Chapter.2-1




 お母さんのことはよく覚えてない。
 狭くて古い畳の部屋、小さな丸テーブルで一緒に野菜ジュースを飲んで「おいしいね」って笑ったこと、一緒に手を繋いで土手を歩いて川の中に落ちてく夕日を見たこと、薄い毛布の中で手作りの歌を歌ってもらったこと。覚えてるのはそういう、断片的ないくつかの思い出だけだ。
 お父さんはいなかった。だからその日が来るまで俺は多分ずっとお母さんと二人きりで生きていたんだと思う。ほとんど何も覚えていないけど、だけど俺はお母さんが好きだった。「たつ」「たっちゃん」「たっこマン」お母さんはそんな風に俺を呼んでいた。顔は思い出せないけど呼ばれた時のその声の感じは、なんとなく覚えてる。優しい声だった。…たぶん。
 俺のこの記憶が間違いかそうじゃないか、俺には確かめる方法がない。

 ある日、知らない建物の待合室みたいな場所で俺は一人お母さんを待っていた。その瞬間のことしかもう覚えてないけど、たぶん「トイレ行ってくるね」とか「ジュース買ってくるね」とか言われたんだろう。俺はお母さんが戻ってくるのをずっと、その場所で待ってた。
 それで、どれだけ待っても、本当にどれだけ待っても、お母さんは戻ってこなかった。
 その後、俺の元へ黄色いチェックのエプロンを着けたおばさんがやって来て「龍彦くん、はじめまして」と、俺に笑いかけた。
 その建物は養護施設だった。俺はその日お母さんからなんの説明もお別れの言葉もないまま、手を、離されたのだ。

 入所した時の自分の年齢は三歳か四歳だった(覚えてる訳じゃなくて、その施設で二年くらい暮らしてから俺は小学生になったはずなので、逆算して、多分。ということだ)。それから十歳になるまでその施設で俺は生活を送った。
 施設での暮らしは楽しいことも嫌なこともあった。いろんな先生がいて、二十代くらいの若くて優しい先生もいたし、いつも怒鳴って俺たち子どもから何かを「没収」してばっかりの先生もいた。
 子どもの数は先生たちよりずっと多い。年齢はバラバラで、高校に通ってる人たちも何人かいた。三個上の優しいお兄ちゃんとか、一個下の、言葉を喋れないけど俺の服の端をいつもつまんで付いてくる女の子とか、他にもいろんな子どもが、たくさんいた。
 俺はそこで暮らしながら漠然と「いつかお母さんが迎えに来る」と思っていた。あの時きっとお金がなくて、生活が苦しかったんだ。だからお母さんはお金を貯めてて、貯まったらきっと俺を迎えに来るんだって。話をよく聞いてくれる先生が一人いて、その人に何回かそんな話をした。いつも決まって「そうだね」って笑うから、ああそうなんだやっぱりって、俺は思ってた。
 お母さんが迎えに来る、と思いながら暮らす毎日は、そんなに苦しくなかった。終わりが来ることを思えば、ある程度のことは我慢できた。

 もうすぐ十歳の誕生日だねって、仲が良かった先生と話してた頃くらいだと思う。俺のことを引き取るという人が、急に現れた。
 それは、お母さんじゃなかった。その人は先生たちに何度も頭をペコペコ下げて、お世話になりましたと繰り返し言った。
「龍彦くんのね、お母さんのぉ、お兄ちゃんのぉ、私はお嫁さんなんだよぉ」
そのおばさんは「わかるかなぁ?」と、小さい子どもに話しかけるような猫なで声で言った。
 
 最初の数ヶ月くらいは、おばさんは優しかった。でも俺が学校でクラスメイトに怪我をさせてしまった時、その連絡がおばさんに行った時くらいからだろうか。段々、おばさんの態度が変わってきた。
「だめなのから生まれた子ってのはやっぱあれだ、だめなんだねぇ」
「もう二度と問題起こさないでね。わかった?返事は?」
「面倒起こすなって言ってるでしょ?顔向けなさいこっちに。とても嫌な思いをしたから、今日は十回叩くよ」
「今夜はここで反省しなさい。朝は一人で学校行って。電気点けたらだめだよ。このテープの外に出ないで。わかってるね」
いつも何度も顔と頭を叩かれた。何かを言おうとすると「喋ったら殴るよ」と宣告された。だから何も言わなかったし、俺はただヒリヒリする頭と顔の皮膚を、一人になってから自分でさするだけだった。
 おじさんはいつも夜遅くに帰ってきて、それでいつも極力俺と関わろうとしなかった。おばさんから俺の様子を聞いて、おばさんが本当と嘘を混ぜて今日一日のことを話して、おじさんが「そうか」と言って、それで、それだけ。
 おばさんに言われて真っ暗なお風呂場に一人で居た時、お風呂に入ろうとしたおじさんと出くわしたことがある。中でじっと座ってる俺を見ておじさんは「ああ、いたのか」だけ言って、扉を閉めて、自分が点けた電気をまた消した。
 施設の時とは違って、嫌なこととか大人の悪口とかをこっそり言い合える相手がいない。施設の時も先生から全く手を出されなかったわけじゃないし、優しくない大人はたくさんいることだって知っていた。けど、それでも、俺は施設にいる時よりずっとつらかった。
 叩かれた顔も頭も、跡なんか残らない。告げ口してやろうと思える誰かだっていない。真っ暗で冷たいお風呂場は、俺の世界そのものだった。

 十一歳、誕生日。誰からも誕生日と気付かれなくて、そんなのは当たり前で、それでその時なんとなく、ああお母さんはもう俺を迎えに来ないんだなって、そっと思った。
 そっか、終わりがない。この生活に終わりは来ない。それに気付いた途端、ああ俺はついに気付いちゃったんだなって思った。もうあんまり…いやたぶん一個も、俺には生きてる意味がない。



「…そう…」
ソファの、少し距離を空けて隣に座るおばあさんが「そうだったの」と、小さな声で続けた。
「……」
ほすけが、ただ黙って顎をポリポリかいてる。テーブルの上、空っぽのカップ麺の器をぼんやり見つめて、それからほすけは目を閉じた。
「…うん。じゃあね、私がお家の人に連絡してみようかね。たつひこくん、電話番号教えてくれる?」
「…はい」
俺は十桁の電話番号をおばあさんに伝えた。おばあさんは発信マークを触って、それから部屋の隅へ移動した。
 おばあさんが電話をかけている間、チラリとほすけのことを見る。ほすけは俺の視線に気付いてこちらを見た後、何か言おうとして口を開きかけたけど、すぐまたテーブルの上に目を向けて口を閉じた。
「…あ、突然すみません夜分遅くに。あの、わたくし稲田と申します。…ええ。あの、先ほどですね、たつひこくんが道に迷ってしまっているのを見つけまして……」
おばあさんが電話先のあの人に向かって話し出す。あの人の声は電話口から一切聞こえないのに、俺は緊張して体が固くなって、電話をするおばあさんの後ろ姿から目を離せなくなった。
「…ええ、ええ。いえ、そんな。雨も降ってますし、もうこんな時間ですから…ええ。今夜はたつひこくんをこちらでお預かりさせていただこうと思いまして、今ご連絡を…ええ。ええ…」
それから数分して、おばあさんは通話を切った。「なんだか拍子抜けしちゃったわ」と、驚いた顔をしながらまたソファに座る。
「今夜はぜひそちらでって。ご迷惑おかけしましたすみませんって、おっしゃってたよ」
「……」
大人に対しての時の、あの人の喋り方を想像して胸の中が重たくなる。まるで別人みたいな柔らかい口調で、きっと電話の向こう、話していたんだろう。
「ずいぶん腰の低い感じで喋る人だねぇ。もっとなんか言われるのかと思ってたよ」
「……」
 ほすけが、役目を終えてテーブルの上に置かれた携帯電話を静かに睨んだ。ほすけの口元から舌打ちの音がして、おばあさんが「こら、やめな」と、それをたしなめる。
「ひとまず明日が土曜で良かったよ。もう遅いしまた明日話そうか。ね。明日はばあちゃんがなんか美味しいもん作ってあげるから」
「え、もしかしてばーちゃん泊まんの?」
ほすけが一瞬嫌そうな顔をして、それに気づいたおばあさんは「なんか問題でもあんの!え!?」と大声で怒った。
「えーだって…あ〜、なんでもない」
「なに!?声がデカイって!?アンタが怒鳴らすようなことばっかやるからでしょうが!」
「なんも言ってない」
「顔に書いてあるんだよ!」
ほすけとおばあさんはそんな風に言い合って、それから気を取り直すようにおばあさんが「もういいわ、お風呂もらうよ」と言い席を立った。
 リビングに取り残されて、ほすけと二人きりになる。ほすけはもう誰も観ていないテレビのチャンネルをすぐさま違う番組に切り替えた。画面に映ったのはまた、さっきの音楽番組だった。
「…ね。超デカくない?」
ほすけが、ないしょごとの続きを俺だけにこっそり聞かせる。頷いても良いのか分からなくて、だけど俺も本当はちょっとそう思ったから、かなり迷ったけど、恐る恐る「うん」と言った。そしたらほすけは今日一番おかしそうに「あはは」って、声を出して笑った。
「でしょ。無視するともっとデカくなんだよね」
「…ふうん」
「…でも電話してくれて良かったわ。俺がかけてたら確かにヤバかったかもしんない」
「…なんで?」
「えー、舌打ちとか平気でするから」
あの人とほすけが電話越しに話すところを想像しようとしたけど、全然できなかった。…舌打ちなんてされたらあの人、一体どんな反応をするんだろう。
「…今日寒かったね」
ほすけがテーブルに片肘をつきながら、ぽつりと呟く。
「……うん…」
「明日なに食えんのかなー。肉がいいなー」
「………」
ほすけの声と、テレビから聞こえる音楽がだんだん遠くなる。
 気が付いたら俺はソファーに座ったまま眠っていた。
 電気が点いていて、近くに人がいて、寒くなくて、朝が来るまでが一瞬の夜だった。そんな夜は、一体いつぶりだったろう。















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