chapter.2-2




 次の日の朝、目を覚ますと俺は見慣れない部屋の中にいて、起きてから三十秒くらいは昨日あったことを上手に思い出せなかった。
 そうだ、ほすけ。ほすけに家上がってけばって言われて、お風呂を借りてワンタン麺を食べて、それからおばあさんがやって来て、あの人に電話をしてくれて、それで、それから…どうしたんだっけ。
「……」
辺りを見渡す。昨日の夜最後に見た時はすぐ近くにいたほすけは、今は台所の換気扇の下でタバコを吸っていた。
「起きた?おはよ」
「……うん」
ほすけはちょうど吸い終わったのか換気扇のスイッチを切って、その場で大きなあくびをした。
「テレビ点けていー?」
そう言いながら俺のそばへ来て、今日は昨日と違って俺の隣、ソファーに座る。
「…うん」
「なんか観たい番組とかある?」
「……」
黙って首を横に振ったら「そっか」という相槌を打って、ほすけはリモコンをパッパッと操作した。テレビの画面が四チャンネルのニュース番組を映す。時刻は八時半。野球の試合のプレイバック映像が始まり、キャスターの熱のこもった解説が一緒に流れた。
「ばーちゃん今買い出し行っててさ。朝飯もーちょっと待って」
「…うん」
ふと、カーテンが開け放たれた窓の外を見る。昨日の大雨が嘘みたいな青空と、その青空とはちぐはぐなびしょ濡れの全部。水滴だらけの窓の外を見ながら、きっと雨が止んでまだあんまり時間が経ってないんだと思った。
「…よく寝れた?」
ほすけがテレビを眺めながら俺に言った。
「うん。…あんまり、覚えてない」
本当に、一瞬で朝が来たような感覚だった。寝るためだけで終わってしまった夜なんて、一体いつ振りだろう。
「そっか、良かった。俺も結構寝れたわ」
隣に座るほすけを見る。白いスウェットを着たほすけは首を左右に軽く倒してポキポキ鳴らしていた。
「朝飯食ったらどうしよっか。なんかしたいことある?」
「…えっと…」
別に、したいことは何もない。行きたい場所もなければ、会いたい人だって別に。
 どうやって返事をしたらいいのか分からなくて黙っていたら、ほすけは「ま、いっか」と言ってゆるく笑った。
「食ってから考えるか。今日はゆっくりしよ」
「……うん」
…今日は。それじゃ、明日は?明日のこの時間には俺はもう、あの家に帰っているんだろうか。嫌だな、帰りたくない。だけど帰りたくないという理由だけでここにいさせてもらう訳にはきっといかない。
 ずっとここにいていいよなんて、そんなこと赤の他人の大人が、思ってくれるはずない。俺はダメで、どこにいても邪魔で、居場所がないから。そこにいることが迷惑になるような奴だから。…嫌だな。

 二人でぼんやりテレビを観ていたらおばあさんが帰ってきた。両手に買い物袋を下げたおばあさんはどっこいしょと言ってカウンターに荷物を置き、それから冷蔵庫の中に手早く食べ物をしまっていった。
「なんか手伝う?」
台所に立つおばあさんにほすけが声をかけるが、おばあさんは振り返らないまま「いい、いい。ゆっくりしてな」とあしらうように言った。
「そこで大人しくしててもらうのが一番だわ。座っときな」
「そーすか」
「たつひこくんにお茶でも出しな。そーすかじゃないんだよ、ったく」
「なんなの」
ほすけがムッとした顔をして立ち上がる。俺も一緒に立ち上がるべきか迷ったけど、ほすけは「持ってくるから待ってて」と言って俺に座ったままでいいことを伝えた。
 冷蔵庫を開けたほすけに、おばあさんがあれこれ渡して中へしまうよう促す。ほすけのしまい方におばあさんが小言を言って、ほすけがそれにちょっと嫌な顔をする。二人のそんな様子を見ながら、俺はちょっとおかしくなった。
 いいな。俺にはおばあちゃんとかおじいちゃんがいないから。もしも俺にもいたら、俺は仲良くできたんだろうか。
「そうだ、たつひこくんおはよ!よく寝れた?」
おばあさんが台所から大きな声で俺に言う。ほすけと同じことを同じ言葉で聞くんだなと思って、またちょっとおかしくなった。
「はい」
「そう、良かった。ご飯作っちゃうから待ってね」
野菜を切る音、火をつける音、電子レンジが回る音。料理の音っていいな。聞いているだけでお腹が鳴りそうになる。

 少しして、朝ごはんがテーブルへ運ばれてきた。目玉焼きときゅうりとトマト、それから焼いた鮭が一切れ、醤油と鰹節がかかった冷奴と、湯気がのぼる味噌汁、茶碗によそわれたホカホカのご飯。なんだかまるで、普段あの家で用意される朝ごはんとは別の世界のものみたいだ。
「食べれないものとかある?あったら全部この子にあげちゃいな」
そう言っておばあさんがほすけの方へ顎を向ける。俺は黙って頷いて、それからもう一度テーブルの上に並んだご飯を見た。
 どうしよう。トマトが苦手で食べられない。だけど言ったら怒られるかな。そう思って、俺は言うのを迷った。
「……」
「…どれ?」
ほすけが俺の顔を覗き込んで尋ねる。俺は勇気を出して「ごめんなさい、トマト…」と答えた。
「いーよ。俺もらう」
ほすけが俺の皿からトマトを取って自分の皿へ移す。おばあさんはそれを見ながら「あらぁ」と言った。
「トマトはねえ、栄養あるのよ。朝食べるのがいいの。リコピンって知ってる?老化を防ぐ効果があってね」
「食えないっつってんだから栄養とかいーよ、いちいち」
「っかぁ〜!なぁんでアンタは本当にそういう…」
「食えないもの食わなくていいってばーちゃんが言ったんじゃん。はい終わり、いただきます」
「…は〜全く…は〜…ほんっと…」
おばあさんがまだ何か言いたげに、それでもほすけに続いていただきますを言う。俺はせっかく用意してもらったのにと思って、だからおばあさんに頭を下げ「ごめんなさい」と謝った。
「あ、いいのいいの。この子ふてぶてしいでしょ?それに溜息ついてるだけだからね」
「ねえマヨネーズは?かかってないと食えないんだけど」
「自分でやんな!」
「……」
ほすけがまたムッとした顔で席を立つ。おばあさんが「ね?ふてぶてしいわぁ」と俺に言うから、なんだかそれがおかしくてまたちょっと笑ってしまった。
 右手で箸を持って、鮭を解す。箸がうまく使えなくて手間取った。でも左手も使って食べるのは行儀が悪いから、俺は皿を持って背中を丸め、直接口へ鮭を運んだ。
「…フォークいる?」
マヨネーズを持ったほすけが、俺を見て言う。箸がうまく使えないことがバレてしまった。…やだな、恥ずかしいな。
「……うん」
「うん。待って」
そうしてほすけはマヨネーズと一緒にフォークとスプーンを持ってきてくれた。受け取って「ごめんなさい」と言うと「別に」と返される。
 なんにも見てないよって感じなのに、ほすけはよく見てる。よく見てて、それで、見てるよってことを言わない。
 不思議だな。やっぱり不思議な大人だって、この人を見てると思う。
 フォークとスプーンを使ったらうまく食べることができた。冷奴も味噌汁も美味しい。お腹の中があったかくなって、手の先がポカポカした。

 朝ごはんを食べ終えた後、おばあさんは時間に追われているかのように食器を洗って、それから忙しそうに乾燥後の洗濯物を畳んで、慌ただしく部屋の掃除を始めた。
 リビングは散らかっていなかったからいいけど、奥の部屋のドアを開けた時おばあさんはカンカンに怒って「物置じゃないんだから!」とほすけを怒鳴った。ほすけは背中で怒鳴り声を受け流しながら「へー」とか「うす」とか、適当な返事を数回するだけだった。
「あ、そーだ」
ほすけが何かを思い出したようにソファから立ち上がり、部屋の隅に寄せていたものを窓辺の、日がよく当たる場所へ移動する。リビングの半分がそれらで占領される。それは段ボールの上に並べていた俺の教科書やノートだった。
「今日一日で乾くんじゃない」
ほすけがその中の一冊を手に取って、表紙や中の様子を確認する。俺もソファから移動して、ほすけの斜め後ろに立ちそれを覗き込んだ。
「ほら、いー感じ」
ほすけから振り向きざまに渡された時、袖口から何か黒いものが見えて一瞬ギョッとした。虫かと思ったのだ。
「…あー…」
ほすけが、俺の反応に気付いて気まずい顔をする。袖口から伸びた手首、そこには虫ではなくて何かが書かれていた。…いれずみだ。
「ごめん、ここだけ入ってんだ俺」
「…うん。あの、あ、いえ」
「…ビビった?」
ほすけの問いに頷いて「虫かと思った」と答えると、ほすけは目を見開いた後にけっこう大きな声で笑った。
「あはは!虫?初めて言われたんだけど」
「…ゴキブリかと思った」
「超ウケるマジか」
ほすけの笑い声は、なんか独特だ。声がひっくり返って、ちょっと高くなる。その笑い声とほすけの言葉がなんだか子どもみたいで、俺までおかしくなった。自分とちょっとしか違わないくらいの、本当に、子どもみたいに思えたんだ。
「…はぁ〜ゴキブリ…マジかよあはは、ウケる」
よっぽど面白かったのか、ほすけは随分長いこと笑っている。その笑い声に今朝から続いていた緊張がちょっと解けて、だから俺はやっと、ほすけの隣にしゃがむことができた。
「…乾かしてくれてありがとう、ございます」
「うん。晴れて良かったね」
「うん」
「ねーたつひこ虫平気?」
会話の流れが変で、俺は首を傾げる。よくわからないまま「えーと…」と曖昧にこぼすと、ほすけはまたおかしそうに笑って「ゴキブリ見たらしばらく笑っちゃいそう俺」と言った。
 少し後で、すごく失礼なことを言ったと気付いた。勝手に慌てて、謝るべきか蒸し返さないでおくべきか迷っていると、ほすけは自分の手首のいれずみを隣で眺めながら「ウケるわー」と、またおかしそうに笑った。














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