しばらくしてからほすけは立ち上がり、冷蔵庫からペットボトルを二本取り出してその内の一本を俺にくれた。俺が渡されたのは麦茶。ほすけの手に残っていたのは中身が透明の、CMで見たことある赤いラベルの炭酸水だった。
ほすけは俺に麦茶を渡すとまた台所に戻り、換気扇のスイッチを入れた。「ごめん煙草」とだけ言って、ペットボトルの中身を勢い良く飲んでからタバコを口に咥えた。
ほすけにならって俺もペットボトルに直接口を付ける。冷えた麦茶も美味しい。狭かった喉が開いていく感じがした。
「あー…今からちょっと電話すんね」
「…え…」
警察に?と一瞬思ったけど違った。ほすけは携帯電話を耳に当てながら「あ、違くて、俺のばーちゃん」と付け足した。
タバコの煙を吐きながら肩と頭で携帯電話を挟むほすけは、なんだか難しい顔をしていた。眉毛の間にシワを寄せて「声デカいからそっちまで聞こえるかも」と、俺に補足する。
少しして、ほすけが「あー、俺」と電話の向こうへ言った。「ほすけのばーちゃん」が電話に出たんだ。
「…あの…あー……えっとね、さっき外にさ、男の子がいて……や、だから男の子。いや違うだから男の子だって。そんでさ、行くとこないみたいで今いっしょいるんだけど、なんか家帰りたくないっつってるからさ……」
ほすけの声は耳を立てなきゃ聞こえないくらいの音量なのに、その後に電話の向こうから聞こえてきた女の人の声はこっちにまで響くくらい大きくて、俺は思わず息が止まった。びっくりした。
なんて言ってるかまでは聞き取れなかったけど、ほすけが電話を耳から離して、こっちを見ながら「ね」と言うから、それがちょっとおかしくて、少し安心する。
「……あーはい、聞いてる。そう。警察に連絡しないでほしいんだって。今日金曜だし別に俺は泊まってけばって思ってんだけど。……あ、マジで?…あー……」
ほすけはタバコの煙をブハァ〜と大きく吐いてから頭をボリボリ掻いた。電話はもう切れてしまったみたいだ。なんだか困っているようなほすけの様子に、俺は内心ハラハラしていた。
ほすけのばーちゃんが、警察に連絡しちゃったらどうしよう。それで、これからこの場所に警察の人がやって来たら、あの人に連絡されてしまったら、どうしよう。
「……なんかね、ばーちゃん今からここ来るって」
「…え、あ…」
怒られるのかな。俺は怒鳴られるのかな。そう思ったら途端に胸の中がザワザワと緊張しだす。だけどほすけは笑って「やだなー、俺すげー怒られんだろうなー」と、冗談みたいな軽い口調で言うだけだ。
「…あ、あの、俺…」
「たつひこ別になんも喋んなくていーよ。まー適当にテレビ観てて」
「……」
適当にテレビなんか観てられるはずがない。だってきっと、ほすけが怒られるのは俺のせいだ。
「…ご、ごめんなさい…」
「ん?」
「俺が…あの、俺のせいで…」
言葉が続かない。俺にはごめんなさいを言う以外の方法がない。ほすけに、迷惑をかけたくないと思った。だって俺が誰かに迷惑をかけるということは、俺があの人に顔を叩かれるということと同じだ。…何回?何十回?どれだけ辛い罰がその先に待ってる?
「……たつひこさぁ」
ほすけが一度、俺の名前を少し強く呼ぶからちょっとドキッとした。
「…は、はい」
「帰りたくないって言ったじゃん、さっき」
「……」
ほすけはまた煙を大きく吐いてから続けた。
「…俺も「帰りたくない」とか思ったことあるしさー…なんか、いーじゃん別に」
「……」
「それだけでいーじゃん。ね」
「……うん…」
ほすけが笑って小さく頷く。他にはなんにも言葉が思いつかなくて、だから精一杯の気持ちで「ありがとう」だけ言ったら、ほすけはまた笑って「いーえ」と言った。
「……」
ほすけには、言葉にしなくても相手のことが分かる不思議な力でもあるんだろうか。…どうしてだろう。どうしてこんなに、優しくしてくれるのか分からない。
大人の優しさには何か意味があるって俺は知ってる。例えば周りの目があるからとか、仕事だからとか、他にもきっといくつか理由はあるんだろうし、それは当たり前のことのはずだ。
だから分からない。俺は、ほすけのことがよく分からない。だって、どうして?なんにも知らない俺に、こんな、俺たち以外誰もいない場所で、どうして静かにずっと優しくしてくれるんだろう。
それから十分くらいしてからだろうか。近くでエンジンの音がしてそれがすぐ外で止まった。ほすけが「来た」と呟く。ああ「ほすけのばーちゃん」が到着したんだ。
エンジンの音が止まるなりインターホンが一度鳴って、ほすけが玄関へ向かう途中で扉が先に開いた。
ソファに座りながらそちらへ首を伸ばす。扉の向こうにはカッパを着た小柄なおばあさんが立っていた。
「はぁ〜もうすごい雨。なに?それで?ちゃんとどういうことか説明しなさいよ穂輔」
「うん。ばーちゃんタオルいる?」
「あ〜、いい?一枚ちょっと借りちゃうわ。ほんっとよく降るんだから…」
そんな会話の後、ほすけがタオルを取るためこちらへ一度戻ってきた。
「…ね。声デカいっしょ」
小声でこっそり言われて、なんて答えていいか分からないから黙ってたら「ないしょね」と、口元に人差し指を一本立てて、笑いながら付け足された。
ちょっとしてからカッパを脱いだおばあさんがリビングへやって来た。俺と目が合うなり「こんばんは」と言って頭を下げるので、俺も慌てて頭を下げた。
「あの子の祖母です。ごめんね急に来ちゃって」
「……いえ、あの…」
「ご飯は?もう食べたの?」
「あ、はい……」
俺が答えるのとほぼ同時にその人はテーブルの上のカップ麺の器に気付いて、その途端急に顔を歪ませた。
「穂輔!アンタこんなもん食べさしたの!?」
「…あ〜しくった。捨てとくの忘れた」
「あのねぇ出前取るなり買ってくるなりなんかあったでしょうが!」
「あ〜〜絶対言うと思った。は〜…サーセン」
「サーセンじゃないよ!こんなんで栄養摂れると思ってんの!」
「へーへー」
「穂輔!!」
ほすけの言う通り「ほすけのばーちゃん」はすごく声が大きい。だけどほすけがそれに驚いたり全然しないから、俺は少し安心した。これがたぶん、いつもの光景なんだ。
おばあさんもほすけの態度にブツブツ文句を言いながら「ほんっとに…」と、最後は諦めたように溜息を吐いた。
「ごめんねぇ、この子料理もなんもできないで。米も炊けないし食器も洗えないのよ。はぁ〜やんなっちゃうわ」
俺から少し距離を空けてソファに腰掛けるおばあさんに、ほすけが「ばーちゃんなんか飲む?」と尋ねる。
「じゃ、あったかいお茶ちょうだい」
「え、ないや。お湯でいい?」
「はぁ〜…コーヒーは?」
「あー、コーヒーならあるわ。待ってて」
ほすけがまたさっきの白いポットのスイッチを入れる。おばあさんは溜息を吐きながら「んっとに…」とブツブツこぼしていた。
「…ええと、お名前は?聞いても大丈夫?」
おばあさんが俺の顔を見ながらゆっくり尋ねた。どうやら大きな声と早口な喋り方はほすけにだけみたいだ。俺は「安藤龍彦です」と自分の名前を答えた。
「たつひこ。たつひこくんね。うん」
おばあさんは何度か頷いて、それからまた大きな声に戻って「チャンネル変えるよ!」と台所のほすけに言った。ほすけは「え、やだ」と言ったが、おばあさんはそれを適当に無視してNHKのニュースに画面を切り替えた。
「雨止まないねぇ」
おばあさんがニュースを観ながら呟く。相槌が必要なのかよく分からなくて黙っていたら、おばあさんは急にハッとした顔をして「この雨でずっと外にいたの?」と俺に質問した。
「…そう。です」
「そう…そうなの。寒かったでしょう?まずはゆっくり休んでいきな」
「……あ、はい…あの、ありがとうございます…」
おばあさんも、ちょっと最初はビックリしたけど優しい人だった。すぐにでも警察に連絡されてしまうかと思ったけど、大丈夫そうだ。良かった。
「ん、コーヒー」
ほすけがカップをおばあさんの前に差し出して、またさっきの場所にあぐらをかいた。
「はいありがとう」
おばあさんがコーヒーを数口啜って、それから「さてと、じゃあまず」と最初の言葉を告げた。
「どういういきさつだったの?ちゃんと話しな」
ほすけは「あー」と間延びした声を出した後、今日のことを順番に説明していった。
「うん…うん。そうなの。じゃあ本当に初めましてな訳ね」
「うん、そー」
「ええと、それで。たつひこくんのお家の人は?今たつひこくんがここにいることを知らないってことね?」
「そー」
「じゃあまずお家の人に連絡しなさい。たつひこくん、お家の連絡先は?電話番号とか住所とか分かるね?」
おばあさんが俺に一つずつ、念を押すように丁寧に聞いてくる。ほすけは顎の辺りをポリポリかきながら、黙ってその様子を見ていた。
「捜索願いを出してるかもしれないし、今頃すごく心配しているでしょう?何も連絡しないっていうのはね、だめよ」
「……」
住所も電話番号も、言える。だけどあの人らの顔を思い浮かべた瞬間何も答えられなくなった。どれだけ叩かれるんだろうと思って、きっと痛いだろうなって、俺はすごく憂鬱になった。
「…別に明日で良くない?」
ほすけがポツリとこぼした言葉に、おばあさんが「馬鹿言ってんじゃないよ」とすぐさま返す。
「あのね、これは側から見りゃ誘拐と一緒なの。アンタはこの子の気持ち尊重してあげてるつもりなんだろうけどね、大人には責任ってもんがあんの。そういうのは優しいじゃなくて無責任って言うんだよ」
「…そーすか」
「なぁにが、そーすかだよ!ちょっと考えりゃ分かるでしょうが!」
おばあさんはため息を挟んでから、今度は俺に向き直って真剣な顔をした。
「たつひこくん、お家帰りたくない理由は詳しく聞かないけどね。…だけどちゃんと親御さんには連絡しないといけないの。分かるね?」
「……」
分からないとは、言えない。でも頷くこともできなかった。だって頷いてしまったら、俺を叩く手のひらが、冷たいお風呂場が、真っ暗な一人きりの長い夜が、確実に待っている。
「……わかった」
重苦しい沈黙の後ほすけが、そう言ってポケットから携帯電話を取り出した。
「俺が電話する。迷子んなってたから保護してますって」
おばあさんと俺は同時にほすけの方へ視線を向けた。
「…なんか言われたら…なんか適当に返す」
「……ほすけ」
ほすけは顎をさすりながら携帯電話の画面を見つめ、俺に「番号は?」と聞いた。だけど慌ててそれを制したのはおばあさんだ。
「ちょ、待ちな。待ちなさい。なんか適当にってアンタ、何言う気」
「知らねーけど。だって話してみなきゃ何言われるか分かんねーし」
「あぁ〜…もう〜っ…!だめ、アンタがかけちゃダメだわ、火に油だわ。やめな!」
おばあさんはそう言ってほすけの手から携帯電話を奪うと、また大きくて長いため息を吐いてコーヒーを啜った。
「……たつひこくん。電話は私がかけたげるから。だけどその前にね、少しだけお家のこと聞かせてくれる?」
「……」
おばあさんがそう言うので、俺は半ズボンの裾をギュッと握りながら「はい」と、小さく頷いた。