Chapter.3-1



どうしてこんなに、人間というのは慣れてしまう生き物なんだろう。
数ヶ月経って、俺は客引きの仕事にもすっかり慣れてしまっていた。月に5、6回(しかも一回たったの三時間ほどだ)入るだけで5万は貰える。割りのいい仕事だと心底思う。
金が欲しくて始めただけの仕事はいつのまにか馴染んで、向いていないと思っていた頃の感覚を思い出せなくなっていた。女に声をかける時の抵抗感など、今はもう欠片も感じない。話しかけるこの口は勝手に、嘘のように滑らかに回った。

「ねえ、おねえさんメチャクチャかわいーすね」
これから帰るところなのか、女は少し疲れた顔でこちらを一瞥する。
「ウチで休んでけば?おねえさんだったら安くできると思うけど」
「すみません急いでるから」
「そっかぁごめんね、おねえさんすげえタイプだったからさ、どうしても話してみたくて呼び止めちゃった」
「…」
「また急いでない時に会えたらさ、そん時は俺ともーちょっとだけ喋ってよ」
立ち去ろうとする女を引き止めず、そのまま笑って手を振る。こうやって言っておくと、次に声をかけた時に入店する可能性が少しだけ上がる。メゾさんにこの前教えてもらったやり方だった。
女は少し困惑した表情で、しかしそのまま背を向けて歩き出した。多分だけど、次に会えた時あの女は入店するんじゃないかと思う。

少し経って、勝手に途中で煙草休憩を挟んでいる時だった。初めて女の方から声をかけてきた。
「こんばんは」
しゃがみこんで煙草を吸っていた俺は声がする方を見上げる。そこには綺麗な黒髪の女が立っていた。
「…」
目を細めて女をじっと見る。どこかで見たことがあるような気がして、それから数秒後に思い出した。その女は俺が初めてここに立った日に入店してくれた客だった。
「あ、思い出した」
立ち上がって、煙草の火を地面に押し付けて消す。黒髪の女の人は「本当?」と言って微笑んだ。
「覚えてるよ、やっぱ髪綺麗だね」
「ありがとう、あの時も言ってくれたよね。凄く嬉しかった」
「ほんと?でも俺以外にも言われ慣れてんじゃないの」
女は首を横に振って「髪のこと言う人なんていないよ」と笑った。やっぱり笑った顔がかわいいと思う。自分のタイプは分かりやすいなと俺は内心呆れた。
「…キミに、会えないかなって思って、ここ通ったんだ」
女の人は少し俯いて、小さな声でそう言った。伏せられた目の、睫毛の長さを俺は見る。この人、いくつくらいかな。俺より少し年上かな。
「…なにそれ」
言いながら女の人に歩み寄る。綺麗な髪の毛の先を少し触って、それから親指の腹で撫でた。
「超嬉しい。ほんと?」
俺がそう言うと、女の人は困ったような、でも熱がこもった目で俺を見つめた。俺と同じようにこの人も、もしかしたら俺が好みのタイプだったのかもしれない。
「…キミは、接客しないんですか?」
「はは、俺?あー…見ての通り愛想ねーから」
「そう…もっと話せたら良いんだけどな。でも、ここにいたら私、お仕事の邪魔になっちゃうもんね」
女の人は「ごめんなさい」と付け足して、それから申し訳なさそうに言葉を続けた。
「キミとお酒飲めたら、いいなって思ったんだけど。難しいよね。えっと…今日はもう行くね」
女の人はそう言って、名残惜しそうに俺に手を振った。

その日、仕事が終わってからいつものようにクレさんの運転する車に乗って、みんなが集まる部屋へ帰った。その帰りの車中、クレさんに何の気なしに今日あったことを話す。
「…で、俺の接客だったら、みたいなこと言われて」
「うーわマジで?そんなん普通ないよ。いいじゃん、やればいいじゃん接客」
クレさんはケロッとした調子で提案した。
「…接客は…さすがに…。俺、愛想ねーし」
「かなしいかな、愛想なくても顔がいいからなーキミは。余裕だと思うよ、ぶっちゃけキャッチより稼げると思うけどね」
クレさんが赤信号を見上げながら言う。日付を跨いだ夜の街は、その時間帯にそぐわない程騒々しく明かりを散らしていた。
「…どんくらい稼げんのかな」
窓の外を見ながら呟くと、クレさんはハンドル片手に煙草に火をつけながら答えた。
「ん〜歩合制ですからねー。どんくらい稼ぎたいの?」
「…10万くらい」
「あはは10万?え、1日でって意味?」
「…いや、月で」
「月で?冗談でしょ30はいけんじゃないっすか?ホスケさんなら」
「そんな金あっても…」
「金はねー、いくらあっても困んないよ。煙草以外にもなんか欲しいもんないの?」
聞かれて、考える。欲しいものなんてあるだろうか。今の俺に。
「…あ」
「んー?」
「CD」
「CD?」
「うん、高校生ん時高くて買えなかったやつあった。何枚か」
「あはは、じゃー高校生の頃の願いを叶えてやればいいじゃん、今のホスケが」

クレさんの言葉を聞き流しながら、俺は昔のことを思い返していた。

あの頃は時給800円かそこらで働いて、なけなしの給料を欲しかったCDや行きたかったライブにあてていた。やっと買えたCDのケースを開く瞬間や、ライブ会場でSEが消える瞬間、そういう瞬間にいつも、他の何かには代えられない高揚感を感じてた。
煙草だって、年齢確認があるから高校生の自分じゃなかなか買えなくて、だから親父の置き忘れた煙草の残りを時々隠れるように吸うしかなくて、いつだって火をつける時、フィルターギリギリまで余すことなく吸おうと心に決めてから、台所のガスコンロの火をつけてた。
高校の頃仲良くしてた峯田って奴と、よくライブやフェスに行った。峯田も俺もタッパがねえからいつも決まって前の方に移動して、後ろから誰かの肘や足がぶつかっても気にせずステージの上を見上げ続けた。峯田の他にも仲の良い奴を誘って、一緒に汗をかいて、泣き上戸なそいつのことを峯田と一緒になって笑ったりした。
長く続けてたレンタル屋のバイトは、今思えば人に恵まれてたと思う。同じ時間帯に働いてた人たちのことや店長のことも、そういえば俺は好きだった。
愛想のなさと短気のせいで、店長には随分迷惑をかけたと思う。でもいつも笑ってくれて、時折ゾッとするような怖い発言をされたこともあったけど、最後にはいつだって許してくれた。
同じ時間帯で働いていた柴崎さんと林さんは元気にしているだろうか。林さんにもたくさんお世話になった。マニュアル通りの接客がままならなかった俺に、林さんはいつだって絶句して、頭を抱えて、だけどそれ以外の得意な業務に俺が就いた時はすごいと褒めてくれて、いつもありがとう助かるよと声をかけてくれた。
柴崎さんは最初の頃は仕事に不真面目で印象良くなかったけど、いつの頃からかちょっとずつ仕事を頑張るようになって、影でメモ見返したりしてて、気付いたら電話対応やイレギュラー対応も完璧にこなせるようになってた。俺のことを「イナディー」と変なあだ名で呼んできて、ほんとにふざけてばっかだったけど、あの人が高校卒業を機にバイトを辞めると決めた時は内心ちょっと寂しくて、俺は不機嫌になったのだ。

…ひろには、そのバイト先で出会った。
初日勤務の時に俺についてくれたのがひろで、基本業務はそういえば全てひろに教わったんだと思い出す。
最初は、ひろが吃音の持ち主だと知らなくて嫌な突っかかり方をした。言葉の頭の文字が引っかかってしまうひろに、俺はあの日確か「もうちょっと普通にしてもらっていーすか」と言ってのけたのだ。
ひろは、そんな無神経な俺の言葉に「ごめんなさい」と謝って、それから次の日も、きっと嫌だったろうにまた俺についてくれたのだ。昨日はすみませんでしたと詫びると、ひろは笑った。初めて俺に、その時笑った顔を見せてくれた。
ひろはいつも仕事に一生懸命で真面目だった。もっと上手く話せるようになりたいから苦手な接客業を自ら選んだのだと、後から店長に聞いた。
シフトが被り少しずつ話すようになって、お互いの聴いてる音楽が似ていることを知った。海外のちょっとコアなロックバンドの話をしたりして、二人で一緒に盛り上がった。ちょくちょく行ってたライブハウスのイベントにひろを誘って、二人で聴きに行ったりもした。
笑ったり、からかうと怒ったり、好きな食べ物を食べてる時やたら幸せそうにしたり、仕事で人一倍頑張ってる姿を見たり、ひろのそういう一つ一つを見る度に俺は何度も「かわいい」と思って、積もるように好きになって、高校二年の夏、ひろに告白をした。その時のひろの返事は「ごめんなさい」だった。
でもそれからしばらくして、俺はひろに「好きです」と告げられる。
ひろは、サ行とハ行の発音が苦手だった。だから言葉の頭にサ行とハ行がくる単語は、決まって上手く言えなくなるのだと教えてもらったことがある。中でも「す」が一番難しいらしく、ちゃんと言えた試しがないと困った顔をしながら言われた。頭の中で先に文章を考えて「す」がつく言葉は違う言い回しがないか探してから話す。そうやって極力言わなくて済むようにしているのだと言っていた。
だけどひろは、あの時言ってくれた。何度もつっかえながら、顔を真っ赤にして、両手を震わせて、涙をボタボタと零しながら、それでも「好きです」と、俺に、時間をかけて確かに。
ひろが口を震わせている間、俺もずっと泣きそうだった。震える手を握り返したいと思って、我慢できなくて、その手を両方とも取った。もういっそ、その体を抱き締めてしまおうかと思うほど、この人が愛しいと思った。
ひろが頑張って言おうとしている間中ずっと、身体中に「好き」という言葉を浴びせられているような感覚がした。雨のようにそれを浴びて、嗚呼こんな風に泣きたくなることがあるのかと俺は初めて知る。
ひろが言い終えたあと、俺はその体を抱き締めた。そしてひろが俺の背中側、制服のシャツを遠慮がちに握ったあの感触を、俺は今も鮮明に覚えている。

昔のことを思い返す度、付随して湧き上がってくる感情が俺の中に渦巻いて、いつも不快になる。
俺はその感情の正体を知らない。知りたいとさえ思わない。それは反省や後悔なのか、寂しさとか悲しさなのか、それとも怒りなのか。知ったところでどうなるとも思えない。面倒だし無意味だ。とにかく不快で鬱陶しい。
…そうだよ、だから俺は考えるのをやめたんだ。

「…接客してたらお酒もいっぱい飲めるもんね」
俺の呟きに、クレさんが笑う。
「おー飲める飲める。煙草も吸えるし座ってられるし」
「なんも考えないでいーもんね」
「だはは。そうだなー。ホスケは酒と煙草さえあればなんだっていいんだもんなー」
クレさんが笑いながらハンドルを切る。この交差点を曲がればもうすぐ、みんなが集まるあの部屋に到着する。

「うん、なんだっていいや」
クレさんの言葉に頷いて、俺も笑った。





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