chapter.2-3




 おばあさんが掃除をしている間、ほすけに「どっか行きたいとこない?」と聞かれた。特に思いつかなくて困っていると、奥の部屋から顔を出したおばあさんが「昼ご飯でも買ってきな」と言った。
「いーけど、ばーちゃん何食いたいの」
「なんでもいいよ」
「出たよ後から色々言うやつじゃんそれ」
ほすけがテレビ横に置いてある二つ折りの黒い財布の中身を確認して、それから「まーいっか」と呟く。財布をズボンのポッケにしまうと、ほすけは台所へ移動して換気扇の下でタバコを吸った。
「これ吸ってからでいー?ちょっと待ってて」
カウンターテーブル越しに、ほすけが俺に言う。俺は頷いて、掃除機の音をBGMにしながらぼんやりとテレビを観た。時間は、十一時だった。名前も知らない、観たことのないバラエティー番組がテレビに映っていた。
 ほすけがタバコを吸い終えたので、俺たちは一緒に買い物へと出発した。雨と泥でボロボロになった俺の靴を…いや、本当は昨日よりずっと前からボロボロだった。踵はすり減って穴が空きそうだし、靴紐も、いつ結んだかもう覚えてない固結びは石のようにガチガチで、もともと白かったはずだけど、もう真っ黒になっている。
 それで、ほすけが俺のそんな靴を、チラリと見たのがわかった。でもやっぱりほすけは何も言わない。俺より少しだけ早く靴を履き終えたほすけは、玄関のドアに寄りかかりながら「何にしよっかなー」と呟いただけだった。

 ほすけの家の近くに駅があって、その駅の隣に大きな商業ビルがあった。一階が普通のスーパーになっていて、上の階に洋服屋とか雑貨屋とか百均が入っている建物だ。歩いて十分くらいの距離だった。
「ごめんね歩きで。車、仕事で親父が使っててさ」
「あ、ううん。…いえ」
そうか、ほすけの家にはお父さんもいるのか。どんな人なんだろう。いま初めて聞いたほすけの「親父」という単語を何度か頭の中でなぞって、どんな人かを想像する。
「たつひこ何食いたい?」
「えっと…食パン以外」
「あー、うん」
ほすけは顎に手を置いて数秒ぼんやりした後「以外っつか、好きな食べ物は?」と、更に俺に質問をした。
「…えーと……」
自分の好きな食べ物。よくわからない。給食で出てきたアレは美味しかったな、というのはいくつかあるけど、それが自分の好きな食べ物なのかと言われると、ちょっと違う気もする。ほすけの質問にいつもすぐ答えられなくて、そういう自分に少しイライラした。なんでもいい、なにか答えればいいのに。
「俺はねー、からあげ」
ほすけが、ポケットの中の財布を取り出してお手玉のようにポンポン投げながら言った。
「あと生姜焼き。あ、ラーメンも好きだわ」
「……」
「豚カツも好きだしカレーも好き。なんか変な野菜入ってる変なカレーは無理だけど」
ほすけが並べ立てる「好きな食べ物」は、どれもこれも美味しそうなものばっかりだった。俺も。あ、それ俺も。そう思いながら隣で聞いた。
「で、嫌いなのはねー」
「うん」
ほすけの嫌いな食べ物、気になる。なんだろう。
「牛乳。マジで無理」
「えっ」
驚いて思わず声が出てしまった。だって、給食で毎日出る。不味いと思ったこともないし残したこともない。一体牛乳の何が無理なんだろう。
「たつひこ好き?牛乳」
「うん。無理って思ったことない」
「へー。じゃー背ぇ伸びるかもね」
ほすけはゆるく笑いながら「色がまずヤなんだよな」と付け足した。
「…俺は」
「ん?」
「……トマトが無理」
「うん。朝ん時無理って顔してたね」
「あと、グリンピースも好きじゃない」
「あーわかる。豆全般あんま好きじゃないわ俺も」
ほすけとそんなことを話しながら、そういえばと、一つだけ思いついた。自分の好きな食べ物のこと。
「ハンバーグ、好きだ」
数えるほどしかない思い出の中、お母さんが作ったハンバーグのことを思い出す。大きめに切られたにんじんが入ってて、にんじんだけだとちっとも美味しくないのに、ハンバーグの中に紛れたサイコロ状のにんじんはどうしてかすごく甘くて、すごく美味しかった。お母さんが一口ぶんの大きさにして、俺の口へ運んでくれたことを思い出す。懐かしいな。また食べたい。
 美味しかった。美味しかったんだ、ものすごく。
「いーね、ハンバーグ」
ほすけが最後にちょっとだけ財布を高く投げて、手の中に落ちてきたそれをしっかりと握った。
「俺も大好き。ハンバーグ買お」

 ほすけとスーパーの中を歩き、生鮮食品コーナーは見向きもしないで惣菜コーナーへ向かった。ハンバーグ弁当を三つと、それからおにぎり、あとは惣菜のからあげやポテトなんかをほすけは次から次へとカゴへ入れていく。
「…そんなに、食べるの?…食べるんですか」
ちょっと驚いた。ほすけは背丈もそうだし、体も割と細い。誰がどう見てもこの人のことを「大柄」とは言わないと思う。
 昨日の夜と朝のことを思い出してみる。食べるのが早いと思っただけで量には何も思うことはなかったけどな。
「うん、余裕」
「…すごい」
「あったら食うんだよね。なかったら食わないんだけど」
「…へえ…」
「あ、これも旨そう」
ほすけはそう言って、今度は惣菜の豚カツをカゴの中に入れた。
「…まだ買うの?」
「えー、うん」
ほすけは惣菜コーナーを見終えた後、最後に惣菜パンコーナーも見て回って三個くらい、またカゴの中に追加した。
「食った後に腹減ると萎えない?余るくらいの方が落ち着く」
「……」
「まあ、あったら食っちゃうから余んないんだけどね」
会計の列に並んでいる時、足りそー?と聞かれた。もちろん足りる。俺は弁当一つで充分だった。だからそう聞かれてちょっとギョッとして、俺のそんな顔にほすけはちょっと笑った。
 そのまま帰るのかと思ったら、ほすけはパンパンになった買い物袋を片手にぶら下げながら「上ちょっと寄ってっていー?」と言った。昼ご飯以外に何か、買っておきたいものがあったんだろうか。
 エスカレーターを上がり、ほすけの後に続く。ほすけが立ち寄ったのは衣料コーナーの奥、壁際に面した靴売り場だった。
「足のサイズいくつ?」
「え、俺?…えっと…わかんない…」
「ふーん」
ほすけは靴が並んだ棚の端に買い物袋を置いて、いくつか手に取った後「これ良さそう」と言った。黒に白のラインが入っていて、横側になにか動物のシルエットが描かれたスニーカーだった。
「履いてみ」
そして、それを俺に差し出す。俺はよく分からないままそれを受け取って、言われるがまま足にはめた。
「どー?」
「…えっと、ちょっと大きい、かもしれない。…です」
「ふーん」
ほすけは同じ靴の、今俺が履いたものより小さいサイズを棚から取って「これも履いてみ」と言った。もう一度履く。今度はピッタリだった。
「どー?」
「丁度いい。…です」
「おっけー」
それで、特になんの説明も俺にしないままほすけはそれをカウンターへ持って行ってしまった。俺も何も聞けないまま、ただほすけの後ろをくっついてその様子を見る。ほすけは店員に「すぐ履くからタグ切って」と言った。
 裸の靴を俺に差し出して「ん」と言う。一旦は受け取ったけれど、それからどうしていいのか分からなくて戸惑った。「ん」って、どういうことだろう。…これは、俺の靴、なのか?
「いま履いちゃいなよ。そっちの、もークタクタじゃん」
「……え、でも」
「ん?」
ほすけが「なに」と聞き返す。なにって聞かれても、だって、こんなの、分からない。どうしたら良いのか。
「…俺、あの…お金、持ってないです…」
ドキドキしながら言った。受け取ってから「金は?」と、もしも聞かれたら、俺にはどうにもできない。
「……」
ほすけは空いている方の手で顎をさすって、それから「うん」と言った。
「あげる」
「え、な…なんで?」
「なんで?えー、なんでって…だって良くない?それ」
「……」
「プーマあんま好きじゃなかった?」
プーマ。そうだ、この動物のシルエットのマークはプーマという名前だ。いや違うそうじゃなくて、だって靴をもらう理由が、ないから。
「…あの、俺…でも迷惑かけてばっかりだから、こんなの…」
もらう理由がない。そう続けようとしたらほすけが「あー」と言って頷いて、それから「はは」と笑った。ほすけの笑うタイミングは、たまによくわからない。
「いーよ。あげる」
「……」
「昼飯のついで。貰ってよ」
「………」
ほすけが、もうそれ以外は何も言わないで俺が履くのをずっと待ってるだけだから、いよいよ俺はこの靴を受け取るしかなくなった。
 おずおずと、今履いている靴を脱いで新品のプーマを履く。…緊張した。ものすごく。真新しいスニーカーは俺の両足を優しく包んで、その優しさが全然慣れなくて、靴の中にしまわれた両足がギクシャクした。
「いーじゃん」
ほすけが俺の足元を見て満足そうに言う。今まで履いていた古い方の靴を手にぶら下げて突っ立っていたら「そっちどーする?」と尋ねられた。
「持って帰る?」
「…え、えっと……」
また、言葉に詰まってなにも答えられなくなる。ほすけの質問はいつだって凄く分かりやすくて簡単な筈なのに、どうして俺はこうも毎回、うまく答えられないんだろう。
 簡単って、逆に難しいのかもしれない。まるで真っさらなプリントを渡されてるみたいだ。回りくどい問題文や長ったらしい解答例は、どこにも載っていない。
「…あー、まあ持って帰るか。袋もらってくる」
ほすけはそう言って店員に手提げ袋を一枚もらって、その中に俺の古い方の靴を入れた。

 帰り道、ほすけが大きな買い物袋を、俺が靴の入った手提げ袋を持って一緒に歩いた。腹減ったなーと呟くほすけの隣、俺はやっぱりまだ両足がギクシャクしたままだった。
 少しだって汚さないように。それだけに集中しながら歩いていた。











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