだった。名前にとって男と寝ることは、金銭に対する欲求の為だけではなく。本当に満たしたいのは、ただ、純粋なまでに欲してやまないもの。


ベッドから降りてシャワールームへと向かう。湯気の立つ温かいお湯を浴びながら段々と頭が冴え渡っていく。名前はいつもこの瞬間が嫌で仕方なかった。最中は、気持ちいい、あったかい、とただそれだけの感情が頭の中を占めていて、乾いてしまった骨の髄まで何かが行き渡る心地がする。しかし、先ほどまでの行為を思い出し、シャワーを浴びていると自分の行いが何の意味もない事なんだと思い至ってしまうのだ。
好きでもない男と幾度と無く夜を過ごして、熱を受け入れる対価にお金を貰う。リップサービスをすれば同等の言葉を返してもらえるが、互いにその中には何の気持ちもこもっていないことは承知していて、単にこの場を盛り上げる為のスパイスにしか過ぎない。
自分も大人に分類される年齢になって、この行為の先に生まれるものなんて何もない事にはとっくに気付いてはいるが、偽りでも、数時間後には顔を忘れてしまうような男からでも、注がれる愛を求めずにはいられなかった。




建物を一歩出ると、ネオンの輝くホテル街には大粒の雨が降り注いでいた。部屋にいた時にも雨粒が窓を叩く音が小さく聞こえていたが思っていたよりもその勢いは強く、吹いてくる冷たい風に名前は身震いをした。
傘など持ってきてはいない。しかしこの場で雨宿りをする気など毛頭ないので、躊躇することなく人工的な光が照らす夜の街へと身を投じた。容赦なく叩きつけられる雫は次第に髪や肌や衣服までを濡らすが、それに対して名前は不快感を表すでもなく、ただ能面のような無表情さで淡々と歩き続けていた。水浸しになった道。まるでこの街に燻る、人々の色恋だとか肉欲だとかを洗い流しているようだと思った。
皆それぞれに屋内へと引っ込み互いの熱を求め合う深夜にもなると、人影はひとつもなく名前ただ一人の水を弾く足音だけがひっそりと鳴っていた。
過ぎて行く景色には何の感情も動くことはなく、ぼんやりと足を進める。
ふと視界の中に鮮やかな色が入り込んでくる。目に留まったのは道路脇に設けられている大きな花壇だった。特別珍しい品種の花が咲いているわけでもなかったが、どの花も雨晒しの中、凛と背を伸ばしまっすぐに咲き誇っている。その姿が名前にはどうしても眩しく見えた。

いつだって自分は、自己嫌悪を抱き、背を丸めて生きてきたから。



花壇に咲く花たちはきっと、誰かの手でたくさんの愛を注がれて、まっすぐ育てるように大切にされてきたんだろう。自分には無いものを余すことなく持っている気がして、恨めしさが湧き出すと同時に無性にやるせなくなり花を踏みつけて花壇に横たわった。





ーーーー自分は一体どのくらいここでこうしているんだろう。
閉じていた瞼を少しだけ開いて手を目前にかざし、視界をある程度遮った。眉間に皺が寄るのを自覚しながら、指と指の間から僅かに覗く空を睨みつける。どんよりと雲に覆われた空は、黒や灰色といった名称のついた色とは形容し難く、濁った色をしていて、降り落ちてくる雨の雫は容赦なく名前を濡らしていた。長い時間雨空の下にいたせいで、着ている洋服は絞れるほど水分を含んでしまっているし髪の毛は顔に張り付いて少し鬱陶しい気持ちになった。しかし、自分の意思で傘をさしていないので濡れてしまうのは仕方のないことだろう。このままここにずっといれば風邪を引いてしまうかもしれないが、名前にはそんなことはどうでもいいことだった。
ーーーもう全部どうでもいい。


視界を遮っていた手をおろし、再び瞼を閉じた。
閉ざされた瞼に遠慮なく打ちつけられ重力に従い垂れていくそれは、まるで、雨に紛れて流れる名前の涙のようだった。


「ねぇそこでなにしてんの」


突如他者の声が聞こえてきた。男性であろうことが分かる低めの声。


「ねぇーねぇー!なにしてんのって!」


相手が自分に話しかけているのだと名前が理解するまで少し間が空いてしまった。


「きみに話しかけてるんだけど!」


状況を把握するのが遅れたせいで、相手が距離をつめてきたであろうことが先ほどより近くで聞こえる声で分かった。
しかし、正直今はほっといてほしい名前は、何も聞こえてませんという態度を決め込み無視をすることにした。のだが、ねぇ、ねぇと無視をし続けるにはあまりにも耐えがたい大きめの声が無遠慮にかけられる。状況が状況だ。雨が降る中、道端の花壇で花を踏みつけ横たわる不審な女に話しかけるのも大概だが、このまま沈黙を貫くのも居心地が悪い。問いかけに答えれば立ち去ってくれるだろうか。
名前は閉じていた瞼を再び僅かに開けて、薄目に瞳を左に向けた。
視界に入り込んできたのは、透明のビニール傘と明るく染められた髪。
敢えて相手の顔を見ようとしないのは、ほっといてくれという名前の少しばかりの抵抗だった。
ここまで明るい髪色を間近で見るのは初めてだなと思いその一本一本を凝視していると、名前が濡れないように傘の中に入れる動きをした。もうすでに濡れていない所がないくらいずぶ濡れだし、そんなことをしたら彼が濡れてしまうじゃないかと思ったが、その思いやりに荒れていた心が多少ではあるが軽くなった気がした。そういえば、自分は話しかけられていたのだということを名前は思い出す。


「ここにいれば、」

「おぉ、喋った」

「………」

「ふふっごめんごめん先をどうぞ」

「………ここにいれば、土になれるかなって」

「つち?なんでつち?」

「なんとなく、なんでもいいんだけど、からだ、溶けてくれないかなって」


身体が全部、朽ちて土になれば自分というものがなくなってももしかしたら、この花壇の栄養となって花が咲くために役に立てるかもしれない。時が経ってどの部分が自分か分からなくなってもきっと季節を巡って色とりどりに飾られる作品の一部になれるかもしれない。踏みつけておいてなんだけど、と名前は内心で苦笑する。


「うぅーん、よく分かんないけど、」


相手の低音の声と混ざり、雨がビニール傘を叩く音がする。


「きみがつちになった所には綺麗な花が咲きそうだね」

「………はぁ…?」


まさかこの場面で土になりたいなどと言う危ない発言に返事が返ってくると思わなかった名前はなんとも間抜けな声を発した。


「だってほら、ずぶ濡れだし泥だらけなのに全然汚いって思わない」


言い終わったと同時に手が伸ばされるが、その手を見つめたまま名前は固まってしまった。この綺麗すぎる手はなんだ。長い指と形の整った爪。街灯に照らされているだけの薄暗い場所ではあったがそれは容易に認識出来た。恐らく伸ばされた手の意図は起こしてやるから握れということなのだろう。雨に濡れた花壇の土に横たわっていたのだから、名前の手は当たり前に泥だらけだ。この手で綺麗な手に触れるのはあまりにも気が引けて握るのを躊躇してしまったが、そんな名前の手を相手は強く握って引き、起き上がらせた。


「だから土になって溶けちゃうなんて勿体無いよ!」


勿体無い。自分にかけられた言葉に名前は目を見開いた。自分という存在が無くなってしまうのを惜しまれている。いつだってあってもなくてもいい存在だと思っていた。自分に無くて他の女の子達にあるものは数え切れないほどあるけれど、自分にあって他の女の子達に無いものはこの世にひとつだってない。ずっとそう思って生きてきた。
どうしようもなく救われた気がしてしっかりと相手を見る。
あの驚くほど綺麗な手の持ち主ということに名前はなんだか妙に納得してしまった。並んだ二つの瞳は計算されたようにバランス良く配置され、その瞳を飾るように長く伸びた睫毛は雨のせいで水分を含み艶めいていた。名前に傘の下を譲ったせいで明るく染められた髪の毛は、毛先から雫を垂らしている。この髪色は何色というんだろう、しかし、何色と言われても、この色は彼の為に作られた色のような気がすると名前はぼんやりと思っていたら、彼が顔をまじまじと覗き込んでくる。



「目すっごい綺麗だね!キラキラしてるっ!」


勢いに圧倒されて後ずさるが、もっとよく見せて!と相手が距離をつめる。あろうことか、傘を捨て、両頬に手を添えられ瞳を凝視される行為は名前にとって初めての経験であったため、背が高いんだな、と思考が飛んでしまうのは仕方のないことだった。


「俺テヒョンっていうんだけど、きみは?」

「………名前」

「名前ね!」


瞳がどうのこうの言っていたと思ったら今度は自己紹介が始まった。自己紹介をするにしてはいささか近すぎる距離ではあるが。


「このままじゃ風邪引いちゃうからシャワー貸してあげる!」

「いや、え、」

「俺も風邪引いちゃうからはやく!」


テヒョンと名乗った男は、名前の手首を掴みそのまま歩き出す。抵抗すれば振り解ける力加減ではあったが、このまま彼のペースに身をまかせるのも悪くないなと思い名前は手を引かれたままついて行く。不思議なものだ。ホテルを出た時には何事もどうでもよくてやるせない気分だったのに、数分前に出会った男のあとを大人しくついていっているなんて。名前は歩みを止めずに振り返る。見つめるのは自分が横たわっていた花壇。せっかく綺麗に咲いていたのに自分のせいで花弁が散ったり、茎の部分が折れてしまっていたり、見るも無惨にぺしゃんこなってしまっているものもある。
ごめんなさい。言葉に発することはせず、心の中でこの花を育てた人や花たちに謝罪をした。
数分前の名前の行動によって荒らされた花壇の脇には、置き去りにされたビニール傘がひっそりと雨を弾いていた。








目的地に着いた時、テヒョンは握ったままだった名前の手首を離した。エレベーターのボタンを押し、一階に降りてくるのを待つ間、名前は周囲を見渡してみる。マンションのエントランスにしては少し変わっている作りだなと思ったが、内装を見る限り自分が先ほどまで居たような所謂”そういった”目的で使われる施設なのでは、と気付いた。
軽快な音と共にエレベーターの扉が開き、テヒョンに続き名前も乗り込む。3階のボタンをテヒョンが押し、扉が閉まった。


「あの、ここって、」

「ラブホだよ」


初対面の人間の自宅にいきなり行くのも気が引けるなと思っていたが、ラブホに連れてこられた。一日の間にラブホを二件はしごすることになるとは。確かに男女が行為を致す為に使用されるこの場所ならシャワーやベッドもある。今更淑女のように恥じらうような素ぶりをする身ではないので、すぐに事実を受け入れた。男なんて所詮下半身で動く生き物だ。出会いが素っ頓狂なものだったから、若干好感を抱きつつあったが内心それが降下していた。




エレベーターが3階に到着し、扉が開く。名前は前を歩くテヒョンの後頭部を見つめたまま後をついて行くことしか出来ない。


「ちょっと作りが古臭いでしょ?」

「まぁ、確かに…」

「ははっ、だよねー」


可笑しそうにテヒョンが笑い声を上げた。
テヒョンの言う通り、このホテルは建てられたのがだいぶ前なのか、今は幾分オシャレな風貌をする他のものと比べるとちょっとばかり古臭い感じだった。


「このホテルはさ、」

部屋に着くまでの廊下を歩いてる最中、テヒョンが話す。今は使われていないホテル。テヒョンの友人の親が以前経営していたものだったが、新しい建物を建築するため使用されることはなくなり今は仲間内で集まり、暇を持て余した時や、はたまた建物の概要に合ったそういう行為をする時に女性を連れ込む場所になった。要するに、便利な溜まり場みたいなものだ。
『305』と書かれた部屋の扉をテヒョンが開ける。
歩みを進めるテヒョンにならって名前も部屋へと足を踏み入れた。室内を見てみれば、テヒョンに負けず劣らずの明るいカラフルな頭髪をした男達が各々ソファやベッドで自由に寛いでいる。軽くテヒョンと挨拶を交わす男達の視線が、続いて現れた名前に自然と集まる。


「誰ー?」

「いや、しかもなんでおまえらずぶ濡れ?」


あちこちから声が上がる中、テヒョンはヘラヘラと笑顔を浮かべるだけだった。とりあえず拭けよ、とテヒョンへ向けてタオルが投げられる。


「きみも」

「ぁ、ありがとうございます…」


続けて名前にも投げられたタオルを慌ててキャッチする。突然登場した見ず知らずの自分にも気を使ってくれるテヒョンの友人に、人は外見では判断出来ないなと名前は思い、有り難くまずは髪を拭かせてもらうことにした。


「んでその子誰」

「名前!」

「テヒョンの新しい女か?」

「さっき会ったばっかだけど土になっちゃう前に連れてきた!」

「はぁ?」


テヒョンの友人達が頭にはてなを浮かべるのは当然のことだ。土になりたい云々の話は名前とテヒョンの二人にしか分からないのだから。
隣の部屋借りんねー!、と勢いよく隣の部屋のものであろう鍵をひっ掴み、テヒョンはまた名前の手首を握って部屋を出て行こうとする。名前が何者なのかテヒョンの説明では全く理解の出来ていない友人達が気になって名前は手を引かれながら振り向くが、彼らはテヒョンのこういった行動に慣れているのか多少呆れた表情を浮かべてはいるものの誰一人として嫌な顔はしていない。そのまま出て行くのも気が引けてペコリと少しばかり頭を下げる名前を、友人達はひらひらと手を振って送り出した。



先程訪れた部屋のすぐ隣、『304』の部屋に二人は入る。『305』と比べるとこの部屋はこじんまりとしていて、置かれたベッドもサイズが小さめ。テヒョンは頭を拭いていたタオルをベッドに投げ捨てた。


「先シャワー浴びていいよ」

「え、いや、でも、」

「俺着替えとか用意するから。これ、バスタオルね」


着替えまで常備されてるのか、と名前は感心しながら大きめのバスタオルを受け取った。彼も相当濡れてしまっているのに先に借りてしまってもいいんだろうか、と思ったが先に入れと言われているし、彼も自分が浴室から出るまで寒いだろうし、と頭の中で考えていた。
さっさと自分も彼もシャワーを浴びたら、あのベッドで抱き合うんだろうか。男女が同じ部屋にいて、それがまた、そういう目的の場所にいるということはやることはひとつしかない。
何も変わらない。自分が普段望んでしていることと何も変わらないんだ。
バスタオルを握って、浴室の扉に手をかけると「それとも、」とテヒョンが呟いた。テヒョンが名前の瞳を射抜く。


「一緒に入る?」


口角を上げニヤリと笑むテヒョンに、名前はああやっぱり、と思った。
男と一緒にシャワーを浴びる事なんて初めてじゃない。相手が早急に事を始めたがった時は共に入る事も稀では無いし、シャワーの最中に情事にもつれ込む事だって過去には何回もある。ただ、浴室での行為は体勢的に辛いところもあるので、出来ることなら避けたいが、大人しく従っていた方が良い思いが出来る事を名前は知っている。
出逢って間もない間柄ではあるが、コロコロ表情の変わるテヒョンのこんな笑い方を見るのは初めてだった。こういうのをなんて言うんだろう、と急に雰囲気の変わった笑みを浮かべるテヒョンを形容する言葉を思考が飛んでいると思いながらも名前は探した。
(官能的?いや、……色っぽい?)
なんとなくそれっぽい表現の仕方が見つかった時に「別に良いよ」と返事を返した。可愛らしく笑顔を浮かべるでもなく、淡白な返事だった。
そんな名前の声にテヒョンは一度動きを止めたが、「冗談だよ、早く入っておいで!」と名前の背を押しながら扉を閉めた。





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