僕たち、私たちは
(三章)


 エナメルの大きなスポーツバッグに着替えやら充電器やらその他諸々必要な物を詰め込む。この時の為にお年玉でコツコツ貯めていた貯金もおろした。準備は万端だ。
 二人だけの初めての旅行という事実が目の前に差し迫り、俺の心臓はそれを意識する度にバクバクととてつもない音を立てる。初めて、初めて臣クンとお泊まりするんだ。二人だけで、二人きりで。
 どんな旅になるんだろう。どんな思い出ができるだろう。どんな風に過ごして、それで、それから…どんな夜を迎えるんだろう。自分の思考が一点に集中して、顔から火が吹き出そうになった。
 ねえ臣クン、俺たちもう出会って二年経ったね。俺、十八になったよ。高校生じゃなくなったよ。大人の仲間入りだよ。…そういう夜に、きっとなるよね。俺たちの初めての夜に、なるんだよね。
 誰にも内緒でこの前買ったある物を、俺はバッグの一番奥に押し込む。こういうものを買うとビニール袋じゃなくて紙袋で渡されるんだって、俺は十八年間生きてきてこの時初めて知った。わざわざ隣町のドラッグストアまで足を運んだ。心臓はバクバクだった。黒マスクの下、真一文字に閉じた口の中はパサパサに乾いてた。
 臣クンが旅行に誘ってくれたあの日から、今日までの数日間に何度か自分で体の準備もやってみた。ネットで読んだ情報を頼りに、本番で失敗しないよう自分の後ろに手を伸ばす。触って、撫でて、少しだけ指の先を入れてみたりした。これが気持ちよさと直接繋がるなんて想像もできないまま、だけど繋がることを祈って前も同時に弄る。
 明け方や深夜、みんなの目を盗んでトイレや倉庫で練習をした。昨日は初めて指が二本入った。ネットには「三本入ればOK」と書いてあったからなんとしてももう一本入れたかったけど、それ以上に力を抜くやり方が分からなくて結局断念した。
 でも、この数日間でかなり準備を進められたと思う。最初は異物感と生理的な気持ち悪さで勃ちもしなかった俺の体は、なんと後ろに指を入れたままでも前を弄ればイけるようになったのだ。
 練習は裏切らない。俺はそれを身をもって痛感した。臣クン俺はね、されるのをただ待ってるだけの男じゃないんスよ!
 バッグのファスナーを閉めながら鼻息を荒くした。だって「ああしとけば」とか「これをやっとけば」とか後悔に邪魔されたくないよ。楽しい旅にしたいよ。全部最高の思い出にしたいよ。その為にできることがあるんなら、俺、なんだってしたい。
 荷物を詰めたバッグを前にしゃがみ込み、俺は一人静かに握りこぶしを作る。臣クン俺は、臣クンに好きになってもらえたことも、こうして付き合っていることも奇跡みたいなことだって思ってる。臣クンにこれを言ったら困った顔をされちゃうかもしれないけど、その事実の上であぐらをかくようなことは絶対したくないって、いつも思ってる。
 俺にも誰かの為に何か出来るパワーがあるなら、俺はもう全部そのパワーを臣クンの為に使いたいよ。力を込めて握った右手を見つめながら思う。大好きな人の為に頑張ることって、その頑張りを笑顔で受け取ってもらえることって、凄く幸せだな。
 ねえ臣クン、いつも受け取ってくれたよね。嬉しかったよ。いつもいつも嬉しかった。だから俺は臣クンのそばにいると、こんな言い方は変かもしれないけど、安心して頑張ることができたんだよ。
 ねえ臣クン、だから俺は頑張るよ。楽しかったとか嬉しかったとか気持ち良かったとか、臣クンが余すことなく全部、手に入れられるように。
 頑張らなくていいよじゃなくて、ありがとうって受け取ってくれる臣クンが好きだ。俺は、臣クンのそんなところにずっと救われていて、本当に好きだなって、この人が大好きだなって思うんだ。

 いよいよ旅行を明日に控えた今日、夜遅くにバイクのガソリンを入れに出かけていた臣クンが帰ってきた。俺は部屋で一人、旅行先のことが載っている旅行雑誌に付箋やマーカーで印をつけているところだった。
「太一、ただいま」
「おかえり臣クン!今ね、これ読んでて」
上着を脱ぎながら臣クンが俺の隣に座る。書き込みだらけのページを見て、臣クンは嬉しそうに笑った。
「こんなに全部行けるかな」
「こっから絞ってこうと思って!臣クンはここ外せないみたいなとこある?」
「うーん、そうだなぁ」
臣クンは言いながら俺の隣に座って、テーブルの上の旅行雑誌を見るかと思いきや、こちらをじっと見つめた。
「太一と行けるんならどこでも」
もう、この人は。俺に気を使うとか遠慮するとかじゃなく、本当に本心からそう思ってるんだ。それが分かるから、嬉しいと恥ずかしいが混ざって変な顔になってしまった。
 口をすぼめながら雑誌のとある場所を指差して、俺は「そしたらさ」と臣クンに提案した。
「俺っち、ここ行ってみたい」
俺が指差した場所を臣クンも見る。
「ん?へえ、究極の蕎麦?」
「そう!究極って言われたらさ、やっぱ食べてみたいなって」
「うん、いいな。俺も気になる」
「でしょ!」
臣クンも興味を持ってくれたのが嬉しくて、俺は更にページを捲り違う場所も指差した。
「あとここ!」
俺が次に指した場所にも臣クンは興味を引かれたようで、誌面に顔を近づけてその部分に注目した。
「わさびソフト?ソフトクリームにわさびが乗ってるのか?」
「そーなんスよ。どんな味か気にならない?」
「うん、これも気になるな。泊まるところの近くみたいだし、よしここにも行こう」
「うん!」
具体的な目的が増えると楽しみもグッと増える。二人で一緒に蕎麦を啜るところやソフトクリームを舐めるところを想像して、俺は明日がますます楽しみになった。
「…ふ」
臣クンが小さな笑いをこぼすので首を傾げる。すると、不思議そうにしている俺に気付いた臣クンがちょっと悪戯な顔で、からかうように笑った。
「食い気ばっかりだな太一」
「へっ!や、そんなことないッスよ」
「あはは。いや、旅行の醍醐味だもんな。俺も楽しみだよ」
「あのね臣クン言っとくけど!俺っち他にもちゃんと考えたり準備したりしてるんだからね!」
臣クンに「どんな?」と尋ねられ、俺はうまく誤魔化せなくて口ごもる。どんなって、つ、つまり、は、初めての!よ、夜に備えての!アレソレッスよ!
 もちろんそんなこと口に出して言える筈もなく、俺はしどろもどろになりながら心の中でだけ答える。臣クンはそんな俺を見つめて、幸せそうに笑った。
「…太一、俺な」
「うん?」
「ちょっと緊張してる」
笑いながらそう言って、俺に片手を差し出す。握ってみて、ということなんだろうか。俺はそのまま差し出された臣クンの手に自分の手を重ねた。
「…冷たい」
「あはは。だろ」
困った顔をして笑うこの人の、こういうところが好きだ。ああ本当に好きだと、俺は毎回思い知らされる。
 かわいい。愛しい。大好き。そうやってこっそり俺だけに手の内を明かしてしまう臣クンが、俺は好きでたまらない。カッコつけてしまうことよりそれはきっと難しくて、だからこんなに嬉しくて、あったかくて、柔らかい気持ちになるんだ。愛しいという感情を、こんなに強く抱くことがあるなんて、臣クンに出会う前の俺は知らなかったかもしれないな。
「…臣クン大好き」
結局、いつもこうだ。会話の流れなんか無視して、俺の口は溢れたぶんの想いを臣クンに伝えてしまう。臣クンは一瞬驚いた顔をして、だけどすぐに嬉しそうに笑った。
「出た。太一の殺し文句」
それから力一杯抱きしめられて、耳元で「俺もだよ」と囁かれる。体温が熱くなる。臣クンの背中に回した自分の指先までドクドクと脈を打っているように感じる。
 嬉しくて、楽しみで、幸せで目の裏が熱くなっていくから、殺し文句がオハコなのは臣クンの方だよって言葉も上手く声にできなくなった。
 ああ、幸せな時にも泣きそうになるんだなって、臣クンの暖かい腕の中そんなことを俺は考えていた。



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