Chapter.5-2




病院食というものを初めて口にした。腹は空いてなかったしなに食ってもあんまり味がしなかったけど、食器を下げられる時間まで俺はずっと食い続けた。左手しか動かないから思うように口に運べない。でも何かをしている方が気持ちが楽で、はるかにマシだった。

俺のスマホと荷物を届けにこずえさんがやって来たのは、それから少ししてからだった。
画面がバキバキに割れたスマホは、事故の時少し遠くへ投げ出されていたらしい。ジャンク品みたいな見た目のそれは、それでも壊れずにちゃんと動いて、こずえさんが見ながら「タフだね」と言った。
気がかりだったキーくんのバイクのことも話せた。弁償すると言うと「もう捨てて買い換えるって言ってたから」と返された。それは本心だったのか、それとも俺に気を使った言葉だったのか分からない。もしかしたらあのバイクに沢山、二人の思い出が詰まってたかもしれない。ダメになってしまったことを知って、二人は悲しんだかもしれない。それを思うと居た堪れなかった。
こずえさんが来たということは、多分クレさん達にも事故のことは知られているんだろう。
見舞われに来ても困るし、もう、このまま会わなくていい。俺がそう感じるのと同じように、向こうもきっとそう思ってる。罪悪感や責任の所在は、あの空間の中にいた誰の中にもきっとない。それでいいと思った。
俺のことを話題に出してくれなくていい。忘れてくれていい。
こずえさんが帰る手前、ボロボロになったスマホが震えてメールを受信したことを知らせた。表示された名前を見て、息が止まるかと思った。
ひろの名前が、そこに表示されてたから。
メールは開けるわけもなく、俺はそのままスマホから目を背ける。
もしもひろが、今の俺を見たら。その続きを微塵でも考えるのが嫌で、だけど放っておいたら勝手に頭が想像しようとしてしまうから、俺はわざと包帯の中の右腕を動かして、痛みでそれを遮った。

面会時間も終わり、静かで長い夜がやって来る。このまま夜をやり過ごすのは絶対無理だと思って、俺はナースコールを押し、やって来た看護師に眠剤を要求した。足が痛くて眠れないと嘘をついたら、痛み止めと眠気を促進する薬を処方してもらえた。そのおかげでその夜はあまりいろんなことを考えないまま眠ることが出来た。
今の俺が唯一できるのは、もう寝ることだけだった。どうしようもなくなったらまた、嘘ついて薬を貰えばいい。
泥みたいに眠りたい。何も考えたくないと思うのは事故の前から変わらなかった。考えるのがやっぱり、俺は怖いのだ。

翌朝、朝食の時間に起こされて俺は目を覚ました。また全体的に色味と味の薄い食事がでてきて、たいして美味いとも思わないまま俺は左手と口を動かし続ける。
動けなくて煙草が吸えないなら、せめてなにか時間を潰せるものが欲しいと思った。煙草以外に、俺に何があるだろう。本とか?ゲームとか?ベッドの上というひどく狭い限られた場所で、俺が時間をやり過ごせる方法は一体何だろう。

朝食が終わった後、時間は午前10時くらいだった。途方に暮れそうになったのでまた眠剤でも貰えないかと思い立ち、部屋に看護師が来るのを待っていた時だ。部屋の出入り口である引き戸が開いて、俺はその扉の向こうに立っていた人物と目が合い、頭が真っ白になる。
そこに居たのは、親父だった。

「……」
親父は俺のことを確認すると何も言わずベッドの側までやって来て、突っ立ったまま俺を見下ろした。
「………」
声も出ないし、視線を外すこともできなかった。親父がどんなことを思いながら今俺を見下ろしているのか、わからない。
逃げたい。あの時バイクに跨って走り去ったみたいに今できたら、どんなに良かっただろう。
「…なんか言うことは」
親父が俺に言葉を投げかける。投げかけられた言葉を俺は受け取れない。確かに耳に届いたのに俺が身動きも取ることも受け取ることもしないから、親父の言葉はそのまま床に落ちていった。
「…なんもねえのか」
「……」
心臓が握りつぶされたように縮こまって、苦しい。唯一自由に動く左手が親父から見えない角度でそっとシーツの皺を握りしめる。
ああ本当にダサいな。みっともない。救いようがない。
「謝れ」
親父の声が鋭くなる。俺は息が苦しいのをどうにもできないまま、虫みたいに小さい声で「すんませんでした」と言った。
「……」
親父が顎を片手でさする。沈黙が岩のように重たく、俺の体を容赦なく押し潰そうとする。
次第に親父は片手で顔を覆って、それから俯いた。溜息を数回吐いて、ほんの僅かだけど手を、震わせていた。俺はその様子をただ見ていることしかできない。震える手から、目を離せない。
次の瞬間、俺は勢いよく頬をはたかれた。はたかれた部分がジリジリ焼けるように熱くなって、俺はその温度に呆然とする。ゲンコツを食らうことは今まで何度もあったけど、ひっぱたかれたのはこれが生まれて初めてだった。何にも理解できないまま親父を見上げる。
赤くなった目に、両方とも涙が溜まっていた。怒りでなのか、親父は口元を震わせながら俺を見ていた。
「…わざとやったのか…」
「…え」
「死のうとしたのかって聞いてんだよ!!」
部屋中に聞こえるほどの声で親父が怒鳴る。はす向かいのベッドで本を読んでいたおっさんがこちらを伺うのが何となく視界に入った。もしかしたら他の患者らもこっちを見ているかもしれない。
「………ちがう…」
動いた口からこぼれた言葉は、たったそれだけだった。信じられないくらい声が震えていて、自分で自分に驚く。
「…どんだけ…心配かけたと思ってんだテメエは…」
「……」
「俺が、どんな思いしたか…お前分かってんのか!!」
もう一度怒鳴られて、親父の感情がダイレクトに身体中にぶつけられた。はたかれた頬より目が熱くなる。視界がじわじわと揺れる。心臓がバクバクする。肺が膨らまない、うまく吸えない。
熱くなった視界から勝手に涙が湧いて出てきて、俺は親父の方へ顔を上げられなくなった。
「…ご、ごめんなさい…」
「……」
「…ごめんなさ…」
気道まで熱を帯びてうまく喋れない。つっかかる俺の言葉を、親父は黙って聞いていた。
はたかれた頬はずっと熱い。熱を持ったまま、俺の死にかけてる脳みそを呼び起こそうとする。

心配したんだ。きっと俺が想像もできないくらい。もしかしたら俺が自殺しようとしたのかもしれないって考えて、その考えが脳裏をよぎった時、この人は一体どんな気持ちだっただろう。
…分かるわけない。俺なんかにそんなの、欠片も分かるわけがないんだ。
本気で怒鳴られて、頬をはたかれた。本気の怒りをぶつけられた。憎いからじゃなくて、面倒だったからでもなくて、俺を、心配してくれたから。本当に本気で、心配してくれたからだ。
ごめんなさい。心配かけてごめんなさい。なんも言わないで、逃げるだけ逃げて、それでこんな馬鹿な目に遭って、みっともなくて本当にごめんなさい。
迷惑ばっかかけて、なんもわかんない馬鹿で、こんな、どうしようもなくて。
「……」
「…無免で、しかも酒飲んでたらしいな、お前」
「……」
「どんだけ馬鹿なことしたか分かるか?」
「…」
涙を左手で拭いながら首を縦に振る。親父はまたさっきと同じように溜息を吐いて、それから背後にあったパイプ椅子を引き寄せ力なく座った。
「…二度とこんなことするな」
必死で繰り返す息に嗚咽が混じりそうになるのが嫌で、堪えた。何度も首を縦に振ると、親父の「この馬鹿…」という言葉がすぐ近くで聞こえた。
頭を乱暴に撫でられる。撫でながらやっぱりまた段々腹が立ってきたのか、親父は最後撫でていた手のひらで俺の頭を軽く叩いた。
「ふざけんなよ、この馬鹿」
「…うん…」
「…死んだかと思った……」
「……」
親父の声が震えてそれ以上は言葉にならなかったから、俺の心臓は壊れて粉々になる。
心の中で死ぬほど、ごめんなさいを繰り返した。何度も何度も繰り返し続けた。謝ったって元に戻らない全てのことを思う度、涙がまた湧いてくる。
「……生きてて良かった…」
こんな自分のことを、自分以外の誰かが「生きてて良かった」って言う。声を震わせて、涙目で「馬鹿野郎」って、言ってくれる人がいる。
自分のことを、大事に思ってくれる人が、確かにいる。

ああ、気付いた。俺は今やっと本当に気付いた。ひろが言ってくれた「大事にされてない」って言葉の意味が、本当にようやく今、分かったんだ。

俺が誰のことも大事にできないのは、俺が俺のことを一度も大事にしたことがないから。自分の気持ちを、体を、生きていく日々を、一度だって大事にしたことがなかったから。
…大事にすることが、きっと怖かった。だって本当に悲しい時、辛い時、ダメになっちゃうんじゃないかって。心が死んじゃうかもしれないじゃんって思って。
そんなの怖い、怖くて耐えらんないよ。もしそうなったら俺は二度と立ち上がれないから、もうきっと起き上がれなくなるから、だから決して真正面から向き合わないように、大事にしないことを無意識に選んだ。毎日の中で感じる悲しみや寂しさを、どこか他人事のように、遠巻きに「ふーん」って、冷めた目で見るだけにした。
それでも一丁前に人を好きになったり、いろんなことに腹が立ったりは、する。そんなことだけはしてしまえる。
だから人並み程度にできてる気になった。誰かを好きになってその誰かに好きになって貰う度、なんだ俺ちゃんとできてるじゃんって勘違いした。馬鹿だから勘違いしたまま調子に乗った。
自分のクソみたいな弱さを知ろうともしないまま、大事にすることを放棄したまま、そうやって俺はいつも誰かを好きになった。
俺が傷つけてきた人たちはみんな、みんな、いつだって俺を大事にしてくれてた。こんなどうしようもない俺のことを、ずっと大事にしてくれた。大事に思うから悲しくて、大事にするから本当に深い傷が付く。怖いのは誰だってきっと同じはずだ。なのに、それでも、大事にしてくれたんだ。
人を大事にできないこんな俺を、みんなどんな気持ちで、いつも想ってくれてたんだろう。どんな気持ちで見ててくれてたんだろう。どんな気持ちで、どんな傷を負いながら、そばにいてくれてたんだろう。
ごめんね、ずっと気付けなくてごめんね。沢山傷つけてごめんね。大事にしなくてごめんね。大好きなのに、ボロボロにして、本当にごめんね。

依伊汰。ちよがやさん。ひろ。俺、大事にされてた。
…されてたよ、今わかったよ、遅いよね、馬鹿だよね、だけど本当にわかった。あの時、俺のことを俺以上に、大事にしてくれていた。俺のことずっとずっと、最後まで大事にしてくれたよね。ありがとう。どんだけ怖かっただろう。どんだけ、辛かっただろう。
奪うばっかで、欲しがるばっかりで、なのに好きだとのたうち回った。どのツラ下げてそんなことが言えたんだろう。ごめんなさい。本当にごめんなさい。沢山傷つけてほんとに、ほんとに。

「………ひっ…」
涙が止まらなかった。枯れるくらい、溺れるくらい泣いた。親父はパイプ椅子に腰かけたままずっと黙って俺の横にいた。
親父、ごめんね。
自分のこと大事にできなくて、大事にする仕方を知らないまんまデカくなっちゃって、こんな馬鹿で、ほんとにごめんね。
俺変われるかな、これから変わっていけるのかな。もう好きな人のこと泣かせたくないよ。大事にしたいって思うものを、大事にできる俺になりたいよ。
「…体、痛ぇか」
泣きながら首を横に振る。尋ねられたその時は本当にそう思ったから首を横に振ったけど、数秒後にいややっぱ痛くないのは嘘だなと思って「ちょっと痛い」とこぼしたら、親父が笑いながら「馬鹿」と言った。
その声に、また泣いてしまう。乱暴に髪の毛を引っかき回すその手のひらに、また、泣いてしまう。
「す…っ…すんませんでした…」
「…おう」
「っ…ごめんなさい…」
「おう、死ぬほど反省しろこのタコ」
「…う、うぇっ…」
嗚咽が混じってぎこちなく上下する肩を、親父ががさつに撫でる。この手にずっと守られてきた。ずっとずっと、今日まで俺、守ってもらってきたんだな。

…変わりたいよ。変わる為に今生きてるんだって、もし神様がさ、そんなもんが本当にいるのかは知らないけど、もしほんとに神様がそんなことを思いながら俺を生かしたんだとしたら。
頑張りたい。変わる為に頑張りたい。そんで、そうやって頑張る俺のことを、大事にできる俺になりたい。




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