どうしてキラキラしてるんだろう(2)




 案の定、太一の態度はその後も自然だった。みんなといる時は勿論、部屋に二人きりでいる時でさえ言動に違和感はない。少し迷いながら、それでも今まで通りに頭を撫でたりすると気持ち良さそうな顔をして「臣クンの手大好きッス」と、言葉を返してくれる。
「…太一好きだよ」
「うん、俺っちも臣クン大好き」
何一つ変わらない。腕の中に引き寄せた温もりも、胸から伝わる心臓の音も。
 ゆっくり顔を傾けると太一も目を瞑ってそれに応える。キスをして、また背中に腕を回す。
 言いようのない不安は、何一つ変わらない日々の中で少しずつ薄れてはいった。あの日漠然と感じた恐怖にも似た感覚は、胸の奥底に留まって静かに沈殿している。…けれど消えたわけではない。確かにそこにある。ずっと、そこに存在している。

 数日後、写真部の活動中に豊川から声を掛けられた。二人で暗室に向かう途中のことだった。
「伏見観た?映画」
「…ああ…」
俺の顔が途端に虚ろになったものだからビックリしたのだろう。豊川は少し焦りながら「うそ、合わなかった?」と言った。
「…いや、そんなことないよ。いい映画だった。お前が好きそうな作風だなあと思いながら観てたよ」
取り繕いながら笑って答えると、それで少し安心したのか豊川は隣で分かりやすく息を吐いた。
「なんだビックリした。でしょ、いかにも俺好きそうでしょ」
「ああ。音楽も良かったな」
「そうなんだよ、俺今度もっかい観に行こうかと思って」
「そうか。よっぽど好きなんだな」
「だってあの終わり方良くない?最後の15分くらいずっと泣いてたもん俺」
豊川の言葉にすぐ返事が出来ず「あー…」と妙な間を入れてしまった。豊川はそんな俺を不思議に思ったのだろう。「ん?」と首を傾げた。
「…いや、最後まで観てないんだ」
「えっ、そうなの?なんで?」
「…えーと…途中で腹を下しちまって」
豊川は少し残念そうな表情を浮かべて、それから「そうだったんだ」と相槌を入れた。
「なんだそっか、最後のとこ伏見と話したかったんだけどなー」
「…すまん」
「いやいや謝るこたないけどさ。どのへんまで観れたの?」
「女の子が警察に連行されるところまで。主役の男に「幻滅しでしょ」って言ったところだったかな」
そう答えるとすかさず「そっからがいいとこなのに!」と言われてしまった。豊川は少し熱っぽく語る。
「それじゃ主役の男が「なんも見えてないただのお人好し」って印象しかないっしょ?違うんだよな〜、そっからがメチャクチャ良いんだよあの映画。ああだからcan'tじゃなくてdon'tだったんだーって分かるわけ」
「そうなのか?そんなに印象が変わるような展開が待ってるのか」
「そうだよ!だから俺伏見に観てほしくてさあ。まあまた機会あったら観に行ってよ。そん時は最後までさ」
豊川の言葉に曖昧に頷いて、俺は小さくため息を吐く。
 もう一度あの映画を観る気には、とてもじゃないがなれない。隣で手を繋ぎながら観ていた太一のことを、そしてその日の帰りに太一に言われたことを俺は思い出してしまうだろうから。映画を観ながらきっと何度も「この瞬間に太一は何を思っていたんだろう」と考えてしまう。内容に集中できるわけない。
「…もし、また時間が作れたら観てみるよ」
豊川にそう言いながら、なんとか気持ちを切り替えようと試みる。今日は夕方から秋組の稽古がある。いつも通りの自分を装わなければ。

 寮に帰り自室に荷物を置きに行く。太一の姿はない。制服や鞄は置いてあるので、もう寮に帰ってきてはいるのだろう。
 なんだか晴れない気分のまま自分のPCデスク脇に鞄を置く。稽古は数時間後に始まる。それまで何をして時間をつぶそうかと考え、そうだ、この前幸からフルーツが入ったゼリーが食べたいとリクエストを貰って、果物とゼラチンを買っておいたんだと思い出す。今から作って冷やしておけば、稽古の後秋組のみんなにも振舞えるかもしれない。
 思い立った俺は自室を後にして談話室の方へ向かった。
 談話室にはソファーに三角と密さんが、そしてテーブル席には万里と太一がいた。三角は密さんの膝枕役をしながら録画した教育番組(図形の不思議・三角形編という番組である)を熱心に観ているようだ。万里と太一は数冊の教科書とプリントをテーブルの上に広げている。恐らく太一の学校の宿題に万里が付き合ってやっているのだろう。万里の「だぁから」という言葉が聞こえるたび、そのすぐ後に「わかんない」という太一の言葉が続けて聞こえた。
 少しホッとした。太一はプリントに夢中なようだ。これなら自然に程よい距離が保てるだろう。
「臣、今から何か作んの?」
万里が机上から顔を上げてキッチンに入った俺を見る。
「ああ、ゼリーを作ろうかと思って。幸からリクエストがあったんだ。万里も良かったらあとで食べてくれ」
冷蔵庫の中から果物を取り出して言うと、万里は「食べる食べる」と笑った。いつもは焼き菓子を作ることの方が多いから、こういうデザートを出すのは久し振りかもしれない。幸やみんなの口に合うことを願う。…太一も、喜んでくれるといい。
「なあ臣、こいつがさっき英語のプリントでとんでもねえ和訳したんだけど教えてやろっか」
どうやら太一の手元のプリントの教科は英語らしい。万里は片肘をつきながら少し意地の悪い顔で笑った。
「はは、気になるな。聞かせてくれ」
「ワンスアポンアタイムから始まる英文なんだけどさ。こいつ初っ端から「犬と林檎の時間」って」
「万チャン!人の失敗を面白がるのはいただけないッスよ」
「いやお前のこれ失敗っつうか逸話レベルだから。広めるべきだわ」
「かぁ〜っ、ホント意地悪。左京にぃにチクっとこ」
「おっさんに言ったら「宿題くらい自分でやれ」って、まずお前が怒られんぞ」
二人の会話を笑って聞きながら果物に刃を入れる。キウイの次はオレンジを、その次に巨峰の皮を剥こう。俺は自分の手元に目線を落としたまま、太一と万里の他愛無い攻防に耳を傾けていた。
「もういいから万チャンこの先のところ教えてよ、こんな単語習ったことないよ俺」
「だぁからお前、これさっきやったやつの過去分詞だっつうの」
巨峰の皮剥きに差し掛かったところで、万里が「そういや」と思い出したように言った。
「お前らがこないだ観に行った映画、クラスの奴らが絶賛してたぜ」
…一瞬、本当に一瞬だけ手が止まった。気づかれないまま何ともない振りをして、俺はまた皮むきの作業を続ける。
 恐らく太一が、俺たちが映画を観に行ったということを話していたのだろう。…それにしても不意打ちだ。危なかった。今二人のすぐ隣にいたら「どうした?」と聞かれてしまっていたかもしれない。
「へえ、そうなんだ。そういや臣クンのお友達サンも絶賛してたんスよね」
太一が万里の言葉を受けて、俺にも会話のパスを出した。
「ああ、そうだな。そいつに教えてもらって観に行ったんだ」
上手くパスを繋いで万里と太一の二人にその先を託す。もうこの話題には、正直あまり参加したくないと思った。もう一度話題を振られてしまわぬよう、俺は手元の包丁と果物を見つめ目線を固定する。
「へえ。クラスの奴ら、役者目当てで良いって言ってるだけかと思ったけど違えのかな。レンタル始まったら借りて観てみっか」
「うん、良い映画だったッス!ねえ、そういえば臣クンのお友達サンって普段から映画好きな人なんスか?」
てっきり自分はもう会話の外に出られたと思っていたのに、もう一度引き戻されてしまった。…どうして今そんなことを聞くのだろう。太一の意図がよく分からない。
「…ああ、そうだな。映画とか小説とか好きみたいだ。たまにオススメを教えてくれたりするよ」
「へえ、そうなんだ!写真部の人なんスよね。気が合う人が同じ部にいると楽しいッスねぇ」
「…そうだな」
じわじわと湧き上がる、この嫌な感じの正体は明確だった。それを連れてくるのが太一だということにも尚更気が滅入る。
「一緒に映画観に行ったりしないんスか?今度はその人と二人で観に行くといいッス!」
「…」
いよいよ言葉が返せなくなり、俺は黙ったまま太一を見つめる。キッチンのカウンター越し、太一と目が合う。
 …ああきっと俺は今、よほどひどい顔をしているんだろう。俺を見る太一が、ずいぶん驚いた顔をしていた。
「……」
数秒の時が流れて、言葉は出ないまま悲しみが広がる。なあ太一、どうして笑いながらそんなことを言うんだ。やめてくれよ。
「…おい、そこ。訳違ぇけど」
万里が頬杖をつきながらそう言って、俺も太一も慌てて顔を元に戻した。
「えっ、どこどこ?」
「ここだよ、これ全部こっちの主語にかかってんだよちゃんと読めって」
「う、読めないから助けてもらってんスよ万チャン…」
二人が再びプリントに手を付け始めたので俺は一人こっそりと、小さく息を吐いた。
 いけない。カンパニーの皆に気づかれては駄目だ。一を気付かれたら十ボロが出る。心配され気にかけられたら、きっと、もっと普段通りの自分を装えなくなってしまう。
 皮むきを終え、果物を均等に切り分ける。全員の人数分カップを取り出してカットした果物を順々に入れていく。最後に水で溶かしたゼラチンを注ぎ、銀色のトレイにカップを並べ冷蔵庫に閉まった。作業はこれで終わりだ。あとは冷えて固まるのを待てばいい。
「じゃあ俺はこれで。稽古までに終わるといいな、太一」
ちゃんと、上手に言えたと思う。俺は笑顔を崩さないままキッチンを出て、談話室を横切った。
「…おみ?」
ソファの後ろを通って扉を開けようとした時、三角が背もたれから顔だけ覗かせた。こちらを振り返り俺を呼び止める。
「ん?なんだ?」
「どうしたの?どっか痛いの?」
三角は心配そうな顔で俺を見ている。内心ドキリとしながら、俺はそれでもしらを切ることに専念した。
「はは、どうして?そうだ、三角のフルーツゼリーの果物、三角形に切っておいたからな」
三角は途中まで眉をひそめながら俺を見ていたが、三角形という単語を耳にするなり途端に花を咲かせた。
「ほんと〜?おみのゼリー楽しみ。ありがと〜!」
「ああ、でも巨峰だけは三角形に切れなかったんだ、大目に見てくれると助かる」
「うん、いいよ〜!巨峰も大好き」
「うん」
三角に笑顔で頷いて、今度こそようやく扉を開けて廊下に出る。
 一人になった瞬間、長い溜息が出た。だめだ、秋組どころか他の組のメンバーにまで心配をかけてしまった。器用にやれない。何でもない振りができない。これからこんな瞬間を何度もやり過ごさなければいけないのだろうか。
 …無理だ、できないよ太一。
 なあ、どうして俺に他の誰かを充てがったりするんだよ。俺は一体それを、どんな気持ちで聞いていればいい。
 俺のことを好きだと思ってくれているなら、そこに本当に嘘がないなら、もうこんなことはやめてほしい。お願いだ、太一。…苦しいよ。

 その日の夜、秋組の稽古内容はお互いのペアエチュードを見せ合うというものだった。万里がホワイトボードに書いたあみだくじでエチュードのペアを決めた。十座と万里、太一と左京さん、最後にもう一度万里とそして俺のペアでやることになった。組み合わせの結果にホッとしていたのは、きっと太一も同じだっただろうと思う。
 稽古場はやや暑く(左京さんがエアコンの設定温度を2度上げたためである。万里と太一が不服を申し立てたが呆気なく却下されていた)、汗が何度も体を伝った。
 万里と十座が半ば本気で喧嘩をしながら、俺たち三人の前でエチュードを繰り広げる。俺と太一は体育座りをして、左京さんは立って腕を組み、二人のエチュードの観客になった。
 設定は真夜中、十座の部屋に盗人として万里が現れる、というものだった。
「コソコソと物取ってんじゃねえぞキツネ顔」
「うるせえテメェはいびきかいて寝てりゃいいんだよ大根野郎」
二人はまるでアクションシーンのように本気でやり合っている。果たしてこのエチュードはちゃんと収拾がつくのだろうか。
「…はぁ、ったく…」
隣で立ち見をしている左京さんも同じことを思ったのだろう。俺は思わず苦笑した。
その時だった。左京さんとは反対側、俺の隣で同じように二人を見ていた太一が、そっと俺の名を呼んだ。
「…臣クン」
俺は少しだけ身構えながら相槌を打つ。
「…うん?」
「あの、さっきはごめんなさい…」
「ん?さっきって?」
「お友達サンと二人で観に行ったらいいって、俺が言ったやつ。…やだった?」
太一が泣き出しそうな顔で俺を見ていた。どうしてか俺もその表情につられそうになって、だから慌てて笑顔を作り太一に笑いかけてやった。
「全然…って言ったら嘘になるけどな。いいよ、謝らなくて」
「…うん」
太一は小さく頷いて、両膝の中に顔を埋めてしまった。その膝の中に埋もれたお前の感情を、俺はやっぱり見せてほしいと願ってしまう。小さな願いはまた叶わないまま、俺はそっと太一の頭を撫でた。
「…臣クンは優しいから」
太一が膝を抱え俯いたまま言う。
「…でもおとぼけサンなところもあるから」
おとぼけさん。初めて言われた言葉だと思う。そうか俺はとぼけているのか。自覚はないが気をつけよう。
「…俺がどんなこと考えてるか、きっと分かんない」
「…」
太一の言葉に初めて、俺はその時苛立った。
「それは、太一が見せてくれないからだろう」
そう反論したが、太一はそれでも顔を上げないままだ。
「見せたら臣クン幻滅する。だって俺想像できるもん。臣クンが信じらんないって顔して俺を見てるとこ」
「…勝手に想像しないでくれないか?太一が一人で話を決めてるみたいで、正直ずっとモヤモヤしてるよ、俺は」
太一はそれから数秒間押し黙り、しばらくしてまた、小さく声を漏らした。
「…臣クン、似てたよ」
何にかかった言葉なのか分からず俺は首をひねる。太一の言わんとしていることが、やっぱりだ。また俺は分からない。
「…なにに?」
尋ねると、太一はそこでようやく顔を上げて俺と目を合わせた。太一は笑っていた。何かを諦めるような顔で。
「映画の、盲目の人。…そっくりだよ」
全く予期していなかった言葉が太一の口から放たれる。俺が、盲目の青年と似ている?どこが似ているのだろう、自分ではまるで見当もつかない。
 けれど一つだけ分かることがあった。太一が言わんとしていることは、つまり俺が「なにも見えていない」ということだ。
「…なあ、太一」
どう好意的に受け取ったって、だって今のは、そういうことだろう?
「俺を馬鹿にしてるのか?」
「え、違うッス、してない」
「してるよ、何も見えてない馬鹿だって」
ずっと底の方で積もっていた不安が一気に撒き散らされるような感覚だった。塵の一つ一つが苛立ちに変わる。
「違う臣クン、俺そんなこと思ってない、違うよ」
「ああそうか。そうだなまた見当違いなこと言ってるんだろうな、馬鹿な俺には太一の思ってることが分からないから」
「違う、ごめんね臣クン、そうじゃなくて」
太一の顔が歪む。かわいそうな人だと俺を憐れんでいるのかもしれない。そんなのはまっぴらごめんだと思った。
 …腹が立つよ、太一。お前も俺の気持ちを分かろうとは、だって、少しもしてくれないじゃないか。
「ねえ臣クン、俺が言いたかったのはそういうことじゃ」
「もういい黙ってくれ」
吐き捨てるように言ったその台詞は、自分が思っていたよりもずいぶん大きな音量だった。
 太一は目を見開いたまま固まり、隣にいた左京さんは勿論、エチュードを披露していた十座と万里も動きを止めこちらに注目した。まずいと思い口元を押さえたが、もうそんな行為は何の意味も為さなかった。
「…てめぇら」
左京さんがじっとりとこちらを睨み、低い声で言った。
「今は休憩中じゃねえんだよ、なめてんのか、ああ?」
「な、なめてないッス」
太一が咄嗟に言葉を返したが左京さんの目は依然鋭いままだ。俺も一足遅れで弁解を試みる。
「すみません、稽古中にでかい声で急に。俺が集中してなかったから」
「ち、違うッス、俺っちが!俺っちが私語始めちゃって、臣クンを付き合わせちゃったんス、ごめんなさい!」
「いや太一じゃないよ。俺が声の大きさも考えなしに怒鳴っちまったから」
「違う、俺っちが」
「いや太一、俺だよ、俺が」
「しのごのうるせえ!黙れ!!」
左京さんの怒号が稽古場中に響き、しばし俺たちは揃って口をつむぐ。10秒くらい経った頃だろうか、最初に口を開いたのは万里だった。
「…んじゃまあ、休憩でも入れて仕切り直すか」
万里の一声に俺は(恐らく太一も)救われた気になったが、左京さんは眉間にしわを寄せたままで、頷こうとしない。
「つうか無駄に暑いんすわ、喉乾いたんで水分補給させてくださいよ」
万里がそう続けると、十座もそれに頷いて額の汗を服の裾で拭った。
「俺も、水分補給してえっす」
左京さんは溜息を吐きながら腕組みをし、それから「仕方ねえ」と呟いて万里と十座の申し出を承諾した。
「じゃあ今から10分だ。休憩の後に俺と七尾のエチュードから始める」
なんとか事なきを得たかと俺は小さく息を吐いたが、次の瞬間、左京さんに再び睨まれたので少し肩が上がってしまった。
 左京さんは俺の方へにじり寄り、それから小さな、けれどドスの効いた声で一言告げた。
「稽古後、少し残れ」
「……はい」
ああ、今夜はこってり絞られてしまうだろう。…でもいい。その間は反省することだけに集中できる。
 休憩後からは太一と左京さん、それからその後に俺と万里の組み合わせでエチュードを行った。俺はなんだかいつものように思い切りやれたとは思えなかった。万里が途中助け舟を出してくれ、俺は何度もそれに乗せてもらった。不甲斐ないな、あとで謝らなければ。
 太一は、はたから見ているだけでは特に違和感を感じなかった。けれどエチュード終了後左京さんに何か注意されていたから、俺と同じように本領が発揮できていなかったのかもしれない。
 決められた稽古の時間が終わり、万里がホワイトボードに書かれたあみだくじや互いのエチュードへの意見、改善点などの箇条書きを消していく。
「んじゃーお疲れ、今日の秋組の風呂時間は○時〜○時な。解散」
万里の言葉を聞き終えた後、俺と左京さん以外のメンバーが退出していく。みんなの後ろ姿を見送っている最中、万里が何かを思い出したのか「あ」と言ってこちらを振り返った。
「ゼリー。食っていいの?」
俺は慌てて頷いた。今の今まで忘れていたのだ。
「ああもちろん。フルーツが三角形にカットしてあるのがあったら、それは三角のだから残しておいてくれ」
「ん?臣さんのデザートがあんのか」
十座も期待した様子でちらりと振り向く。その様子が可愛くて、俺は小さく笑いながら「ああ」と答えてやった。
「フルーツゼリーな。人数分よりちょっと多く作ったから、もし余ったら二個食べていいぞ」
「まじすか、あざす」
「甘やかすなよ、こいつそのうち虫歯だらけになんぞ」
万里の言葉に十座がすかさず「あ?なる訳ねえだろ、毎日歯磨きしてる」と返すから、万里も条件反射で「あぁ?」と返す。なるほどどうやら二人の言い合いは息をするように起こってしまうらしい。こういうのも「阿吽の呼吸」と言うのだろうか。
「言葉のあやだよテメエが毎日バナナ味の歯磨き粉で歯ぁ磨いてんのは知ってるわボケ」
「今は他の味のやつだ、バナナはもう使ってねえ。適当なこと言ってんじゃねえぞ」
「テメエが何味の歯磨き粉使ってるかなんてクッソどうでもいいわ!」
出入り口付近で白熱する二人を「まあまあまあ」と言いながら太一がなだめる。こちらを振り返らなかった太一の顔がその時ようやく見えたので、俺は少し迷ったが万里たちと同じように声をかけることにした。
「太一も、ゼリー良かったら食べてくれ」
それだけ言うのも勇気が必要だった。自分がひどく格好悪い奴に思えてしまう。
 太一は笑って頷いてくれた。
「…うん、ありがとう!えへへ、冷たいもの食べたいなって思ってたから、超嬉しいッス!」
ああどうして俺は、太一の笑った顔を見ただけで今、泣きそうになったんだろう。
「…うん」
今頷いた俺の声は、太一には聞こえなかったかもしれない。けれど俺の隣に立つ左京さんだけには聞こえたのか、左京さんもまた俺だけに聞こえる声で「ったく」と呟いた。

「早速本題に入るが」
「はい」
 二人きりになった稽古場、俺と左京さんは窓のある壁の近くでパイプ椅子を二つ広げ、向かい合わせにして座っていた。ここから左京さんの説教が始まる。正座でないだけ、今回はいつもより怒りのボルテージが低いのかもしれない。
「仲直りの目処は立ちそうなのか?」
「…ん?」
声が、思っていたよりも随分と優しい。てっきり怒っているのだとばかり思っていたが、どうやら左京さんは心配してくれているようだった。顔を上げると、ため息を吐きながら左京さんは俺をじっと見つめていた。
「…すみません、心配かけちまって」
「謝れって言ってんじゃねえんだよ。何があったかは知らねえが…多分初めての喧嘩だろう?お前ら」
「…はは、そうですね…」
喧嘩だったら良かった。喧嘩ならもっと言い合える、きっと十座と万里みたいに。だけど太一は言ってくれないのだ。何も言ってはくれないまま、俺と距離を取ろうとしている。その距離の取り方は絶妙で、だからきっと俺にしか分からない。何がどうなったという具体的な例もないから、誰かに説明することも相談することも、うまくできないままだ。
「七尾になにかされたか」
左京さんが腕を組みながらそう言った。少し意外だ。「七尾になにかしたのか」と聞かれる方が自然ではないかと感じたからだ。
「…そんな風に見えますか?」
力なく笑いながら聞くと「まあ、そうだな」と呆気なく肯定されてしまった。
「お前の方が、余裕ねえツラしてるからな」
「…はは、そうですか。かっこ悪いっすね」
結局こうだ。いつだって上手くやれないんだ俺は。不器用で要領の悪い自分に嫌気がさす。
「…言ってやれ、もっと」
左京さんの言葉の意図が分からず俺は首を傾げる。
「嫌だとか、やめろとか。さっきみてえにちゃんと言え。お前に足りねえとこだ」
「…そう、ですかね」
「そうだよ、さっき七尾に大声出してるお前を見て、なんだそうやって言えるんじゃねえかと思った。もっと言やあいいんだよ。内に溜めたりしねえで」
左京さんがそんなことを思ってくれていたなんて思わなかった。稽古を中断させて皆に迷惑をかけてしまったのに。優しい人だ。
「…俺は」
「ん?」
「…太一の考えてることが、わからなくて」
誰にも言えずにいたことを初めて人に口にした。言葉にしてみれば簡単なその事実は、けれどずっと俺の中を占拠して不安を駆り立て続ける。
「はあ、それで?」
「え、いや、だから…それについて凄く…俺は、悩んでるというか」
「じゃあなんだ、逆に七尾はお前の考えてることが分かるってことか?」
そう問われ、俺は返す言葉を失った。だってついさっき「太一だって俺の気持ちを分かろうとしない」と、腹を立てたばかりだったから。
 俺ばかりが隠されて、分かっていなくて、どこかフェアじゃないような気がしていた。けれどそれは違うのかも知れない。太一だって俺と同じように、俺の考えていること全てを分かっている訳ではないんだ。
「分からねいと悩むくらいなら聞きゃあいいだろ」
「でも、聞いても太一が「答えたくない」って」
「じゃあお前にはまだ言えねえと思ったんだろ。お前が腹割って話してねえから」
左京さんは俺の言葉を遮り、眼鏡のレンズ越しにこちらをまっすぐ見た。俺はその視線に少したじろぎながら、けれど言葉を返す。
「俺は何でも、全部太一に言ってます」
「そうか。じゃあそれを七尾に言ってやれよ」
「言ってますよ」
「何で七尾の考えてることを知りてえと思うのか、テメエの気持ちもちゃんと伝えてんのか?」
「何で知りたいのかって、そんなの…」
そんなの、太一が好きだからに決まってる。太一のことを誰よりも知りたくて、誰よりも知っているのは俺であってほしいと思っているからだ。声に出さず胸の内に留めた思いは、幼稚な姿をどんどん露わにしていく。
 だって俺は、本当はどうでもいい。太一がまだ俺に見せていない「幻滅するようなこと」が、例えどんな内容だって構わないと思ってる。太一が、好きだ。太一のいいところも悪いところも、だって、すべて彼を形成するそれぞれ大切な一つだ。そうだ俺にとっては、それが太一の中から生まれたものである限り善悪なんてどうでもいい。太一自身がそれに嫌悪しているなら俺がその分愛してやろうとさえ思う。誰かに盲目だと言われてもいい。正しくなくたっていい。全部知りたい。全部教えてほしい。そうして俺は太一の中から生まれた全てを、誰より先にこの両腕で抱きしめてやりたいのだ。そう、俺だけが。その役が俺だけでなければ、俺は嫌なのだ。
「…自分でも呆れるような言葉しか、出てこないっすね」
どうして知りたいのか正直に言ったら、太一は俺を見損なうかもしれない。太一の中の俺の人物像と、本当の俺はかけ離れている気がしたからだ。…がっかりするだろう。だってまさか、どうでもいいだなんて。
「伏見。誰だってな、自分の手札しか見れねえんだよ」
「はい?」
「自分の手札が不利だと思ったらなかなか相手に見せる勇気なんてねえだろう。伏せたまま試合を降りる奴だっているかもしれねえ」
「…」
左京さんの言わんとしていることが、なんとなく分かる。俺にも理解できるよう言葉を選んで伝えてくれているのだろう。淡々と語られるその言葉たちを、俺はじっと聞いた。
「…お前らが二人とも伏せたまま降りたら、まあ、そのまま試合は終わっちまうだろうな。それでいいなら何も言わねえが」
「…嫌です」
「…ふ。だったら」
左京さんが笑う。足を組み替えた時に鳴ったパイプ椅子の軋む音が、稽古場に小さく響いた。
「お前から手札を見せてやれよ。できんだろ」
当然のようにそう言う左京さんに、ほんの少しだけむっとしながら「どうして俺からなんです?」と聞くと、左京さんは分かりきった答えのように「そりゃお前の方が年上だからな」と言った。
「…はは」
「あぁ?」
「いや、いきなり年齢の話が出てくるんですね」
「なんだ、なにがおかしい」
「だって、それまではずっと左京さんの話に「なるほどなぁ」って思えてたのに。突然、結論が横暴になるから」
「そんなことねえだろ。上の奴が下の奴に示してやんねえでどうする」
「あはは、そうですね」
俺が笑っているのが不服なのか左京さんは眉間に皺を寄せていたが、ため息を吐いて「ったく…」とこぼす以外は、何も言われなかった。許してくれたのだろうと思う。
「とにかく、次の稽古には私情持ち込むんじゃねえぞ。分かったな」
「はい、わかりました」
俺が笑顔で頷くと、彼は満足した様子で立ち上がり、パイプ椅子をたたんだ。
 左京さんの優しさが身に染みた。俺に背中を向ける左京さんへ「ありがとうございます」と言うと、左京さんはほんの少しだけ振り向いて「おう」と、ぶっきらぼうな二文字を返してくれた。

 稽古場から出て談話室へ向かうと、ソファのはす向かいに十座と万里が、それからテーブルには東さんと紬さんが座っていた。みな俺の作ったゼリーを食べてくれている。問題なくできていたようで、東さんと紬さんが「美味しい」と俺に声をかけてくれた。良かった。要望があればまた作ろうと思う。
 見渡すが、どうやら太一はここにはいないようだった。てっきり万里や十座達と一緒に寛いでいるかと思ったのに。
 冷蔵庫を開けて飲み物を取り出し、それを持ってソファーの方へ移動する。万里の隣に座ろうとすると、俺に気付いた十座がゼリーを頬張りながら「いただいてるっす」と軽く頭を下げた。
「ああ。どうだ?甘すぎなかったか?」
「もっと甘くてもいいっす」
「はは、そうか。次作る時の参考にするよ」
ペットボトルのスポーツドリンクを喉に流して一息つく。ぼんやりとテレビCMを観ながら、この後どうやって太一と話そうかと俺は考えていた。
「臣お疲れ。おっさんにこってり絞られたんだろ?」
テレビとは反対側へ視線を向けると、少し意地の悪い顔で笑う万里が俺を見ていた。
「いや、怒られなかったよ」
「は?うそ何で」
「逆に心配されちまった。左京さん、優しいよなあ」
「んだよ。リーダーらしくアフターケアでもしてやろうと思ったのに」
そう言うが、万里の表情は穏やかだった。きっと彼も同じように俺を心配してくれていたのだろう。ありがとうと言うと、別に?と返ってくる。いつもと変わらない返事が心地いい。…みんな、本当に優しい。
「…あー…太一は?一緒じゃないのか?」
俺が聞くと、万里は「んー」と言ってから「トイレじゃね」と答えた。
「さっきまでここで一緒に食ってたんだけどな」
「…そうか」
避けられているのかもしれない。その考えが頭を過ぎり少し俯くと、向かいのソファに座る十座が「臣さん」と、俺の名前を呼んだ。
「太一、泣いてたっす」
十座の言葉に驚いて顔を上げる。しかし俺が何か言う前に万里が舌打ちをする方が数秒早かった。
「テメエ言うなよ、馬鹿じゃねえの」
「なんでだ、太一のそういうのは臣さんが一番分かってやれるだろうが」
「もういい、お前話になんねえ。どっか行っとけ」
「ああ?まだ食ってんだよ。テメエこそどっか行け」
「俺は臣と話があんだよボォケ!」
二人の言い合いがローテーブルを挟んで繰り広げられる。どうして言い合いになると分かっていて、それでも二人はこうやって同じ場所にいるのだろう。本当に仲良しだなと微笑ましい気持ちになった後、俺は慌ててかぶりを振り二人の仲裁に入った。
「うんうん、言いたいことは分かった。ほら万里、ソファに座ろうな」
腰を浮かせて臨戦態勢に入っていた万里をなだめると、あからさまな舌打ちをしながらそれでもなんとか元の場所に腰を下ろしてくれた。良かった。これで聞かなかったら久しぶりに得意なプロレス技を披露しなければいけないところだった。
「…お前のゼリー食いながら泣いてたんだよ、あいつ」
万里が俺を見ながらそう言う。それから万里に続いて今度は十座が、その時の様子を教えてくれた。
「持ってたスプーンが震えてるから、どうしたのかと思って、聞いた。そしたら「臣クンの料理はホントに美味しいなぁ」って、泣きながら笑ってたっす」
「クソ兵頭。今の太一のマネ全く似てねえ。マイナス300点」
「あ?テメエこそいつまでキツネの顔マネしてんだ」
「あぁ!?」
「うんうん、わかった。十座も万里もよく似てるぞ。俺が保証する」
「おい臣。保証すんなや」
万里に胸の辺りを軽く叩かれ、その場は何とか収まった。危ない。気を抜くと二人の言い争いはすぐ生じてしまうんだなぁ。
「……臣さんの」
十座が食べかけのゼリーをテーブルに置き、ぽつぽつと話し始める。
「アンタの料理は、凄く…美味い。それから、優しい」
あまり口数の多い方ではない十座が、それでも何かを伝えようとしてくれている。俺の隣に座る万里も十座が何か大事なことを言おうとしていると思ったのか、いつものように口を挟むことはしなかった。
「俺は、甘いものが好きなことをここではあまり隠さなくなった。あんたの料理食ってると素直な気持ちになる。もっと食いてえとか、おかわりがほしいとか、クリーム乗っけてほしいとか」
「…うん」
「……だからだと思う」
そこで十座は話に区切りをつけたのか再びゼリーを口に運び出した。意味を汲み取れなかった万里は、俺が聞くより先に「はあ?」と十座に言い放つ。
「だからなんなんだよ、全然わかんねえわ」
十座は万里に舌打ちをして「うるせえ」と言い返した後、口の中の一口を飲み込んでから続きを語った。
「だから太一も、アンタの作ったもんを食って…溜めてたもんがこぼれたんじゃねえかと思った」
「……」
俺のゼリーを食べながら涙をこぼす、太一の姿を思い描く。その震える肩を俺が抱きたかった。「どうした?」って、俺が聞いてやりたかった。歯痒い。ほんの少しだけ、俺も泣きたくなる。
「俺は、その、あんまり太一の考えてることが分からねえ」
十座が頭をかきながら言う。
「理解できてねえと思う。だから相談にもきっと乗れねえ。でも、アンタが一番力になれるんじゃねえのかってことだけは、なんとなく分かる」
「…どうして、そう思うんだ?」
俺の問いに、十座はいつもと変わらないまっすぐさで答えた。
「アンタといる時の太一が一番、なに考えてるか分かるからだ」
十座のその言葉が、俺の不安だらけだった胸の中に浸透していく。
 …知らなかった。周りの奴にはそんな風に見えるのか。俺は、俺だけが特別太一の内側に気付けていないと思っていたのに。
「あいつ、器用だからな」
万里が足を組み替えながらそう言った。
「楽しいとか嬉しいはすぐ教えてくれっけど、悲しいとか辛いとか、マイナスの感情は全然自分の外側に持ち出さねえじゃん」
「…ああ、そうだな」
「ま、そういうの臣はちょっと寂しいかもしんねえけどさ。太一も太一なりに、考えがあってそうしてんのかもよ」
「俺の為?…うーん…俺は何でも言ってくれることが一番嬉しいんだけどなぁ」
俺が言うと万里は笑った。それは普段の彼があまりしないような、とても優しい顔つきだった。
「笑っててほしいんじゃねえの、大好きなお前にさ」
「…」
どうしてだろう、彼が言うと妙に説得力があった。それでいてとても単純なことに聞こえてしまう。
「…そうだったら、いいんだけどな」
「ま〜あいつは確かに難しいよ。何考えてっか俺も読めねえ時あるし」
万里は天井を仰ぎながら言う。俺は万里の言葉をもっと聞きたくて、だから彼が続きを話してくれるのをそのままじっと待った。
「自分の頭ん中だけで煮詰めんのが癖なんだろうな。んで鍋の中身全部焦がすタイプだわ」
「…ああ」
分かる気がする。太一が一人、大鍋を火にかけながら何時間も煮込んでいる後ろ姿を想像して、ひどく初ない気持ちになった。その背中が今、もしも目の前にあったら全力で抱きしめてやりたいのに。
「まあでも、相手が臣なら大丈夫じゃね」
どうして。だって、本当に大丈夫だったらこんな事にはなっていないのに。
「…はは。根拠は?」
縋る気持ちを忍ばせて万里に尋ねる。万里はそんな俺を見透かしたように優しく二回、肩を叩いてくれた。
「どんだけ焦げてても、お前は旨いって言いながら平らげんだろ」
万里がニッと笑って言った。その言葉は、俺の中に広がる霧を一掃してくれるようだった。
 そうだ、俺は。太一の考えていることの全てを見抜いて、先回りしてやることはあまり出来ないかもしれない。それはきっと太一の言うように、俺がどこかとぼけていて、見えていないことも沢山あるからなのだろう。だけど太一から生まれる全てを俺は、愛しいと思いながらこの胸に抱ける。自信がある。
 一つ残らず全部だ。なあ、全部なんだよ太一。
「…ああ。そうだな」
俺は確かに首を縦に振り、それから決意した。
 太一と話がしたい。大切な話を、ちゃんと二人でしたい。
 なあ太一、好きだよ。俺はお前のことが本当に大好きだよ。全部俺にくれよ。お前が言えないでいるお前のことも、お前に許してもらえないでいるお前のことも。
 俺がもらうよ。全部食べるよ。そうしてその体ごと抱き締めたいんだ。なあ太一、今すぐ。
「やー、お前らが言い合いなんてしてんの初めて見たから、ちょっと驚いたわ」
稽古の時のことを思い出しながら万里が笑う。「悪かった」と言うと、万里は少し意地悪く口の端を持ち上げて「いや?」と答えた。
「レアなもん見れたなぁと思ってよ。お前らもぶつかることあんだな」
「うん、そうだな。…はは、もう、こういうのは…ないといいんだが」
「何でも慣れだよ。喧嘩ん時に相手言い負かすフレーズとか知りたかったら俺が教えてやっからさ」
万里のセリフに十座が、やれやれと言った感じでため息を吐く。万里がそれに気づき「あぁ?」とメンチを切るが十座はそれを全く相手にせず、俺に「ゼリーごちそうさまっす」と頭を下げた。また機嫌の悪くなる万里をなだめながら、俺は十座に「ああ」と答えた。
「…二人とも、ありがとう」
礼を言って頭を下げると、隣からは「別にー?」と軽い返事が、向かい側からは無言の頷きが返ってきた。…本当にありがとう。みんなの言葉が俺の背中を押してくれる。
 俺は立ち上がり、太一を探すため談話室を後にした。

 中庭やバルコニーにいるかもしれないと足を運んだけれど、太一の姿はそこにはなかった。トイレにも風呂場にもいない。出かけてしまった可能性を考え玄関を確認するが、太一のスニーカーはいつもの場所にきちんと置いてあった。
 あまり期待せずに、念のため自室の中を確認する。俺を避けているなら部屋で俺を出迎えるのは一番嫌な筈だ。
 けれど太一はそこにいた。稽古着のままロフトベッドに寝そべり、どうやらスマートホンをいじっているようだった。
「あ、臣クン!お帰りなさいッス!」
いつものように笑顔だ。泣いていたなんて信じられないほどその笑顔は自然だった。
「…太一」
「うん?」
「…いや…てっきり避けられてるかと」
言いながら気がつく。太一はあからさまに避けたりなんかしない。分かりやすく逃げたりなんて、絶対にしないのだ。
「やだな、俺っちが臣クンのこと避けるわけないじゃないッスか」
そうだ。だって太一は、俺が傷付いたり悲しんだりすることを嫌う。万里の言葉が頭をよぎった。俺に、笑っていてほしいと太一は思ってる。…うん、そうだな。お前の一番近くでお前を沢山見てきたんだ。そのくらい俺にも分かるよ。
 寮内のいろんな場所を探し、この部屋という選択肢を一番後回しにした自分は、やっぱり太一の心を読み解くのが下手なのだろう。…でもいい。一番大切なことは別にあると、俺はもう知っている。
「臣クンごめんね。俺が怒られなきゃいけなかったのに」
申し訳なさそうに謝る太一を見上げ、俺は首を横に振る。笑いながら「怒られてなんかないよ」と言うと、少し驚いた様子で「え、なんで?」と聞き返された。
「仲直りできそうか?って。心配してくれたんだ。優しいよな」
「…あはは、そっか。確かに喧嘩してるように見えたかも」
「なあ、太一」
「うん?」
「なんで泣いてたんだ?」
太一の目を見つめたまま聞いた。そらさない。俺から先にそらしたりなんか、絶対にしない。
「…あはは。えぇ〜?」
太一は笑って、そのまま話をごまかそうとした。けれど俺はロフトベットの柵の間から手を伸ばし、太一の手首を捕まえる。太一の手に少しだけ力が入ったのが分かった。
「万里と十座から聞いたんだ。…どうして泣いたのか教えて欲しい」
「…あは、内緒ッス」
「太一」
握った手首から移って、今度はその手を握った。どうかこの手が離れないようにと願いながら、指の一本ずつを絡めてしっかり力を込める。すると太一の指が僅かに反応し、水色の瞳は一瞬揺れながら、けれど俺を捕らえた。
「…臣クンの、ゼリーが」
「うん」
「……なんか、キラキラしてるなぁって…」
「うん」
「き、綺麗だなぁって、思って……」
震える声は、もうそれ以上は続かなかった。太一は布団に自分の顔を隠して、嗚咽が漏れないようにして泣いた。その泣き顔を見ることは叶わない。…けれど、俺たちの手はつながったままだ。
「…美味かったか?」
太一は顔を隠したまま無言で数回頷いた。
「そうか。…良かった」
本当にそう思った。何かが解決したわけじゃない。太一が泣いた理由も、明確に分かったわけではない。だけど少しだけ、今、お前の扉が開いたような気がする。ここにいるよと、教えてくれた気がするんだ。
 そのまま随分長いこと太一と俺はそうしていた。柵越しにつながった手は離れないまま俺たちを結んでくれている。
 しばらくして太一が顔を布団にこすりつけ、それからその顔を上げた。どうやら涙を布団で拭いたようだ。目元は赤くなっていたが少しスッキリした顔をしている。
「…泣いちゃったッス」
「うん、泣いちゃったな」
頷いて笑うと太一もゆるく笑った。俺は少し安心して、だから先ほどから思いついていたあることを、太一に提案してみることにした。
「なあ太一」
「ん?」
「バイク乗ろう」
「へっ」
俺の唐突な誘いに、案の定太一は驚いて目を見開いた。
「え、なん…今から!?」
「ああ、今から」
「え…でも俺っち風呂もまだ入ってないし」
「風呂に入ってなくてもバイクには乗れるよ、行こう」
「い、行くってどこに」
「うーんそうだな…まあ適当に、どっかコンビニとか」
「え、えぇ…」
「ほら太一。行こう」
「ほ、ホントに今から行くの?」
「思い立ったら夜のコンビニにバイクで走り出すのが若者だろ」
俺の言葉に太一は面食らい、それから数秒後、声をあげておかしそうに笑った。
「あはは、どっかで聞いたことあるセリフだ」
「うん」
そうだよ。お前が俺に言ってくれたんだよ。
 あの時俺を連れ出して、大切なことをたくさん教えてくれた。自分の我が侭というフリをして、俺を振り回すフリをして、俺を掬い上げてくれた。
 なあ今度は、俺がそっちの役をやりたいんだ、太一。
「…うん、わかった」
太一はゆっくり頷き、俺の手を強く握り返した。
 寮の誰かに告げることもなく、俺たちはひっそりと玄関を出て、それからバイクに跨った。





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オフ本では、バイクに乗ってからの二人の第3章と、最後に太一くん視点の4章を収録する予定です。本文完結済み、ちょっと湿った感じのハッピーエンドです。



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