クズどもに捧ぐバラッド






 酒の飲み過ぎで足元がフラついていた。線路下の連絡通路を歩きながら、壁一面に広がるスプレーペイントを流し見して、タバコに火をつける。
 客から送られてくるLINEを確認して適当な営業文を無表情のまま、一行だけ打ち込む。
『俺もまた会いたい。次もいっぱい話そう。』
既読なんて、いっそ付かなくていいのに。だけどその願いとは裏腹にすぐさま何かしらのリアクションが返ってきてしまうことを俺は知っている。可愛らしい動物のスタンプだとか、それから、大好きや愛してるの言葉だとか。

 もう、疲れた。泥のように眠りたい。タバコの灰が音もなく落ちて、暗いアスファルトの上で呆気なく砕けた。

 深夜三時の地下連絡通路には自分以外誰もいないと思っていたが、向こう側の出口とのちょうど真ん中辺り、壁を背もたれがわりにしてしゃがんでいるの誰かの姿が見えた。
 一瞬、ホームレスかとも思ったがどうやら違う。路上に胡座をかくその人物の前には蓋の空いたギターケースが置かれており、チューニング中なのだろうか、ギターの一弦ずつが順番に音を鳴らしていた。
 弾き語りの歌い手なんだろう。立ち止まる気などさらさらなかったのに…ふと目をやった一瞬だった。視界に入り込んできた鮮明な髪色に、少し足が止まった。
 電灯が不規則に点滅している、薄暗くて陰鬱な地下道。灰色と黒でしか描かれない閉ざされた空間。でも、歌い手の髪はまるでモノクロの写真に一枚だけ舞い落ちた、赤い花びらのようなのだ。
 ひどく、目を引いた。いや引かされたのだ。アルコールに漬かった脳に一滴、冷水が垂らされたような感覚がしたのだ。
 チューニングが終わったのか、赤髪の歌い手はヘッドに付けたチューナーを取り外すとネックをそっと左手で、握った。

 彼とは反対側の壁に背を預けて、アコギの音色と歌い手の声を聴く。吸い終わったタバコを踏みつけて靴の裏で火を消す。
 ああどうして。早く帰って、頭から爪先まで鉛のように重たいこの体を布団に投げ出そうと思っていたのに。
 六弦を抑える左手の指の動きと、俯いたまま歌うその髪色を、俺はじっと見つめた。

「得意なことがあったこと
 今じゃもう忘れてるのは
 それを自分より得意な誰かがいたから
 ずっと前から分かってた
 自分のための世界じゃない
 問題ないでしょう
 一人くらい寝てたって」

 聴いたことのない歌だ。もしかしたらこの歌い手が作った歌なのかもしれない。
 歌詞はずっと、卑屈と諦めの思いを語り続ける。だけどきっとサビなんだろう、少しだけ力強くなった歌声はギターのコードの上、叫ぶようにして最後「ららら」と、ハミングではなくはっきり、刻みつけるように歌った。
 愛しているとかありがとうとか幸せだとか、世界の眩しさを語るような歌だったらきっと、俺は途中で諦めて再び歩き出していただろう。だけどはなから諦めている主人公の気持ちが、嘆きが、俺の足を止めた。その一曲が終わる最後の瞬間まで結局、俺はその場から動かなかった。

「僕らはみんな解ってた
 自分のために歌われた歌などない
 問題ないでしょう」

 歌の後半、そう語られる主人公の思いに自分自身をこっそり重ねた。…どうしてだろう、気持ちが楽になったのだ。
 不思議だった。匙を投げるような言葉が、歌声が、確かに今、俺の心を軽くしたのだ。

 客はみな口を揃えて俺のことを好きだと言う。一体俺の何を見て、どんな夢を重ねて、手前勝手にそんなことを吐き散らかすんだろう。
 自分に向けられた誰かの好意なんか、本当は存在しないでほしい。そんなもの一つだって無くていいのに。重たい。苦しい。嘘ばかり平気で重ねるこの口を、誰も信じてくれなくていいのに。
 だからだ。だからこそ、心が軽くなるのだと気付いた。
 決して俺のためなんかじゃないこの世界で、俺は勝手に生きてる。投げ出してほしいし、本当はいつだって、見限ってほしかった。ずっとそう思ってた。そう思っていたんだということに、歌を聴きながら初めて気が付いたのだ。

 最後のコードが鳴って数秒、再び静けさに包まれた地下道の真ん中で、俺は歌い手に小さな拍手を送った。いや、気がついたら送っていたのだ。
 歌い手はそれからようやく顔を上げ、俺をその目で捉えたようだった。
「…ひひ。あざッス」
 歌声から受けた印象と少し違う。彼は俺が思っていたよりずっと屈託のない顔で笑った。
「お兄さん仕事帰り?こんな遅くまでホントご苦労様ッス」
「…ああ、うん。ありがとう」
「えーと今のは、◯◯の××って曲でした!ご静聴ありがとうございまッス!」
「……」
ずいぶん、フレンドリーなんだな。てっきり話しかけられることも、最悪、目が合うことすらないまま次の歌を歌い始めるのかと思っていたから、少しだけ面食らってしまった。
「…初めて聴いた。きみのオリジナルかと思ったよ」
「まっさかぁ!俺っちこんな歌作れないッスよ!」
「へえ、そうか。…良い歌だな」
「ね。俺もこの歌大好き。なんか気持ちが楽になるんだよね」
「…うん。わかる」
「ほんと?」
赤い髪の彼の目が、その時僅かだが輝いたように見えた。俺の気のせいだろうか。わかってくれて嬉しいと、心の声が聞こえた気がした。
「…ひひ。お兄さんとはなんか気ぃ合うかも。もう一曲聴いてってくれる?」
「うん。歌って」
頷くと彼も嬉しそうに頷いて、数回の深呼吸の後に次の曲の最初のコードが鳴った。
 二曲目は、さっきより明るい印象の曲だ。穏やかなメジャーコードと共に、今度は自室で手作りのプラネタリウムを作る主人公の物語が始まる。

「四畳半を拡げたくて
 閃いてからは速かった
 次の日には出来上がった
 手作りプラネタリウム」

 目を閉じる。彼の声にじっと耳を傾ける。優しい歌い方はまるで星の光みたいだ。遠くでぼんやり光る、優しい光だ。

「消えそうなくらい輝いてて
 触れようと手を伸ばしてみた
 一番眩しいあの星の名前は僕しか知らない
 いつだって見つけるよ 君の場所は
 僕しか知らない
 僕しか見えない」

 歌が終わり、彼が胡座のまま会釈する。俺は再び拍手を送って、それから数歩進んで目の前にしゃがんだ。
「…ありがとう。いい歌だった」
「えへ、これもね〜おんなじ◯◯の曲でー…」
嬉々として始まった曲の解説をBGMにして、俺は鞄から長財布を取り出す。万札を二枚抜き取って小銭の散らばるギターケースの中に置くと、彼は「えっ」と、驚いた声をあげた。
「諭吉!?なんで!?」
「ん?投げ銭」
「えぇー!?多いよさすがに!」
「でも二曲聴かせてもらったし」
「いやいやいや…え!?うわお兄さんもしかしてランボルギーニとか乗ってる人?庭にプールついてる人?」
「……」
あまりにも素っ頓狂なことを言うんだな。…なんだか変わってる。思わず笑ってしまった。
「ふっ…あはは、バレちゃったな。あとフェラーリとベンツも持ってる」
「ひえぇ〜!…え?嘘だよね?え、ホント?」
「んー?…はは。どっちだろうな」
「え〜どっち!?嘘だよね!?え、なんかお兄さん読めないんスけど!」
嘘ばかり吐くこの口に、これほど素直に、そして楽しそうに翻弄されてくれる誰かが今までいただろうか。
 楽しいな。そう思った。この青年と話していると楽しい。まだ髪の色と歌声以外は何も知らないのに、不思議だな。

「…おみって言うんだ、俺」
「ん?」
「お兄さんじゃなくてさ、名前で呼んでほしいな」
「……」
目を見つめながら言うと、何故か彼は不敵に口の端を持ち上げた。
「…さてはお兄さんホストだな〜?」
「…どうして?」
「口説くの上手だもん。ふーん、おみって名前で働いてるんだ」
新しいタバコに火をつけながら「本名だよ」と答えたが、目の前の人物は全く信じてくれなかった。軽く肩を揺すって「うんうんそっかー」と笑うだけだ。
「おみクンね。おっけー覚えたッス」
カーゴパンツのポケットから、彼もタバコの箱を取り出す。白地にくっきり浮かぶ赤い円が、彼の髪色によく似ていると思った。
「吸うんだな。歌うのに」
「吸うよー。あんま関係ないと思うよ喉とタバコって」
「確かにそうかもな、いい歌声だった。聴いてて気持ち良かったよ」
「あーほらまた口説くじゃんそうやって」
自分と俺の間にコーラの空き缶を置いて、彼は気持ち良さそうに最初の一口をゆったりと吸い上げた。
 口から漏れ出す煙をぼんやり眺める。口説いてないよと言おうとして、だけどやめた。口説いていたのかいなかったのか、自分でも今、よくわからなかったからだ。

「俺はね、たいち」
「たいち?」
「うん。ななおたいち」
たいちと名乗った彼は咥えタバコで両手を空け、ギターをそっと爪弾いた。
「…ん〜、んん〜ん〜ん〜…んっんん〜〜」
細い四本の指はフレットの上を機械のように上下する。コードと共に緩やかなハミングが重なる。自分には音楽との関わりがほぼないので、余裕そうに弾き語るたいちの姿が純粋に、とても格好良く見えた。
「…それもさっきと同じバンドの歌?」
「ん〜?…これはねー…」
たいちはフレットから離した左手でタバコをつまみ、少し悪戯な顔で笑ってみせた。
「おみクンとの出会いを祝して即興でいま作った。ひひ」
「すごい。天才だ」
「あはは!そうなんスよ〜困ったな〜俺っちってば天才なんスよ〜」
「もう一万出すよ。これでなにか美味いものでも食ってくれ」
財布からもう一枚抜こうとしたところで、たいちに膝を叩きながら大笑いされてしまった。…どうして。
「あははヤバ!ねえ分かったメッチャ酔ってるでしょ!?」
目尻を拭いながら「あ〜面白いなー」と続ける。冗談だと思われたんだろう、たいちは追加の一万を受け取らないでギターケースを閉じてしまった。別に、中身のないこんな金、本当にもらってくれて構わないのに。

「よし、今日はこれで終わり!最後誰かに聴いてもらえて良かったッス」
「うん。こちらこそ良いものが聴けて良かったよ」
「あははマジでお上手ッスね〜。ところでさ、この辺にネカフェあるか知ってたりする?」
「ネカフェ?」
帰る所がないのだろうか。たいちはスマホを取り出して「もう電池なくてさ、調べらんないスよね」とこぼした。
「ネカフェか…あっちのアーケードの手前にあった気がするけど」
「ほんと?じゃあ今日はそこ行こっかな。シャワー無料だといいなー」
テキパキと身支度を進めるたいちを、頬杖をつきながら俺はぼんやり見つめる。
 言動はこんなにも明るいのに。どうして捨て犬みたいな生き方を、この青年はしているのだろう。…いつから?いつまで?一人きりで?聞いてみたいことが小雨のように、次から次へと降ってくる。

 知りたい。たいちのことを、もう少しだけ。

「…俺の部屋なら」
「ん?」
「俺の部屋ならシャワーもフードもタダだけどな」
…自分の口から勝手に漏れ出た言葉に笑ってしまった。本当にどうかしてる。ついさっきまで泥のように眠りたいと言っていたのはどいつだったのか。
「どうする?ここから近いよ」
「……」
たいちは、ステッカーだらけのギターケースに手をかけたまま、俺をじっと見た。
「…おみクンってさ」
「うん?」
「あ〜…ごめん、やっぱなんでもない」
それきり目を伏せてしまうから、何を尋ねられそうになったのか見当もつかない。続くはずだった言葉は一体、俺のどこに触れようとしたのだろう。

「…え、そしたらホントに、お言葉に甘えちゃおっかな」
「ああ。さっきの歌の続き、良かったら聴かせてくれ」
たいちが置いてくれた灰皿代わりの空き缶に吸い殻を落として、一足先に立ち上がる。時刻は三時半。あと一時間もすれば空は薄ぼんやりと明るくなるんだろう。もう一ヶ月くらい、まともに太陽を見ていない。…今日は見られるだろうか。見られるかもしれない。一人ではなく、たいちと二人で。

 一緒に階段を登る。登り切ったところで振り返ると、数段下から俺を見上げるたいちと目が合った。
 通りかかった車のヘッドライトに反射して、その瞳が水色に光ってみせる。
 …知らなかった。そんな色を、していたのか。
「ん?なに?」
「……いや。なんでもない」
 微笑んで、たいちが階段を登り切るのを待つ。肩が並ぶのと同時に歩き出す。さっき聴かせてくれた歌をそっとなぞりながら、歩き慣れた筈の帰り道をいつもとは違う歩幅で、丁寧に歩く。

「一番眩しいあの星の名前は
 僕しか知らない」

 ビー玉みたいに冷たく光るその瞳を、今だけは、俺しか知らない。それがなんだか嬉しくて、だけどどうしてだろう。同じだけ寂しいと思った。
 何も持ってない、星なんか一つもない、行き場所だってどこにもありはしない。

 そうやって俺たちはあの日、自分のためじゃない世界の片隅、まるで諦めるようにして、出会ったんだ。









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