あれからというもの、千鶴はあの花が綻ぶような笑顔を見せなくなった。何かに怯えた様子で、いつの間にかふらっと何処かに消えてしまいそうな不安定さがある。時折微笑んだりするが、それも儚げだ。
正月休みが終わり、俺が仕事に出るようになるとさらに不安が募った。朝は家にいても帰ったらいなくなってるんじゃねえかと思っちまう。だが外から自宅マンションを見上げると毎日灯りが点いていて、その度にほっとする。
玄関ドアを開けると漂う味噌の香りに頬が緩んだ。帰ってからは千鶴の作った夕食を共にとり、あとはテレビでも見ながらゆっくり過ごす。それが日課だ。会話もあるし、表面上は何も変わらない。
「そういや、おまえ斎藤から本借りてたろ?」
「はい、何冊か。どれも面白かったです」
画面の中のイマイチ意味の分からないバラエティー番組を見ながらふと思い出して話し掛けた。千鶴はテレビに夢中なようだったが、意識をこちらに移した。
「来週にはあっちに戻るみてえだからちゃんと返しとけよ」
「あ……。斎藤さんの大学地元じゃないですもんね」
それじゃあ残りも早く読まなきゃとかなんとかぶつぶつと独り言を零すと再び視線をテレビに戻した。こんな姿を見ていると俺の考えは杞憂なんじゃねえかと思うが、どうしたってこの胸に掬う焦燥感にも似た感覚は消えなかった。
運動部員が部活をする声が聞こえる。窓の外はもう薄暗かったが、そんなこと気にもしてねえのか生徒たちは練習に励んでいた。今日は補修も入ってないことだし、早めに帰るかと荷物をまとめて学校を出た。
学校から自宅までは歩いて十数分のため、よほど荷物が多いとき以外は徒歩で通っている。今日も歩き慣れた帰路に着いた。
「土方さん」
「ああ、誰かと思ったら斎藤じゃねえか」
背後から声をかけられ少し驚いたが、街灯に照らされたよく知る顔に緊張を解いた。それに斎藤は会釈して返した。
そういえばこいつの実家は学校からも遠くなかったはずだ。ここで会っても何ら不思議じゃねえ。
「お帰りですか?」
「たまには早く帰るのもいいかと思ってな。おまえは何やってんだ?」
「近藤さんの道場へ行こうかと。あっちに戻れば暫く来れなくなるので」
薄暗いせいでよく見えなかったが、たしかに竹刀を背負っていた。そういえば最近あまり道場に行ってねえな。今度顔でも出すか。そんなことを頭の片隅で考える。
そこで一旦会話が途切れた。互いに口数が多い方ではないからこういうことは珍しくないが、今回はどうにも居心地が悪い。斎藤は言葉を探しているのか僅かに目を泳がせたあと口を開いた。
「……彼女の、ためですか?」
→肯定する
→否定する