「別にそういうわけじゃねえよ」

俺は苦笑しながら言った。
彼女とは、言わずもがな千鶴のことだろう。最近様子のおかしい千鶴に、不安はある。だが今日は本当に急ぎの仕事も補修もないから帰るだけだ。そう、これは俺の杞憂にすぎない。自分に言い聞かせ無理矢理納得したふりをした。
だが俺を見る斎藤の射抜くような視線に全て見透かされているようで、俺はいたたまれなくなり目を逸らした。

「……今日、彼女がうちに来ました」

「そうか。本返しとけって言ったからな」

「――…面白かった、と。その言葉に偽りはないと思います。だが、しかし……」

斎藤はまた逡巡してから躊躇いを残しつつも話し始めた。元々口数の少ない男ではあるがこうも口ごもることは珍しい。

「うちの神社……というより人魚伝説に興味を持っているようでした」

「……それで?」

人魚……あいつは人魚に拘りを見せていた。女が人魚姫なんかに興味を持つのは普通だが、しかしあれは少し違うような……。

「土方さん、俺は神主の息子ですが神も、伝説も信じていません。それでも、彼女……土方さんの信じた人であれば、信じられるような気がするんです。」

「斎藤……」

「国語教諭である土方さんならご存知かと思いますが、これは日本全国にある伝承で、多少の違いはありますが大筋の話はこうです。
昔、若い娘が人魚の肉と知らずにそれを食べてしまった。以来、娘は年を取らなくなった。娘は逆にその不老不死を嘆き、尼になった。この尼を、人は八百比丘尼(やおびくに)と呼んだ。
この話をしたあと、彼女に八百比丘尼の気持ちが分かるのかと訊ねたら、こう答えました」

ここまで息継ぎすることなく一気に話すと、斎藤は一度深く息を吸い、そして吐いた。

「知っていますよ、とてもよく。と」

……知っている。"分かる"ではなく、"知っている"。

傷が治る。死なない、死ねない体。
普通に考えれば到底信じられねえことだ。だが、俺はこの目で見て知っている。

――…独りに、しないでください。

頭に千鶴の声が響いた。あいつを独りにさせたくない。いや、俺が離れたくないんだ。
そこでふとあることを思い出す。そうだ、あるじゃねえか。俺があいつと共に生きる方法が。

俺はそれを……

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思いとどまる


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