どうしてキラキラしてるんだろう




 …なあ太一。どうしてあの日お前は俺に、あんなことを切り出したんだろう。
毎日隣にいて、毎日お前のことを見つめている筈なのに、おかしいよな、まるで分からないんだ。
 分からないことは沢山ある。沢山あるよ、太一。


 同じ写真部の豊川という奴から、とある映画を強く勧められた。一人で観に行ったものだから感想を言い合う相手がいないらしく、どうやら俺にその話し相手の役をやってほしいようだった。
「ほんといいの、ほんとに。久々に邦画でもう一回観たくなる映画に出会った」
劇場に置いてあるパンフレットを複数枚持って帰ってきたらしい豊川から、一枚それを手渡される。
「泣いちゃったもん俺。映像と音楽がすごいさ〜…なんかかなしくってさ〜…。ほんといいのよ」
「へえ、大絶賛だな。そんなに言われたらちょっと気になってきた」
思い返すように余韻に浸る豊川の言葉を聞きながら、手元のパンフレットに視線を落とす。
 映画は「見えない」というタイトルだった。題名の下には小さく「I don't see」と英題が添えられている。不思議に感じた。「見えない」を和訳するなら「don't」ではなく「can't」の方が適切なのではないかと思ったからだ。
「can't、じゃないんだな。ここ」
印字部分を指差して言うと、豊川は「さすがぁ」と言って少し驚いてみせた。どうやら、なにか意図があったうえでの英訳らしい。
「そうなんだよなぁ。「見えない」し「見ない」なんだよなぁ、うん」
含みを持たせた彼の物言いに、ああきっとこれは映画の核心に触れる話題なのだと気付いた。これ以上言うと映画の種が明かされてしまうのだろう。「そうか」とだけ答えて、俺はそれ以上話を掘り下げないことにした。
「まあとにかくさ、もし観たら教えてよ。で感想聞かして」
「ああ、わかったよ。教えてくれてありがとうな」
 写真部部長が今学期の活動内容の説明を始めたので、その話はそこで一旦終わった。俺は受け取ったパンフレットを鞄にしまい、太一のことを思う。
 映画館に映画を観に行こうと誘ったら、太一は頷いてくれるだろうか。俺の予想だと元気に頷いて「映画館と言ったらポップコーンとコーラッスね!」と笑いながら言ってくれる気がするんだが。予想が当たるか、早速今夜試してみよう。

 その夜、晩飯と風呂を終えてから105号室に戻り、俺は鞄の中の映画パンフレットを取り出して太一に見せた。
「今日な、写真部の友達に映画を勧められて」
太一はテーブルの向こう側、胡座をかきながら風呂上がりの髪の毛を拭いている。目線はテーブルの上のパンフレットに注がれていた。
「そういえば二人で映画館行った事なかったなあと思って。良かったら一緒に行かないか?」
俺が言うと太一は間髪入れずに「うん!」と言った。
「行く行く!臣クンと初めての映画館デートだ!楽しみッス〜!」
肩の上にタオルを乗せ、拭きたての髪をそのままにして太一は笑う。太一の言葉が嬉しくて「俺も楽しみだよ」と返すと、太一もますます笑顔になった。
「この映画、一回だけテレビでCM観たことあるッス。ちょっと気になってた」
「ほんとか?俺は今日紹介されるまで全然知らなかった」
「確かね、目が見えない男の子が主人公のやつなんスよ」
太一の言葉で合点がいった。なるほどだから「見えない」という題名なのだ。
「友達が、とにかく良い映画だって大絶賛してたんだ」
「へえ、そうなんだ。じゃあ楽しみだね」
「うん、そうだな」
太一の言葉に頷いて笑うと、テーブルの向こうで太一も同じように笑った。
「映画館って言ったらやっぱポップコーンとコーラ買わなきゃだね!ポップコーンは甘いのとしょっぱいの、絶対どっちも買うッス!」
太一の反応に思わず笑うと、太一も「えへへ、なに?」と言いながら俺に笑い返した。
「うん、太一は可愛いなと思って」
「え、いま可愛い要素あった?どこ?」
「ん?うーん…全部」
テーブルに頬杖をついて太一を見つめる。いまいちピンと来ていない様子の太一は、少し首を傾げて「んん?」と眉を持ち上げた。
 俺が予想していた以上に喜んでくれることが嬉しい。その笑顔を何の躊躇いもなく見せてくれる太一が愛しい。俺の心はいつだって太一といると満たされる。
「じゃあ今週の金曜、お互い学校終わった後にでも行こうか。確か稽古ない日だったよな」
「うん!学校終わったら連絡するッス!」
頷き合い、それから俺は太一の隣に移動して近くの映画館の上映スケジュールをスマートホンで確認した。二人で同じ画面を覗きながら当日に期待を寄せる。
 この時は正直、映画の内容そのものより二人で出かけることの方が純粋に楽しみだった。映画を観終わった後も少しくらいなら二人きりの時間を楽しめるだろうかとか、制服姿の太一とどこかに出かけるのはこれが初めてだなとか、そんなことばかりを頭の中で考えていたんだ。
 だから、テーブルの上に置いたパンフレットをその後見返すこともなかったし、映画の内容を事前に調べることだって勿論しなかった。


 約束の金曜日。大学の講義が終わりすぐさまスマートホンを確認する。画面には太一からのメールが数件表示されていた。
 帰り支度を急いで済ませ、太一のメールに返信する。太一は既に電車で移動しているらしい。急いで向かう旨をメールで伝えると、ゆっくりでいいよという一文と、太一の好きなアニメキャラクターが親指を立てているスタンプが送られてきた。
 急行で二つ先の駅に到着し、改札に向かいながら太一の姿を探す。すると改札の向こうの柱に寄りかかる太一の姿を見つけた。制服の深緑色と赤い髪のコントラストが、なんだか秋の色合いに似ているなと感じた。
 今度秋が来たら、太一と一緒に紅葉狩りにでも行きたいなあ。秋の景色の中の太一もきっと、俺に撮られながら満面の笑みを見せてくれるのだろう。
 少し先の未来に想いを馳せながら改札を潜り、太一の元へ向かう。スマートホンの画面を見つめているその肩をそっと叩くと、途端に顔を綻ばせて「臣クン!」と、彼は俺の名を呼んだ。
「ごめんな、待ったか?」
「全然ッス!俺もさっき着いたとこ!」
「そうか、よかった」
頭を撫でると嬉しそうに「へへ」と笑って、俺の手のひらを押し付けるように頭を振る。太一の髪の毛の感触が好きだ。指と指の間を、そしてそれぞれの指の先を、元気に滑っていくこの感触が好きだ。
「臣クンの手好き、俺」
「俺も太一の髪が好きだよ」
「ひひ、ウィンウィンッス」
「うん、ウィンウィンだ」
一緒に笑って、それから同じタイミングで歩き出す。

 俺は太一といる時が本当に好きだった。何度こうして、同じことを思うのだろうと苦笑してしまうほど。
 太一といると楽しくて、安心できて、心がとても楽になる。それは何も計算や意図がない自然なことのように感じるが、きっと一つ一つの裏側に積み重ねてきた時間の経過や、ふとした瞬間の気遣いがあるんだろう。
 太一は「相手に感じさせない」ことが物凄く上手い。何でもないことのようにいつだってやってのけてしまうのだ。だからそれに対して面と向かって誰かから「ありがとう」と言われたことは、きっとあまりないだろう。太一本人も気付かれないことを当たり前としているからそれで良いのかもしれないと思う。
 …だからこそ、太一。俺はそれに気づく度、心の中でそっと唱えることにしてる。あの時当然のように言葉をかけてくれてありがとうとか、何でもないことのように振舞ってくれてありがとうとか。
 今も心の中で丁寧に唱える。楽しい時間を、かけがえのない時間を、いつも本当にありがとう。
 もしも口にしたら、お前はなんて答えるんだろう。「なんのこと?」って、とぼけてみせるかもしれない。俺はきっとその表情だって大好きで、堪らなくなって、お前を抱き締めてしまうんだろうな。

 駅から歩いて数分の距離に目的の映画館はある。到着してまずチケットカウンターに並ぶ。これから上映される回は十分後だったので良い席が取れるか少し心配だったが、どうやら場内はまだまだ空席が多いようだった。太一と一緒にどの座席に座るか決め、チケットを二枚購入する。太一は高校生なので1000円。俺は1300円。まとめて2300円を財布から出して払うと太一が「待って待って」と慌てて言った。頭を撫でながら「じゃあポップコーンは太一が出してくれ」と言って宥める。太一は渋々だったが何とかそれで了解してくれた。
 チケットを購入した後、すぐさま食べ物の売店へ向かう。注文カウンターの頭上に掲げられたメニュー表を見上げ、太一の目がはっと見開かれた。
「ホットドッグがある!」
「ほんとだ。買ってくか?」
「いや〜、さすがに映画観ながらホットドッグは…う〜ん…」
「じゃあ映画観終わった後に一緒に食べるか」
太一は俺の言葉に勢いよく頷いて「俺っちね、ホットチリ味にする!」と宣言してみせた。
「それじゃあ太一、映画のお供は?どの味にするんだ?」
ホットドッグのメニューの隣、ポップコーンの種類が書かれたメニュー表を指差して太一に問う。太一は宣言通り、甘い味と塩っぱい味を一つずつ選んだ。
「キャラメルと、あとのり塩はどうッスかね?臣クン食べたいやつある?」
「うん、その二つでいいよ」
「じゃあ決まり!あとは飲み物は?臣クンどれがいい?」
「そうだなぁ…ウーロン茶にしようかな、俺は」
「オッケーッス!じゃあ俺っち買ってくるからちょっと待ってて!」
元気に駆け出して太一は売店の列に並ぶ。少し後ろでその様子を眺めながら、映画館で映画を観るのはいつ振りだろうな、とぼんやり考えた。
 また二人で映画を観る時は、今度はアクション物とか、それかホラー物も良いかもしれない。スクリーンを見つめながら大袈裟なリアクションを取る太一のことを想像して、俺はこっそり笑った。

 太一が買ってくれた飲み物とポップコーンを持って場内へ移動する。チケットの半券を切ってもらい奥へ進むとそれぞれの劇場へと通路が分かれる。同時期に公開されている有名なアニメ会社の長編CGがとても人気があるらしく、殆どの人はそちらのスクリーンへ向かうようだった。
 人の波を遠巻きに見ながら「大人気だなあ」と呟くと、太一が「あれも今度観に来ようね」と俺に言った。
「ああ、そうしよう。今回が邦画、その次がアニメってことは、じゃあその次の次はホラーだな」
「えっ、なんでッスか、やだよ」
「あはは」
「いや、やだからね!?」
「あはは」
本気で狼狽える太一の背中を撫でながら一緒に場内へ移動する。チケットに書かれた席番号を見つけ、狭い通路をゆっくり進み二人同時に席に座った。
「ねえ臣クン、さっきのホラー観るってやつ、嘘だよね?」
小さな声で耳打ちしてくる太一を、なんだかからかいたくなったので俺はわざとらしく首を傾げた。
「うーん、それがなぁ。本当に観たいやつがあるんだよなぁ俺」
「嘘だ、そんなの初耳ッス」
「いやあるんだよ、太一と一緒に観て勉強したいなと思ってさ」
「嘘ッス!」
「今後の芝居の為にも色んなジャンルに触れていかないとな、太一」
「その尤もらしいセリフ全部適当だって俺っち分かってるからね!分かってるよ臣クン!」
「あはは」
意地悪しているとバレてしまったらしい。隣で俺を睨む太一の頭を撫でると「すぐこれで誤魔化せると思ってる。臣クンの悪いとこッスよ!」と叱られてしまった。
「あはは。まあまあ。ほら、もうすぐ始まるみたいだ」
「まあまあじゃなくって…はあ。も〜臣クンはホントさぁ…」
愚痴をこぼすようにそう言って、太一はラージサイズのコーラをストローで啜った。不貞腐れる彼の手を肘掛の上でそっと握り、俺もウーロン茶をストローで一口吸い上げる。
 薄暗い空間の中、俺の手を握り返す太一の手の感触だけが、まるで輪郭が浮かび上がるようにはっきり感じられた。こんな一瞬が、いつだって本当に嬉しい。更に強い力で握り返すと隣から小さな声で「ひひ」と、太一の笑い声が聞こえた。
 …抱き寄せたいな。この肘掛がなかったらなぁ。こんな距離ですら焦れったいと感じている自分に呆れながら、俺は予告CMを映すスクリーンを見つめた。

 本編は静かに始まった。
 両目を閉じた青年が、骨董品や置物が沢山置かれた部屋の中、コンポのスイッチを押してラジオをかける。ラジオのパーソナリティーが今日の日付を告げた。
 目を瞑ったままでもどこに何があるのか分かるようで、ラジオをつけた後はそのまま台所へ移動して冷蔵庫を開けた。中から紙パックに入ったコーヒーを取り出す。食器棚の中にしまわれていたマグカップも反対の手に持って、今度はまたコンポのそばまで戻る。
 ソファに座って、テーブルの上に紙パックのコーヒーとマグカップを置き、それから一滴もこぼす事なくカップの中にコーヒーを注ぐ。目を瞑ったまま彼は、一人でラジオの音に耳を傾けていた。コーヒーを啜る。ラジオを聴く。青年はその二つの動作をただひたすら丁寧に、ずっと繰り返す。
 青年は目が見えない。盲目の彼はやけに広い家に一人で住んでいるようだった。映画はそれからしばらく、彼が出かける為の身支度を整えているところを淡々と映していた。
 冒頭のシーンを観ながら、ああ確かに豊川ならこの雰囲気が好きだろうなと一人頷いた。奴は物哀しい、静かで寂しい世界が好きなのだ。
 盲目の青年が街を歩く。その足元と杖の先を映しながら主演、準主演のクレジットが画面中央に白字で、薄っすらと浮かび上がる。役者はどちらとも映画のクレジットでその名をよく見かける二人だった。青年役の俳優はこの間、助演男優賞を獲っていた気がするし、準主演の女優は主演女優賞にもう何度もノミネートされたことがある筈だ。
 スクリーンは青年の杖の先が地面を跳ねる様子を映し続ける。ピアノとギターの静かな音色がかかる。音楽は、青年の杖が鳴らすスタッカートのリズムと徐々に重なっていった。
 場面は突如切り替わる。
 息を切らした少女が路地裏に身を潜め、辺りを注意深く見回している。少女は乱れた髪や汚れた衣服もそのままに、ただ自分の呼吸が落ち着くのを待っているようだった。恐らく追っ手のようなものから逃げているところなのだろう。人の気配が近くにないことを確認し、それから少女は路地裏奥の壁を懸命に登った。
 片手には小さなポーチが握られている。壁を登るには少し邪魔そうだが、大事なものが入っているのか少女がそれを手から離す事はなかった。ゴミ袋や銀色の油缶、それから段ボールの束なんかを踏み台にして壁の天辺に手を掛け、彼女は必死に壁を乗り越える。
 最後、彼女が片足を上げた後踏み台にしていたゴミの山が大きな音を立てて崩れ落ちた。彼女は慌てて壁の向こうへ飛び降りる。音で追っ手に気づかれたかもしれないと思ったのだろう。
 壁の向こうは、薄黒く濁った川だった。少女は思い切り顔をしかめながら、そして口の中に入った液体を乱暴に吐き捨てながら川を泳いだ。くすんだ緑色の水面がユラユラと揺れる。その水面の上に薄っすらと、この作品の監督の名がさっきと同じように白字で現れた。
 そこでカメラのアングルが切り替わった。濁った水が流れる川と、それに沿うように続く街を上空から映す。映像はゆっくり下降する。川を泳ぐ少女と川沿いの道を歩く青年が、お互いに気付かぬまますれ違う瞬間がスクリーンに映し出された。
 二人がすれ違った後、そのままのアングルで景色を映す画面の中央に、映画のタイトルが姿を現す。「見えない」という四文字がスクリーンの中央、華奢な線で浮かび上がる。いよいよここから物語が動き出すのだろう。さっき、青年の杖先のリズムと合わせてかかっていた音楽がもう一度、今度は弦楽器も加わった音色で響いた。
 これからこの二人がどのように交錯していくのか期待に胸が膨らむ。
 やはり映画館で映画を観るのは、他の何にも代えられない感覚がある。五感が全て世界の中に引きずり込まれるような気がする。きっと太一もそう思っているだろう、だって俺たちの繋がった手は、指先の一つさえ微動だにしない。
 これから物語が終わるまでの時間、こうして隣に並びあって過ごせることがとても贅沢なことに俺は感じた。

 物語は進んでいく。
 青年が買い物から帰宅してラジオを聴いているとインターホンが鳴る。青年が大きな玄関の扉を開けると、扉の向こうには全身ずぶ濡れ、泥まみれの少女が立っていた。荷物は手のひらほどの大きさのポーチそれだけだ。白を基調とした綺麗な玄関先が、少女の体から滴り落ちる水滴で汚れていく。
 少女は青年に「助けて」と言った。青年は、けれど見えない。だからまず辺りに漂う匂いを嗅いだ。ちょっと怪訝な顔をして、それから最初に少女に尋ねた言葉は「魚屋さんですか?」だった。川を泳いだ少女からきっと生臭い匂いがするのだろう。彼女は途端に顔を歪ませ舌打ちをする。「川に落ちたの」と不機嫌に答えると、青年は慌てて謝り「お風呂に入っていきますか?」と言って、少女を家の中に招き入れた。
 少女は青年の家の風呂に入り、借りた着替えを身につけ一息つく。青年はラジオをかけながら紙パックのコーヒーを飲んで、自分は目が見えないこと、ここに暮らしているのは自分一人なのでゆっくりしていけばいいということを少女に伝えた。そして少女は帰る場所がないこと、お金がなくて困っていることを青年に伝えた。
「しばらくの間ここに置いてくれない?目処が立ったら出て行くから。その間、私が目になってあげる」
少女の申し出に青年は快く頷いた。そうして二人の同居生活が始まる。

 青年の日々は実に淡々としていた。決められたルーティンを毎日同じようになぞる。
 朝起きてラジオをかける。紙パックのコーヒーを飲む。朝のラジオ番組を(ほとんどニュースと交通情報だけの、色気のない番組だ)聴き終えると街へ買い物に出かける。帰ってくるとまたラジオをかけてそれを聴きながら昼食を食べる。そうしたら今度ははたきを持って、部屋中の置物を順に優しく撫でていく。それが終われば部屋の床の掃き掃除と、数着しか溜まっていない洗濯物を洗濯機にかける。洗濯機が止まったら洗濯物を干して、その後は夕方5時を報せるチャイムが鳴るまで座って眠るようにラジオを聴く。夜が来たら一人分の簡単な夕飯を作り、ゆっくり時間をかけてそれを食べる。最後に風呂に入って、着替えて、寝室に移動して眠る。
 数日間それを近くで見ていた少女の表情は実に不満そうだった。退屈なのだろう。三日目の朝耐えきれなくなった彼女は「今日はなんか違うことしようよ」と青年に提案した。青年はしばらく考え込んでから「じゃあ…」と思案を巡らせる。そして少女が留守番を一時間ほどした後(どうやら買い物を手伝う気はないらしい。逃げてきた身だからだろうか)買い物から帰ってきた青年が袋から取り出したのは、いつもと違うパッケージのコーヒーだった。
「いつものやつの、一つ隣のコーヒーを買いました…ドキドキした」
青年の誇らしげな顔に少女は思い切り舌打ちをした。
「馬鹿じゃないの、あんた馬鹿、生粋の馬鹿」
感情のまま罵って、それから紙パックのコーヒーを青年から引ったくった。
「紙パックのコーヒーなんてどれも一緒。そんなに好きならいっそ豆から挽けよ」
少女の言葉に青年は笑って、それからゆっくり答えた。
「本当は豆から挽いて飲みたいです。ミルもサーバーもある。だけど見えないままやるのが…なかなか面倒なので」
青年がそう言うと少女は少し驚いた様子で「あんた、面倒って思ったりするんだ」とこぼし、気を取り直すようにして「だから」と続けた。
「私が目になるって。言ったじゃん」
 そして青年は「ああ!」と閃き、少女は呆れたようにため息を一つ吐いた。

 青年は杖を持って、少女は帽子とマスクで顔を隠して(追っ手に気づかれない為の変装だろう)、二人は一緒にコーヒー豆を買いに行った。店に着くと青年が豆の名前とその置き場所を何度も何度も聞いてくるものだから、少女は質問の多さに苛立ってひどくぶっきらぼうに、だけど一つ一つ正確に答えてやった。店で随分長い時間を費やして、青年と少女はその日ブルーマウンテンとモカを買った。
「あんたと出掛けるの、想像の百倍面倒くさい」
「ふふ、うん」
「もう二度と付き合わないから。これっきりね」
「ふふ、わかった」
「ふふじゃねーし」
二人は帰って台所の戸棚、その奥から年代物のコーヒーミルを取り出した。少女は青年からミルの使い方を詳細に聞きながら豆を挽いた。銀色のポットから湯を注ぎ、ガラスのサーバーにコーヒーを貯めた。湯気の香りに青年は今まで見せたこともない、嬉しそうな表情を浮かべた。
「この家ってほんと、ガラクタの山だらけ」
少女の不躾な言葉に青年は笑って、それからゆっくり語る。
「俺のじいちゃんの家だったので。ここは」
「へえ」
「じいちゃん、骨董品を集めるのが趣味だったんだ。切手とか記念硬貨とかも、俺には価値がよく分からないけど眺めるのが楽しかったみたいで。じいちゃんには沢山世話になったんだ。だから全部そのままにしてある」
「へえ」
「それにしても今日は全く新しいことを体験してしまった。きみのお陰で」
コーヒーの一口目を啜る直前、青年は噛みしめるようにして言う。少女はテーブルの向かい側、頬杖をつきながらそれを聞いていた。
「あっそう」
「いただきます」
「どうぞ」
「物凄く美味しい」
「あっそう」
「信じられないくらい美味しい」
「あっそう」
 少女の声のトーンは変わらない。だから青年にはきっと分からないだろう。青年の向かい側で少女は笑った。嬉しそうに、笑ったのだ。

 そして二人の日常は積み重なっていく。
 保守的な彼と退屈を嫌う彼女、二人の凹凸はアンバランスなようで絶妙に心地良い。繰り返される日々の中で大小様々な「新しい出来事」が芽吹く。その度に青年は感嘆の声をあげ、少女は青年に気付かれないよう内緒で笑った。二人は二人でいることを楽しんだ。そして楽しみながら、互いの心を近づけていった。

 青年は毎日の日課である掃除を今日もする。部屋にずらりと並ぶ置物の埃を順々に落とす。しかしおかしい、映画の冒頭、全く同じアングルで撮られたシーンを思い返すと、その時より置物の数が減っている。青年はそれに気づいていないのか、特に気にとめる様子もなく掃除を進めた。掃除を進める青年の後ろ姿を心底つまらなそうに、けれどそのくせ長い間、ずっと少女は見つめていた。
 青年は毎夜決まった時間に眠りにつく。少女は青年とは別の部屋に布団を敷いて寝ていたが、その後しばらくしてから起き上がり枕元に置かれたポーチに手を伸ばす。少女が中から取り出したのは注射器と、それから透明な袋に入った白い粉だった。少女は音を立てないようゆっくりと台所まで移動して、白い粉を水で溶かした。出来上がった液体を注射器で吸い上げ、自らの腕にゆっくり流し込む。
 そのまま台所に胡座で座り込み、彼女は天井を見上げる。恍惚とした瞳の揺らめきが暗がりの中、やけにはっきりと浮かび上がっていた。

 二人は日常を積み重ねていく。
 ラジオチャンネルの主導権は五分五分になり、一日の半分は彼女の好きな番組がかかるようになった。もう、朝の時間に彼らがニュースを聴くことはない。紙パックのコーヒーは冷蔵庫から姿を消して、その代わりミルとサーバーが流しの横に置かれるようになった。彼女の提案で掃除ロボットが導入され、床掃除は彼がする必要がなくなった。掃除ロボットが稼働している間、青年がまるで見えない敵に備えるようにおっかなびっくり歩くから、その姿を見て少女はケタケタと笑った。
 置物の数がまた減る。彼女は毎晩のように台所に胡座をかいて天井を見上げる。
 ある夜、彼女が注射器の中身を打ち終えてぼんやりとしている時、奥の寝室から青年がやって来た。青年は喉が渇いたのか戸棚からコップを一つ取り出して冷蔵庫の中のペットボトルに入った水を注ぎ、喉を潤した。
 そのすぐ隣に、胡座をかきながら陶酔する彼女がいる。けれど見えない。見えないのだ、青年には彼女の姿が。彼女は天井を見つめたままへらりと笑った。青年はシンクに空のコップを置いて、そのまま寝室へと戻って行った。
「…見えないんだもんなぁ」
 笑いながら言った少女の呟きが真夜中、暗い部屋の中に消えた。

 物語は進む。
 ある日、青年の家に警察官が訪ねてきた。覚せい剤所持・使用の疑いで捜査している人物がいるのだが、この近辺でその者の目撃情報があったと、警察官は早口で青年に説明した。青年は知らないと首を振る。警察官は犯人の特徴を伝え、もし見かけたら知らせてほしいと言った。しかし青年の困り顔を見て、警察官は己の発言のおかしさにやっと気付いた。
「見かけたらも何も…ないですよね。すみません」
警察官は軽く会釈をしてその場を去るが、青年にはその会釈だって見えないので意味がない。玄関の扉を閉め、それから青年は少女に「コーヒーを淹れてよ」と少し大きな声で頼んだ。

 彼女は青年が買い物に出かけている間いつも留守番をしていた。面倒、億劫、いろんな理由をつけては外に出るのを拒んだ。だからあの時以来、コーヒー豆を一緒に買いに行った日以来は二人で外に出たことはない。彼女は家に一人でいる間、彼の家の置物を、高く売れそうだと踏んだものから順に質屋に売りとばしていた。目深に被った帽子とマスクのお陰か、質屋までの道程の中で自分が誰かに気づかれてしまうこともなかった。
 青年の家にはいくつも棚がある。棚の上には壺や陶器の置物が肩を寄せ合うようにして並べられ、引き出しの中には貴金属もたくさん眠っていた。それを初めて見た時少女の心は踊った。凝った装飾が施された陶器、翡翠でできた鳥の彫刻、綺麗な天然水晶の水晶玉、それから指輪や万年筆、ジッポ、記念硬貨や記念切手。比較的運びやすくて高値がつきそうなものから少女は売りさばいた。コンポの隣、その棚の一番上の引き出しに入っていた腕時計なんてこの前持って行ったら数十万円の値が付いた。少女はその金で粉を買った。青年に対して抱く罪悪感は日毎重みを増すが、この粉を溶かして腕に打ち込みさえすればそれだって嘘のように忘れられる。
 彼女はどんどん売った。どんどん打った。彼の盲目を際限なく利用した。美味いコーヒーさえ淹れれば彼は何も言わない。こんなにうまい話は他にない。

 それから数日後、二人の生活は唐突に終わる。ゆっくり時間をかけてコーヒーを啜る青年と、頬杖をつきながらそれをぼうっと眺める少女。二人の退屈で平穏なひと時をインターホンの音が終わらせた。青年が玄関先へ出ると、扉の向こうには先日の警察官と、それから隣には高齢の男が立っていた。
 目の見えない青年のため二人は簡単に自己紹介をする。警察官の隣にいる老人は近所の質屋の店主だった。
「ああ、お久しぶりです」
「こんにちは、あとで線香あげてってもいいかな」
「もちろん。祖父も喜びます」
青年と質屋の店主は知り合いだった。どうやら青年の祖父が生前、この店主とよく交流をしていたようである。
「この家に女の子が一人、いますよね」
二人の会話に割って入るようにして警察官が言う。その口ぶりは既に確信を持っていた。
 質屋の店主は青年に説明する。最近、自分の店に女の子がちょくちょくやってきていたこと。来るたびにそこそこ値のつく年代物を持ってきていたこと。
 そのうちのいくつかに自分は見覚えがあった。しかしどこで見たのかはっきり思い出せない。少し不思議に思いながら買い取りを続けていたが、ある日警察官が捜査中の人物がいるという話をしにやって来た。そしてその人物の特徴を聞いて勘が働いた。恐らくあの女の子のことだろうと思った。警察官にその旨を説明すると、警察官は自分に「次に彼女がやって来たた時はその日にちと時間のメモを、そして売りに来たものを保管するように」と依頼した。
 後日いつものようにやってきた女の子にいつも通りの接客をして、その後に日時のメモと買い取ったものを他の商品とは別に保管した。その日女の子が持ってきたものは腕時計だった。日本製の高価な腕時計だ。自分はその腕時計にもやはり見覚えがある。
 しばらく考え込んで、ああ、と思い出した。これは昔この店に商品として置いてあったものだ。そういえば女の子が今まで売りに来たものは、あれもこれも全て、何十年も昔この店内に並んでいたものじゃないか。
 そして当時それを買っていった客のことも思い出した。もちろんそれは盲目の青年の祖父だ。
 店主は数日後再びやって来た警察官にそのことを話し、そして二人はその足で、今日ここにやって来た。
「女の子がいますね」
警察官は青年に再度尋ね、それから間髪いれずに靴を脱いで家の中へと上がった。
 警察官は手前の部屋から順に少女の姿を探した。リビングにも寝室にも少女の姿はない。台所から水の流れる音がする。警察官はそちらへ急ぎ足で向かう。少女はそこにいた。台所の床に胡坐をかいて、腕に打ち込んだ注射器の針を今まさに抜いたところだった。玄関先から聞こえてきた会話から、少女は数十秒後の自分の未来を悟ったのだろう。だったら残されたこの数十秒で、打たなければと思ったのだ。
「あと二回分残ってんの。だから待っててよ、逃げないから」
顔の前で両手を合わせて少女は警察官に頼み込む。異様だった。少女は口元を緩ませ、焦点の合わない目で笑っていた。
「−時−分、××の身柄を確認、逮捕します」
警察官が無線機に向かって告げ、針の痕だらけの少女の腕を掴み手錠をかけた。
 おぼつかない足取りの少女は警察官に体を支えられ、青年と老人がいる玄関先へと移動させられる。
 青年と少女がすれ違う。青年は目を閉じたまま彼女の方へ顔を動かした。
「幻滅したでしょ」
少女が力なく笑ってそれだけ言う。その言葉に青年が、



「ごめん、ちょっと」
 突然、繋いでいた手が解かれた。太一はそう言って少し慌てた様子で席を立つ。
「どうした?」
小声で尋ねたが聞こえなかったのか、太一は返事をせずに背中を丸めながら通路を移動する。気分が悪くなったのか、もしかすると腹が痛くなってしまったのかもしれない。出入り口の方へ向かう太一の後ろ姿を目で追いかけ、俺はハラハラした。もしかしたら突然その場で倒れてしまうかもしれない。付き添った方がいいかもしれない。そんな考えが頭を過ってしまうほど、太一は余裕のなさそうな表情をしていた。
 結局その場で一人映画を観続ける気分になどなれず、俺は二人分の荷物とポップコーン、飲み物全てを両手両腕に持って太一の後を追いかけた。
 
 通路に出て左右を確認すると、一番奥のトイレに入っていく太一の姿を見つけた。やはり腹を下したのかもしれない。人気のない通路を小走りで進んで、トイレ前に設置されたベンチに一先ず持っていた荷物を置いた。中まで追いかけるのはさすがに気を遣わせてしまうだろうから、落ち着くまでここで待とう。俺は念のため、中から太一が連絡してくる可能性も考えスマートホンを取り出して手に握りながら待機した。
 十五分くらい経っただろうか。中から個室のドアが開く音と洗面台の水が流れる音がして、その数秒後に太一がやっと出てきた。
「た」
 声をかけようとして、けれど最初の一文字以外が声にならなかった。…どうしてそう見えたのか。前方を見つめる太一の瞳が、やけに虚ろに光った気がしたのだ。
 太一は俺の姿に気付くと途端に瞳の色を元に戻して「わ、臣クン!」と驚いてみせた。
「ごめんね、待っててくれたんスか?」
「…大丈夫か?」
「うん、急にお腹痛くなっちゃったッス…でももう平気」
「…」
体調は本当に、もうなんともないのだろう。そしてそれ以外を太一が答えないのなら、これ以上聞く必要もきっとない。
「…そうか、なら良かった」
俺が笑うと太一も笑って、それから「臣クン映画の続き観てきていいよ」と言った。
「俺っち、ここで待ってるッス!またお腹痛くなったらアレだし…。ねっ」
腹をさすりながら言うが、俺は太一の提案に首を横に振った。
「いや、いいよ。…太一がなんともないなら良かった。…本当に」
「…うん」
「…ポップコーン食べるか?」
「あは、えっと…ううん、今はいいや。持ってきてくれてありがとう」
「うん。…じゃあ、手提げの袋もらって、持って帰るか」
「…うん」
「コーラは?まだ結構入ってるぞ」
「…コーラも、だいじょぶ。ありがとう」
「…ああ」
どんな言葉も宙に浮いてしまう感覚がした。うまく説明できない。だけどどうしてか心の中で不安の芽が育つ。太一は今何を考えているのだろう。知りたい。だったら聞けばいいじゃないか。…でもどうして、俺の口は動かない。
「…荷物もありがと!へへ、俺っちコーラ捨ててくるね」
太一がベンチに置かれたリュックを背負ってゴミ箱の方へ歩き出した。俺も自分の荷物とポップコーンを持って追いかける。腹を下してたんだから残りを飲まないで捨てるのは当然だ。それが例え、大好きなコーラだとしたって。蓋を開けて氷と液体を流しいれる太一を見ながら、俺は一人、納得できる理由を探していた。
 そのまま売店へ向かい、テイクアウト用の紙の台座と手提げ袋を貰うと太一は二つのポップコーンをその中に入れて「行こう」と俺に言った。ホットドッグはいいのか、と言いかけて、けれどやめた。わざわざ何度も「いいや」と言わせる必要なんてない。…ホットチリ味がどれくらい辛いのか、少し興味があったんだけどな。
 映画のラストは知らない。あの二人がどうなったかなんて分からない。そんなのどうでもいいことだった。数歩先を行く太一の背中を黙ったまま見つめる。フィクションの世界に思考を巡らせるような余裕など、今の俺には欠片も持てなかった。

 映画館から駅までの道、俺たちの会話はいつもの何倍も少なかったが、途中太一が思い出したように映画の内容を話題に出した。
「あんな話だったんスね。思ってたのと違ったなぁ」
「そうだな」
「女の子、最低だったッスね」
太一の口から放たれた「最低」という一言が、やけに強く耳に残った。太一が、例え役柄に対してだとしても他者をそんな言葉で表現するのは珍しい。
 太一が俺の顔を見ながら、同意を求めるように「ね」と付け足す。俺は女の子に対して特にそんな感情は抱かなかったが、太一が肯定を望んでいたようなので「そうだな」と相槌を打った。太一はそれから目を伏せて「そうだよね」と呟いた。
「…コーヒー」
思い出してポツリと呟くと、太一が隣で「ん?」と言った。
「女の子が淹れてくれたコーヒー。凄く嬉しそうに飲んでたなぁって。彼が」
一番印象に残ったシーンを思い返しながら言うと、太一は煮え切らない様子で「う〜ん」とこぼした。
「でも最後に女の子のこと…知っちゃって。こんな奴に淹れてもらってたのかってガッカリしたんじゃないッスかね。幻滅したと思うけど」
「…」
「ガッカリして、きっと思い返す度に記憶の中で不味くなる」
やけに滑らかに話す太一に、俺はなんと返事をしたらいいか分からなくなった。きっと太一は今、俺の意見が聞きたくて感想を語っている訳じゃない。これは恐らく俺が聞き役に徹する時間だ。だって太一は俺ではなくて前方を見つめたまま話している。さっきからずっと。
「…どうかな。…そうかもしれないな」
当たり障りのない返答をして、俺はただ太一の口から発せられる次の言葉を待つ。
 太一の中には色々な感情と思考が駆け巡っているのだろう。太一は他人に、その過程をあまり見せたがらない。なら見せたくないものを無理に見せろとは俺も言えない。ただ待つことに徹しよう。…だって、それしかできないのだ。
「…ねえ臣クン、電車乗る前にちょっとどっか寄っていかないッスか?ポップコーン一緒に食べようよ!」
俺の方を向いて笑う太一はもう、いつもの太一にしか見えない。俺は妙に不安に駆られた。
 なあ今もしかして、一人で勝手に何かを決めたんじゃないか?決断をして、その結果報告だけを俺にするつもりなんじゃないか?
「…寮に帰ってから食べないか?みんなと食べた方が美味いだろ」
「でも俺っちお腹空いてきちゃった…今すぐ食べたいッス」
腹の辺りをさすりながら太一はそう言う。自分の我が侭で俺を振り回す、という体裁を繕って、彼は「だめ?」と追い討ちをかける。きっと俺がどんな風に申し出を回避しようと、太一は他にも用意しておいた言葉で俺を誘い出すのだろう。…だから、頷くより先にため息が出た。こういう時に彼に敵った試しが一度もない。
「…わかった、じゃあどこかに寄ろうか」
笑うと太一も笑って「あっちに広場あるんスよ!」と、駅の向こう側を指差した。
 はたから見ればきっと分からない。俺たちの間をユラユラと漂う違和感も、太一の笑顔がとびきり上手な演技だということも。

 太一が向かった先は駅と大型商業ビルの間に設けられた広場だった。立体通路から数段階段をくだったところに休憩できるスペースがあり、そこに誰でも自由に使っていい椅子とテーブルが何脚か置いてある。太一は一番奥のテーブルまで歩いていって「臣クンこっち!」と、元気に俺を手招きした。
 もうすぐ夕陽が落ちる。時刻は17時を過ぎたところだった。
「臣クンどっちから食べる?キャラメルとのり塩」
テーブルの上にポップコーンを入れた手提げの袋を置いて太一が俺に尋ねる。
「…どっちでもいいよ」
上手に、明るく答えてやれなかった。悪いなと心の中で思いながら俺も椅子に座ると、太一は特に気に留める様子もなく「じゃあキャラメルにしよっかな」と言って甘い方のポップコーンを袋から取り出した。
「…あのね、俺っちちょっと前から思ってて、言いたかったことがあるんスけど」
もう本題に入ってしまうらしい。ここに辿り着くまでの間にきっと伝える決心を固めていたのだろう。何も分からない俺には身構える術がない。
「…うん」
向かいに座る彼の、赤い髪、深緑色の学生服、照らす夕焼け。それら全ての色彩をゆっくりと眺める。…綺麗だな。そんなことをぼんやりと思った。俺の意識は逃げるようにどこか遠いところへ行こうとする。だめだ。心の中でかぶりを振って、慌てて連れ戻した。
「これから先さ、臣クンが俺を好きじゃなくなったり俺以外の人のこと好きになっても、俺、全然いいからね」
「…」
「臣クンが俺っちのこと好きでいてくれてるの知ってる。俺もホントに臣クンのことが好き。でも、この先それがもし変わっちゃっても、俺絶対責めたりしないよ。だからその時は臣クンも自分のこと責めないでね」
「……」
「俺っち、今が奇跡みたいな状態なんだってちゃんと分かってるッス!色々わきまえてるつもり!だから臣クン、どんなことでも我慢したり無理したり絶対にしないで」
一体なんのつもりだと、今すぐ問いたい。俺の気持ちを、俺自身のことを馬鹿にしているのかと思った。
 恐らく太一は思いつきで言ってるわけじゃない。これを言わなければいけないと思った経緯もきちんと彼の中には存在しているのだろう。だけどそれを踏まえて考えたって、あまりに悲しい。悲しくて、腹が立つ。
「うんって、言ってほしいな」
「…」
「ねえ臣クン。うんって、言ってくれるだけでいいんだ。別れようとか、距離おきたいとか、そんな話じゃないッスよ」
「…そんな話に、聞こえるけどな。俺には」
太一のように平静を装えない。どうして彼は穏やかに笑っていられるのだろう。…ああもしかしたら容易く装えてしまうほど、彼にとってこの話題は取るに足らない内容なのかもしれない。
「やだなぁ臣クン。俺っち、だから臣クンのこと大好きなんだってば」
「…」
「大好き臣クン。ホントだよ」
どうして喜べないんだろう。どうして太一の言葉に俺は「終わり」を、感じてしまうんだろう。
「…うんって、言いたくないよ」
「どうして?」
テーブルの向こうで太一が優しく俺に問う。お腹が減ったと言っていたくせに太一が一つだって食べようとしないから、テーブルの上のポップコーンは一向に減らない。
「どうしてお前がこんな話をするのか分からない。…分からないまま頷きたくないんだ」
太一は俺の言葉に「そっか」と相槌を打って、困ったなという顔をしながら目線を上に泳がせた。これではまるで俺が駄々をこね、太一がそれに仕方なく付き合っているようだ。
「太一」
「うん?」
「俺の気持ちはこれからだって変わらないよ」
「…うん、わかった。その気持ちはしっかり受け取っとくッス」
「ずっと太一のことが好きだ」
「へへ。嬉しいなあ」
届かない。どうして届かないんだろう。俺は嘘など一つも吐いていないのに。なのにどうして太一は、こんなにも受け取ってくれないんだ。
「映画を観てなにか思うことがあったんだろ?そういうの、全部とは言わないから…俺にも教えてほしい」
「それなら、さっきここに来るまでに全部言ったッスよ」
「そうじゃない。太一の中でなにか決めたことがあるんだろう?それを、勝手に一人で決めて、俺には何も話してくれないで…それで「頷け」って言われたって、できるわけない」
責めたい訳じゃない。そうではなくて俺はただ知りたいのだ。なんだって聞かせて欲しいんだよ、お前が感じたことをお前の言葉で。なあ太一、そう思ってしまうのは決して、行き過ぎた願いではないはずだろう?
 けれど太一は困ったように笑って目を伏せるだけだった。
「…俺いつか、臣クンに幻滅されるよ」
「…どうして」
「あは、言ったら今幻滅されちゃうッス。…言わない」
「太一、俺は」
「ねえお願い。臣クン、うんって言って」
「…」
「そしたら俺、ちょっと楽になる。お願い」
太一の切実な表情に胸が締め付けられる。今、太一が感じている苦しみを、俺が頷くだけで和らげてやることができるんなら。もしも本当にそうなら、もう俺は言いなりになってしまった方が良いのだろうか。
「…今、太一がどうして楽じゃないのか聞いちゃいけないのか?」
真っ直ぐ太一の瞳だけを見つめ、俺は聞いた。
 なあ太一。だって嬉しいことや楽しいことが、日々の中には沢山あるんだって教えてくれたのはお前だろう?その一つ一つに、一緒に黄色いシールを貼ろうと笑い合ったのに。なのにお前は、悲しいことや辛いことは俺に見せてはくれないのか。…黄色いシール以外は、俺に見えないところで勝手に貼ってしまうのか。たった一人きりで。
「…うん。聞いちゃダメッス」
笑って答える太一を見て悟る。ああなんて遠い。どんな言葉を投げかけようと、きっと今は届かない。
「……わかった」
分からない。分からないことはたくさんあるよ。でも俺は分からないまま頷かなければいけないんだな。
 …なあ、そんなのあまりに理不尽で勝手だよ、太一。
「…頷くよ。それでお前が楽になるなら」
視界の先にある自分の手が、やけに冷えていて上手く動かせない。太一が「臣クンありがとう」と言ったが、俯いたままの俺にはその時の太一の表情がどんなものだったのか分からなかった。

 その後の帰路、頷いてしまったことを俺はとにかく後悔していた。漠然とした確信が胸の中を占める。頑なに拒めば良かった。なんなら答えないまま逃げ出してしまえば良かったんだ。後から後から湧いてくる後悔に、帰り道の間ずっと舌打ちしたくなった。
 寮までの道、太一は何事もなかったみたいに学校や稽古中にあった事を楽しげに俺に話した。俺は一つずつに相槌を打ちながら、募る不安を隠しきれずに俯く。
 今日あの瞬間から、俺たちの何かがカウントダウンを始めたような気がしてならない。
 ただ、怖いと思った。









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オフ本にしたいなと思っているお話のサンプルです。
サンプルは、全部で4章あるうちの1章と2章です。



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