Chapter.4-2




それから、りんさんにはちょくちょく誘われるようになった。声をかけられるのは決まってデクさんがいない時だ。
始めのうちは拒否していた。人の目を盗んで体を触ってきたり誰もいない部屋でキスをしてきたりするので、その度にやめてとはっきり伝えた。けれどりんさんはまるで聞かない。「えー」と不服そうな顔をして、それから頬を膨らませ俺の体に手を伸ばす。
そんなことが繰り返されるうち、段々と拒否するのが面倒くさくなってしまった。言ったところでこの人は聞いてくれないのだ、意味なんてない。
りんさんは手も口も上手かった。やたらと気持ち良くて、だから俺も冷静な思考回路をよく飛ばされた。りんさんの中に入ると、いつも決まって生ぬるい泥沼の中に身を沈めているような気になる。誰にどう話したって呆れられるだろう。必死で抜け出そうとしない自分だって同様に、もしかしたらこの人以上に、クソなのだ。

他の人が寝ている時や出払っている時を見計らって、りんさんと何度もセックスをした。回数を重ねるうち、りんさんの性的嗜好も分かってきた。彼女は最中の自分達の姿を見るのが好きらしい。だからよく姿見がある部屋で誘われたし、一度だけだが洗面所で強請られたことだってある。
りんさんは鏡に映る自分の姿を見ながら気持ち良さそうにいつも喘いだ。俺を直接見ることはあまりなく、鏡越しにこちらの顔をドロリとした瞳で見つめる。鏡の向こうのりんさんと目を合わすのがどうしてか嫌で、だからよく俯いて、前髪で視界を覆った。
「だめ、あっ、だめっまたイく、またイッちゃう」
「うん」
「やぁっ、きもちぃ、だめぇ見てるとイッちゃう」
「…うん」
以前一度だけ、何故鏡で見るのが好きなのかと尋ねたことがある。りんさんはけろりとした調子で「かっこいい人にヤラれてる自分見ると興奮するんだ」と答えてのけた。直接顔を向け合うよりそちらの方が良いらしい。俺はやっぱり欠片も理解できなくて、ただ「へー」と返しただけだった。

「私ね、ホスケの顔ホント好き」
「ふーん」
裸のまま布団に転がってぼんやり天井を見る。エアコンは付いているけど、寒くて布団の外に出られない。今が何時なのか気になってフローリングの床に投げ出した自分のスマホへ手を伸ばしたが、腕が外気に触れた瞬間に寒さを感じて億劫になった。もうどうでもいい。今が何時だろうと本当のところは構わないのだ。
「ホスケは?私の顔好き?」
りんさんが俺に体を擦り寄せながらそう言った。
「…ふつー」
「ねえ絶対言うと思った!」
りんさんが笑いながら布団の中で俺の脛を蹴る。「いて」と言うと「天罰じゃ」と、更に二回蹴られた。
「も〜やだどうしよ。ホスケの顔見てるだけでシたくなっちゃうんだけど最近」
「病気じゃないの」
「ね〜ひどい!」
りんさんが怒ったふりをしながらケタケタと笑う。彼女の笑い声を聴きながら、俺はぼんやり瞼を下ろして緩やかにやって来る眠気を受け入れた。

「ホスケ」
その日は出勤日ではなかったから奥の部屋で一人ダラダラと寝ていた。運動したわけでも頭を使ったわけでもないのに、とにかくやたらと眠い。起きる気もさらさら無いまま惰眠を繰り返し貪っていた、そんな日だった。
「起きれる?ホスケ」
誰かに頬を軽く叩かれ、俺は眉間にしわを寄せながらゆっくりと目を開ける。眠っていた俺の枕元にしゃがみ込んでいたのはダカさんだった。
ダカさんは、俺が始めてこの部屋にやって来た日に行きの車で運転をしていた人だ。俺を紹介するクレさんに対して「こんな無愛想な奴にできるのか」と言っていた。
あれからこの部屋で何回かは顔を合わせているが、特にお互いそれといった会話はなかったように思う。だから、ダカさんが俺を起こしてまで話しかけてくる理由がよく分からなかった。
「起きた?ちょっと一緒に来てもらっていい?」
ダカさんにそう言われ、俺は無言のまま上半身を起こす。ダカさんは有無を言わせない空気を纏っていた。だから、今から一体どこに行くのかまるで見当もつかなかったが、俺は起こされたばかりでろくに働かない頭のまま、目的地も知らないまま小さく頷いた。
布団を脱いで起き上がると、ダカさんが「なんか食った?」と俺に尋ねた。
「…なんかって」
「いや、つーかいま腹ん中どう?空っぽ?」
「…はあ、まあ」
「そっか」
俺の答えにダカさんは頷いて「なら良かった」とこぼした。…どうしてそんなことを聞かれたのか。だって、まさか今から飯を食いに行くわけでもないだろうに。ダカさんに尋ねようとしたが、きっと正確に答えてもらえはしないだろうと思い、やめた。
部屋のドアを開けるとリビングのソファでテレビを観るクレさんがいた。他には人が見当たらない。反対側の奥の部屋で一人か二人くらい寝ているのかもしれない。
「あれ?珍しい組み合わせじゃん。二人してどっか行くの?」
クレさんがこちらを振り向きながら軽く尋ねた。ダカさんは「んー」と生返事を返し、それから少し間を空けて「まあちょっと」とだけ答えた。答える必要がないと思ったのか、それとも答えにくい質問だったのか。多分、後者なんだろう。だからダカさんはずっと、俺からの質問を受け付けないようこちらを一度も振り返らない。クレさんは特に気にする様子もなく「いてらー」と手をヒラヒラさせ、またテレビを観始める。
俺の数歩前を歩くダカさんは玄関の外へ出るまで無言を貫いた。俺より一回り大きな背中を見つめながら、これから先に待ち構えている展開が楽しいものではないことを、ぼんやりと理解する。
お互いに適当な靴を履き、廊下に出る。エレベーターの前まで向かう途中で、ダカさんがこちらを振り返らないまま言った。
「不運だよなぁお前も」
ダカさんの呟きがダラリと俺の耳元まで届く。どういう意味か聞き返そうとする前にエレベーター前に到着し、ダカさんは下へ向かうボタンを押しながら俺を横目で見やった。
「…まぁ、確かにあいつが好きそうな顔してるとは思うけど」
「…」
一台のエレベーターが到着して扉が開く。ダカさんに少し遅れて俺も乗り込む。俺たち二人だけを乗せたエレベーターが音も立てずに下へと滑り落ちていく。
あいつ、というのが誰のことなのかは考えなくても分かった。そして同時に、この先で俺を待っている人のことも。
「…」
ああだからさっき、腹の中のことを聞かれたのだ。自分の腹を服の上から緩くさすり、俺は憂鬱な気持ちで下を向いた。

程なくしてエレベーターは最下階である地下駐車場で停まり、扉を開けた。
「こっち」
ダカさんが辺りを見回しながらある場所へ向かって歩き出す。駐車場に人影はなく、ダカさんと俺の足音だけが場内にやけに響いて聞こえた。灰色のコンクリート一色で塗り固められた空間を、ただ黙って俺たちは進んだ。
しばらく歩くと奥の方、空いた駐車スペースの車止めに座り込んでいる男が一人いる。やはりそこにいたのはデクさんだった。
「デク、連れてきた」
「お〜。悪いね」
ダカさんとそれだけ交わすとデクさんは立ち上がり、それから俺の目の前までやって来て静かに俺を見下ろした。
「なんで呼び出されたか分かる?」
「…」
黙っていると、笑いながら舌打ちをされた。舌打ちの音もここではよく響いた。
「っあ〜お前のその顔マジで腹立つわ。初めて会った時から気に食わなかったんだよなぁ、舐め腐った目ぇしやがってよ」
デクさんが身をかがめ俺と目線を合わせる。目を逸らさないままでいると今度は頬に唾を吐きかけられた。
「っち…あ〜、ホントは顔ボコボコにしてやりてぇけど、顔やるとクレにすげえ怒られっからな」
デクさんは言いながら俺の服の首回り部分を掴んだ。
「だからこっちなー」
それからデクさんの右拳が俺の腹に真っ直ぐ入る。強い衝撃に視界が揺れて、それから腹部に猛烈な痛みが走った。襟元部分をしっかり掴まれているから後方に身を引くこともできない。俺は小さく呻いた。
「人のモンに手ぇ出しちゃダメでしょ?んなことも分かんねぇのか?あ?」
また同じように腹を殴られ、開いた口からよだれが漏れた。よだれは灰色のコンクリートに落ちて跡を作る。その様が視界に入るのとほぼ同時に、今度は左手を離され肺の辺りを思い切り蹴られた。俺の体は後ろに倒れ込む。口の中の液体を吐き出してから咳き込むと肺が軋むような感覚がした。
「なに人の女とヤッてんだテメー、頭湧いてんのか?なめてんじゃねえよ殺すぞ!あぁ!?」
倒れた俺の腹をデクさんは何度も蹴った。蹴られるたびに反動で口からよだれが飛び出して、何度目かのタイミングで胃液の味がした。
「溜まってんなら店の客とでもヤッとけや、このクソが!」
デクさんの罵声が駐車場に響いて俺の呻きをかき消す。何発食らったかもう分からない。段々呼吸も苦しくなって、浅く吸って吐くことしかできなくなった。
「今度またアイツに手ぇ出してみろ、ちんこ引っこ抜いてテメェのケツん中突っ込んでやるからな」
呼吸がうまくできない。痛みより苦しさが体を圧迫する。
「聞いてんのかクソがぁ!」
今度は顔を踏まれ、頬に何度も靴の裏を押し付けられた。振り下ろされる足の力は段々強くなる。その途中で数歩離れた場所から傍観していたダカさんが「デクやめとけ」と言った。
「顔やったらクレに怒られるって。前もそうやって二人ぐらい仕事できなくさせただろ」
ダカさんの言葉にデクさんは足の動きを止め、頭をかきながら「そうだった」と答えた。
「っち…じゃー今回はこんなもんで。あんま舐めた態度取んなよ、次はマジで殺すぞ」
デクさんは俺の後頭部を爪先で蹴り、それから唾を吐いてエレベーターがある方へ歩き出した。デクさんの吐いた唾液が自分の頭に落ちる感触がした。
デクさんの後に続くようにダカさんもその場を離れようとしたが、何か俺に言い残したことがあるのか、傍にしゃがみ込んで俺の上に影を落とした。
「…だから言ったろ、りんとヤッたりすんなよって」
「……」
初日、そういえばそんなことを言われたなと、ふと思い出した。うまくいかない呼吸を浅く繰り返しながらぼんやりとダカさんを見上げる。
「…一発も返さねえのな、おまえ」
「……」
「まあ、おまえがそれでいいなら別にいいけど」
ダカさんはそう言って立ち上がり「さてと」と続けた。
「あんま戻ってこないようだったら様子見にまた来るわ。…じゃあな」
俺は地面に倒れうずくまったままダカさんの背中を見つめる。やがてその姿も見えなくなって、この場所には俺一人しかいなくなった。
手足の先が痺れている。内臓を何度も蹴られたせいだ、体がうまく動かせない。自力で起き上がって歩くには多分あと一時間くらいこうしていないと無理だろう。
「……」
自分の息を吸って吐く音を聞きながらゆっくり瞼を下ろした。
悔しさも怒りも湧かない。どうして湧かないのかは分からない。でも湧かないのだ、本当に。
呼吸がもうちょっと楽になったら少し眠って、それから起き上がればいい。誰かに見つかった時は適当に、酔い潰れて寝ていたとでも説明すれば変に疑われることもないだろう。
内臓と肺の痛みを意識しないようにして、瞼の裏の暗闇に身を投じる。

…へんなの。高一の頃に付き合っていた奴のことや、俺より2年先に卒業していった一人の先輩のことや、ひろの顔が、暗闇の中に浮かび上がった。どうしてこんな時に思い出すんだろう。意味わかんねえ、ほんと。
何故だか泣きたくなって…涙が出そうになってしまって、俺は追い払うように閉じる瞼に力を込めたのだ。




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