犬と盆暗




 横田との一件があった日から数日。毎日脳裏の片隅に現れる奴の顔を、舌打ちしながら追い払うような毎日を俺は送っていた。
 結局あの後会長サンには「ずいぶん遅かったじゃねえか」と驚かれてしまったし、兄貴には「シャツぁどうした」と聞かれ誤魔化すのに悪戦苦闘した。
 俺はしらばっくれるのが一、二を争うくらい苦手だ。誰にもバレないようにと肝を焼くのもすこぶる苦手だ。そのどれもこれもがあの男の連れてきた面倒ごとなのだと思うと余計に腹立たしかった。

 ある朝。俺はポストから今日付けの新聞を抜き取り、長い廊下をいくつも渡って本邸の一番奥の部屋へ進んだ。毎朝の朝刊を会長サンに持っていくのも仕事の内の一つだ。本邸の最奥に辿り着き、会長サンのいる部屋の扉を開ける。
 会長サンは誰かと電話をしているところだったが、俺に気付くなり「また改めて」と言って電話を切った。そういや、会長サンが電話で話してることがここんところ多い気がする。何か面倒ごとでも舞い込んできてるんだろうか。
「電話、無理して切ることないですぜ」
「ん?いや、まあな、いいんだ。それよりよ、ちょっと頼まれてくれるか」
 朝刊を開きながら思い出したように会長サンがそう言ったので、俺はすぐさま「へい」と返事をする。
「みかじめ徴収してる店あるだろ、××って。あそこの店長がな、いい酒仕入れたから良かったら貰ってくれってよ。おめえさん受け取りに行ってやってくれねえか」
新聞を一枚捲って「俺ぁ今日は客人をもてなす予定があるからよ、動けねえ」と付け加える。なんてこたぁない、荷物を受け取ってくるだけの仕事だ。俺は快く引き受けた。
「へい。それじゃ今から行ってきやす」
「おう。どこぞで道草食ってくんじゃねえぞ」
この前のことがあってから、外の用事へ出掛ける度に俺はこんな忠告をされるようになってしまった。
 前にも言ったが誤魔化すことが苦手なので、どういう反応をしたら良いのか分からない。ためらいながら頭をかいてヘラリと笑ってみせると、会長サンは片方の眉毛を上げて「さては児島、おめえ…」と呟いた。
「…コレでもできたか」
会長サンが小指を立ててにやつく。予期せぬ言葉に思わず「へっ!」と素っ頓狂な声が出た。言い忘れたが俺はこの手の話も物凄く苦手だ。笑って受け流せばいいものを、体が妙に固くなって、不自然な挙動をしてしまう。
「ちっ、違げぇッス
全力で否定すると会長サンはいつものように「カカカ」と笑ってまた新聞を一枚捲った。
「そうだな。風間に操立てしてんだもんなおめえさんは」
おおよそこの時、俺ァ会長サンにからかわれていたんだろう。すぐに気付いて適当に受け流せばいいものを、一つ前の話題ですっかり動揺していた俺は顔面に汗かきながら「そんな訳ねえでしょう」と全力で叫んでしまった。廊下にまで響き渡るその音量に会長サンは顔をしかめて「わぁったよ、声がデケェなおめえさんは…」とため息混じりにこぼした。

 玄関で靴を履き、目的を果たして戻ってくるまでの大体の時間を計算する。行って帰ってくるだけなら、まあ一時間もありゃ間に合うか。
 帰りに服屋でも覗いていくのも悪くない。だってあのクソ野郎のせいで肌着の上に羽織るシャツが一枚足りてねえから。
 そこでようやっと俺はあることに気付いた。横田の住んでいるアパートは、今日行く店のすぐ近くにある。
「……」
だから、なんだと言うのか。一瞬よぎった思考を、煙を払うように消してから俺は往来を歩いた。
 セミの大合唱が、今日もそこかしこから聞こえる。少し歩いただけで首元に汗が伝うほど暑い。脳みその中がいまいちすっきり纏まらねえのはきっと、全部この暑さのせいだ。
「…気になんかなってねぇぞ、俺ぁ…」
ひとりごちてひたすら歩く。冷房の効いた電車に揺られりゃ、少しは頭ん中もマシになるだろう。
 本当にどうでもいい。熱が下がったかどうかなんて、俺は本当に、気になんかなっていない。言い聞かせるように何度も同じことを繰り返し頭の中で唱える。そうこうしている間に本邸の最寄り駅に辿り着き、奴の顔がチラついたまま、電車は目的の駅に到着してしまった。
「……」
腹が立った。心底不愉快だった。だって俺の足は奴のアパートへ向かうかどうかで迷い、今、駅構内で突っ立ったまま動かないのだ。
「…くそったれ…」
構内の端に設置された灰皿の前で一本吸いながら、自分の両足を見下ろす。
 どうにも仕方ねえから、右と左の足で「天の神様の言う通り」をやってみることにした。右に止まったら奴の所に、寄る。左に止まったら、寄らない。
「…よし」
そして左の足からスタートした「どちらにしようかな」は、結局、最後「り」の文字で右に止まってしまった。
 …しょうがねえ。だって天の神様の言う通りだから。誰に対して吐いたのかも分からねぇ言い訳のようなものをぶら下げて、俺は改札を抜けた。建物の外から、ちょっと確認するだけだ。当たり前だ、金輪際会いたくもねぇんだから。

 数日前に奴の後をつけた時と同じ道を進む。細い路地を曲がれば見覚えのあるアパートが視界の先に見えた。二階の廊下に人影はなく、あの時みたいにぶっ倒れた横田が通行の邪魔をしているようなこともない。
「……」
しばらくその場で奴の部屋の扉をぼうっと眺めていたが、この時間に一体どんな意味があるのかと気づいてしまい、気づいてしまったら途端に舌打ちが出た。くそ、なんだって俺がこんな無駄なことをしなくちゃいけねえのか。…いや、仕方ねえ。だって天の神様が決めたことだし。
「……」
もしあの部屋の中、奴があのまま死んでいたら。最悪の事態を想像して気分が悪くなった。この暑さだ、蒸し風呂状態の部屋に放置された仏様なんざきっと数日で腐ってしまう。
 布団の上、虫にたかられてる奴の体を瞼の裏に思い描いた。とてもじゃねえがそのまま立ち去る気になれなくて、だけどドアを叩く決心もなかなか付かない。
 考えた末、俺は建物の裏手に回ることにした。きっと部屋の間取りから予想するに、窓は入り口の反対側に面している筈である。もしかしたら窓越しに少しくらいは、中の様子が確認できるかもしれない。
 俺は恐る恐る日陰へ向かって歩き、狭い通路を進んだ。
「……」
横田の部屋の窓は、見た瞬間にすぐ分かった。手前から何番目と数える必要もなかった。何でかって、見慣れた柄のアロハシャツが窓の外に、干してあったからだ。
 それは俺があの日、横田の体にかけてやったシャツだった。
「…干してら…」
意外だった、ものすごく。だってあの横田が?わざわざ自分のもんじゃねえ服を?丸めてゴミ箱に捨てたりしねえのか。
 夏の日差しに照らされた窓際の洗濯物。風に煽られて時たま揺れる花柄。やけにのどかなその光景が奴の顔と結びつかなくて、あまりの暑さに変な夢でも見てんのかと疑うくらいには、俺の目には不思議に映った。
 そのままその場で立ち尽くしていると、中から奴の横顔が唐突に現れた。その口から白い煙が吐き出されるから、一服しているのだと理解する。
 …なんだ、元気じゃねえか。クソッタレ、こっちがどれだけ気を揉んだと思ってやがる、ちくしょう気持ち良さそうに煙吐き出しやがって。
 心の中で悪態を吐きながら、もうここに留まってる必要もねえと思い直す。だって神様の言うことに従って来ただけで、本来なら俺は二度とテメェに会いたくなんざなかったのだ。
 気付かれる前に去ろうと思ったが…だめだった。俺が背中を向けるより先に横田はこちらに気付き、俺を見下ろしながら煙をゆっくり吐き出した。
「…おう、やっぱりお前だったか風間の犬」
「……あぁ…?」
それが、仮にも看病してやった相手に対して言う第一声か?ありえねえ、なめてんじゃねえぞこのクソ野郎。
「…っの野郎、誰が犬だゴラァッ
「お前以外いねぇだろうが。馬鹿じゃねえのか」
「アァ
「あー馬鹿は声がデケェ」
「ぬかしてんじゃねぇぞこのっ…ボンクラ野郎が
横田は干してあるアロハシャツを親指で指し示し「これ、早くしねぇと雑巾の代わりにするぞ」と言った。
 雑巾。…雑巾だぁ?ちくしょう舐め腐りやがって、ゴミにされるよりよっぽど腹が立つ。
「テメェなめてんじゃねえぞ
「吠えてねえでとっとと取りに来いよ。近所迷惑だ」
横田は最後にそう言うと、吸い終えた一本を窓のサッシに置かれた灰皿に押しつけ部屋の中へ戻ってしまった。
「……」
絶句した。あり得ねえ、詫びの一言もねえのか。感謝の言葉くらい送れねえのかあの男は。俺はしばらくその場に立ち尽くし、あまりに横暴な奴の態度に呆然としていた。
 いや、別に恩を売った訳でもねぇし頭を下げて欲しかった訳でもねぇ。断じて違う。だけどそれにしたってテメェの態度があんまりで、俺は面食らう。恐らく俺は奴に、つまりは完全に、ナメられている。
 奴の事務所に乗り込んで返り討ちに遭ったことを思い出す。あの時ゃ散々だった。さすがに死ぬかもしれねぇと思った。けどよ、よく考えてみりゃあの時と状況が全く違ぇ。テメェを取り巻く部下はここにゃいねぇし、何より横田。テメェは今、片腕が死んでいる。その気になりゃ俺はきっと今度こそ、テメェの息の根を止めてやることだって出来るだろう。
 だから、覚悟しやがれ。もう一度ナメた態度を取ってみろ、俺を部屋に上げたことを後悔させてやるからな。
 一度だけ喉を鳴らして、俺は建物の表側へと移動した。…違う。俺は!ビビってねぇ!
 階段を乱暴に登り、薄っぺらい扉を力任せにガンガン叩いた。中から「うるせえ空いてる」と聞こえてきたので舌打ちを一度、それから深呼吸も一度、扉の向こうにガンを飛ばして俺は取手に手をかけた。
「邪魔すんぞコラァ!」
怒鳴りながら扉を開けると、部屋の奥、万年床の上で胡座をかく横田が「だからうるせえ」と、溜息を吐きながら言った。
「階段登る音もドア叩く音も全部うるせえんだよ」
「なっ…ああ
「顔もうるせえ」
「テメェッ…喧嘩売ってんのか
「だから…はー…。普通に喋れねぇのか?」
「しゃっ、喋れるに決まってんだろうが!ナメてんじゃねえぞ
「うるっせえな…」
横田があからさまに煙たい顔をして、耳の穴に小指を突っ込んだ。
「このダセェ服持ってとっとと帰れクソ犬」
「ダッ…ダサくねえっ
「声がデケェっつってんだろ馬鹿犬」
「俺ぁ犬じゃねえっ
殊更でかい溜息を吐いて、横田が面倒臭そうにシャツからハンガーを外す。適当にそれを掴むと、横田はこちらへ向けて俺のシャツを投げつけた。テメェこの野郎、人様のもんを投げやがって。それ以上ナメた態度取ってるとドタマカチ割るぞコラ。
「…お前の名前を忘れた。なんつったか」
舌打ちしながらシャツを受け取ったのと同時、横田が静かにそう言った。そういやまだ馬鹿犬かクソ犬としか呼ばれていなかったか。…なんだよ忘れてんじゃねえよクソが、こっちは嫌でもテメェの名前を忘れられないでいるってのに。
「…児島だよ」
「おう、児島。…冷蔵庫ん中の右上見ろ」
「…あ?」
「冷蔵庫だよ。早くしろ愚図」
ああ本当にいちいち物言いが腹の立つ。苛々しながら扉を開け右上に視線を動かしてみると、そこには霜が立った小さな空間があった。多分ここが冷凍庫の役割を果たしているんだろう。
「やるよ。この前の駄賃」
他には何一つ入っていないすっからかんの冷蔵庫の中、霜に覆われたその部分に、駄菓子屋で俺がよく買うアイスが一つだけ入っていた。
「……」
黙って横田を振り返ると「何してんだとっとと出してドア閉めろボケ」と言われた。
「…あぁ?」
「早く帰れよ、邪魔なんだよクソ犬」
何でいちいちこの男は、頭にくる物の言い方しかできねえのか。せっかく喉を通りかけた言葉がコイツのせいで、声にならず腹の中へ落ちていく。
「……っち」
舌打ちしながら取り出して、冷蔵庫の扉を閉める。立ち上がって俺は目いっぱい横田を睨んだ。
「…もう二度とテメェの顔なんざ見に来ねえからな」
「そうだな。二度と来んな」
「また倒れたりしても次は知らねえからな!そん時ゃ一人でくたばりやがれ!」
「わかったよ、早く行けよ」
「行くんだよ今から!あばよ!」
怒鳴り散らしながら靴を履く。最後に振り返って中指を立てたら横田が「だからうるせえ」と言った。なにがうるせえだ、何も言ってねえだろクソ野郎。
 とびきり乱暴に玄関のドアを閉めて、それから着慣れたシャツの袖に数日ぶり、腕を通した。
「……」
着てから気付いた。シャツは、ただ干されていただけじゃない…きちんと洗濯されていた。嗅ぎ慣れない洗剤の匂いが、湿った暑い空気に交じる。
「……クソが…」
その匂いがいちいち何度も鼻先に届くから、その度に舌打ちがこぼれる。…なんだよ、なんだってんだ、うまく言葉にできない。ちくしょう人のことを犬だの馬鹿だの散々言いやがって。
 テメェの悪態を思い返しては腹が立つのに、心のどこかにそれとは違う感情が落っこちている気がして、どうにも落ち着かない。
 行き場をなくした「どうも」が、喉の奥につっかえる。もうドアを閉めちまったじゃねえか。…言えねえじゃねえか。ふざけんなよ。
 いや、いい。別にどうだって。勝手に生きてる。一度は本気で殺したいと思ったテメェが、今は六畳一間のボロアパートに暮らしているテメェが、熱を出したって誰も駆けつけてなんか来ねぇテメェが…一人っきりで、ただ生きている。
 その事実に何かしらの感情を乗っけるなんて無意味で馬鹿馬鹿しい。どうでもいい。俺はテメェのことなんざ本当にどうだっていいんだ。
 額の上に押し上げたサングラスを元の位置に戻した。安いアイスを右手にぶら下げ、慣れない洗剤の匂いを纏って、俺は階段を降りる。
 金輪際テメェにゃ会わない。会いになんか来ない。今までのことは全部暑さのせいにして、綺麗さっぱり忘れる。
 アイスは食わねえで道端に捨ててやろうと思った。本当は喉が渇いていたし、しかもそれは俺の大好きなコーラ味だったが、食ったらその分だけテメェが頭の中に居座ってしまう気がして、嫌だった。
 一度も振り返らず歩いた。テメェの声で「クソ犬」と頭の中に聞こえる度「黙れクソ野郎」と返した。うるせえ、うるせえ。テメェにクソ犬呼ばわりされる筋合いはねえんだよこのボンクラが。
 今日一番にデカい舌打ちをこぼしたその時だ。背後から扉の開く音がして、その次の瞬間テメェの声が響いた。
「児島あ」
足を止めて、振り返る。横田が玄関の扉を少しだけ開けてこちらを見ていた。
「…この前よお」
かったるそうに体を壁に預けているくせに、その表情は妙にぎこちない。髭の生えた顎を左手でさすりながら、一瞬だけ視線を泳がせて、横田はまた俺を見る。
「どうもな」
それだけ言って、横田は扉を閉めてしまった。俺は再び歩き出すタイミングを失って、閉められたその扉をいつまでも見つめた。
「……」
テメェはなんでそうやって、言いたいことだけ言って、俺の言葉を待たねえで締め出すのか。取り残されて突っ立ってるしかできねえこっちの気持ちを分かってんのかよ、全然分かってねえだろ。ふざけんなよクソ野郎。このボンクラ野郎。
「…別に」
聞こえる筈もねえテメェへの返事がアスファルトに落っこちてただの独り言になる。ムシャクシャして余計に喉が渇いた。だから、しょうがねえから、捨てるつもりだったアイスを食うことにした。
「……っち」
今日二番目にデカい舌打ちが出たのは、アイスの棒に「当たり」と書いてあったからだ。
 だからそれがどうしたって冷めたツラして、当たりの棒を道端に捨てるような自分だったら、こんなにムシャクシャしねえのに。けれど俺はサングラス越しの視界を睨みながら、当たりの棒をケツのポケットにしまってしまうのだ。
 また会いに行く理由になるんじゃねえかと、一瞬でも考えている。だからもう、いい加減にしやがれよ。なんだってそんなことを考えるんだ俺の頭は。反吐が出そうだ。
 …なあ、どうして「当たり」にしちまうかな。おうこら聞いてるか?天の神様よ。




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