Chapter.4-1




「ここ立ちなさい、ここに」
おばさんがダイニングの隅を指差す。ボロボロの上履きを脱いで、汚れたプーマを隣に並べる。指をさされたその場所へ進もうとしたら「とろいんだよ早く」と背中を数回叩かれた。
 頭の中で「諦める」のレバーを一番上まで持ち上げる。くっきりイメージすることで少しだけ自分に暗示をかけられる。レバーを上げたから、俺は今から起こる全てをちゃんと諦めることができる。棒のように立って、おばさんの平手を何度も、なんの感情もなく浴びる。
 ランドセルを背負ったまま言われた場所にまっすぐ立ったら、おばさんは俺の頬をバチンと叩いた。ちゃんと痛くて、でも赤く腫れたりはしない。おばさんにとって最適な加減だ。
「私だってね、こんなことしたくてしてるんじゃないの」
おばさんは反対の手を振りかぶって、もう一つの頬を叩いた。
「それでもやるの。アンタの為に。わかる?手のひらがジンジンしてもやるの。アンタの為だよ」
バチン。叩く音が、窓のない薄暗い部屋に響く。
「だから「ありがとうございます」だね?アンタが言わなきゃいけないのは」
バチン。交互に叩かれる頬は、だんだん一つ一つの痛みを積み重ねて、口の中にまで到達する。
「言いなさい。ありがとうございますって」
バチン。バチン。ジンジンする。頬が熱い。
「言いなさい」
「…ありがとうこざいます」
バチン。
「もう一回」
「ありがとうございます」
バチン。
 おばさんは手のひらの痛みが引くようにと、自分の手と手を擦り合わせた。俺は、何もしちゃいけない。頬をさすったりしたら、もっと痛い一発がくる。
「…ごめんなさいは?ねえ」
「ごめんなさい」
「聞こえない!」
今度は頭を思い切り叩かれた。頬より音は響かない。でも頬より鈍く、内側まで振動が来る。
「…ごめんなさい」
「もういいよ、何回言ったってアンタはわかんないバカだもんね」
おばさんは「はーぁ」とため息を吐きながら天井を見上げた。一仕事終えたみたいに、さーてあともうひと頑張りと気合いを入れ直すようにして、俺を改めて見下ろす。
「恥ずかしいの、私は。アンタのせいで恥ずかしい思いをいっぱいしてんの。わかる?ねえ」
「…ごめんなさい」
「どうしてわかんないの?何回言えばわかるの?ねえ、アンタのせいなんだよ全部。どうするの?どうにかできると思う?」
「ごめんなさい」
「できないの、アンタには。なんにもできない。ダメなのから生まれてきたからね、どうにもできないのよアンタには」
「……」
「どうして私にもっと感謝できないの?ねえ?態度で示しなさいよ」
「…ありがとうございます」
「そんな言葉が聞きたいんじゃないんだよ!」
左から、耳の辺りめがけて思い切り叩かれた。頭ごと右に向いて、鼓膜の奥からキーンという音が鳴る。…痛いな。今のけっこう、痛かったな。
「かわいげもないし、なんの役にも立たない…。本当に呆れるよ」
おばさんは深く項垂れて、頭を抱えながら嘆いた。大袈裟な小芝居を俺はぼんやり見つめる。
「…わかった。もういいわ」
「……」
え、もう終わり?まだ数えるくらいしか叩かれてない。今日はたまたま疲れてるんだろうか。やった。終わった。思っていたよりずっと早い終了の合図に、俺は胸を撫で下ろした。
「脱ぎなさい」
「…へ」
おばさんがなんて言ったのか、ちゃんと理解できなかった。
 自分の聞き間違いだと思ったんだ。だって今、俺ボーッとしてたもんな。ちょっと気を抜いちゃってたから、うん。それでだ。
 次はちゃんと聞いておかなきゃ。また重たい一発きちゃうぞ。せっかく終わったのに。しっかりしなきゃ。
「着てるものを今ここで全部脱ぎなさいって言ってんの」
「……」
「裸になれって言ってんの!」
「やだ」
こぼれてしまった言葉に「しまった」と思った。慌てて口を両手で抑える。だってビックリして、思わず敬語が抜けちゃったんだ。ああもうバカだな何やってんだよマヌケ。
「口答えしないで?ねえ」
髪の毛を適当に掴まれた。掴んだその手が前後左右に揺れた。
「早く脱ぎな!ほら!」
「……」
首を横に振った。ダメだ、どうしてもダメだ。「諦める」のレバーが上がりきらない。嫌だ、絶対に嫌だ、裸になるなんて絶対に嫌だ。
「脱ぎな!」
「や…やだ」
「やだじゃないんだよ!早く!」
首を何度も横に振る。嫌だよ絶対にできない。玄関で寝るより風呂場で朝を待つより、叩かれるより、酷い言葉を言われるより、嫌だ。
 そうか痛いよりも数百倍耐えられないものがあるんだと、初めて知った。恥ずかしいって、恥ずかしいことをさせられるのって、こんなに無理なんだ。耐えられない。絶対にそんなの耐えられない。
 涙で目の前が滲んだ。だめだ、逃げなきゃ。泣くな。逃げろ。泣く前に逃げろ。逃げる前に泣くな。
「…やだ!」

 駆け出した。ドアまで一直線で走った。靴は履かなくていい。プーマも今だけは諦めよう。裸足でいい、そのままでいい。おばさんが追いかけてきても「助けて」って叫びながら走ればきっと、きっといる。助けてくれる人はどこかに必ずいる。
 ドアノブを捻ったところで、背負っていたランドセルの肩紐をおばさんに握られた。左右両方掴まれて後ろに引っ張られ、俺はバランスを崩してしまった。玄関に尻餅をついた。おばさんが強い力で部屋の奥へ俺を引き摺り込もうとする。
「た…助けて!助けてっ!」
ドアの向こうに叫んだ。大声で誰かに助けを求めたのは、これが生まれて初めてだった。
 おばさんが俺の口を片手で塞いだ。ここで諦めたらダメだ、死ぬ。俺はこの人に殺される。本気でそう思って、考えるより先におばさんの手を噛んだ。
「助けて!誰か助けて!」
誰でもいい。本当に誰でもいいんだ。お願い、お願いだ。
 四つん這いになってドアに手を伸ばしたけど、ドアノブに指先が届く前におばさんが、俺の体の上に覆い被さった。あんまり重たくて、呻き声が漏れる。怖い、この人に殺される。助けて。嫌だ、怖い。怖いよ。
「…誰に言ってるの?ねえ」
覆い被さるおばさんは、息をゼエゼエさせながら俺の口に上履きの片っぽを突っ込んだ。両手ともしっかり掴まれているから上履きを吐き出せない。大声を出せない。
「誰がお前を助けると思うの?ねえ。迷惑ばっかりかけてるお前のことを」
「……」
「やだとか助けてとか、ねえ。何言ってるの?わかってないの?」
「…うぁ、あ」
「離さないよ。今言うこと聞けないならどうなると思う?ねえ」
「……」
怖い。涙が自分の意思と関係なくボロボロこぼれた。本当に怖いと人間はこうやって泣くんだ。知らなかった。
「怖いよね?怖いでしょ。だから戻りなさい。言うこと聞きなさい」
「……」
「アンタの為なの。全部アンタの為にやってあげてることなの。躾なの。教育なの。言ってもわかんない子には体に覚えさせるしかないの。そうでしょ?そうなんだよ、ねえ」
ドアが遠くなる。実際には俺の目の前にあるのに、どうして。はるか遠くに感じる。
「戻って脱ぎなさい。それだけだよ。できるでしょ?無理なことなんにも言ってないでしょ?」
押し潰されて、苦しくて、うまく息ができなくて、怖い気持ちが体の奥まで浸透して、俺はだんだん麻痺していった。
 小さく何度も頷いて、上履きを伝って落ちるヨダレと涙が玄関の床で一つになった頃、おばさんが言った。
「がんばろうね龍彦くん。一緒にがんばろう」
何度も「ね?」と言われて、その度に頷いた。もう首を横に振れなかった。本気で「がんばろうね」って言ってるこの人が怖くて、次に刃向かったら今度こそ殺されると思った。

 ランドセルの中にある、11桁の命綱を思い出す。
 助けて穂輔。助けて。
 

 










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