箱庭の空
3


翌週も、筋書き通りの母との面会を終わらせ、そのあと中庭へ向かった。扉を開けると入り口そばのベンチに、彼が緊張した面持ちで座っているものだから俺は思わず吹き出した。
「やあ。一週間ぶり」
「こ、こ、こんにちは」
「そんなに固くなるなよ。隣座ってもいいか?」
ベンジャミンは何度も首を縦に振る。それから隣に腰を下ろして微笑んでやると、彼は辿々しく切り出した。
「…あ、あの…」
「ん?」
「…タバコ…。す、吸わないの…?」
「ああ、いいよ。気を遣ってくれてありがとう」
正直一本吸いたい気持ちはあったが、さすがにベンチで自分を待っている彼を見ながら吸うのは気が引けたので我慢した。しかしベンジャミンは、何故か残念そうな顔をしてみせたのである。
「…見たい」
「…うん?」
「吸ってるとこ…」
彼の口から溢れた言葉に意表を突かれ、俺は目を丸くする。こんなにも含みを持たず言葉を吐き出してしまうのは彼の特技なのかもしれない。正直すぎる彼の一言一句に、何故だか笑いがこみ上げてきてしまった。
「あはは。こうして隣に座ってるよりそっちの方がいいのか?」
「あっ、そ、そんなことないっ、この方がいい!ごめんなさいっ」
「…ふ。今から吸ってこようか?きみに覗かれながら」
「う、うん吸ってきてっ…あ、でも覗かないから!こうしてる!」
ベンジャミンは両手で目を覆いながら言った。
「……わかった。じゃあそのままで。吸ってくるから待ってて」
俺はベンチから立ち上がり喫煙所へ向かって歩き出す…というフリをした。数歩ほど前に進んだところで立ち止まり、振り返ってベンジャミンの様子を確認する。
彼は10秒ほどそのままの状態でいたが、しばらくすると中指と人差し指の隙間を開き、その隙間から水色の瞳を覗かせた。思っていた通りだ。最初から俺の姿を盗み見る気でいたのだろう。
「あはは。やっぱり君はそうすると思った」
「!?ご、ごめんなさい!」
そう言って彼は指の隙間を頑丈に閉じ直した。顔を覆って俯いてしまったのに、どうして慌てふためいていることがこんなに、手に取るように分かってしまうのだろう。
「くく…いいよ。吸ってくる」
彼は、俺がそう言っても小さく頷くだけで顔を上げてはくれなかった。だから俺が今、結構本気で笑いを堪えている事を露ほども知らないのだろう。
一度咳払いをしてやり過ごし、穏やかに聞こえるであろう声色で「ベンジャミン」と、その名を呼んだ。
「っだ、大丈夫。絶対見ないっ」
「見てて」
俺の言葉にようやく彼は頭を持ち上げる。驚いているのか、彼は瞬きするのも忘れてこちらを見つめた。
「…見てて。君を見ながら吸うから」
そして一度微笑んでから、俺は喫煙所へ向かう。扉を閉めてガラスを隔てた向こう側の彼を見つめた。彼も俺を見ている。
そのままタバコを咥えジッポライターで火を点ける。吸い込んで、いつもの倍以上時間をかけて煙を吐いた。白く濁る視界がほどけ再びガラスの向こうに彼の姿が見える。数メートル遠くにいる彼は頬を染め、微動だにしないまま俺を見つめていた。
「…ふ」
笑ってしまう。こんな風に凝視されながらタバコを吸うなんて生まれて初めてだ。別段やりにくさや嫌悪感を感じないのが不思議だった。彼の、剥き出しのような正直さがそうさせるのかもしれない。
少し手を振ってみせたらそれを何倍にも返すようにして、殊更大きく手を振られた。…こんな光景をもしも俺が側から見ていたら、何をやっているのだと乾いた笑いを漏らすに違いない。けれど何故だろう、今タバコの煙と一緒に立ち上る感情の中には、冷ややかなものが混じっていないのだ。
結局、一本吸い終わるまで彼はずっと俺を見つめたままだった。

「…どうだった?」
タバコを吸い終えた後、ベンジャミンの隣へ座り尋ねる。彼は赤く染まった頬を隠そうともせず、俺の瞳をじっと見つめながら息を吐いた。
「…かっこよかった…」
「あはは、そうか。良かったな」
「うん」
からかっても、笑ってやっても。何をしようと彼は、陶酔したような顔で俺を見つめ続けるのだ。
こんなに情熱的な眼差しを向けられ続けることは初めてだと思う。それに対して俺は僅かながら心地よさを感じていた。
周りの人間がよこしてくる畏敬や羨望、憐れみの眼差しとは違う。ベンジャミンが俺に抱いている感情は恐らくもっと簡潔で、悪く言えば下世話なものだろう。けれどそっちの方がよっぽどいいじゃないかと俺は思う。欲望と直結した感情は分かりやすくて、明快で、汚れを知らない。
「…きみは変わってるよな」
「え、どうして?」
「まるで裸みたいだから。普通の人は恥ずかしくて二、三枚、服を着てしまうと思うよ」
俺の比喩を上手く汲み取れなかったらしい彼は、慌てふためきながら「僕、服着てるよ!?」と言った。
その回答がまた見事に予想の範疇を超えるから、今度こそ俺は我慢できず声を上げて笑ってしまった。笑う俺に困惑しながら「う、薄着ってこと?」と尋ねてくるのも追い討ちになった。
ああ、思惑や計算がないまま笑うのはいつ振りだろう。随分久々のことに感じた。



「言われてた書類だ。ここ一ヶ月の契約取引書のコピーと、それからこっちに△△の情報もまとめてある」
その日は、とある建物の地下駐車場にランスキーを呼び出していた。彼は律儀に約束した時間の五分前に到着し、丁寧にファイリングされた書類を俺に手渡してくれた。
「ありがとうランスキー。お前のお陰でデスクの上の仕事の山があっという間に消えるから、本当に助かってる」
「…ふん」
受け取った書類に目を通す。頼んでいた内容以外にも欲しかった情報が掲載されていたので思わず感心した。
「仕事ができるって上司に褒められるだろ」
書類に目を落としたままランスキーに言うと、彼は不機嫌そうに「どうも」と答えた。
「マフィアよりスパイを本職にした方がいいんじゃないか?向いてると思うよ」
「…そんなことはどうでもいい」
「はは、すまないお前の気を悪くさせるつもりはないんだ。ほら、受け取ってくれ」
紙封筒の中に入れた報酬金を渡すと、彼は中身を確認してから無造作に内ポケットにねじ込んだ。
「…なあランスキー」
「なんだ」
「その金が何に使われるのか少し興味があるんだが…聞いてもいいかな」
首を傾げて問うと、ランスキーはなんとも素っ気ない態度で「答える義務はない」と俺に言った。
「はは、そうだな。まあ有意義に使ってくれ」
「…言われなくても」
今日ランスキーに手渡した金は9000ドル。恐らくその殆どがベンジャミンの為に消えてゆくのだろう。元々は俺のものだった金がベンジャミンを生かしていると言うならどうだ、随分聞こえがいい。俺はまるで救世主のようじゃないか。



翌週、いつものように病院へ向かった。
今日はベンジャミンとどんな話をして、より彼の心を手懐けられるだろうと考えながら母親のいる病室の扉を引く。すると彼女はこちらを見るなり顔を引きつらせて口元を僅かに震わせた。
………ああ。
今日は「大ハズレ」の日だ。

「…ここはどこ?あ、あなたは…誰なの」
母親が俺に尋ねる。これがタチの悪い冗談だったら幾分かマシだろうが、彼女は本気で俺に聞いているのだ。
「…母さん、俺はデューイだ」
「冗談はやめて!私をここから出しなさい!」
母親は目の色を変えて叫ぶ。見ると両手はベッドの柱に布で縛り付けられていた。おそらく今朝の時点で担当の看護師がそうしたのだろう。
もう、この状態の母親には何を言っても通じない。
…うんざりした。来なければ良かったと心底思った。
「私をどうする気なの!これを解きなさい!」
「……」
「…っこの、キチガイ野郎!!突っ立ってないで解け!解け!!」
ベッドが揺れ、ガタガタと大きな音が響く。俺は母親の変わり果てた姿を見ながら、ああ今すぐタバコが吸いたいとぼんやり考えていた。
「…誰か呼ぶよ。待ってて」
「答えろ!私をどうする気だ!」
髪を振り乱す様子は狂気に満ちている。あの生き物と血が繋がっているなんて信じられないなと、人ごとのように傍観しながら入り口付近のコールボタンを押した。
程なくして看護師が数名やって来た。両腕を自由に動かせない母親は上半身と両足で全力の抵抗をしていたが、さすがに数人に取り押さえられては敵うはずもない。腕に注射を刺され、その瞬間にこちらの頭が割れるような叫び声をあげた。
俺は看護師たちの後ろで耳を塞ぐ。まるで動物実験のような光景だと思う。必死で母親の体を抑え込む看護師たちに同情する。彼女たちの腕や手の甲にいくつも走る引っ掻き傷を見ながら、さぞ痛かったことだろうと思った。

母親が麻酔によって眠りにつく。看護師の一人が肩で息をしながら、こちらに振り返り頭を下げた。
「ごめんなさいね。今日のお母さんの様子、いらっしゃる前に伝えておけば良かったのだけど」
「いえ。…すみません」
謝ると、彼女は困った顔で笑いながら「昨日も一昨日も穏やかだったのよ」と言った。
「…ご迷惑をお掛けして、申し訳ありません」
頭を下げると看護師は「いいえ、そんな」と眉尻を下げながら言った。
「また改めます。じゃあ」
「ええ。またねデューイさん」
病室の扉をゆっくり閉める。完全に閉まったことを確認してから俺は大きく舌打ちした。
今日はツイていなかった。あの状態の母親を見るのはいつ振りだろうと振り返る。もし前もってわかっていたら、決してこの扉を開けたりしなかったのに。

不定期で訪れる彼女の症状は誰にも予知できない。トラウマから来る一種の防衛本能のようなものだろう、と医者は言っていた。彼女の心は今ひどく傷ついている。心の許容範囲を超えるとすぐに訳が分からなくなってしまうのだと。でもいつか傷は必ず良くなるからと母親が入院し始めた最初の頃、医者に強く説明された。
俺は、そんなわけがないだろうと思う。あのまま彼女は、壊れたまま死んでゆくのだろう。親父が生きている世界に閉じこもり、身を投じたまま、きっと帰ってはこない。
俺はそれで一向に構わないのだ。不都合など何もない。ただ一つ願うとすればそれは、さっさとくたばってほしいということだけだった。
…なにが「心の許容範囲」だ、と思う。俺だってできるなら、あんたの顔など忘れてしまいたい。

中庭に向かうと先週と同じ場所にベンジャミンが腰掛けていた。軽く片手を上げて声を掛けると、相変わらず緊張しているのか、ベンジャミンは両肩に力を入れながら「こんにちはっ」と挨拶を返した。
「え、えっとデューイさん、タバコ吸う?」
「ん?…ああ、うん…そうだな…」
一度腰を下ろしてしまったため再び立ち上がるのが面倒で、彼の問いかけに適当な相槌を打つ。何故だろう。今日は疲れている。
「…」
ぼんやりと前方を見つめ、適当な話題は何かないかと考えたが、思考を巡らせるのもなんだか怠くて途中で放棄した。隣に座るベンジャミンは、沈黙が居た堪れないのかそれともまだ緊張が解けないのか、体を強張らせたままだ。
「…タバコって」
先に口を開いたのはベンジャミンだった。
「…ん?」
「タバコってどんな味?」
「んー…そうだな…味と言うか…」
「味と言うか?」
「…なんなら吸ってみるか?」
胸ポケットからタバコの箱を取り出してベンジャミンの前に差し出すと、彼は目をぱちくりとさせた。
「い、いいの?」
「ん?ああいいよ、一本くらい」
「そうじゃなくて…」
「うん?」
尋ね返すと、彼は少し笑って続きを口にした。
「あはは、デューイさん悪いんだ」
「どうして?」
「だってデューイさん、こんな事したら怒られちゃうよ。僕、未成年だもん」
そう言われて笑われた理由が分かった。確かにベンジャミンの言う通りだ。どう見ても十代半ばの人間に喫煙を勧めるなど。うっかりしていた、疲れを言い訳に気を抜いていた。こんな所をもし同職者に見られでもしたら最悪クビにされてしまう。
しかし俺の焦りとは裏腹に彼は随分と嬉しそうだった。「にひ」と笑う顔には悪戯が滲み出て、まるで大層な秘密を知ってしまった少年が、それを独り占めしてほくそ笑んでいるようだ。どうやら、誰かへの告げ口などはなから考えていないらしい。ほっとした。
「きみのことは二十代半ばだと思ってた」
「あはは、言われたことないよ。ほんと?」
「なんなら三十代かとも思ってたけど」
「わかった、わかったから。あはは、デューイさん面白いなぁ」
思いついたままに言った雑な冗談だったが、ベンジャミンが思いのほか笑ってくれるので何故だか自分にまで笑いがうつってしまった。
こんな風に自分のボロを誰かに見せてしまうことなどなかったのに、不思議だ。そうやって知られてしまったことに「まずい」と思うどころか、俺の心はやたらと穏やかだったのだ。
「…内緒な」
笑いながら人差し指を立てて口の前に置くと、彼は一層嬉しそうな顔で頷いた。
笑った顔が、可愛いと思った。純粋に。
「…なんか、今日のデューイさんはいつもと違う気がする」
彼はポツリと漏らした。
「そうか?」
「うん、なんか…わかんないけど…なんでだろう」
「…」
ベンジャミンは続きを言葉にしようとしたが途中でやめてしまった。「急に変なこと言ってごめんなさい」と言って謝ったあと、視線を前に向け、そのまま話を終わらせたようだ。
俺も同じように前方を見つめる。数メートル先の花壇に植えられた花を視界に映しながら、彼は案外勘が良いのかもしれないなと思った。
…話したらどんな反応を示すのか。周囲から貰う眼差しはいつだって羨望と憐れみで、俺はそれにほとほと嫌気がさしていたけれど、彼なら。
俺はどこか期待にも似たような気持ちで、自分のことを彼に話し始めた。
「…母親が入院していて」
そう言うと、ベンジャミンは驚いた顔をしてから「そうだったんだ…」と、小さな声で相槌を入れた。
「もう結構経つんだけど…改善の兆しが見えなくてな。特効薬もないし、ましてや手術して治るというわけでもなくて」
ベンジャミンが不安そうな顔をする。よっぽど重篤な状態なのではと想像を巡らせているのかもしれない。
「…心が治らないんだ」
「え」
「親父が死んだ…殺された日からずっと、あの人の時間は止まったままなんだ」
病室のベッドから窓の外を眺める母親の姿を、瞼の裏に思い浮かべる。
数年の時が経てば様々なものが移ろっていく。窓の向こうに広がる景色はもちろん、病院内のスタッフの顔ぶれや、母親自身の外見だって。それでも彼女の心は取り残されたまま微動だにしない。四季が巡っても歳を重ねても彼女は、同じ角度で首を曲げ外を見ていた。同じ動作でこちらを振り返り同じ声色で俺の名を呼んだ。
…生きているのに、何も変わらないということは不自然で、きっとひどく歪だ。

親父は街の英雄だった。悪を成敗し弱きを助ける姿は本当にヒーローのようで、俺も母親もそんな親父を誇りに思っていた。新聞や雑誌に顔が載ることもよくあったし、家には一般市民からの(恐らく親父が関わった事件の被害者にあたる者たちだろう)感謝の気持ちが記された手紙もよく届いた。街を歩けば何人かからは握手を求められるような、彼はそんな人だったのだ。
数年前。強盗と殺人の罪を重ねて逃げ回る1人の男がいた。
犯人は逃げ足が速く、そして頭もよく回った。市の警察がどれだけ捜査に手を尽くしてもなかなか捕まえられなかった。逃亡期間は3年にも及んでいたらしい。
しかし、長く続いた逃走劇に終止符を打つ者がいた。それが親父だったのだ。
親父が何年にも渡り調べ上げた犯人の情報は膨大なものだった。地道に、そして秘密裏に進めた親父の捜査は綿密で隙がなかった。親父に一手先を読まれた犯人はあえなく捕まり、その両腕に手錠をかけられる羽目になる。
その、すんでのところだったのだ。犯人は警察官の一人に手錠をかけられる寸前、持っていた小型の銃で警察官の後方、事の様子を見ていた親父の脳天を撃ち抜いた。…親父は即死だった。
後に、犯人は裁判官に聞かれる。なぜあの時、他の警察官より遠くにいた××検事官を狙ったのかと。犯人は半笑いでこう答えたらしい。
「英雄様の顔なら俺だってよく知ってる。見た瞬間に、俺の居場所を突き止めたのはこいつに違いないと分かったよ。一方的に人生終わらせられるなんて癪だろ、だから俺も終わらせてやったんだ。イーブンってやつだな」

後日、新聞の紙面に親父が撃たれたという記事が大きく掲載され、ブラウン管の向こうでもそのニュースは何度か取り上げられることとなった。
みな口を揃えて言った。英雄は最後まで正義に生きたと。輝かしい人だったと。
通夜には親父の関係者たちが多く詰め掛けた。たくさんの人が親父の死を悔やみ、悼み、そして泣いていた。立派な人だった、惜しい人を亡くしてしまったと誰もが嘆いた。けれど俺と母親は事態を飲み込むことが上手くできないまま、めまぐるしく次から次へと襲ってくる現実にただ呆然としていたように思う。さめざめと泣く周囲の人間達から、取り残されているような感覚をあの時覚えた。

それからどれほど経った日の事か。
親父が死んでからというもの殆ど喋らなくなってしまった母親が、急に明るい顔つきに戻っていた。
学校から帰宅した俺に、母親は優しく言ったのだ。
「学校はどうだった?」
一体どうしたのか。あの事件の日からすっかり塞ぎ込んでいた筈の母親が、こんなにも穏やかに話しかけてくる。俺は不思議に思いながら「ああ、問題ないよ、母さん」と答えた。それから数回の応酬ののち彼女が放った言葉を聞いて、俺は自分の耳を疑った。
「あなたが頑張ってくれたら、お父さんもきっと喜ぶわ」
その言葉には聞き覚えがあった。これはあの日…あの事件が起こる数時間前、俺たちが交わしていた会話と全く同じだったのだ。
もしかしたらと思いながら、けれどもそんな筈ないと俺はかぶりを振った。あの親父と長年連れ添ったこの人が、そんなに弱いわけないだろうと。声が震えないよう注意しながら、俺は「そうだね」とだけ短く返した。この人はきっと「天国にいるお父さん」と、言いたかったんだ、そうに違いない。
その時は、何かに縋るような気持ちだったと思う。俺の思い過ごしであってくれと、一度だって存在を信じた事ない神に祈った。けれど祈りは、次に放たれた母親の言葉によって粉々に砕かれた。
「お父さん帰ってきたら、みんなでご馳走食べましょうね」
その言葉も一言一句違わなかった。親父が撃たれたあの日、あなたが俺にかけた言葉と。
ああ、やはりそうなんだ。壊れてしまったのだこの人は。俺を置いて一人、遠い所へ行ってしまった。
親父が殺されたことをまだ知らないあの日のあの時間に、母親は閉じ込められてしまった。いや、自ら鍵をかけたのだろう。頑丈な扉は、外から開くことはもう二度とない。
…その後のことは、あまり細かくは覚えていない。ただ、親父の遺産手続きだとか(ちなみに莫大な金額だ)荷物の整理だとか、母親を入院させる準備なんかで忙しく、俺がやっと一息つけたのはそれから数ヶ月後だったと思う。ちょうどその頃は学校の卒業時期と重なっていて、結局俺は両親から「おめでとう」の言葉を貰うことがないままだった。
誰もいない家、静かな毎日。親父の背中を追い続け日々机に向かっていた俺には、他に時間を潰す方法が思いつかなかった。分厚い参考書、辞書の山、本棚に押し込まれた数百冊の本。たった一人で勉強に明け暮れた期間が功を奏したのだろう、俺は検事になる為の任官試験に無事合格した。異例の若さであったことを、就任後、直属の上司に背中を叩かれながら教えてもらった。
「××検事官のせがれ」として周りが抱く俺への期待値は高かったように思う。それは勿論分かっていたことだったし、自分にとってプレッシャーになってしまうこともなかった。俺は懸命に働いた。いや、働いていたのだ。あの頃は多分、父親に恥じぬようにと、純粋に思いながら。


「………」
そこまで話して俺は一旦息をついた。中庭から見える四角い空を見上げ、その青さに少し気が引ける。
「…デューイさん」
ベンジャミンに名前を呼ばれゆっくりそちらへ向くと、なんの前触れもなく、そっと帽子を脱がされた。
「?…なん」
言葉の途中で彼は腕を伸ばし、なぜか俺の頭を撫でた。
「……」
いつもの辿々しい様子はなく、彼はまっすぐ俺を見つめ優しい手つきで俺の髪を撫でている。目の前の彼は、憐れんでいるわけでも気まずそうにしているわけでもない。ただ、その手つきと同じ優しさで微笑んでいた。
「…ベンジャミン?」
「がんばったんだね」
「…んん?」
「デューイさん、たくさんたくさんがんばったね。えらいね。すごい。本当にすごいね」
「………」
それはまるで、五が並んだ通知表を、花マルが咲いた答案用紙を、子に見せられた母親が言うようなセリフだった。
「一人でいっぱいがんばったんだね。寂しかったね。もう大丈夫」
彼は言いながらずっと、俺の頭を撫で続けた。
…ああ、どうして。
「………ふ」
「…うん?」
「あはは」
堪えきれずに笑うと「え、なんで!?」と、途端にいつもの調子で彼が慌てだしたので余計におかしくなってしまった。
こんな大男が頭を撫でられ、がんばったねと褒められる。はたから見たらさぞおかしな光景だろう。現に俺だって、その図を頭の中で思い浮かべてそのちぐはぐさに笑っているのだ。
「頭を撫でられたのなんて、生まれて初めてかもしれないな」
「や、やだった?」
「…いや」
嫌じゃないから不思議なんだ。…ベンジャミンといると、こういった不思議な感情によく襲われる。何故なのだろう。
「へへ。僕も誰かの頭を撫でたの、初めてだ」
はにかみながら手のひらをゆっくり滑らす彼に、俺も自然と笑みが溢れる。まさか「よしよし」をされるなんてな。本当に思ってもみなかった。
「もっと撫でようか?えへ、なんちゃって」
「…うん」
少し悪戯な顔をするベンジャミンに、俺は素直に頭を垂らした。
「もっと撫でて」
その手の感触が心地よくて思わず催促すると、彼は唇を震わせてから「…も〜!」と、怒ったような声で叫んでみせた。
「デューイさんはほんとに卑怯だ!」
今度は両手で俺の頭を乱暴に撫でる。その手つきが、さっきより力強い筈なのにやっぱり優しいものだから、もう一度笑ってしまった。彼も最後は声を出して笑いながら、俺の髪がグシャグシャになるまで撫で続けていた。



「…今回は、どうしてこんなに」
数日後、街灯も届かない街の路地裏でランスキーから情報を貰った俺は、いつものように彼に札束の入った紙封筒を渡したところだった。封筒の中身を見たランスキーが訝しげな目で俺を見る。
「ん?いらなかったか?」
タバコの火をつけながら問うと、ランスキーは内ポケットにそれをねじ込みながら「いや」と否定した。
「…お前がいつも健気だから、もっと力になってやりたくてな。俺からの感謝の気持ちだと思って受け取ってくれたらいい」
いつもの額より数割多い報酬にランスキーは一瞬戸惑ったようだが、すぐに納得したのか(あるいはどうでも良いと思い直したのか)それ以上は特に何も言わなかった。
「………あんたには」
「ん?」
「いや、あなたには…助けられてる」
ランスキーは時間をかけながらゆっくり言葉を選んでいる様子だった。一言一言を糸で繋ぎ合わせるように、彼は言った。
「…一つ、目処が立ったことがある。あなたから貰った金のお陰で。……ありがとう、ございました」
「…そうか、それは良かったよ」
それはやはり、ベンジャミンが絡んだ事柄なのだろう。この律儀で弟思いの男は、脅しから関係を始めた俺相手にさえ頭を下げる。本音を晒せばきっと俺への恨めしさもあるだろうに。それでも言葉にしなければと思ったのだ、つまりそれほどベンジャミンが大切ということなのだろう。
「…俺はお前のことが割と好きだよ」
「…は?」
「金は、大事に使ってくれ。お前だからこんなに弾んでるんだ」
吸い終わりのタバコを靴の裏で踏み付けながら言うと、ランスキーは嫌悪感を丸出しにして「気持ち悪りい…」と呟いた。この兄弟は言葉に衣を着せることを、あまり知らないらしい。



次の週、母親の状態はすっかり元に戻っていた。
穏やかな声色で俺を迎い入れるこの人は、また今日も同じ一日を生きている。
注射の痕や体の傷を増やしながら、それでも同じ日を繰り返すことしかできないこの人に、俺は薄ら寒さを覚えた。
この人は狂っている。そんなことは初めから分かっていた。分かっていたけれど。
「学校はどうだった?」
「…ああ、問題ないよ、母さん」
「そう、安心した。次の試験も頑張るのよ」
「…」
続くセリフを忘れた訳ではない。どうしてか、急に怖くなったのだ。母親が死ぬまでこのやり取りを続けることが、本当にできるだろうか?身体中ボロボロになっていく、白髪と皺だらけになっていくこの人を見ながら、俺は本当に?
「デューイ?」
心配そうに俺の顔を覗き込む母親から堪らず目を逸らしてしまった。母親の体には確かに血が巡っていて、その心臓は脈を打っている筈なのにまるで無機質な物体のように感じる。俺は一体「なに」と、会話をしているのだろう。
無性に、ベンジャミンに会いたくなった。彼の顔が脳裏に浮かんで離れない。この部屋を出て今すぐ、会いに行きたいと思った。
「…ごめん、人を待たせてるんだ」
「そうなの?誰?」
「もう行かなきゃ。また来るよ」
そそくさと丸椅子から立ち上がると、母さんは不思議そうに俺を見上げ、しかしすぐに穏やかな表情に戻った。
「デューイ。あなたは私の自慢の息子よ」
「…」
「あなたが頑張ってくれたら、きっとお父さんも喜ぶわ」
俺は何も言えず、そのまま病室を出た。いや、飛び出したと言った方が正確かもしれない。
薄気味悪くて悪寒が走る。廊下を、半ば走るようにして進み、俺はベンジャミンのいる中庭へと向かった。

中庭の扉の前に着く頃には少し息が切れていた。息を弾ませたままガラスの扉を開けると、ベンジャミンがこちらへ駆け寄ってきた。
「デューイさん、こんにちは」
彼の笑顔が胸の奥へ浸透していく。
…何故そうしてしまったのか自分でもよくわからない。俺は堪らず、彼の華奢な体を引き寄せ、腕の中に収めていたのだ。
「デュ、デューイさん!?」
「…会いたかったよ」
「えっ…えっと…」
「会いたかった」
それは、さぞいい口説き文句になったことだろう。腕の中で困惑するベンジャミンの体温を感じながら、俺は自身に言い訳を連ねる。これはこの青年を懐柔する為の抱擁と台詞なのだと。きっと彼の顔は今、真っ赤に染まっているに違いない。全ては狙い通りだ。
…いや違う、本当は。
心からの言葉だった。本音が口から漏れるとはこういうことかと俺は思い知る。それは大層気恥ずかしくて、とてもじゃないが、誰にも打ち明けられそうにないと思った。

その後、どちらからともなく体を離した俺たちはいつものベンチに隣だって座った。
「…きょ、今日もいい天気だねっ」
唐突なベンジャミンの言葉に促され空を見上げてみるが、視界にはやたら分厚い雲が広がり、陽の光を遮っていた。
「…曇ってるな」
「え!?あ、ほんとだ…」
狼狽える彼がおかしくて俺は思わず吹き出した。きっと会話の糸口を必死で探してくれたのだろう。その健気さにさっきまでの照れ臭さも和らいでいく。
「きみといると気が緩むな」
「え、な、なんで」
「なんでだろう。うーん…」
顎に手を置いて考えてみるが、明確な答えを上手く見つけられなかった。
「…緩むと困る?」
不安な色を滲ませて尋ねてくるので、そんな彼の頭を撫でながら「困らないさ」と答えてやった。
「楽しいよ」
「ほ、ほんと!?」
「ああ。ほんと」
喜びで破顔する彼を、まただ。また俺は「可愛いな」と思いながら見つめている。その事実に気付いた時ほんの少しだけ、心臓が鼓動を速めた気がした。
「僕そんなこと言われたの初めてだ。すごく嬉しい」
「そう?言われ慣れてると思ったけどな」
「ううん。走るなとかちゃんと食べろとか、そんなことしか言われない」
「あはは。まるきり子供扱いだな」
笑うとベンジャミンは不貞腐れたような顔をして「もう16なのに」と付け足した。
「…16か。俺の4つ下なんだな」
「えっ!デューイさんって20歳なの!?ぜ、全然見えない!」
人に年齢を言って驚かれなかった試しはないが、ここまで正直な反応を返されたのは初めてだ。その歯に衣着せぬ発言にまた笑いがこぼれてしまった。
「はは、老けてるって?」
「えっ、あ!いやえーと…凄く大人っぽいから」
「物は言いようだなあ」
「ほっ、ほんとに大人っぽいと思ってる!老けてるなんて思ってない!」
「あはは」
懸命に弁解するその仕草も面白い。「一緒にいると楽しい」と言われたのがどうして初めてなのか疑問に思うほどだ。
「きみだって20歳になる頃は、急に老け込んでるかもしれないぞ」
少し意地の悪い顔をして言ってやるが、彼はその言葉を聞いた途端に困った顔で笑い、それから俯いてしまった。てっきり抗議してくるかと思ったのに。
覗き込もうとしたのと同時に彼は顔を持ち上げ「へへ」と小さく笑ってから言った。
「生きてるかなぁ」
「……」
そして俺は思い知る。彼が20歳まで生きていられる保証が、ないのだ。
彼がどんな薬を飲んでいるのかも、名のついた病を抱えているのかそれとも生まれつき体のどこかが悪いのかさえも、ああ俺は何一つ知らないのだ。
「…僕、もうすぐ大きな手術するんだって」
ベンジャミンはそれからゆっくりと語り出した。
「飲んでる薬がね、すごい強いやつみたいで。このまま飲み続けてたら発作は抑えられるけど、体がボロボロになっていっちゃうんだって。だから、手術のお金があるならすぐにでもした方がいいって」
「…そうか」
「僕、兄ちゃんがいるんだけど、兄ちゃんずっと前からお医者さんにそう言われてたみたい。だから僕のために一生懸命働いてくれてて。多分、危ないこともしてるんだと思うんだけど」
この前ランスキーが言っていた「ある事に目処がついた」というのはきっとこの事だろう。ベンジャミンの手術代が貯まったのだと俺は理解した。
「…手術はね、成功するか分かんない。もしも成功したら普通に生きられるようになるとは、言われたけど…。でもそれ以外は誰も、何も教えてくれないから、きっと成功率、低いんじゃないかなぁ」
副作用も知らない薬を飲んで、成功率すらわからない手術を受ける。それはどれほど理不尽で怖いことだろう。誰かを問いただしたり、その不条理に嘆いたり、彼はしないのだろうか。
「手術するって決まった時、ひとりぼっちで穴ぼこに落ちてくような気持ちになった。でもね今は全然、そんな気持ちしないんだよ」
ベンジャミンはそこでパッと表情を明るくした。それはもしかすると、黙る俺に気遣っての事だったのかもしれない。もしそうなら、そんな事はしなくて良いんだと言ってやりたくなった。
「デューイさんに会えたから!僕、毎日が今までよりずっと楽しい」
悲壮感をまるで滲ませない彼は、無理をして笑っているわけでも、嘘をついているわけでもない。本当にそう思っているのだ。本音をそのまま、等身大の言葉で伝えてくれている。
気づけば俺はベンジャミンのうなじに手をかけ、そっと自分の元へ引き寄せていた。…どうしてそうしたのか、後から考えてもよく分からない。衝動だったのだと言う他に思いつかない。
触れた唇は温度が低く、乾燥していた。目の前で見開かれる水晶玉のような瞳が、ユラユラ輝きながら俺を写していた。
「…嬉しいよ」
自分の口からついて出た言葉に自分で驚く。ああ俺もまた、今本当にそう思っているから言ったのだ。きみと同じように。
「………え」
「俺も楽しい。きみといると。…って、さっきも言ったか」
笑うと、やっと状況を理解したのかベンジャミンは顔を真っ赤にさせてベンチから飛び上がった。
「えええ!?な、なに今の!!?」
「あはは、なんだろうなあ」
「わ、笑ってる場合じゃないよデューイさん!」
「あはは」

当初の目的などすっかり霞んでいた。ランスキーのことも、母親や親父のことだって、きみといると薄れていってしまうのだから、本当にどうしてだろうな…困るよ。
俺は馬鹿だと、多分生まれて初めて自分に対して思った。手懐けるつもりで近づいた彼のことを、愛しいと思ってしまったからだ。



翌週、仕事が立て込んだせいで病院へ向かうのがかなり遅くなってしまった。到着後、急いで病院のロビーを突っ切ろうとしたら、受付にいた看護師に呼び止められた。
「あの、デューイさんよね?」
看護師はカウンターから顔を覗かせていたが、俺の姿を見るなりカウンター横のドアから出てきてこちらまで駆け寄ってきた。
「?はい、そうですが」
「良かった、前に中庭で会ったわね。ベンジャミンの隣に座っていたでしょ?これ、あの子から預かったの。あなたに渡してって」
看護師の手の中には四つ折りにされた一枚の紙が乗っていた。受け取り開いてみると、どうやらそれはベンジャミンが俺へ宛てて書いた言付けのようだった。
「は〜渡せて良かった。ベンジャミンったら随分しつこく念押ししてきたのよ。絶対渡して、お願いだからって」
看護師は安堵のため息を一度吐いたあと「それじゃあ」と付け足してカウンターへ戻っていった。彼女の後ろ姿を見ながら俺も思い出した。そういえばベンジャミンがやけに息を切らせて中庭に現れた時、彼に薬の袋を持ってきたのが彼女だった筈だ。
俺は一番近くの椅子に腰掛け、ベンジャミンからの手紙を読む事にした。

「デューイさんへ
ごめんなさい。今日は兄ちゃんが同僚の人を家に連れてくるらしくて、いつもより早くに帰らなきゃいけなくなりました。僕に紹介してくれるんだって。きっと兄ちゃんがいつもお世話になっているだろうからしっかりあいさつしてきます。来週またデューイさんに会えるのを楽しみにしています。
ベンジャミン」

なるほど彼はもう帰ってしまったらしい。今頃はランスキーと同僚(恐らく奴が相棒として組んでいるルチアーノのことではないだろうか。資料で何度もその名を見かけた。)の二人に囲まれ、楽しく話しているのかもしれない。
顔が見れないのは少し残念だなと思い、いやはや本当に、俺はすっかり自分の本音に正直になってしまったものだなと苦笑した。
ベンジャミンからの手紙を丁寧に折り畳み胸ポケットに閉まう。一度息を吐いてから、俺は母親のいる病室へ向かった。
自分の足取りが驚くほど重たいことに気づき、ふと立ち止まる。ああ俺は本当に正直になったもんだ。ため息が出る。見たくないのだ、彼女の顔を心底。
気づいてしまうと気持ちは更に重たくなった。扉を開ければ今日もまた、同じ角度で首を曲げこちらを向き、同じ声色で俺の名を呼ぶ。その一部始終に付き合ってやるだけなのに、それがひどく憂鬱だった。
俺はいつものように「そうだね」が言えるだろうか。少し自信がない。
「…まるで怖気付いてるみたいだな、俺は」
ドアノブに手をかける自分の手を見つめ、鼻で笑う。必要以上に力の入った右手が無様で、格好悪いと思った。
意を決して扉を開けると、寸分狂わぬ母親の姿がやはりそこにあった。
「デューイ」
ああこの人は俺の名を呼びながら、俺のことなど見てもいない。
「学校はどうだった?」
「…」
日々があなたを取り残したのと同じように、あなただって俺を取り残した。母親として息子である俺と生きていくことより、妄想の中の親父と生きていくことを、あなたは選んだのだ。
…コケにされたものだと、思ってしまった。
一人で生きてきた日々は、それなりに大変で寂しかったよ。母さん。
「………俺はもう就職してるよ」
何百回と読み合わせてきた台本を、俺は今日初めて捨てる。破り捨ててやりたかったのだ本当は。ずっと、ずっと。
「…なに?なんて言ったの?」
「俺はもう検事として働いてる。学校なんて行ってないよ」
「デューイ?…なに?…わからないわ。何を言ってるの?」
「それからずっと言いたかった。もう母親でも何でもないあんたに「自慢の息子」って言われるのはまっぴらなんだ。二度と言わないでくれ」
「…デューイ?どうしたの、そんなに怖い顔して…。お母さんをからかってるの?」
数年かけて守ってきたものを俺は次々に壊していく。そうしてみて初めてわかった。あまりに呆気なくひび割れていくそれは、きっと元から壊れていた。守らなくたって元から、死んでいたんだ 。
「お父さんと喧嘩でもしたの?私で良かったら話してちょうだい」
母親はそれでも尚、そちらの世界から出てきてはくれなかった。…そうかあなたは、これほどまで遠いところにいたんだね。
「親父は死んだよ」
「……」
「殺されただろ、何年も前に。一緒に葬式に出ただろうあんただって」
「…デューイ、冗談でもそんなこと言うのはやめなさい」
「死んでるんだ。いい加減受け止めろよ」
「……なにを言ってるのさっきから」
「親父はもういないんだよ。あんたが閉じ籠ろうがどうしようが変わらない、死んだんだ」
「いい加減にしなさい!」
母親は叫ぶように言い放ち、力強くシーツの皺を握りしめた。両手は怒りでなのだろうか、震えている。
「悪趣味な冗談にこれ以上付き合えない、今すぐ口を閉じなさい!」
「悪趣味な冗談?俺のセリフだよ、あんたの冗談にこっちは何年付き合ってやってると思ってる?心が壊れたあんたを腫れ物のように扱う数年は心底面倒で仕方なかった、あんたの話に付き合った後親父の墓参りに行った時の俺の気持ちがわかるか?手を合わせて思うことなんていつも決まってる、親父も間抜けなら母さんも大概狂ってるよなって、いつも笑うしかなかったんだ。あんたが病院のベッドの上でお気楽に狂ってる間俺はずっと一人で生きてた。ずっと思ってたよ、俺だっていっそ心が壊れれば良かったって。そうしたらぬるま湯に浸かりながら妄想の中で生きていられたんだろうな、あんたみたいに」
書き殴るように吐き連ねてやると、ベッドの上の母親は黙り込んでしまった。息継ぎはおろか、瞬きさえしない。微動だにせずしかしがらんどうな瞳は俺をじっと見つめていた。その光景に、俺はゾッとする。
「ああああぁーーーーーっ」
突然、彼女が大きな声で叫んだ。瞳を見開いたまま口を丸く開き叫ぶ姿はとても正気とは思えない。俺はもしかしたら、取り返しのつかないことをしてしまったのではないか。
耳を塞いでも彼女の叫び声は鼓膜を揺らし脳天に届く。俺は急いでナースコールのボタンへ手を伸ばした。焦るせいでコードを上手く手繰り寄せられずボタンを押すのに数秒かかってしまった。母親の金切り声は未だ止まない。早く。早く。
ほどなくして数名の看護師が病室内へやってきた。彼女たちは母親の耳元で呼びかけたり背中を叩いたりしている。
「あの、何かありました!?」
看護師の中の一人が俺に向かって尋ねる。しかし俺は母親の異様な状態に動転していてすぐに答えられなかった。
「デューイさん!大丈夫ですか!?」
看護師に肩を揺すられハッとなる。俺はそこでようやく「はい」と返事をすることができた。
「私達はお母さんとお話してみますから、デューイさんは席を外してくださっても大丈夫ですよ」
「…はい」
看護師に半ば締め出されるようにして、俺は病室の外へ出た。中からはまだ母親の声が響いている。
恐怖で指先が冷えていくのがわかる。とんでもないことをしたのかもしれない。言ってはいけない言葉を何度、母親に投げつけたのだろう。
けれど俺だってずっと苦しかった。数年分の思いの矛先は全て、だって、他の誰でもないあなたに向かっていたんだ。
心臓がドクドクと血脈の音を鳴らす。俺は母親の声から逃れるようにして、その日病院から飛び出した。

…次の日の朝、病院から俺宛に一報あった。母親が病室の窓から飛び降り、命を絶ったと。




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