箱庭の空
4


神様がもしもいるなら「ありがとう」を伝えたいと、僕は生まれて初めて思えた。
最後にデューイさんと出会わせてくれて本当にありがとうと、頭を下げてお礼を言いたい。
僕はデューイさんに夢中だった。夢中で恋をしていた。読んで字の如くそれは夢の中みたいな心地で、足元がふわふわと重力に逆らうような感覚さえ僕は覚えていた。
デューイさんにキスをされたことを思い出す。その度に心臓は勢い良く跳ね上がった。自分の唇に触れて、ああこれがあの人の唇と重なったのだと余韻に浸る。
彩りのない世界に突然現れた彼は、僕に初めての感情をたくさんもたらした。そのどれもが鮮烈で、僕の木偶の坊な心臓は一生分の脈を打ってしまったんじゃないかと思うほど、踊って、暴れたのだ。
彼のどこまでが本当なのか僕にはわからない。でも、たとえ全てが嘘だとしても彼に弄ばれているだけなのだとしても、僕は幸せで堪らなかった。僕でも夢を見ていいのだとデューイさんは教えてくれた。最後に見る夢がこんなに素敵なものなら、やっぱり生まれてくる感情は「ありがとう」しかない。
僕は今までずっと、優しい人たちに見守られて生きてきた。手を差し伸べられ、そして支えられながら「転ばないよう気をつけて」と言われ、いつも足元を見つめ歩いてきた。知らない道や知らない場所を避け、小さな枠の中で生きる毎日は、穏やかで息苦しくて、本当はいつだって寂しかった。
けれどデューイさんは僕を思って嘘なんかつかない。足元を見ておけと忠告なんかしない。人に手を引かれるばかりで隣を並んで歩けない僕は、だけどデューイさんと一緒にいる時だけは隣り合っている気がした。デューイさんは僕に「きみといると気が緩む」と、「一緒にいると楽しい」と、初めて言ってくれた人だ。それがとれほど嬉しかったか、ねえデューイさん、わかる?

「そろそろ行くか」
「うん」
兄ちゃんが準備を終え玄関の前で僕を待つ。今日は木曜日。これから兄ちゃんと二人で病院に行く。手術の詳しい説明とその為に必要な準備、それからその後の流れなどを聞きに行くのだ。
デューイさんとは先週会えずじまいだったからとても恋しくて、病院に向かう途中何度も「もしかしたら喫煙所にいたりしないかな」なんて思ってしまった。急く気持ちをなだめ、明日になったら会えるのだと自分に言い聞かせた。明日会ったら、今度はデューイさんとどんな時間を過ごせるだろう。

病院に到着し中に入ると、いつものようにミランダがそこにいた。
「あ、兄ちゃんちょっと待ってて」
「ん?ああ」
兄ちゃんに一言告げてからミランダの元まで向かう。彼女は僕に気づくといつものように「あらベンジャミン」と言った。
「今日は木曜日じゃなかった?どうしたの?」
「兄ちゃんと今度の手術の説明を聞きにきたんだ。ねえそんなことより」
僕は早速本題に入る。
「手紙、ちゃんと渡してくれた?」
ミランダは一瞬なんのことか考える素振りを見せたがすぐに思い出して「ああはいはい」と頷いた。
「あれね。もちろんちゃんと渡したわよ」
「ほんと?良かった。えへ、ありがとう」
「それにしても随分と接点がなさそうだけどあなたたち。どうして仲良くなったの?」
恐らくそれはミランダにとっては素朴な疑問だったんだろう。けれど僕は特別な秘密ごとを突かれている気になって、にんまりしてしまった。
「ひひ、内緒」
僕がそう答えると、ミランダも笑って「なぁによそれ」と言った。
そのあとミランダに手を振って、僕は兄ちゃんの元へ戻った。兄ちゃんと二人、受付前の長椅子に座り順番が来るのを待つ。チラリと中庭の方へ目を向けたが、やっぱり今日はデューイさんの姿はなかった。

「じゃあ早速、説明していきましょうか」
ルイス先生に呼ばれ兄ちゃんと二人で診察室に入る。先生はいつもより沢山の資料を机の上に広げながら僕らに一つずつ、時たま「えー…」と間延びした接続詞を挟みながら説明をしていった。
手術前と後で必要になるものだとか、こういう書類にサインしてくださいだとか、最初はそんな話ばかりだった。兄ちゃんは何度か頷きながら先生の話を真剣に聞いている。僕は途中で気がそれてしまって、診察室の壁に貼られたポスターなんかを見たりしていた。
「…それじゃあ手術の内容についてね、お話します」
ルイス先生はその前置きの後複数枚のレントゲン写真を貼り出してから、キャップをつけたままの赤ペンで写真のある部分を指し示した。
「えー…ここ。この部分を切開して狭くなってる箇所を拡げる。それからここも。奥の方でなかなか届きにくいので、時間かかると思っておいてください。…この血管の部分が無事に処置できたら、ベンジャミンくんは薬も必要なくなるし全力疾走だってできるようになります」
薬のいらない体。走れる体。与えてもらえるなら僕はもちろんそれが欲しい。けれど易々と手に入れられる訳がないんだと先生の口ぶりで否が応でも分かってしまう。先生は今までで一番長い「えー…」を置いてから、続きを話し始めた。
「…手術の難易度としては、大変難しい。この部分に刃を入れて、その後閉じる作業が…うん。物凄く難しいです」
先生の言葉に兄ちゃんの顔が曇る。僕も、分かってはいたことだけれど先生の口からはっきり聞くと、それら事実に重みが増して気分が沈んだ。
「成功する確率は、うん…そうですね。10から15パーセントくらいと、思っておいてください」
「……」
10回やって、そのうちやっと一回成功するくらいの確率。…その一回が最初にやってくるなんてことは多分ないだろう。僕には到底、10パーセントを信じる底力なんてない。
「…成功、しなかった場合は」
兄ちゃんが膝の上の拳に力を込めて先生に尋ねた。先生はレントゲン写真から兄ちゃんへ向き直り、その質問にゆっくりと答える。
「成功しなかった場合はその後、えー…人工管が必要になります」
「え」
診察室に入ってから初めて漏れた声がそれだった。僕はルイス先生を見つめ、今の言葉がどういう意味だったのか考えた。
「管をね、入れます。きみの体に。この血管が上手く閉じれなかった場合は人工管を入れないと、放っておいたら心臓が止まってしまうので」
人工管。言葉だけ聞いてもよく分からない。手術が失敗した時の代償を、僕は勝手に残りの寿命の長さだと思っていた。でも、そうじゃなかったのだ。
「…えー…。その場合もちろん入院になります。自分で自由に体を動かせるようには、ならないかもしれない。場合によっては、眠り続けるような状態になるかもしれないで」
「植物状態ってこと?」
先生のゆっくりと紡がれる言葉を遮り、聞いた。瞬きもせずに先生を見つめていると、先生は赤ペンのキャップの先で頭を掻きながら「えー…」と声を絞り出した。
「…うん、そうだね、成功しなかったら。…そうなることを視野に入れておいてください」
先生はそこまで言い終わると「他に聞いておきたいことはありますか?」と付け足して僕たちにそれぞれ視線を送った。
僕は誰かに喉元を締め上げられたような気分だった。呟く声の一つさえ出ない。兄ちゃんも同じだったのか、先生が「今じゃなくてももちろん質問は受け付けますから」と言って書類をまとめるまで一言も声を発さなかった。
「…書類、渡しておきます。中に同意書も入ってる。話し合って決めてください」
ルイス先生は最後に、僕たち二人を真っ直ぐ見つめ言った。
「…ただ、ゆっくり決めてとは言えないです。手術をするなら今すぐにでもした方がいい。今ベンジャミンくんが飲んでいる薬は、発作を抑える代わりに体に甚大な負担をかけています。服用し続けていくと、近いうちにきみの体は負けてしまう」
「……」
「…それから、手術の成功率も。延ばすほど下がります。だから本当に…よく話し合ってください」
「………わかりました」
兄ちゃんは書類数枚を受け取り頭を下げた。
「ベンジャミンくん明日も来るの手間でしょう。薬は今日出しておくから、もらっていってください」
「…はい」
それから二人で診察室を出て、受付で診察料と薬代を払うまでの間、僕たちはお互いにただの一言も会話を交わさないままだった。

このまま手術を受けなければ、薬によって体がボロボロになり近いうち死ぬ。手術を受けもしも成功したら僕は元気な体を手に入れられるけど、その可能性はおよそ1割だ。残り9割、恐らく僕は病院のベッドに寝たきりになる。五感は、意識は、その時もしかしたらないのかもしれない。そうなったら僕はもう、生きることも死ぬことも自分で選べなくなる。
二つの選択肢とその先それぞれの末路を頭の中で並べ、思わず僕は笑ってしまった。どちらを選ぼうと世界は灰色一色だ。ずいぶん前に手放した感情だと思っていたけれど、まだ僕の中にも残っていたんだな。…怖いという気持ちが。

「…ベンジャミン、俺は」
食卓の上に書類を広げ、兄ちゃんが口を開く。病院を出てから初めて聞く兄ちゃんの声だった。
「手術を受けてほしい」
「…」
僕はベッドに腰掛けて本を読んでいたけれど兄ちゃんのその言葉に活字を追う目が止まってしまい、それ以上先を集中して読めそうになかったので本を閉じた。目を瞑り息を吐く。体の奥に重苦しい煙のようなものが充満していく感覚がした。
「…そしたら僕、植物人間になっちゃうよ」
俯き、自分の足先を見ながらそう言うと、兄ちゃんは数秒の沈黙の後に言った。
「成功しないと決まった訳じゃない」
「でも、する訳ないって思わない?」
兄ちゃんはやけにはっきりとした声で「思わない」と答えた。
「俺はお前に、元気に長生きしてほしい」
「兄ちゃん、話し合いしようよ。夢を語り合ってる場合じゃないよ今」
「夢じゃない。手術を受けたらそうなるかもしれないんだ。ベンジャミンお前こそ、俯いてないでちゃんと俺の方を見ろ」
兄ちゃんに言われ、僕は自分の足元から兄ちゃんの方へと視線をゆっくり上げた。兄ちゃんは真剣だった。本当に真剣に、1割の可能性を信じているんだ。
「…僕が何言っても「手術受けよう」としか言わないでしょ」
「…そんなことは」
「僕、10パーセントに縋り付く元気ないや」
「…」
「手術、受けたくないな。…長生きできなくていいよ。走れなくてもいい。きっとあと数ヶ月くらいは生きられるでしょ?だったらそれでいい」
「どうして何もしないで諦めるんだ。やってみなきゃ結果はわからないだろう」
「だって受けたところで植物人間になるんだよ。兄ちゃんが今まで頑張って貯めたお金も無駄になるし、手術した後もずっとお金がかかっちゃうんだよ」
「だから、そうなると決まった訳じゃ」
「もう嫌だよ、うるさい」
兄ちゃんが口を開いたまま固まる。ああ、僕はどうしてこんなにも今、滑らかに口が動いたのだろう。不思議だった。今までずっと頷くばかりだったこの心の操縦が、今初めて、上手くできない。
「手術が失敗したその後のこと兄ちゃんはちゃんと想像できる?僕はできるよ、ベッドに括られて管をねじ込まれて僕は生きながら死体みたいになるんだ。兄ちゃんの金をむしり取り続けて、それがどんなに嫌でも嫌だってことすら言えなくなってさ。ねえ、僕のせいで兄ちゃんが危ない仕事してきたこと、僕ずっとずっとわかってたよ。それがどれだけ嫌だったか兄ちゃんにわかる?ねえ兄ちゃんは、手術に失敗したらその時は殺してって僕が言ったら殺せる?殺せないでしょ?僕が今どんなに頭を下げたって兄ちゃん殺してくれないでしょ?ねえ僕そうなったら自分で自分を殺せないんだよ、嫌なんだよどうしてわかってくれな」
「お前が死ぬ話をしてるんじゃない!!」
兄ちゃんが一際大きな声をあげて僕の言葉を制止する。
「お前が生きる話をしてるんだ、ふざけるな!!」
「……」
…きっと、わからない。この人にわかるはずもない。寄生するようにしか生きられない僕のことを、僕はずっと前から、それだけで大嫌いだったんだ。
「話し合いになんかならないよ、兄ちゃん」
「そうやってさっきから、終わらせるみたいな言い方をなんで」
「もういい、聞きたくない」
「ベンジャミン」
「聞かない。兄ちゃんももう僕の話を聞かなくていい」
そして布団を頭まで被り僕はベッドに体を埋めた。兄ちゃんはそれから何も言わず、恐らく食卓の椅子だろう、それを一脚蹴り上げて大きな音を家中に響かせた。少ししてから椅子を元に戻す音がして、その後兄ちゃんは何も言わないまま別室へと移動した。
兄ちゃんが何かに当たるところなど、今まで見たことがない。僕の言葉にそれだけ苛立ったのだろう。僕はベッドの中で「ごめんね」と「兄ちゃんのばか」を交互に唱えた。正反対の気持ちはシーソーみたいに揺れる。
何にもわかんないくせに。だけどごめんね。優しい兄ちゃんに優しくできなかった自分が嫌で、唇を強く、強く噛んだ。


いつの間に眠っていたのか、気づくと朝になっていた。ベッドから起き上がり家の中を見回すが兄ちゃんの姿はない。ふと、食卓の真ん中に兄ちゃんの書いたメモが乗っていることに気づく。
「仕事に行く。明日の朝帰る。明日また話そう」
それだけしか書かれていないけど、きっと兄ちゃん、なんて書こうかたくさん悩んだんだろうな。ずいぶん筆圧の強い文字が並ぶそのメモをそっと撫でながら、明日僕たちはお互いに納得できる答えを出せるのか疑問に思う。だって兄ちゃん。僕は一晩経っても、昨夜自分が言った言葉のたった一つでさえ、訂正する気が起こらないんだ。
ああそうだ、今日は金曜日。デューイさんに会いに行かなくちゃ。

いつもの金曜日より少し早めに家を出て病院への道を歩く。薬は昨日貰ってしまったから、今日は彼に会う為だけに病院へ行くということになる。デューイさんに会ったら何を話そう。そうだ、先週ルチアーノさんという兄ちゃんの同僚の人に会ったんだ、その事を話そう。それからものすごく会いたかったことも伝えよう。あとは、それから。
…もう一つだけお願いしたいことがあるのだけれど、それはあまりに大それた願い事だから、この胸の中にだけにしまっておいた方がいいかもしれないな。
病院に到着し、カウンターにいるミランダに手を振る。彼女は「あら、昨日ぶり」と言って手を振り返してくれた。
彼女は昨日僕たちとルイス先生が話した内容を知っているのだろうか。きっと、何も知らない筈はないと思う。そう考えたらなにかまた、僕が話しかけに行くことで彼女に嘘をつかせてしまうように思えて気が引けた。結局手を振っただけで近寄りに行かなかった僕を、ミランダは少し不思議そうに首を傾げながら見ていた。
ロビーの椅子に腰掛けず、僕は真っ直ぐ中庭へ向かう。お互いに時間を提示したことはないけれどデューイさんと落ち合う時間帯は大体決まっている。まだその時間よりだいぶ早いから、中庭をゆっくり見歩きながら彼を待とう。
そう思いながら扉の取っ手に手をかけると、背後から誰かの手が覆い被さってきた。長くて美しいその指の持ち主は、見間違える筈もない。振り向いた先にはやはりデューイさんがいた。
「こ、こんにちは」
声が震えた。…会いたかった。デューイさん会いたかったよ。
「…ここに来なきゃきみに会えないんだから、困るよ」
デューイさんはそう言って、僕の肩にそっと頭を預けた。デューイさんの帽子のつばがうなじに当たる。一体どうしたのかと問う余裕なんてなかった。ただ煩くなる心臓を抑え込もうとするだけで、僕は手一杯だ。
「……ベンジャミン」
「は、はい」
「会いたかった」
「……僕も」
「…困ったな…」
デューイさんは呟いて頭を持ち上げた。肩から重みが消え、デューイさんの温もりだけがそこにじんわりと残る。
見上げると、彼はなぜか切羽詰まったような表情をしていた。
「…デューイさん?ど、どうしたの…」
「きみと二人きりになりたい」
デューイさんの言葉にいよいよ心臓は破裂しそうになる。大きく脈打つそれを制御できる筈もなく、僕はただ彼を見つめることしかできない。
「…え、えと、あの」
「困る?」
困るわけない、そんなわけないじゃないか。僕だってデューイさんと二人きりになりたい。今すぐにだって構わない。例えデューイさんの真意と僕の想いが重なっていなくてもいい。…どこへでも連れて行ってほしい。
言葉が上手く出てこなくなり代わりに目で訴えると、デューイさんは僕の気持ちを正しく汲み取ってくれたのだろう。「車を停めてあるから」と言って、僕の肩を抱いた。

「薬は?もうもらったか?」
駐車場に向かう途中でデューイさんが思い出したようにそう訊くので、僕は慌てて二回頭を縦に振った。
「そうか、じゃあ乗って」
デューイさんがドアを開けたその車はピカピカで車体がスラリと長く、詳しくない僕でもパッと見ただけで高級なのだと分かる外見をしていた。
「す、すごいね」
「ああ、車か?うん、親父のだからな」
デューイさんはそれだけ答えて僕を助手席に誘導した。僕が乗り込んだのを確認すると反対側に回り、長身を窮屈そうに折り曲げて運転席に座った。
「今日は…きみに会う為だけに来たんだ」
「え、そうなの?お母さんのお見舞いは…?」
「……」
デューイさんはそれから黙り、フロントガラスの向こうの景色をじっと見据えていた。
「…ベンジャミン」
「うん?」
「きみの家は?誰かいる?」
「えっ、ぼ、僕の家!?…い、いないけど…」
「じゃあ今から行ってもいいか?道案内してくれると助かる」
「え、えええ!?」
デューイさんの唐突な提案に僕は動揺した。だって、あんな狭くて散らかった家にこの人を招くなんて、どうしよう、物凄く抵抗がある。
「せ、狭いよ」
「いいよ」
「か、片付いてなくて、あの…汚いんだ」
「いいよ、気にしない」
「…〜っ、あの、デューイさん…幻滅するかも…」
意を決して伝えるが、デューイさんは「あはは」とおかしそうに笑っていよいよエンジンをかけてしまった。
「楽しみになってきた。よし、行こう」
「え、えぇ…!?」
「ほら、道案内して」
片手でハンドルを回しながら、デューイさんはもう片方の手で僕の頭をさらりと撫でた。…ああもう。こんな風にされたら何も言い返せる訳がない。僕は小さく「はい」と頷くしかなかった。
運転するデューイさんの姿は本当にかっこいい。僕はそれを隣で盗み見れる幸運に感謝した。ハンドルを握る手もギアを変える動作も信号を見上げる上目遣いも。そのどれもを写真に収めておきたいと思うほど、僕は今、見惚れている。ああ、サイドミラーに映る自分の顔はきっと、みっともないくらい赤いのだろう。
ふと、前方のダッシュボードにいくつかの領収書と免許証が置いてあるのに気付いた。
「ねえデューイさん、これ、免許証見てもいい?」
「ん?ああいいよ」
デューイさんはハンドルを操作しながら快く了承してくれたので、僕は早速免許証を開いて中を見た。
中にはデューイさんの顔写真と、年齢や職業、それから住所が載っている。どんな写真か気になって見てみたのだが、やっぱりそこには想像していた通り凄く素敵なデューイさんの顔が写っていた。新聞の記事の時も思ったのだ。デューイさんは撮られる時少しだけはにかむ。きっとカメラを向けられるのが苦手なんだろう、僕は身悶えするほどデューイさんのこの表情が好きなのだ。
「どうした?そんなじっくり見て」
「え、ううん、えっと…住所覚えとこうと思って」
咄嗟についた嘘はまるでデューイさんをつけ狙ってるみたいで、言ってしまった後、怖いと思われねないと気付いた。でもデューイさんは運転しながらおかしそうに笑った。
「あはは。覚えてどうするんだ?」
「…て、手紙を書きたくなるかもしれないよ、デューイさんに」
「きみが俺に?」
「うん」
「あはは、どんな内容?」
「……そんなの…」
想いをしたためたラブレターになってしまうに決まってる。さすがにそう答えるのは恥ずかしくて、だから僕は窓の外に目を向けながら「世界情勢のこととか」と言って誤魔化した。デューイさんはまたおかしそうに「あはは」と笑った。

車は15分ほどで僕の家に到着した。デューイさんは家の前のわずかなスペースに難なく車を停め、助手席側の扉を外側から開けてくれた。
「道案内ありがとう」
「う、うん…」
「顔色悪いな。すまない、酔ったか?」
「ううん。いや…だって、家に着いちゃったから…」
とうとうデューイさんに家の中を見られてしまう時が来た。間違いなく幻滅されるだろうと思い僕はさっきから気が気じゃなかったけれど、デューイさんは相変わらず楽しそうに笑って「まだ言ってる」と僕をからかうだけだ。
「ねえ、あの、ほんとに狭いし汚いよ」
「わかったわかった」
「…ええと…開けます…」
観念して鍵を回す。ゆっくりと玄関の扉を開けると、後ろにいたデューイさんが丁寧に「お邪魔します」と言って頭を下げた。
中の様子を見渡して、朝、そのまま出てきたことをとても後悔した。ぐちゃぐちゃのベッドは少しくらい整えるべきだったし、食卓に出したままの食器とコップもシンクに戻せば良かった。しかも床には今朝僕が脱いだパジャマがそのまま放置してあるし、読みかけの本が何冊もページを開いたままの状態でベッドの周りに落ちている。…ああ、あそこには兄ちゃんの靴下とパンツまで落ちてるじゃないか。
恐る恐るデューイさんの方を振り向くと、彼は呆気にとられた顔をしていた。ああ、どうしようやっぱり驚いているのだ。
「………汚いな」
「!だ、だから言ったのに!!」
「ごめん、まさかここまでとは思わなくて」
「……っもう!こういう時こそ嘘ついてよ、デューイさんの十八番でしょ!?」
いつもスマートに嘘をついてくれるじゃないか、なのにどうして!あまりの恥ずかしさに本気で抗議したが、デューイさんは僕の言葉に随分驚いた様子だった。
「…俺の十八番?」
「知ってるよ、ナースの◯◯や△△に笑顔貼り付けて喋ったりしてたでしょ!ずっと前からデューイさんのこと見てたんだからそれくらいわかる!」
デューイさんは僕をじっと見つめ、数秒後また心底おかしそうに「あはは」と笑った。だからもう、さっきから。全然面白くないってば!
「はあ…そうか。きみには最初からバレてたのか」
何かを思い出すように遠くを見つめ、デューイさんは優しく笑った。
「…十八番だけどな、確かに。でもきみの前だと嘘が上手につけなくなるんだ。ごめん」
「………嘘だぁ…」
「あはは」
本気なのかはぐらかされているのか、よく分からない。彼の分からせないところが僕は大好きな筈だったけれど、今だけはそれがちょっと歯痒い。…でもいいや。笑い声もその表情も、今確かに聞いて見ることができている。その事実はどうあがいても嘘になんかならないんだから。
「さて、じゃあ本当にお邪魔します」
デューイさんは足取り軽く部屋の中へ入り、当たり前のように食卓の上の食器を重ねてシンクの中へ移動させた。
「あ、ま、待って触らないで、自分でやる!」
「あはは。じゃあきみはあそこの靴下と下着担当な」
デューイさんが指差して笑うので、僕はハッとして「ちなみにあれは兄ちゃんのだから!」と慌てて補足した。

………。どうやらデューイさんは根っからの綺麗好きらしい。僕が何度止めても笑ってはぐらかし、家中の散らかったものを片付けてしまった。挙げ句の果てにはクローゼットからはみ出した服を畳んでくれたし、シンクの中に溜まった食器もあっという間に全て洗ってくれた。僕がその間にしたことと言えば床に広げていた本を数冊棚に戻したことくらいである。手際の良さが違う、圧倒的に。
「うん、綺麗になった」
「…お手数を…おかけしました…」
「はは、やり甲斐があって楽しかったよ」
デューイさんは両手を腰に当てて満足そうに笑った。まさかこんなことになるなんて。ねえ兄ちゃん。なんでか街の検事さんがやって来て家の中を綺麗にしてくれたよ。…帰ってきた兄ちゃんにこんな説明をしても訳がわからないという顔をされるに決まってる。
「何か飲むか?えぇと、冷蔵庫の中になにか入ってるかな」
「僕が!やるから!座ってて!」
また勝手に動こうとするデューイさんを食卓の椅子に無理やり座らせ、僕は普段は使わないお客さん用のコップを棚から取り出した。デューイさんに中身を見られないよう、冷蔵庫の扉を少しだけ開く。…ほらやっぱり。中はメチャクチャで、とてもじゃないけど見せられたものじゃない。
偶然にも兄ちゃんが先日買ったばかりのフルーツジュースがあったので、それを注いで食卓の上へ置いた。
「ありがとう、いただきます」
「デューイさん、もう立たないでね」
「どうして?」
「勝手に見たり片付けたりしないで。言ってくれたら僕がやるから」
「あはは。はいはいわかった」
デューイさんは肩をすくめて、それからジュースを一口飲んだ。…不思議な光景だ。今、僕の家にデューイさんがいるだなんて。
「……きみといると」
「ん?」
「不思議なんだ、本当に。会うまでは…結構本気で落ち込んでいたんだけどな」
「え、なにかあったの…?」
僕の問いにデューイさんはもう一口ジュースを飲んでから答えた。
「…母親が死んだんだ」
「え」
「先週、俺が見舞いに行った後に病室の窓から飛び降りたと、病院から連絡があった」
デューイさんは伏し目がちに語った。全く想像もしていなかった内容に僕はなにも言葉が出てこない。ただ、やけに穏やかな口ぶりで語るデューイさんが不思議で、どうしてか口元を食い入るように見つめてしまった。
「親父はもう死んでるって、あんたの心は壊れてるんだって…彼女に言ったんだ。何年もずっと言わずにいられたのにな。言ったらだめだと医者からも忠告されてたのに」
「…」
「黙ってられなくなったんだ、急に。…母親は、きっと受け止めきれなかったんだと思う。俺が殺したも同然だ」
「そんなことない」
「…いやいいんだ、違うんだよ。ベンジャミン俺は、早くくたばればいいと思ってた」
デューイさんはそれから一呼吸起き、胸ポケットから何かを取り出した。
「母親のベッドの脇にあったと、看護師の一人から渡された」
食卓の中央にデューイさんがそっと置く。見るとそれは封筒に入った手紙のようだった。封筒の隅には小さい字で「デューイへ」と書かれている。
「…まだ中を見てないんだ」
「…うん」
「きみと一緒になら、見られるかなと思って。…持ってきた」
デューイさんはそう言って封筒の中身を取り出した。中には白い便箋が一枚、四つ折りの状態で入っていた。デューイさんはその便箋を開こうと、なかなかしなかった。僕は思わず便箋を持つその手に自分の手を重ねる。
「…僕が、開いてあげる」
デューイさんの手を先導して便箋をゆっくりと開く。黒いインクで書かれた文字が中から現れ、僕たちはほとんど同時にそれを読んだ。

『デューイ。今までごめんね。本当にごめんなさい。あなたを心の底から愛してる。これからもずっとよ。』

白い便箋の中央にはそう書かれていた。
僕はゆっくりとデューイさんの方へ視線を動かす。彼はただ静かに、便箋に書かれた文字を見つめていた。
「……てっきり恨まれてるのかと」
それだけ言ってあとは口元に手を当て押し黙ってしまったデューイさんに、僕は居ても立っても居られなくなり椅子から立ち上がった。彼の目の前まで移動し、座っている彼の頭を両手で抱き寄せる。どうしてそうしたのか、後から考えてもよくわからない。けれどそうしなければいけないと強く、その時思ったのだ。
「…」
彼は何も言わず僕の背中に腕を回した。デューイさんの息が僕の胸にかかる。まるで心臓を直接温められているようで、僕はその感触を一つも取り零すまいと腕の力を強く込めた。
「泣いても大丈夫だよ」
頭を撫でながら言うと、デューイさんは胸の中で小さく笑った。
「…ふ。泣かないよ」
デューイさんは僕を見上げ、それから軽くキスをした。重なる唇から果物の味がする。さっき飲んだジュースのせいだ。
…心臓が痛い。ああこの気持ちをなんと言うのだろう。
「…僕はいるよ」
「うん?」
「デューイさんのそばにいるよ。デューイさんのことちゃんと見てるよ」
言葉ではきっと伝えきれない。僕がどれほどデューイさんに焦がれているか、ねえデューイさん。知らないでしょう?
デューイさんの飴色の瞳に僕が映る。吸い込まれてしまいそうだなと思ったその時、僕たちの唇はもう一度重なった。
デューイさんがうなじに手をかけ、僕の体を強い力で引き寄せた。体は簡単にバランスを失って彼の太腿に跨るような態勢になってしまった。…どうしよう、こんなの初めてなのに。どうして僕の両腕はこんなにも自然に、デューイさんの両頬を包んでいるんだろう。
「…ん、ん…」
デューイさんの吐いた息が直接口内へ入ってくる。それがやけに熱くて僕は内側から焼かれてしまうのではないかと思った。
「…ベンジャミン、開けて」
「…?な、なに?」
「口を開けて」
デューイさんが息をほんの少し荒らしながらそう言った。意味を理解した途端、体に変な力が入ってしまった。もしデューイさんにこれが伝わっていたら…ああ、恥ずかしいな。
おずおずと口を開くと、デューイさんは優しく微笑んでからその隙間に舌をゆっくり押し入れた。
「……っ」
デューイさんの舌が僕の口の中に入ってくる。上唇を右から左へ丁寧に舐め上げられた後、今度は下唇の裏側を何度も舌先で撫でられる。僕は今にも意識が飛んでしまいそうで、だからデューイさんの後頭部に両手でしっかり掴まった。
「…う、ぅ…ん…」
いよいよ舌は口内の中央へと進む。自分の舌を優しく突かれて、僕はそれだけで全身に鳥肌が立ってしまった。こんなキス、生まれて一度もしたことがない。どうしたら良いか分からない僕をエスコートするように、デューイさんはゆっくり僕の舌全体を舐めて回った。
「…あ、ぁ、ま…まって…」
言っている途中で涎が口の端から漏れてしまった。どうしても食い止めたかったのにそれは留まってくれることはなく、デューイさんの制服の上に落ちていった。
「…ん、んっ、デューイさん」
「うん?」
やたら湿度を纏ったデューイさんの相槌にドキドキしながら、僕は慌てて舌を引っ込めた。
「せ、制服…僕のよだれが」
「うん」
デューイさんはどうでも良さそうに頷いて、僕の舌をもう一度捉えようと更に舌を突き進めた。涎は今も尚、ポツポツと彼の制服に落ちて染みを増やしていく。
「あ、よ、よだれ…垂れてるから」
「うん」
「ん、汚しちゃうよ、やだ」
「いくらでも汚していいよ。もっと垂らして」
「う、んぅ…ぅ〜…!」
全然聞いてくれないデューイさんにしびれを切らし、僕はいよいよ彼から自分の体を引き離した。舌を差し出して口を開けているデューイさんの顔が目の前に現れる。その眼差しと、糸のように繋がる唾液に僕の心は簡単にめちゃくちゃにされた。
「…っデューイさんが、僕のよだれがついた制服着てるなんて絶対いやだ!」
デューイさんは一瞬きょとんとしてから、その数秒後に「あはは」と、もう本当に何度目かわからない、おかしそうに声をあげて笑ったのだった。
「きみが言うことは本当にいつも予測できないな」
「し、知らないよもう。拭くもの持ってくるからデューイさんはここで待ってて」
立ち上がり、僕は急いでタオルを用意した。すぐに戻ってデューイさんの元へ駆け寄ると、彼はじっと本棚を見つめていた。
「…きみが読むのか?」
「ん?本?うん。家に一人でいる時間が多いから」
僕はデューイさんの制服に顔を近づける。汚してしまった箇所を探してそこにタオルを充てるが、ふわりと香るタバコの匂いに胸が高鳴って、拭き取ることにあまり集中できなかった。
「ずいぶん…内容がバラけた本棚だな」
デューイさんが不思議そうに呟いたので、僕は笑ってその理由を教えてあげた。
「あは。兄ちゃんが僕のために買ってきてくれるんだけどね、多分本屋で適当に、取りやすかった本を買ってくるんだ」
「ああ、なるほど」
「この前一番面白かったのはあれ」
僕が指差したのはもちろん、この前兄ちゃんが三冊まとめて買ってきた中の一冊「相手を上手にオトす方法」という本だ。
「デートの誘い方とかベッドの誘い方とかが書いてあるんだ。おかしいでしょ」
デューイさんは僕の人差し指の先を目で追い、それからその本に気付いて楽しそうに笑った。
「あはは。そんな本をあのランスキーが?一体どんな顔で買ったんだ」
「………」
僕はタオルをギュッと握った。デューイさんの言葉を頭の中でもう一度再生して、今のは決して聞き間違いなんかじゃなかったと確認する。
…僕はデューイさんに、兄ちゃんの名前を教えたことも写真を見せたことも、一度もない。
「…デューイさん」
「ん?」
「兄ちゃんのこと知ってるの?」
「…」
デューイさんは僕を見つめ、おそらく自分の発言を思い出して理解したのだろう。「知られてしまった」という動揺を、一瞬覗かせた。
「…ねえ、兄ちゃん、どんな仕事してる?」
「…ベンジャミン」
「デューイさんは検事さんなんだよね。兄ちゃん、悪いことしてる?デューイさんや警察の人たちのこと…困らせるようなことしてる…?」
点と点が繋がっていくようだった。
ああそうか、そうだったんだ。だからデューイさんはあの時僕に近付いたのだ。きっと仕事の中で兄ちゃんのことを調べる機会があったに違いない。兄ちゃんとデューイさんは恐らく敵対する関係にあるのだろう。兄ちゃんを捕まえる為に、デューイさんは何か情報が必要だったのかもしれない。僕が兄ちゃんの弟だと知って、弟の僕から兄ちゃんの情報を聞き出そうと考えて、それで。
血だらけの包帯を腕に巻いて帰ってきた兄ちゃんの姿を思い出す。どれほど僕の為に兄ちゃんは、危ないことやいけないことを積み重ねてきたんだろう。
「…デューイさん。これから先、兄ちゃんがもしもいけないことしてたら捕まえて」
「……」
「お願い」
デューイさんは何か言おうとしたのか口を開きかけ、けれどすぐに噤んでしまった。それから一文字ずつ絞り出すようにして「わかった」と言った。
兄ちゃん。僕は手術を受けることも、失敗してベッドに寝たきりになることも、体をボロボロにする薬を飲み込むことだって、本当は全部怖い。だけど一番怖いのは、ある日突然兄ちゃんが死んだという報せを受ける自分の姿を想像した時だ。兄ちゃんはきっと厭わない。僕のために平気で命をかけて、その身を危険に晒すだろう。
…ねえ兄ちゃん、僕、ずっと怖かったんだ。兄ちゃんが仕事から帰ってくるたびに「ああ今日も生きて帰ってきてくれた」って、胸を撫で下ろす日々はもう、嫌なんだよ。
「あのね、デューイさん」
「…ん?」
「僕たぶん、もうすぐ死ぬんだ」

それから僕はデューイさんに打ち明けた。このままでいたらもうすぐ死んでしまうこと。手術を受けても成功率は1割ほどだということ。失敗した時は自分が植物状態になってしまうことも。
デューイさんは僕が話している間、一言も言葉を発さなかった。ただ僕を見つめたまま、瞬きや息継ぎの音まで聞かれているのではないかと思うほど、僕の一言一句に耳を傾け続けていた。
「兄ちゃんは僕に手術を受けてほしいって思ってる。でも僕は嫌だ。どうせ失敗してただの死体みたいになるなら、今死ぬ方が何倍もいい」
…たった一つのお願いを、デューイさんは聞いてくれるだろうか。手を引くのではなく、手を繋ぐように隣にいてくれたこの人なら。嘘の中で幸せな夢を見せてくれたこの人なら。
「成功なんてするわけない。選択肢は二つしかないんだ。…今選ばなきゃ、僕、逃げられなくなる」

逃げる場所がない日々は、ずっと、箱庭の中みたいだった。僕はその中であなたと出会い、見知った狭い世界の中で新しい感情を、たくさんの初めてを、与えてもらったんだ。
残り僅かな人生を、最後にお願いだ。神様、僕にも自由に選ばせてほしい。
デューイさんと一緒にいたい。デューイさんの夢を見たい。命が尽きるその時は、デューイさんの顔を見つめていたい。だから。

「…いつ殺してくれても構わないから、僕を攫って」

デューイさんが僕の手を握る。握り返すと指は絡まって、その長い指が織りなす造形が美しくて僕は見惚れた。
「………わかった」
そうして、今まで生きてきた中で一番の大きな我が儘は、デューイさんにそっと掬われたのだ。





車に乗ってからどれほど経っただろう。外はすっかり暗くなり、窓の外を見上げると空にはいくつかの星が見えた。
「デューイさん」
「ん?」
「綺麗だよ、ほら」
車内から夜空に向かって指を指すと、デューイさんはちらりと目線を上に上げてから「本当だ」と言った。
「でも、もっと沢山見える時もあるよ」
「そうなんだ。僕こんな時間に外にいるなんて初めてかもしれない」
前方を見つめ手慣れた様子でハンドルを捌くデューイさんを盗み見ながら、僕は自分でも驚くほど幸福を感じていた。
まるで夜のドライブデートをしているみたい。それも、こんなかっこいい人と。誰かに自慢したいような、でもこの事実を独り占めしておきたいような、なんだかくすぐったい気持ちになった。
「デューイさん、運転疲れない?」
「ああ大丈夫。きみこそ、酔ったりしてないか?気分が悪くなったらすぐ言って」
「うん、大丈夫」
デューイさんの運転はとても心地いい。カーブもブレーキも滑らかで、体が反動で動いてしまうことはほとんどなかった。
ふと、どこに向かっているのだろうと疑問に思った。知らない景色を視界に流し込みながら、まあどこだっていいやと息を一つ吐く。知らない場所へ連れて行ってくれるデューイさんに心ごと全て預けて、僕は車に揺られた。

ほどなくして、目的地に着いたのか車はある場所で停まった。辺りは暗く、目を凝らしてもここがどこなのかよく分からない。けれど窓の外に耳を傾けると微かに波の音がした。どうやらここは海の近くらしい。
「ちょっと降りようか」
デューイさんはそう言って車の外へ出ると僕が座る助手席側まで回り、その扉を外から開けてくれた。僕は足元に気をつけながら車を降りた。
「わー!海の匂いだ!」
夜の海から吹く向かい風がたっぷりと潮の香りを運んできてくれる。見えないけれど匂いがする。音がする。海とは見えなくてもその存在をこんなに感じることが出来るのだと、僕は初めて知った。
「ベンジャミン。振り返ってみて」
デューイさんに言われた通り後ろを向くと、そこには視界いっぱいに広がる、まるで小さな宝石を目一杯散りばめたかのような夜景が広がっていた。
「わあぁ!すごい!」
自分たちがいる場所は高低が一番低く、街全体に見下ろされている形だった。どこかのコンサートホールの客席のように、夜の街が僕たちのことを見つめているようだ。街の光は何色とも言い難い。車のヘッドライトが次々と街の隙間を縫うように流れていく。あまりに綺麗で、僕はどこを見たらいいのか分からなくなりそうだった。
「夜景が有名らしくて、ここ」
「そうなんだ!ホントすごい!すごい綺麗!」
「うん、綺麗だ」
デューイさんは胸ポケットからタバコを一本取り出して「吸ってもいいか?」と僕に尋ねた。
「うん、もちろん」
そして僕は見つめる。火をつけてタバコを吸う仕草を、街を見つめながら煙を吐く姿を。それら全てを脳裏に焼き付け、瞼の裏で何度でも思い返せるようにと思いながら。…ああ、デューイさんの瞳に街の灯りが映る。それはキラキラ光って、流れて、消えていく。泣きたくなるくらい綺麗だと思った。
「デューイさんありがとう、僕」
「うん?」
「今、すごく幸せだ」
「…そうか」
デューイさんは夜の街を見つめたままだった。どんなことを考えているのか僕にははっきりとは分からない。けれど、分からないこの少しの距離さえ、僕は堪らなく好きだ。

「ベンジャミン」
「ん?」
「おいで」
タバコを靴の裏で踏み付け、デューイさんが僕を手招きする。僕の心臓は一度だけ大きく跳ね脈を打った。
言われるがまま、デューイさんの側へ寄る。するとデューイさんは僕の体を優しく抱きしめ後部座席のドアを片手で開けた。そのまま、何かを言う隙も与えられずキスをされ、僕は後部座席のシートに押し倒された。
デューイさんは器用に後ろ手でドアを閉め、更に強く唇を繋いできた。頼れる灯りが一つもない車内は黒いカーテンで四方を囲まれているようだった。僕は何も分からなくて、デューイさんの首元にしがみつくように両腕を交差した。
「ん、んっ…」
予告なく舌を押し入れられ、僕らの唾液は再び絡まる。もう僕のよだれがデューイさんの制服に垂れることもない。彼の舌を追いながら、ああこれは夢の中なのだろうかと僕は錯覚した。僕の全ては今デューイさんのものだ。どうにでもしてほしい。
「…は、はぁ、ん、デューイさん」
「うん」
「ぁ、デューイさん」
「うん」
うわ言のように繰り返し名を呼ぶと、デューイさんはその度に返事をしてくれた。それがとても嬉しくて、自分の声に一層熱がこもっていく。デューイさんの舌の動きと呼吸音に夢中になっていると、デューイさんは僕の服の中に手を、滑るようにして侵入させた。
「っ、あっ」
お腹を下から上へ真っ直ぐ撫でられた後、彼の手は胸の上で止まる。親指で乳首を優しく擦られ、僕の喉からは聞いたこともないような声があがった。
「あっ、あっ…ぁ…」
デューイさんの指の動きは不規則に動いて僕を混乱させた。くすぐったいのに痺れる。違和感が走るのに不快じゃないのはどうして。声が止まらない。恥ずかしい。自分のみっともない声が真っ暗な車内に響いて、僕は頭がおかしくなりそうだった。
「…残念だな」
「あっ、あ、ぅ…な、なに…?」
「顔がよく見えないから」
デューイさんの声は穏やかだった。きっと笑いながら言っているのだろう。ああ僕だってその顔が見たいと、あなたの何倍も思ってる。
「……いい声だな。ずっと聞いてたい」
「…ぁ、あ、あ…や、やだよ…」
「…もう、ずっとこうしていようか」
デューイさんは手の動きを一旦止め、呟くようにして言った。
「デューイさん…?」
「最後までずっと、ここで二人で」
デューイさんの表情が見えないから真意がわからない。最後とは、一体いつのことだろう。もしもそれが「僕が死ぬまで」という意味なら。ねえデューイさん、僕はきっと世界で一番幸せだ。
「…うん」
「…」
「死ぬまでこうしてたい」
それは懇願だった。僕は子供みたいにデューイさんに縋り付く。デューイさんなら叶えてくれると。きっと僕を夢の中へ、連れて行ってくれると。
「……はは。冗談だよ」
デューイさんは短く笑って僕の服の中から手を抜いた。それから、腰のあたりで何かを取り外しているのだろうか。カチャカチャという音が聞こえてきた。
「デューイさん?」
僕の呼びかけにデューイさんは答えない。デューイさんは自分の首にかかる僕の腕を外して、両手首を強く掴んだ。
「ねえ、デューイさん」
僕の手首に冷たい何かがはめられる。左右の手首はそれぞれ繋がれ、自由に動かすことができなくなった。ほどなくしてこれは手錠だと理解する。
「デューイさん、ねえ、デューイさんってば」
デューイさんは僕の上で膝立ちになり、前方座席へ手を伸ばし何かを漁った。目当てのものを手にした彼が、今度はそれを僕の両足にグルグルと巻きつけた。テープが破れる音が響く。ああこれは、ガムテープだ。
「デューイさん、なんで、ねえ」
「ベンジャミン俺は、きみが思うような男じゃない」
僕の呼びかけに応じた訳じゃない。彼は僕の言葉を遮り、そのまま一切の淀みもなく語り続けた。
「俺に夢を見たりしないでくれ」
ガムテープをもう一度破く音がして、今度は僕の口をデューイさんは塞いだ。どうしてだ。理解が追いつかない。説明が欲しい。ねえデューイさんどうして。
ガムテープ越しに何か暖かいものが触れる。それはデューイさんの唇だった。暗闇の中、鼻先が触れ合う距離にデューイさんの顔がある。こんなに近くに、いまいるのに。世界で一番近くにいるのに。僕の言葉は彼に受け取ってもらえない。
「さよならベンジャミン」
優しい声で、吐き捨てられた。

そのままデューイさんは車から降り、僕を中に残したまま扉を閉めた。どうして。なんで。訳がわからない。声を出したところで唇はテープに覆われている。くぐもった唸り声など外にいる彼に届くわけもない。
どうして。とうしてだデューイさん。
僕が面倒だったなら、拳銃で頭を撃ち抜いてくれれば良かったのに。そのまま海に捨ててくれれば良かったのに。どうして。どうして。
まだ彼の匂いがする。まだ彼の温もりが体に残っている。僕は波の音が聞こえる闇の中、唐突に突きつけられた孤独にただただ呆然としていた。

何一つ理解できないまま、僕は絶望の中かすかに期待した。もしかしたらまたデューイさんが扉を開けて「なんてな」と言いながら笑ってくれるかもしれない。「嘘は俺の十八番だって言っただろう」と言って、笑いながら手錠を外してくれるかもしれない。
僕は、その瞬間をじっと待った。何分、何十分、何時間くらい、そうしていたのだろう。デューイさんのタバコを吸う姿や、おかしそうに笑う顔を瞼の裏に描き続け、ただひたすら扉が開けられるのを待っていた。
ああこれはもしかしたら全て夢で、目が覚めたら僕は自分のベッドの上にいるんじゃないかと思い始めた、その時。
外から走って近づいてくる誰かの足音がして、その直後に車の扉が勢いよく開けられた。僕は身動きが取れないまま、けれど目を見開く。ああほらやっぱり。デューイさんの手の込んだ冗談だったのだと、僕はまだその時本気で思っていたのだ。
「ベンジャミン!!」
肩で息をしながら僕の名を呼んだのは、デューイさんではなく、ランスキー兄ちゃんだった。
「大丈夫か!?何かされてないか!?怪我は!!」
兄ちゃんが僕の体を起こし、それから口に貼られたガムテープに気付いてそれをはがした。
「あのクソ野郎…待ってろ、今取ってやる」
そして足に巻かれたガムテープを取った後、兄ちゃんは上着の胸ポケットから恐らく針金のようなものを取り出したのだろう、手錠の鍵を数十秒かけて外してくれた。
「あいつに何かされたか?どこか痛いところは?」
兄ちゃんが僕の肩を抱いて揺さぶる。僕は何一つわからないままだ。
「……なんで兄ちゃんが…」
「あの男がお前のことを知ってた。まさかお前のことを連れ出してたなんて…ああ、くそ。帰ったら詳しく話す」
兄ちゃんが悲痛な表情で僕を力一杯抱きしめる。僕は体に力が入らなくて、ただ兄ちゃんに体重を預けていた。
「…俺のせいだ。俺のせいでお前をこんな目に…すまない」
「……」
「帰ろう。立てるか?車を向こうに停めてある」
「……」
…ねえ、デューイさん。
僕にガムテープを貼ったのは、手錠をかけたのは、こうして兄ちゃんに「僕が無理矢理拐われた」と思ってもらうためだったんでしょう?そうすれば加害者のお面を被ってあなたは、追っ手から逃げるようにして僕から離れられるから。
「………兄ちゃん、僕」
「なんだ?」
「…騙されちゃった…」
わからない。全てを理解することなど到底できはしない。だけど僕はデューイさんに放り捨てられたのだ。何もわからないのにそれだけははっきりと分かる。
あの時、僕のお願いに「わかった」って頷いてくれたのに。約束してくれたのに。嘘つき。嘘つき。嘘つき。

「…悪い奴に騙されるなって、だから言っただろう」
兄ちゃんが悲痛な顔で僕の頭を撫で、そう言った。



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