犬と盆暗




 その日は数駅先の地域の見回りをする日だった。見回りは週に一、二回。その地域にはみかじめ料を徴収している店が二店舗ほどあり、その一帯で変な輩が湧いていないか、他の組の連中が面倒ごとを起こしたりしていないか見て回るようになっている。
 この仕事を自分が担うようになってからもう数ヶ月は経つだろうか。だから俺はその地域に住む人の何人かに、いつの間にか顔を覚えられていた。
 道でバッタリ出くわせば「児島くん」と笑顔で名前を呼ばれ、行きつけのめし屋に立ち寄れば「いつものでいいかい」と調理場から声をかけられる。そんな瞬間がいつも、何個も転がっている。
 多分怯えられているようなことは、あまりないんだと思う。タッパの無さが理由かと自分では思っていたが、以前兄貴に「テメエはお人好しって顔に書いてあるからな」と笑われたことがあるので、実際はそっちのせいなのかもしれない。…箔をつけてぇってのが、本音なんだけどな。
 試しにサングラスの中、眉間に皺を寄せ目の前を睨みながら闊歩してみる。が、疲れたのですぐやめた。
 見慣れた町並みは今日も変わらない。一人で昼の街をテロテロと歩き、団扇を仰ぎながら暑さをやり過ごす。
 電柱にセミの抜け殻を見つけ、今年に入って初めて見たなと思いながら数秒観察していたら、通りすがりの婆さんに「あれぇ児島くんかえ。今日も暑いねえ」と笑顔で声をかけられた。お天道様の下をこうして歩くだけでシャツの裏側は汗に濡れる。扇子を緩く仰ぎながら「本当になァ」と、俺も婆さんに笑って返した。
 用心棒として雇われている兄貴は外の仕事を振られることがあまりなく、本邸で待機していることが殆どだ。額にかいた汗を拭いながら、兄貴や会の皆への差し入れに今日はどんなもんを買って帰ろうかとぼんやり考える。アイスはどうかな。いや、持って帰ってる間に全部溶けちまうか。
 そんなことを考えていた時だった。数十メートル先の煙草屋から随分とタッパのある男がふらりと出てくるのを見た。街中でも目を引くほどデカイその男の後ろ姿に、俺は思わず足を止めた。
 …横田だ。白いタンクトップに黒の野暮ったいスラックスを履いた横田が、右手に買い物袋をぶら下げて歩いている。
「……」
俺はその場から動けなくなった。そのまま横田の後ろ姿をじっと見つめる。胸焼けするような柄物のスーツではない、くたびれた格好をした横田が一人きり、歩いている。
 まさかこんな、本邸から数駅先の見慣れた町中で奴を見かけるなんて思ってもいなかった。自分の中で沸き起こる色んな感情を、俺はただ呼吸に乗せることしかできない。因縁の相手が今、数歩先にいる。丸腰の横田が、俺の目の前に。
 一番最初に胸の中を占めたのはやっぱり「怒り」だった。アイツが兄貴や龍田組に何をしたか。人の皮を被った下衆野郎が、今もこうしてのうのうと生きている。それだけで俺の中に張られた湯は沸々と煮えたぎる。
 けれど、次の瞬間には言いようのない遣る瀬無さが体を巡った。アイツの肩からぶら下がる左腕を見て、会長サンが言っていた言葉を思い出してしまったのだ。
 横田の左腕は、ただ本当に、そこから垂れているだけだった。歩く奴の体の動きと連動していない、それは奴の右手にぶら下げられた買い物袋と、まるで同じだ。
「……」
 今、ベルトに差してあるドスで横田の背中を突けば、きっと簡単に殺れるんだろう。積年の恨みがある。色褪せない憎しみが確かにある。
 …だけど俺の拳は固く握られたまま、ベルトのドスを抜き取ろうとはしなかった。…できなかったのだ。殺してやりてぇ相手を前にしているのに、どうして。
 横田は死んだ。そう思っとけ。兄貴の言葉が一度だけ頭の中で響いたが、そうやって簡単に割り切れるほどの要領の良さもない。
 ああ情けねぇ、笑っちまうよ。いざアイツを前にしたら俺は何にも出来ねぇでやんの。
 自分の感情を上手に整理できないままその場に突っ立っていると、横田が三つ先の曲がり角で左に曲がり、その奥にある路地に入ってしまった。姿が見えなくなる。このままでは見失う。
「……っち」
俺はどうするべきなのか、どうしたいのかさえ分からないまま奴の後を追った。
 きっとこのことを知ったら兄貴は俺をしこたま怒るだろう。でもよ、ごめん兄貴。俺は兄貴の言う通り利口な方じゃねえから、勝手に動く自分の足を止められねえんだ。
 約束するよ、馬鹿な真似はしねぇ。奴に気付かれる前に必ず踵を返すから。俺が何をどうしたいのか俺自身が分かるまで、ちょっとだけ待っててくんねぇか。
 俺は胸の中で兄貴に誓い立てをして、横田の後を密やかに追った。

 気づかれぬよう十分な距離をとって尾行を続ける。横田はやけにフラフラとした足取りで真っ昼間の路地を進んだ。歩く度に奴の上半身が不自然に揺れるから、もしかしたら相当酔っ払っているのかも知れない。こんな真っ昼間から酒をかっ喰らって、クソが。本当にどうしようもねえ。左右に揺れる後ろ姿に苛立ちながら、俺は一定の距離を保ってその後をつけていく。
 程なくして奴は立ち止まり、二階建てのアパートの階段をかったるそうに登った。見るからにオンボロのその階段は、横田が一段登る度に軋むような音を立てた。登りきって、二つ目の扉の前で横田は立ち止まる。右手でスラックスのポケットをまさぐって、小さな鍵を取り出す。
「……」
物陰からその様子を、俺はずっと見ていた。あんなボロアパートの一室が、横田の、今住んでいる部屋なのだ。
 信じられなかった。俺が部屋を借りてるアパートと見たところ同じような造りの、錆だらけの、剥がれた塗装もそのままの、古くて簡素な建物だ。こんな場所で今暮らしている。一人、生きている。
 興誠会の頭をやっていたあの頃の横田は、自分のこんな未来を想像していただろうか。人をゴミみてぇに見下して、葉巻をふかしながら頬を踏みつける。…なあ、そんなお前が今ゴミみてぇな生活をしてる。想像できるか?いや、できるわけがねえ。目の当たりにしてる俺だって今、上手く飲み込みきれないのに。
 横田は、鍵を挿すのに少し手こずっていた。上手く入らないのか、苛立った様子で何度も鍵穴付近を突いてカンカン音を鳴らしている。何やってんだよ馬鹿が、酒が回りすぎて手元が狂ってんのか?飲み過ぎだ。
 しかし横田は結局鍵を開けられなかった。そのまま頭が前に倒れて、額と扉がぶつかり派手な音を響かせる。そのまま額を擦り付けながら、よろよろと、横田の体が下へ沈んでいく。
 横田はそのまま扉前の通路でぶっ倒れてしまった。手すりの隙間の向こう側、そこに横田のデカい図体が転がってる。
「……は、はぁ?」
な、何をしてんだよ。寝てんのか?寝るなら部屋に入ってからにしろよ、そんな所で転がってたら他の人に迷惑かかんだろうが。
 どれくらい、そうしていたか。そのまましばらく倒れた横田を見ていたが、いよいよ辛抱たまらなくなって、俺は恐る恐るアパートの階段を登った。
 俺の足音にもちろん横田は反応しない。こちらに気づく気配のない奴に安心しながら、だけどどこか緊張しながら、俺は倒れた横田の真ん前まで移動する。
「…おう、コラ」
見下ろし、声をかけてみる。案の定横田からの返事はない。俺の足元で死んだように転がったままだ。
「…」
今度はしゃがみ込んで肩を少し揺する。やはり起きない。近くで見てみて初めて気付いたが、横田の顔はやけに赤く、そして僅かだが体が小刻みに震えていた。俺は焦り、もう少し強く体を揺すった。横田は小さく呻き、苦しそうに呼吸をしていた。
「おい、おいって」
おかしい。頬を軽く叩く。そして驚いた。横田の体温がやけに熱いのだ。額に手を置いてみてやっと、こいつがやたらフラフラしていた本当の理由が分かった。酔っていたんじゃない、熱があるのだ。それもずいぶん高い。夏風邪という言葉で片付けるには少し無理がありそうなくらいに。
「横田!おい、横田!」
うんともすんとも言わない横田に舌打ちし、その手に握られていた鍵を俺は取った。薄っぺらいドアの鍵を開けて、重たい荷物を引きずるようにして体を部屋の中へと運ぶ。
 なんとか玄関口まで移動させ適当に寝転ばせると、横田が「…あぁ…?」と機嫌の悪そうな声を漏らした。何が「あぁ?」だ、ふざけんなよ、詫びの一言もねえのかこのクソ野郎。横田の目は開かない。またその場で意識を手放してしまったようなので俺は舌打ちをした。
「…くそったれ…」
呟きながら、部屋の中を見渡す。六畳一間の部屋の中には何もない。窓辺に、恐らくは万年床になってる布団が一式、敷かれているだけだ。
 仕方なくサンダルを脱がせてやり布団まで運んだ。とにかくこいつの体が重くて、俺は熊かなんかを運んでるんじゃねえのかと思った。何とか布団に横田の体を寝かせたが、その時はもう全身汗だくになっていた。
 図体がデカいから収まりきらず、両足の先が敷布団からはみ出している。嫌味な長身にもう一度舌打ちがこぼれて、だけど苦しそうに息をするその様子に、少し不安になった。
「…おうこら、薬はあんのか」
サングラスを額の上に押し上げて横田の顔を覗き込むが相も変わらず無反応だ。…なんだよ、どうしたら良い。このまま放ったらかしにしといたら、こいつ死ぬんじゃねえか?
「…くそ…」
飾り気もクソもない部屋の中を見渡し、この状況に何か役立ちそうなものを探す。冷蔵庫の中、台所の引き出し、流し台の周り、とにかく目につく所は一通り漁った。けれど、ない。本当に有益なモンが何一つない。
 ふと、横田がさっきまでぶら下げていた買い物袋の存在を思い出す。玄関のドアを開け、横田がぶっ倒れていた場所を確認する。それはやはり二階通路にそのまま置き去りにされていた。中を確認する。スポーツドリンクが数本とそれから煙草、あとはカップラーメンと、一番下に風邪薬が入っている。
 俺はそれを持って横田の元まで戻り、薬の瓶の蓋を開けた。
「おら、飲め」
瓶の中から適当に三錠取り出して口に押し込もうとするが、嫌がってそっぽを向かれた。…なめてんのかクソ野郎。ぶっ飛ばすぞ。
 いや、確かに薬だけ口に入れても上手く飲み込むのは難しい。水と一緒じゃねえと。当たり前のことに気付くのが遅れ、自分はひどく動揺しているのだと分かった。分かってしまったら今度は腹が立って仕方ない。なんで俺がこんな奴の為に動揺なんてしなきゃいけねえ。ふざけんじゃねえぞなんなんだこの状況は。知らん顔して今すぐ帰ってやろうか、ああ?
 憤りながら、俺は流し台そばの食器置きからコップを一つ取る。生温い水道水を半分ほど入れて、もう一度横田の近くへ戻り枕元で胡座をかいた。
「…飲めって言ってんだろうが、おら」
水と薬を顔の前に差し出すが、横田は一瞬眉間に皺を寄せただけでやはり返事をしない。くそ、飲まなきゃ治らねえだろうが馬鹿、とっとと目ぇ開けろ。
「…おい起きろ!いい加減にしやがれ!」
耳元で怒鳴ると、それまで一切開かれなかった横田の目がようやく開かれ俺を見た。垂れた目の奥に見える鈍った黄色が、俺をとらえる。
「……うるせぇ…」
「うるせぇじゃねぇしばくぞ!いいから飲めよテメェ!」
俺が薬を見せると、横田は力なく首を横に振ってそれを拒否した。
「…要らねえ…」
「要るから買ったんだろうが、馬鹿じゃねえのか」
横田は分かりやすく舌打ちをして、呻きながら寝返りをした。
「…うるせえ…いいから消えろ…」
そのセリフにも、また寝に入ろうとする態度にも心底腹が立ち、いっそ顔面に水をぶっかけてやろうかと思った。
「…そうかよ…じゃあお望みどおり消えてやらァ」
「…」
「そのまま熱上がってもっと悪くなっても知らねえからな」
「……」
「死ぬかもしんねえぞ。あとで後悔すんなよクソが」
「………」
「聞いてんのかよクソ野郎!あ
そっぽを向いて寝ている横田は、もうこちらを振り返ることもない。ただ苦しそうな呼吸の音とたまにこぼれる呻き声が、狭い部屋に響くだけだ。
「……ほんとに知らねえからな…」
捨て台詞のようにそう言って、俺はハイライトを一本咥えながら横田の部屋を出ようとする。靴を履いてドアノブに手をかける瞬間もう一度横田を振り返ったが、やはりさっきと同じ姿勢のまま奴は寝ているだけだ。
 だけど、その時だった。
「……く、ねぇ…」
 苦しそうな呼吸の音と一緒にテメェが何か呻いた気がした。何か俺に伝えようと思ったのか。慌てて靴を脱ぎかけたが…いや、いい。知らねえ。知るか。テメェが風邪をこじらせて死のうがどうしようが、俺にはどうでもいい。
「……」
薄っぺらい扉を閉めた後、背中を預ける。サングラスをかけ直し、セミの声を聞きながら煙草をふかす。この一本を吸い終えたら本当に知らねえ。ここから消えてやる。本当だからな。
「……」
煙草がジリジリと短くなる。舌打ちが何度もこぼれる。…クソが、テメェのことを気にかけながら吸う煙草はこんなにも不味い。貴重な一本を台無しにしやがって。なめんじゃねえぞ。
「……クソったれが!」
限界まで短くなった煙草をその場に捨てて踏みつけ、俺はもう一度扉を開けた。靴を放り投げるように脱いで部屋の奥へ進む。
 低い声で呻く横田の近くにしゃがみ込み、後頭部に手を差し入れてゆっくり持ち上げる。心なしかさっき額に触れた時より熱くなっている気がした。無理矢理頭を持ち上げられた横田は不快そうに眉を寄せたが、それでも目を閉じたままだ。
 横田の頭の下に自分の片膝を差し入れて、さっき畳の上に放置した三粒の錠剤をつまんだ。横田の唇にそれを押し当てる。数回そっぽを向かれたが、首を振るのもいい加減疲れたんだろう。何度目かにとうとう横田は唇を少しだけ開いて、錠剤を口内へ受け入れた。
 すかさず水の入ったコップを手に取って、俺は力なく開かれたままの横田の口へコップの淵を傾ける。右端からダラダラと水がこぼれたがそんなことには構っていられなかった。口の中に水が溜まったことを確認し、今度は横田の顎を下から押さえつける。
「……」
喉仏が一度、上下する。顎から手を離すとまた力なく横田の口が開くので、その中が空になっているのを確認できた。
 膝を抜き、横田の頭を再び敷布団の上へ置く。クソッタレが、薬を飲ませただけだと言うのにひどく疲れた。また全身が汗だくだ。大きく息を吐いて、俺はその場に胡座をかく。
 クーラーも扇風機もないこの部屋はまるで蒸し風呂のようなのに、横田の体がまた小刻みに震え始めた。まさか寒気でも感じてると言うのか。嘘だろ、どうなってんだ。そう思いながら綺麗に畳まれていた掛け布団を広げて、体の上にかけてやる。やはり両足の先が収まらねえから、布団を上下どちらにずらすべきかで少し悩んでしまった。迷った挙句、足先の方を隠してやる。案の定こいつの胸のあたりが犠牲になった。
「…さみぃ…」
震えながら、だけど真っ赤な顔で横田がそれだけ呟く。んなこと言われたって、この部屋にゃ他に掛けるもんがねえじゃねえか。どうしろっつうんだよ。
 気休めにもならねえだろうが、着ていたアロハシャツを脱いで胸の上にかけてやった。けれどやっぱり横田は震えたままだ。
「……どうしろっつうんだよ…」
もうこれ以上、何をしてやればいいのか分からない。病人の看病なんてしたことねえんだ、もうお手上げだ。
 しかし次第に横田の震えは収まって、段々と呼吸の音が一定になる。いつしかそれは寝息に変わった。
「……」
しばらく黙って様子を見る。苦しそうではあるが、どうやら眠りに就けたようだ。
「…はあぁ……手間かけさせやがる…」
俺はようやく安堵の息を吐いた。くそ、なんだってこんな面倒くせえ思いをしなきゃならねえのか。赤い顔して眠る横田を見下ろしながら舌打ちを一つ送り、俺は音を立てないようゆっくりと立ち上がった。
 そういや見回りがまだこれっぽっちもできてねえ。とっとと済まして帰らねえと、一体どこで油売ってたんだと叱られちまう。慌てて靴を履き、俺は扉を開いた。
 最後に、もう一度だけ振り返る。部屋の奥から微かに聞こえる寝息のリズムは変わらない。
「…クソったれが。次に会った時は覚えてろよテメェ」
扉を閉め、カンカンと音を立てながら階段を降りる。
 もう金輪際会う気もねえんだから今のセリフは間違ったなと、どうでもいいことを考えながら、俺は本来の目的を果たすため町へと小走りで駆けるのだった。



←prevBack to Mainnext→






「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -