Chapter.4-7




初めてバイクを運転したあの日から、俺はちょくちょくキーくんからバイクを借りて外を走るようになっていた。バイクに乗りたがる俺の姿が嬉しいのか、キーくんはいつも快く鍵を渡してくれた。
「馬鹿じゃないの、やめなよ」
居合わせている時決まってそう言うのはこずえさんだった。心底嫌そうな顔をして彼女はいつも溜息をつく。
「無免で乗んなし。迷惑だし」
「…誰にも迷惑かけてねーけど」
「かけてんの。なんかあってからじゃ遅いの。え、わかるよね?わかんないわけ?」
「こずえさんうっさい」
はいはい黙って聞いているのも嫌で言い返したら、結構マジで怒らせてしまった。こずえさんがドスの効いた声で「はぁ?」と言う。
「 あの、でもこずえホラ、ホスケ運転メッチャ上手いんだってマジで」
キーくんが俺たちの間に入って、なんとか場を和ませようとしたけど無駄だった。
「あんたがそういうこと言うからつけ上がるんだよこの馬鹿が」
「え〜でもホスケ、金貯まったら免許取るつもりだべ?な?」
「うん」
「ほら」
「ほらじゃないの。取るまで乗んなっつってんの」
「指図すんなよ」
「はぁ?」
早く乗りに行きたいから、それを邪魔するこずえさんへの言葉が乱暴になる。俺は舌打ちをして強引に話を終わらせた。
「もーいーから。じゃーね」
キーくんから借りた鍵と下駄箱の上に置いてあるメットを手にして、部屋を後にする。扉を閉める寸前にこずえさんがなにか言う声がしたが、振り返らなかった。
地下駐車場に停めてあるバイクの鍵を回して、俺はシートに跨る。よく響くエンジン音が今日も俺の気分を高揚させた。目的地は別にない。空っぽんなるまで、走る。
最初のうちは狭い範囲内を周回するように走ってたけど、最近は20キロくらい先まで行ってる。いろんな道を通って、頭の中で書いた適当な地図が繋がっていくのがちょっと楽しかった。途中のコンビニで寄せて、軒先に立ってる灰皿の元で煙草を吸ったりする。
そういえばこの前、洋服を数着取りに行くため久し振りに自分の家に寄った。バイクで行けば数十分で着いてしまうことに少し面食らった。もっとずっと遠い場所のような気がしていたのに、道はつながっていて、いつでも行けてしまう距離にある。変わらないまま、ずっとそこにある。
普段は全然使わないキーケースを数ヶ月ぶりに手に取って、玄関のドアの鍵を開ける。昔から親父は家を開けがちだった。親父は大工をやっていて、現場が遠い時はよく泊まり込みもしてたから、俺は高校の時からこの家には一人でいることが多かった。適当に食ってテレビ観て音楽聴いて、適当に寝る。親父も適当でまあまあだらしない。だからお互いの部屋はいつも汚かったし、それをたまにやって来て勝手に掃除してくれるばあちゃんには毎回怒られていた。親父とは結構ウマが合ってたと思う。口うるさく言ってこないとこも楽で好きだったし、たまに一緒になった夜は外へ飯を食いに誘ってくれたりもした。いい距離で見守ってくれてたのかもしれないと今になって思う。見守りながら、信頼してくれていた。
俺が高校卒業した後の進路で進学するか働くかで悩んでた時「ちゃんと考えろ」と言って、きっと忙しいだろうに沢山時間を取って、何度も話し合いをした。特に勉強したいという強い気持ちもなかったから俺は働こうと思ってることを伝えた。だけどいつもはあんまり口を挟んでこない親父が、その時だけは真面目な顔をして俺に言ったのだ。
「お前は俺と違って頭いいんだから、大学行っとけ。金なら心配いらないから」
驚いた。てっきり「お前がしたいようにしろよ」と言われると思ってたからだ。親父はテーブルの向かい側、腕組みをしながら俺をじっと見つめていた。進路に対して投げやりになってたとかそういう訳じゃない。そうじゃないけど、親父のその目を見て、俺より親父の方が俺の進路のことを真剣に考えているんだと知った。
「穂輔。俺はな、高卒でそのまま今の仕事就いたんだけどよ。…まあ、最初の五年くらいは大変だったよ。頭も馬鹿だったし、始めは仕事もろくにできねぇガキだった。学歴でナメられることも沢山あったよ。後から入ってきた大卒の奴らに色々言われたこともあった。理不尽な思いもそれなりにした。辞めてやろうって何度も思ったし、あの時のこと思い出すと今でも結構、実は胸糞悪い」
親父の昔の話を聞いたのはそれが初めてだった。俺はあの時テーブルの向かい側で、どんな顔をしながら親父の話を聞いていたんだろう。
「…働き先の選択肢は、殆どなかった。元から鳶やりたかったとは思ってたけど、それでもお袋と親父には反対されたよ。大学行けって何回言われたか分からねえ。その時は鬱陶しいとしか思ってなかったけど、今はあの時の両親の気持ちがよく分かるよ。俺が、他には選びようがねえ選択肢でもなんとか平気だったのは、本当にたまたまだ。もしかしたらどうしてもダメで、ダメだって気付いた時には遅くて、路頭に迷って野垂れ死んでた可能性だってあったんだ。…そういう奴も実際いたよ。仕事辞めてった奴らの何人かが、今どうしようもねえ生活してるのも知ってる」
「……」
「穂輔、お前にはよ。働きたいって思った時、沢山ある選択肢の中から好きなもんを選べる状況でいてほしいんだよ。選んだそれがどうしてもダメで辞めたくなった時も、他に代替が効く方がいい。大卒の資格は、あった方がいい。…持っててほしいんだよ、お前には」
真剣さに困って、なんと言えばいいか分からなかった。軽く笑って茶化すこともできなかった。たまに顔を合わせても大概は酔っ払いながら窓を開けて煙草を吸って、気分良さそうに鼻歌を歌ってる。そんな親父とは別人のようだった。
「…迷ってんなら行っとけ。頼む」
それから俺は、行きたいと思える大学を探して、それなりに勉強も頑張って、第一志望のところに合格することができた。合格したことを伝えた時、学校の先生より誰より、一番に喜んでくれた。頭をグシャグシャに撫でられて、何度も背中を叩かれて、おめでとうって、よくやったって笑って言ってくれた。照れ臭かったけど嬉しかった。この人に良い報告が出来て良かったって、四年後も同じように喜ばせてやろうって、思ってた。
傷が沢山ついた手や腕が、汚れてくたびれた作業服姿が、言ったことはなかったけど俺は結構好きだった。かっこいい人だなと思ってた。男手一つで育ててくれた。頑張って金貯めて、俺が15になった時に自分たちが住むための一戸建ても建ててくれて、酒と煙草はすごい好きだったけどギャンブルとかはしてなくて、いい加減な人だけど、真っ当だった。いつか俺もこーゆー大人になれんのかな、だったらいいなって、思ってたんだ。数年前までは。
今はもう全然思わない。俺は親父とは違うのだとはっきり分かったからだ。俺はそういう人間じゃない。親父みたいになれない。ただただ低い方へ流れて、なにかを頑張ることもなく、目の前のものを消費して、浪費して、息を吸って吐くことしかしない。俺の体の中には親父の遺伝子が殆どないんだろう。クソみたいな、あっちの遺伝子ばっかりきっと受け継いだ。悲しがっても悔しがっても仕方がない。それはもう、生まれた時から決まってたことだ。足掻いたって変えられない。もう、足掻く気力なんて微塵もない。事実を受け入れて諦めることしか、俺ができることはない。ガッカリさせただろうと思う。期待に応えらんなかった。親父、だめだったよ俺。やっぱだめなんだよ俺。
誰もいない家の中は何も変わらない。相変わらずリビングだけは片付いてて、奥にある俺の部屋は汚いまんまだった。散らかった洋服箪笥の中から数着取り出して、部屋にあったバッグの中に突っ込む。長居する気はもちろんなかった。用は済んだのでまた家を出ようとする。不運だと思った。鉢合わせる訳ないと思ってた親父が、そのタイミングで家に帰ってきたからだ。
「…穂輔」
「……」
親父と顔を合わせたのはいつ振りのことだったか、もう思い出せなかった。相変わらず赤ラーを咥えていた親父が、心底驚いた様子で俺を見ていた。
「……」
「…服取りに来ただけ。お邪魔しました」
「は?おい、ちょっと待て」
「急いでるから」
親父が何かを言う前に、逃げるように玄関を出た。ヘルメットを着ける時間が惜しくて、腕に引っ掛けたままバイクに跨る。
「おい、穂輔!」
何度か名前を呼ばれたが、俺は振り返らずにバイクを走らせた。バイクで来てて良かった。もしも走って逃げてたらだめだったかもしれない、追いつかれていたかもしれない。
親父と会ったのはそれが最後だった。スマホを見れば着信やメール受信の記録はきっとあるんだろうけど、それも確認していない。
最悪だ、会いたくなかった。どうしてあの日あのタイミングで家に行ってしまったんだろう。それから数日間、俺はずっと後悔していた。もう二度と会いたくない。顔を見せたくない。もう家には絶対に行かない。俺は舌打ちしながら、何重にも蓋をしてもう二度と開かないようにその日のことを思い返さないようにした。
「……」
嫌なことを思い出してしまった。蓋したのに。やめよ、考えたって意味ないんだから。俺は小さくかぶりを振って思考を止める。
今日は20時から出勤だからそろそろ帰らなきゃいけない。やだな。サボってこのままずっと走っていたい。だけど金を作らなきゃタバコが買えないから、俺は仕方なくバイクに跨って戻るための道を走った。
部屋に戻るとまたこずえさんに嫌な顔をされて、キーくんがその隣で「まあまあ」と言っていた。話しかけてもきっと余計怒らせるだろうからこずえさんのことは無視した。キーくんに「ありがと」と言って鍵を返す。
「ホスケ〜早く着替えな〜。置いてっちゃうぞ〜」
今日はメゾさんと同じ入り時間らしい。既にスーツに着替えたメゾさんが、ワックスを髪につけながら俺に言った。
「うす」
適当に支度を済ませてメゾさんの後を追う。「クレ、下で待っててくれてるって。行こ」
メゾさんの香水の匂いがして気が滅入った。職場に行くのがかったるい。働くのが、面倒くさい。アルコールとヤニが混じり合った息の匂いや、早口で喋る客の声を自動的に思い出す。今日も長く感じるんだろう。まだ職場に着いてもいないのに、俺はもう1日が終わって帰る瞬間が待ち遠しかった。
マンション前の道路に車を停めていたクレさんが俺たちを乗せる。違う誰かの送迎をしてきたところなんだろう。クレさんは欠伸をしてから少し疲れた様子で「行きますか」と言った。
車の中で髪をセットしていると、メゾさんがスマホをいじりながら「ホスケ今日はどこまで行ってきたの?」と尋ねてきた。
「××の先んとこ」
「あー◯◯中学がある方?」
「そうっす」
「へ〜。随分遠くまで行ったな〜」
俺とメゾさんの会話に、信号待ちで暇そうにしていたクレさんが加わってきた。
「ホスケ最近乗り回してるもんねえ。なに、バイクにハマった?」
「……はあ、まあ」
「たはは。なんかいいじゃないっすか、遅咲きの青春みたいで」
笑いながらそう言うクレさんに、心の中で「そんなんじゃねえよ」と返す。ほんと、そんなんじゃない。もっと、なんの実りもなくて、無意味で、しょーもない。自分から逃げたいからバイク乗ってるなんて、誰に言っても理解してもらえないだろう。自分にだってよくわからないのだ、人にうまく説明できるわけない。
次はいつ乗れるかな。明日はキーくん仕事だって言ってたし、多分借りるのは無理だろう。
自分の欲しいな。金が溜まる気配はないけど出来たらいつか買いたい。あ、でもその前に免許取らなきゃ本体買えないか。免許取るのっていくらすんのかな。なに我慢したら金は貯まるんだろう。だって煙草は、無理に決まってるし。
「……気ぃ遠くなりそう」
こぼした言葉にメゾさんが「ん?」と聞き返したけど、話す気力が湧かなくて「なんでもない」とだけ返した。

仕事からタクシーで戻ったある日、リビングのテーブルを囲んでクレさん、ダカさん、メゾさんの三人が酒盛りをしていた。その日もガンガン酒を飲んで数えきれないくらい煙草の箱を開けていた俺は、さっさと眠りたくて仕方なくて、三人を素通りしようとした。
「でね車止めても泣き止まないからね俺言ってあげたの。指名取りたかったらもっと必死んなんなよって。どっかに甘えが出てんだよ客もそれ感じてるから指名しないんだよって」
「ふぅん。ねえダカそっちの袋の中に焼き鳥入ってなかったっけ」
「そしたらもっと泣くわけ。もう俺も面倒んなっちゃってさ。まあ一回トップ取っちゃったことある子だから落ちてく自分が許せないんだろうけどね」
「焼き鳥ぃ?あーこれか、え美味そう一本ちょうだいよ」
「ぶっちゃけトップが居座り続けんのも不健康だと思うんだよね俺はさ。適度に入れ替わってって循環してかないと。客だって変わってくんだからさ」
「うんうんそっか。あ、や〜ダカ待って、ハラミはダメ。ネギマなら食べてもいいよ」
「あのさぁ二人とも聞いてる?」
「聞いてるよ〜」
「あー俺はあんま聞いてねえわ」
酔うと饒舌になるらしい。くだを巻くように話すクレさんに二人が適当な相槌を入れ、それに文句を垂れながらクレさんが酒を煽った。
テーブルの上は三人が散らかした空き瓶と空き缶、惣菜の空容器、吸い殻が山盛りの灰皿でいっぱいだった。多分数時間くらい前から飲んでるんだろう。メゾさんはあまり分からないが、クレさんとダカさんは結構顔が赤いし、瞼も重たそうだ。
三人を尻目にスーツの上着を脱いで手前の部屋、物置のようなクローゼット内に適当に引っ掛ける。早く寝たい。疲れた。ここに来たばかりの頃より確実に体力や気力が減っていると思う。体の中にガソリンが一滴も残ってないような感覚だった。
「ねえおかわりは〜?」
「え、嘘もうねえじゃん。俺もまだ飲みたいんだけど」
「あれ?もう一本なかったっけ?」
「ねえよお前がそっちのは二本とも空けたんだろうが」
「え〜もう…じゃあ誰か買ってきてよ〜」
「あはは誰かって誰っすか。じゃあついでに××買ってきてよ、あれ飲みたい俺」
「馬鹿じゃねえの、それコンビニ置いてねえから。てか誰かマジで行くんなら煙草も買ってきてよ」
酒が足りなくなったのか、三人は買い出しに行く役を押し付けあっているようだった。まだ飲む気なんだ。きっと明日は一日中、全員死んだように寝倒すつもりなんだろう。
「これあっちのスーパーにしかないんだっけ?あははやば〜詰んだ〜」
メゾさんがヘラヘラ笑いながら言う。ちょうどそれと同じタイミングで、ダカさんがちらりとこちらを振り返った。
「…あのさ?ホスケくん」
「……なんすか」
「わり、おつかい行ってきてくんない?ちょっと行ったとこに24時間のスーパーあるじゃん」
予想通りのダカさんの言葉に舌打ちが出そうになり、すんでのところで我慢した。そのスーパーは歩いて行こうと思えるような距離じゃない。酒とか重たいもんを買いに行くなら尚更、徒歩以外の移動手段が必要だ。仕事あがりのこの状態の俺に、バイクに乗って買ってこいと要は言ってるんだ。
行くわけねえだろ。なんでこんな仕事終わりの死にそうな体で、てめーらの為に買い出しに行かなきゃいけねえんだよ。
「いや〜ダカ、さすがにそれは人としてどうよ?」
メゾさんがたしなめるように言うが、クレさんは笑って「いいじゃんいいじゃん」と合いの手を入れた。しゃっくりをする度に「うぃっ」と
声がこぼれるのがやけにイラつく。
「ホスケの大好きなバイクでさ、夜のツーリングがてらお買い物行ってきてよ」
「…や、俺も、酒回ってるんで」
「うそ〜ちゃんと立って歩けてるじゃん。見てよ俺ら、もう立てないから。ベロンベロンよ?」
クレさんが顔の前で手を合わせてお願いのポーズをする。ダカさんもそれに続いて「お願いしゃす」と言いながら頭を下げてくるので、俺はいよいよ本気で腹が立った。
「やめたれよ〜さすがにお前らひどいよ〜」
メゾさんの言葉で二人が引き下がるわけもなく、クレさんとダカさんは買ってきてほしいものをそれぞれ口にした。
「ホスケくんお願い。君だけが頼りだ。キーもバイク置いたまま友達んとこ遊び行ってるしさ。ね、頼む」
「…」
どーゆー神経してんのとは、今更、もう思わない。酒が回った奴をバイクに乗せて買い出しに行かせることなんて、この連中からしたら大したことじゃないんだろう。罪悪感とかそんなもん、カケラだってある訳ない。遠慮だってない。
「ほら、お釣りは全部お駄賃にしていいからさ。これでアメスピちゃんも買っておいで」
クレさんが財布を取り出して、その中から万札を抜き取る。人差し指と中指に挟まれたそれが、自分に差し出される。ヘラヘラ笑うクレさんにも、別に何にも思わない。目の前に利用できるもんがあったらそれに手を伸ばすのは、だって、当たり前のことだから。
俺は黙ったまま受け取って、クレさんとダカさんを一瞥した。
「…足りないんだけど」
「えぇ〜ん、うっそぉ」
「カートン二つ買わしてよ。いーでしょそんくらい」
いいように利用されてんだから、こっちだって都合よく消費する。俺の言葉にダカさんが「あぁ?」と苛立った声を出したが、メゾさんがそれをいなして「いいってホスケ」と言った。
「ごめんねみんな酔っ払っててさ。相手しなくていいよ」
「別にいーすよ、俺も煙草買う金欲しかったし。買ってくるからあと5千円出して」
受け取った一万をポケットに入れて、空になった手をクレさんに突き出す。クレさんは短い舌打ちをしてから、だけどその後すぐに笑ってみせた。
「ちぇ〜守銭奴め〜。しょうがないなあ」
追加で差し出された5千円を受け取って、俺はそれもポケットにしまった。真新しい新札はその瞬間にポケットの中で皺を作る。この金も、元々は利用されたどっかの誰かのもんだったんだろうか。別にどうでもいいし、俺が知ったこっちゃないけど。
「ホスケ、ほんと平気?バイク乗んの無理じゃない?」
「へーき」
メゾさんの言葉を背中で受け流して、散らかったクローゼットから適当な上着を羽織った。下駄箱の上に乗っかったキーくんのヘルメットの中に鍵も一緒に置いてあったので、それを掴んで靴を履く。少し頭がグラグラする気がしたけど、多分外の風に当たれば大丈夫。スーパーまで飛ばせば15分で行けるのだ、1時間もしないでカートンが二つ買えることを考えれば悪い話じゃない。
こめかみがたまに痛むので親指で押さえつけたりしながら地下駐車場まで向かった。いつもの所に停めてあるキーくんのバイクに鍵を差して、ヘルメットをつける。
響くエンジンの音を引き連れながら地上へ出る。深夜3時を過ぎた街は人通りもなく、静かだった。風を受けながら夜道を走る。相変わらずバイクに乗っている時だけは気持ちがいい。
無免でしかも飲酒運転なんてしてる奴が、果たしてこの夜の下に、どれだけいるんだろう。自分の常識なんて宛てにならないからわからないけど、もしかしたらそんなの俺くらいなのかもな。非常識だって、普通の人ならドン引きするのかもしれない。もうずっとどっかが麻痺してるから、そーゆーの分かんないや。この状態で何かに当てたり誰かを引いたりしたらシャレになんないんだろうな。こんな空っぽな俺でも、そういう瞬間には人生終わったとか思うのかな。想像してみるけどもう全部どっか他人事みたいに霞んでる。ただ流れていく視界を通り過ぎながら俺はそんなことをぼんやり考えた。
一体いつまで続けるんだろう。なんの意味も生産性もないゴミみたいな毎日を、俺はいつまで続けていくんだろう。
仕事がクビになったら即無一文だし、クレさんに部屋を追い出されたらその瞬間から宿無しだ。自分の家に帰ることはきっとしない。だってもう、ただいまの言い方も忘れた。親父やばあちゃんにどんな顔で会えばいいかも分からない。忘れちゃったな。こういう風になる前は俺、どうやって生きてたんだろう。
信号のない交差点を右に曲がる。世界に自分しかいないような気がして、このままここで消えたら誰にも知られず誰にも探されず、いなくなれるのかなと思った。そうなら楽だ。そうだったらいいのに。
曲がった瞬間のことだった。向こうも他に通行人なんていないと思ってたのか、アクセル全開の軽自動車と出会い頭、ぶつかった。
あ、車だと思った時にはもう遅かった。右斜め前から突っ込んだ自分は車のフロントにぶつかって、バイクごと豪快に吹っ飛んだ。宙を舞って地面に叩きつけられる。体がバラバラに千切れたような感覚がして、バイクの下敷きになった自分の右足が変な方向へ曲がってるのに気づく。痛くはない。痛みが、やってこない。それより思考と視界が遠くなるから、ああこれはいよいよまずいなと思った。頭打ったかも。俺、死ぬかも。アスファルトの上バイクと一緒に横たわったまま、遠のいてく車の音をただ聞いた。
こういう時って走馬灯とか見るんだと思ってたけど、ふうん、違うんだ。頭の中には何の映像も音も流れない。やけに黒みがかった視界の先に、ただ倒れたバイクとグリップを握る自分の手が見えるだけだ。

これで終わんのかな。これで全部おしまい?
おしまいかあ。…なんか、いーか、それでも。「怖い」より「やっとか」って思った。思っちゃった。もう2度と開かないかもしれない瞼をゆっくり閉じる。ごめんねキーくん。バイクぶっ壊れちゃったかもしんない。でもそのごめんねさえ、もう遠いどっかの世界の、知らない誰かの感情みたいだ。
暗がりの中へ身を沈めたら、いよいよ俺は俺を全部捨てて逃げ切るんだろう。遅れてやって来た身体中の痛みが鬱陶しくて、俺は最後に舌打ちをした。



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