魔法鏡
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 その夜、秋組でミーティングを開いた。臣クンがみんなにも話そうと言ったからだ。俺は気が重かったけれど、カッターを見られたのが決定打になったんだろう。やめとこうよ、変に心配かけちゃうよと首を横に振っても、もうそんなこと言ってられる状況じゃないだろと返されてしまった。
「…そうか」
臣クンがさっきの出来事を話し終えた後、腕を組んでそう相槌したのは左京にぃだった。沈黙が長い。事態は俺が思うより何倍も深刻なものになってしまった。
「……」
あーちゃんが黙ってチラリと俺を見る。今朝忠告したのにって思っているのかもしれない。無言が余計苦しかった。
「また、太一を狙って姿を現すかもしれない。取り返しのつかない事になったら俺は」
「…まあ、そうだな。たしかに」
臣クンの言葉に万チャンが頷く。
「とにかくしばらくは、一人で行動しない方がいいんじゃねえか、太一」
十座サンが万チャンの奥隣から顔を覗かせ、俺にそう言った。
「…そうだよな、俺もそう思う。太一、出かける時は俺とか、俺がいない時は誰かと一緒に行動してほしい」
臣クンが俺の肩を宥めるように撫でて言った。心配してくれている。俺はみんなに、心配してもらっている。
 だけど苦しかった。苦しいのが消えない。今俺がこうしてみんなに守ってもらっている間、じゃあゆわサンの心は誰が、守るんだろう。
「…大丈夫だよ」
明るい声で、笑い飛ばすみたいに。心の中の台本にそう書き込んでセリフを吐くのに、この、下手くそ。口の端は引きつったようにしか持ち上がらない。
「もう大丈夫だからさ、へへ。…もう、この話やめないッスか」
俺が笑うと、左京にぃが「お前、ことの重大さを…」と口を挟んだ。だけど更にそれを遮ったのは臣クンだった。
「太一、笑うな」
「…」
「何かあってからじゃ遅いんだ、こんなの…犯罪だろ」
「…」
臣クンの目が、また少しだけ赤くなる。ゆわサンへの怒りが募っていくのを隣で感じる。…やめて、怒んないで。怒んないでよ臣クン。
「…はは。犯罪って、臣クン」
「笑うな。…頭がおかしいだろあんなの、だってあんな…」
「…おかしくない」
やめて。
「おかしいんだ。いい加減あんな奴を庇うな。…クソ、いっそ警察に突き出せば良かった」
「…ちがう…」
やめてお願い。
「…違わない。太一お前はっ、切られようとしてたんだぞ!」
「違うゆわサンは!!自分の手首を切ろうとしてたんだ!!」
堪えきれなくなって大声を上げた瞬間、秋組みんなのビックリしたような視線が自分に注がれたのが分かった。臣クンも驚いて目を丸くしている。
「…み、みんなには…分かんないよ…」
自分からこぼれていく言葉に、勝手に、涙が出てしまう。こんなことを泣きながら言うのは惨めだ。だけど言わないまま笑うのは苦しくて堪らないから、俺は両手を握りしめた。
「ひ、ひとりぼっちで…そうするしか出来なかった人の気持ちは…」
「…」
「みんなには、わかんない…っ…」
「……」
泣きじゃくる自分の声が、こんな風にしか言えない自分の口が、俺は嫌いだ。大嫌いだ。
「…し、失礼するッス」
頭を下げて、俺はその場から立ち去った。談話室を出て扉を閉めて、それから105号室へバタバタと駆け出す。
 わかんないよ、みんなには。…違う、そんなことが言いたかったんじゃない。でもだったら何をどう言えばよかったんだろう。俺は今、どうして涙を止められないんだろう。
 ゆわサンの一人ぼっちの後ろ姿と鏡合わせになった、自分の後ろ姿が頭の中に浮かぶ。自分のベッドに登って頭から布団をかぶって、俺は声を殺して泣いた。ゆわサンがあのまま公園で一人、手首を切って倒れていたらどうしよう。冷たくなっていたらどうしよう。怖いよ、嫌だよ、お願いだ切らないで。
 いつまでもそうして枕に顔を埋めていたら、扉をノックする音が聞こえた。…臣クンだろうか。
「太一さん?」
「…」
扉の向こう側から聞こえたのはあーちゃんの声だった。俺は少し驚いて、返事をしないまま扉の外に視線を送った。
「…話を聞いてて思った、一個人の感想なんだけど」
あーちゃんはそれから「今聞く元気ある?」と俺に尋ねた。俺は頷けなくて、だから無言を貫いた。
「…」
「ないならまた今度でもいいけど」
「…」
あーちゃんが扉の向こうで俺の返事を待っている。だけど急かされることはなかった。俺は少し荒れた息をゆっくり直して、それから目元を乱暴に枕に擦り付けて涙を拭った。
「……聞くッス」
上体だけ起こして扉の方を見る。扉越しで良かった。泣き腫らした顔を見られるのは情けなくて、嫌だったから。
「さっきさ、太一さん言ったじゃん。みんなには分かんないって」
「…うん」
「まあ確かに、俺はよく分かんねえかも。臣さんの言ってたことがもっともなんじゃねって思ったし」
「……うん」
あーちゃんが言おうとしていることを予想して、目線が下へ落っこちる。だから太一さんの言ったことは変だよ撤回しなよ。そんな言葉を伝えに来たんだろうか。
「…でも、だからさ、太一さんにだけ分かることがあるんなら、太一さんはそれを大事にしとけば?」
「…」
予想していた言葉と似ても似つかない内容に、俺は驚いて顔を上げた。
「…大事なことなんだろ。多分。…なんとなく聞いててそう思っただけ」
「…うん…」
こじ開けようとしない。あーちゃんは俺たちの間にある扉を無理やり開いて、中を暴こうとはしない。その優しさに救われた。ありがとうと言いたかったのに、俺の喉からこぼれた声は凄く掠れていて、向こう側にいるあーちゃんに結局届かないままだ。
「…臣さんの気持ちも、多分臣さんにしか分かんないんじゃね」
「…うん、そうだね…そうだ」
「全部おんなじだけ大事なんじゃないの。分かる分かんないは別で」
「…あーちゃん、すごいね」
「ん?」
「なんでいろんなことが全部ちゃんと見えるの?」
純粋に不思議だった。まるで少し上から俺たちを映す定点カメラみたいだ。あーちゃんは物事を冷静に捉える。でもそれだけじゃない。淡々とした中に、ぬくもりがちゃんとある。
 俺の質問にあーちゃんは「そう?」と言って少しだけ笑った。
「ちゃんと見えてるかどうかは知らねえけど。でも見てんのは結構好きかも」
「…なんかやらしいね」
「は!?」
「あはは」
扉越しでも分かる、顔真っ赤にして目を見開いて、今きっとこっちを思い切り睨んでる。想像したらちょっと笑えて、笑えたことに少しほっとした。

 その日の夜はもう、他に誰とも会うことがなかった。晩御飯ができたことを知らせに来る人も誰も居ない。多分あーちゃんがみんなに上手いこと言ってくれたんだろう。消灯時間の少し前くらいになったら臣クンが部屋に戻ってくるかもしれないと思っていたけど、それもなかった。LIMEでの連絡も一切ないまま、時計の針が日付を跨ぐ。臣クンが何も言わないまま一晩部屋を空けるのは、多分それが、初めてだった。

 翌朝、目を覚ましたらもう朝の10時を過ぎていた。慌てて起き上がり臣クンのベッドを確認するけど、やっぱりそこには臣クンの姿はなかった。自分が何時に眠ったのか上手く思い出せない。臣クンはあの後部屋に戻ってきたんだろうか。
 夜の記憶を遡りながら扉を開けると、視界一面に洗濯物の衣類やシーツが風に揺れている光景が広がった。そうか、昨日は天気が良くなかったから今日まとめて干しているんだ。
 柔軟材のいい匂いの中を、空を見上げながら進んだ。今日の寮内の予定はどんなだったっけ。確か夕方までは何にもなかったよな。
 上を見ながら歩いていたのがいけなかった。足元に置かれていた洗濯物カゴに俺は全然気付かなくて、あ、転ぶと思った時にはもう体が倒れて、派手な音と共に地面に打ち付けられていた。
「…いって…」
転んだ時ぶつけたんだろう、右ひざに割と派手なかすり傷ができてしまった。砂利と血が混じったその場所がズキズキと痛む。談話室行ったら最初に救急箱借りなくちゃ。やだな、誰とも出くわさないといいけど。その場にしゃがみ込んで傷口の砂利を払っていたら、干された洗濯物の向こう側から誰かが駆け寄ってきた。
「悪い!カゴをこんな所に置いちまってっ…」
真っ白なシーツの向こうから現れたのは臣クンだった。臣クンは俺を見下ろし、一瞬だけ声を失ったように見えたけどすぐに我に帰って俺の向かいにしゃがんだ。
「…悪い。カゴをそこに置いてたの俺なんだ」
「…う、ううん、ごめん俺も、上見ながら歩いてたから」
「待っててくれ。救急箱持ってくるから」
臣クンはそう言うと急いで立ち上がり、談話室へ向かおうとした。
「あの、平気!俺っち自分で…」
「いいから!」
そうして臣クンは談話室へ駆け出して行ってしまった。追いかけることもできなくて、仕方なく俺はその場から立ち上がる。…う、足首が予想外に結構痛い。転んだ時変な方向に曲げちゃったんだ。俺はため息をつきながら近くのベンチに座った。なんだかいいとこなしだ。
 程なくして臣クンが救急箱と一緒に戻ってきた。ベンチに座る俺の隣に臣クンも座って、心配そうに俺の膝を覗き込む。
「消毒するよ。膝、立てられるか?」
「…消毒、しなきゃだめ?」
「…ああ。俺は、した方が良いと思うが…」
消毒とか注射とか、これから痛いのがやってくるぞって類のやつが俺はちょっと苦手だ。来てしまえば案外痛くないのに、その瞬間までが怖くて嫌なのだ。痛みを予告されるのは、どうしても慣れない。
 両目を固く瞑って、しかもその上から手のひらで頑丈に蓋をして心の準備をする。
「…いいよ」
「…ああ、うん。じゃあ…」
「よ、予告なしで突然やってね…!」
「…」
俺がそう言うと臣クンは小さく「はは」と笑った。視界を厳重に塞いでいるから臣クンの笑った顔が見えない。…ああ、今見たかったな。見たかったよ臣クン。俺っちバカだ。
「よし。3、2、1」
「だから!予告しないでってば!」
「…って言ったら行くからな」
「古典的な意地悪やめて!」
手も瞼も全部外して臣クンを睨むと臣クンがもう一度あははと笑って、そして俺を見つめて笑いながら消毒をサッと膝に吹きかけた。痛みの頂点は一瞬だった。あとはズキズキと、微かに痛むだけだ。
「よし消毒終わり」
「ひょ、ひょえ…手練ッス…」
「あはは」
その後はちょっと大げさなガーゼとテープで手当てしてもらった。この手当ての跡を見られたら余計心配されるような気がしなくもないけど、臣クンが満足そうな顔をしていたので、俺は黙っておくことにした。
「太一は怖がりだな」
臣クンが救急箱の蓋に付いた鍵をかけながらそう言うので、俺は「そんなことはないッス、全く」と返した。
「予告されたら臣クンだって怖いでしょ?」
「…うん。いや、どうかな…」
「来る寸前までが一番怖いんス。緊張するでしょ?」
「…うーん、俺は…」
臣クンは困ったように笑って、それから静かに目を閉じた。
「…突然なのも、怖いよ」
「…」
「心臓が止まるよ。…突然も、俺は怖い」
「…そか…」
ああきっとまた、下手なことを言った。そう思った。どうしてやることなすこと全部、俺はこんなに下手なんだろう。
「…太一」
臣クンが膝の間で両手の指を緩く絡めながら、俺の名前を呼ぶ。昨日の話が始まるのだと分かった。だから俺も臣クンと同じように、自分の足元に視線を落とす。
「俺には、分からないことがいっぱいあるって、分かってるよ」
「…」
「…だけど、俺は…」
臣クンはそう言って、もっと下に俯いてしまった。心臓が今にも張り裂けそうだ。臣クンの肩が、だって、震えてるから。
「…お前に何かあったら…怖くて、仕方ない…」
片手で目元を隠して、臣クンが小さな声でそう言った。
 臣クン、俺はバカだ。分からないことだらけなのは俺の方だ。俺だって分からない。今隣で肩を震わせている臣クンの恐怖が、その大きさが、俺なんかに分かるわけがない。
 公園であの瞬間を目にした時、臣クンはどれだけ怖かっただろう。ごめんなさい。臣クンごめんなさい。隣にいてくれる臣クンの気持ちを、俺、大事にしなかった。心配されながらそっぽを向いていた。突然失うことの本当の恐怖を臣クンは知っているのに。そして俺はそれを知っていたのに。バカだ、バカでごめんね。何度も何度もこうやって臣クンを傷つけて、繰り返して、本当にごめんね。
 臣クンの大きな肩に額を寄せて、縋りつくように抱きしめた。
「…好きだよ臣クン」
「…うん…」
「…怖い思いさせて…ホントにごめんね」
「…」
頭を撫でたら、そのまま臣クンはこちらに緩く体重を預けてくれた。何も言わずに頷く臣クンが、どうしようもないくらい愛しい。…好きだよ臣クン。他には何にもいらないくらい、大好きだ。
 空が晴れてて良かった。洗濯物がいっぱい干してあって良かった。死角だらけの中庭、俺はこっそり臣クンのつむじにキスをした。

 それからどのくらい経ったか。ゆわサンからの手紙やプレゼントはあの日を境にぱったりと来なくなった。最初のうちは左京にぃと万チャンの二人がゆわサンのことで何か話しているようなこともあったけど、その回数も徐々に減った。
 臣クンはゆわサンからの手紙に少し怯えていた。もしまた突然届いて、文面に太一のことが書いてあったらどうしよう、たまにそんな夢を見るんだと、夜、こぼしていた。
「…だいじょぶだよ臣クン」
「…根拠は?」
「え、根拠…根拠は、その、ないッスけど…でも大丈夫!臣クンのことは俺っちが全力で守るッス!」
「…なあ、逆じゃないか?俺は太一の身に何かあったらって考えるのが怖いんだよ」
「臣クンに全力で守られることで臣クンを恐怖から守る、の、略ッス!」
「はは、そっか。…うん、そうだな」
緩く笑う臣クンが、それでもちょっと不安そうに視線を伏せる。…ああ、こうやってちゃんと見ていたらよく分かる。臣クンは沢山サインを出してくれていた。怖いよって、嫌だよって、俺にちゃんと、伝えてくれていた。
 臣クンの中に、臣クンにしか分からない大事なものがある。それは俺だって同じ。そしてきっとゆわサンだって、同じなんだ。
 鏡は、自分を写すためのものの筈なのにな。誰かの背中を勝手に写して、俺たちは似てるねって分かったようなことを言って、俺は本当に浅はかだ。恥ずかしいな。
 「俺には分からないものがいっぱいあるって分かってる」って言える臣クンの方がきっと、よっぽど分かってた。いろんなことをちゃんと分かってて、大事にしてるんだ。
 もう、鏡を割ろう。正しい使い方なんて分からない。俺は、分からないままでいい。



 それからまた数日後のある日。監督先生からこまごまとしたおつかいを頼まれていた俺は、買い物袋を引っさげて寮へ歩いて帰っているところだった。
「もすこしだけ〜このまぶたぁにのってて〜」
鼻歌を歌いながら、ゆっくりと歩く。ふと、何の気なしに左を向いた。特に理由はなかった。俺の視界に映ったのはあの日ゆわサンとの一件があった公園だ。思い出して、苦い気持ちになる。
 今ゆわサンはどうしているのだろう。差し入れも手紙も一切来なくなって、公演にもストリートアクトにも、姿を見せに来ることはもうない。
「…あれ」
公園内のベンチ、その背もたれに何かが立てかけてある。ぱっと見てそれが何か分かった俺はベンチに向かって駆け出した。それはあの日俺が置き去りにしたスケートボードだった。
「…そっか、忘れてた…」
誰がここに立てかけてくれたんだろう。もしかしたらゆわサンかな、いや、それとも全然違う誰かかな。あの日からもう数週間くらい経つのに、誰にも盗まれないでちゃんとここにあって、良かったな。
「…」
ボードをまた立てかけて、俺はベンチに腰を下ろした。ポケットからスマホを取り出し、真っ黒な画面を数秒じっと見つめる。
 目を瞑った。ゆわサンの手紙の最後にいつも書かれていた三行を脳裏に思い浮かべる。ぼんやりとした便箋の映像がだんだん、霧が晴れていくように瞼の裏に浮かび上がっていった。
「…」
ダイヤルプッシュ画面を開く。親指が一つずつ、数字をタップしていく。きっと誰も覚えてはいない。だけど俺だけは覚えていた。だって何度も見た。何度ゴミ箱に捨てられても、臣クンに届くようにと書かれた11桁の数字を、俺は。
 11桁目をタップし終える。数回瞬きして、息を止めて、やっぱりやめるか?どうする?と、自分の頭の中で自分と相談をする。俺は悩んで、悩んで悩んでその挙句、最後に発信ボタンをタップした。耳に当ててコール音を聴いている間、ずっと時限爆弾のように心臓がドクドクを音量を上げていった。
 ゆわサンの安否を確認したい。どうしてもそれがずっと、自分の中から消えなかったのだ。こんなの間違っているかもしれない。誰かに知れたら怒られるに違いない。…特に秋組のみんなには、絶対知られちゃいけない。そう思いながら、それでも俺は電話を切ることをしなかった。
 七回目くらいのコール音が終わった後、無音になる。俺は息を呑む。
『……はい』
「……」
ゆわサンだ。つついたら折れそうなくらいか細い、それは間違いなくゆわサンの声だった。
「……」
良かった、生きてる。良かったゆわサン。心配だったよ。怖かったよ。
『…誰…?』
俺だと名乗ったら、ゆわサンはまた感情が高ぶって、もしかしたら電話の向こうで手首を切ってしまうんじゃないか。そう考えると何も言えなかった。何か話すより、一言も発しないまま電話を切った方がいいかもしれない。だけど俺がそう思ったのと同じタイミングで、電話の向こうから戸惑いがちな声が続いた。
『…七尾さん…?』
「……なんで…」
分かったんだろう。ゆわサンは電話の向こうで鼻を啜った。啜る音が何度も繰り返されるから、もしかしたら泣いているのかもしれない。
『…お、臣くんは…元気ですか…』
「…うん、元気だよ」
俺がそう返すとゆわサンの呼吸に嗚咽が混じった。
『め、迷惑たくさんかけて…す、すみませんでした…』
「…うん」
『ごめ、ごめんなさい…』
俺も、ごめんなさい。断りもなく鏡に写して、本当に…ごめんなさい。
 しばらくは何も言葉にならず、ゆわサンは泣きじゃくってずっと電話の向こうでしゃくりあげていた。もう一度ゆわサンが言葉を発したのはそれから数分後のことだった。
『…異邦人の公演を、初めて見た時』
「…うん」
『ヴォルフが…臣くんが「こんな世界、救う価値もない」って、言ってくれて』
「…うん」
『私…こんなだから…き、気持ち悪いからっ…どこ行ってもだめで、苦しくて…いつも生きてるのが辛くて…っ…』
「…うん」
『だから臣くんが…あ、あの時…っ…ああ言ってくれたから…私は…それで、救われて…』
「…うん」
『あ、ありがとうって…ありがとうだけ、伝えたかったの…それだけだったの…あ、ありがとうって…』
ゆわサンはまた言いながら息を乱していった。泣きじゃくって、鼻を啜って、ヒューヒュー言わせながら息を吸って、苦しそうに言葉を紡ぎ続けた。
『ご…うぇ…ひっ…ごめんなさ…』
ゆわサンが一番ほしかった言葉を、一番必要としてた時にゆわサンに贈ったのが臣クンだったんだ。それが台本の中のセリフだったとしても。舞台の上と客席という距離があったとしても。それでもゆわサンは救われたんだ。それは、何一つ間違ってなんかない。嘘なんかじゃない。誰も、蔑ろにしていい筈がない。
『…七尾さん…』
「…うん?」
『あの…ボード…ベンチに、立てかけておいたんだけど…あの…』
やっぱり、ゆわサンだったんだ。そっか。…あの後どんな気持ちで、俺のボードに触れたんだろう。
「…うん、あったッスよ。ありがとう」
『…よ、良かった…』
「…」
『…あの…』
「ん?」
『こんな私に…電話、してくれて…ありがとう…』
胸が痛くて、上手く返事ができなかった。代わりに何度も首を横に振ったけど、電話の向こうのゆわサンには見えないのにさ。バカだな。
「…突然ごめんね」
『う、ううん…ありがとう…』
「えっと、じゃあ…」
電話を切ろうとしたところで、最後にゆわサンからもう一度だけ『七尾さん』と呼ばれた。離しかけたスマホをもう一度耳に充てる。
『…あの…臣くん、食べてた…?』
「…ん?」
『マドレーヌ…一口だけでも…食べてくれてたかな…?』
「…」

ゆわサンがこれ以上傷を負わないように俺ができることは、俺が、一つも嘘を吐かないことだけだ。

「…うん。食べてたよ」
ゆわサンは最後、嬉しそうに『良かった』と言った。
 電話が切れる。遠くで鳴るサイレンみたいに、通話終了を告げる機械的な音が耳の奥に響いた。

 嘘は、俺が死ぬまで引き連れてくから。俺だけの大事なものの中に、その一番奥底にしまおう。










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これは、元々はモブ視点短編集「have a crush on」の中に入れようと思っていたお話でした。当初は「気持ち悪くてごめんなさい」という題名で、臣クンに片思いする男性を描こうと思っていました。
だけどどうしてもどうっっっしても最後まで書けなくて、主人公をおじさんにしてみたり女子高生にしてみたりしても書けなくて、結局、頓挫してしまいました。(そこから姿形を変えて誕生したのが「氷が全部溶けるほど」です)
その頃から一貫していたのが「ヴォルフの「こんな世界、救う価値もない」というセリフに救われる、日々の生活から逃げ出したい誰か」でした。
今回、太一くん視点で書いてみたら最後まで書くことができたので、ああ私はこれを太一くんの目から見た物語として書きたかったんだなぁ、だから頓挫してたんだなぁとぼんやり思いました。気付くのに一年ちょいかかった…遅…

某バンドの同タイトルの曲がすごく好きです。曲の中の主人公が大好きだなと思ってました。「なくしたくてもなくせやしないよ 僕は僕をやめれないの」という歌詞があって、印象的でした。「僕は僕をやめれない」という気持ちは自分もよく感じることがあって、自分って汚いなとか、最低だなって思う時、痛感するようにそんなことを思っていました。
曲と出会った頃はA3というコンテンツはなくて、太一くんはまだどこにもいなかったです。でも私はその数年後に太一くんを知って、太一くんを好きになって、それからふとこの曲を聴き直して、ああ太一くんよく似てるかもしれないなと思いました。
「気持ち悪くてごめんなさい」と「魔法鏡」を一つのお話にできて良かったなって思います。すごく思い入れの深いお話になりました。書いててずっと辛くて、だからちゃんと完成してくれて尚更嬉しいです。
ゆわサンのように「好き」の気持ちが歪んでいくのは私にとっては全然遠い世界のことではなくて、こんな風に歪むのは容易だと思っています。悪魔はいつだって住み着いてるし隙を窺っている。
想像してたより救いがない終わりになってしまったけど(…何でだ…)、あれだけ言っておいて最後の最後に嘘を吐く太一くんが、その嘘を墓場まで持っていこうとする太一くんが、私は本当に好きです。
自分の願望の押し付けになっちゃうけど(二次創作なので…!ご容赦ください…>_<)、いくつになってもお爺ちゃんになっても、ずっとどこか不器用なままでいてほしい。
それを全部自分の荷物にする、太一くんが好きです。





もう少しだけ この瞼に載ってて
いつだってそう 映るのは一人だけ
もしかしてさ あの時の鏡の
泣き出しそうな顔した あの僕は








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