闇の呪縛を打ち砕け
不機嫌そうな宵藍の気配が戻ってしばらくしてから、昌浩と紅蓮の気配も安倍邸に帰ってきた。
戌の刻を少し回った頃だろう。
遅い帰りに、何かあったのだろうかと考え、結果、宵藍の機嫌が良くないことまで納得がいった。
・・・・・・昌浩の仕事ぶりを見て見直そう計画は、あまり上手くいっていないようだ。
「ねえ、彩輝」
理紗は妻戸の向こうに感じる気配に語りかけた。
応えの声はなかったが、隠形をやめて顕現したのだろう。気配が強くなった。
「彩輝・・・・・・応えてくれる誰かがいることは、とても幸せだと思わない?」
返事は無くとも、確かに聞いてくれていると解っているので、理紗はそのまま続けた。
無意識に、首から下げた魔除けの飾りをぎゅっと握る。
「名前を呼んでくれる人がいるのもね・・・。呼ばれないと、自分の名前だって忘れてしまうものよ」
「ねぇ、あの子の親、今日も来てないの?」
「あの子も可哀想よね・・・私、あの子の親が見舞いに来てるの、見たこと無いわ」
「あの子、もう長くないでしょうに・・・」
―――カワイソウなあの子の名前は何だったろうか。
「理紗?」
雰囲気の変わった理紗を気遣うように、六合は名前を呼んだ。
「―――ううん、何でもないわ。彩輝、昌浩のこともお願いね」
「昌浩と紅蓮の様子を見ていたのだろう?どうだった」
晴明は、柱に背を預けて腕組みをしてたたずんでいた青龍に、尋ねた。
相変わらず、凍てつく氷の目をしているが、晴明に向けられる視線は、僅かに険しさが薄れる。
晴明は、この蒼い神将が孫娘に向ける視線が、これよりもずっと柔らかいことを知っていた。そういう目ができる者なのだと。
「・・・あんな子どもに、何ができる」
「何が、とは?」
文台に積まれていた書を広げる晴明に、青龍は言い募った。
「夕刻、逢魔が時に、あの子どもと騰蛇は敵の術中にはまった。次元を切り離されるまで、全く気づいてもいなかった。
・・・あれが、お前の後継だというのか、晴明!」
「そうだよ」
涼しげに肯定して、晴明は笑った。
「前にもそう言っただろう。紅蓮も認めておるよ、だからあれは昌浩の許におる」
「騰蛇の戯言など、意味はない」
一言のもとに切り捨てて、青龍は腕をほどいた。
凍てつく瞳が、青白く燃える。
「俺は認めないぞ、晴明よ。俺が主と定めたのはお前だ。安倍晴明だ。
理紗ならまだしも、あんな器量のわからない子ども風情に仕える気など、ない!」
「今すぐにとは言っとらんさ。・・・じきにわしも天命を迎える。それからでいいと言っておるのに、判らん奴だなぁ」
困り果てた様子で天井を仰ぐ晴明に、青龍はにべもなく言い放つ。
「その時は、式神の任を放棄してもといた世界に戻るまで」
木将青龍。その性状は『福助』。しかし、青龍の性格はあまりそれに当てはまらない。その名に龍の字を持つ彼は、水の性も持つ。
騰蛇とは火と水。相容れることはない。
晴明は、落胆してため息をついた。本当に昔から、式神に下した頃から、青龍は頑なに騰蛇を嫌悪しつづけているのだ。
そして、それはある時を境に決定的なものとなった。
「俺は騰蛇を許さない。・・・その騰蛇に認められた子どもを、信頼などできるものか」
「青龍。・・・宵藍。その名を呼べるのは、わしと、理紗だけか?」
「くどい」
短く言い捨てて、青龍は姿を消した。
彼の気持ちが、わからないわけではない。
剛直で頑強な青龍。しかし、冷たく凍てつく心の奥に、激流の如く荒れ狂う気性を持っている。
だから、穏やかであれと晴明は願った。
静かに黙する宵の空のようにあれと。
文台に両肘をつき、晴明は眉を曇らせた。そんな彼の耳に、隠形したままの神将たちが、ささやきかける。
《青龍の言も、聞き入れてください》
「・・・騰蛇の言はなんとする?」
《我らとて、騰蛇を許しがたく思っているのです》
穏やかな、澄みとおる高い声。一拍おいて、銀色の長い髪を背にたらした、優しい風貌の女性が現れた。
十二神将、水将天后である。
「・・・人間世界でははるか昔のことかもしれません。ですが、我らにとっては昨日も同じ。
・・・今、あなたがここにいられるのは、運が良かったからだとしか言えませぬ」
「神将でも、運を信じるか。・・・運ではないよ、天命だ。じきに尽きるがな」
「晴明様」
非難の色が口調に混じる。
「なぁ、天后。生きているものは、全て変わるのだよ」
永遠不変はありえない。
ほんの僅かなきっかけで、考え方というものは変わるものだ。
「大体なぁ。あんなことを言っとる青龍とて、最初はすごかったものだ。
人間風情の配下に納まるなど言語道断だと言っとったわ」
それに理紗の子守についても。初めは間違い無く嫌々だった。それがいつの間にか自発的なものになり、今ではあれだ。
「紅蓮のこともな。・・・誤解が誤解を生み、今にいたっただけのこと。
・・・心があれば、痛みを感じる。お前たちは皆、よもや紅蓮が何も感じていないなどと思っているのではなかろうな。だとすれば、それは改めよ。大きな間違いというものだ」
持って生まれた性状が何だという。そんなものは、紅蓮の一部分に過ぎない。
「ここにいない他のものにも、伝えておきなさい。我が後継は昌浩だ。あれだけがその器を持っている」
「・・・理紗様は・・・」
天后の呟きに、晴明は首を振った。
悲しそうな、寂しそうな、言葉にしがたい表情を浮かべて。
「他の誰でもない。・・・いつか、それを証明する日も来よう」
天后は、無言で一礼し、そのまま消えていく。
「・・・・・・理紗、か・・・」
多くの神将に認められる才能を持つ、孫娘。
力ならば、晴明の後継となっても何ら問題も無いだろう。
だが、理紗には無理だ。
理由を問われても、晴明は答えを持ち合わせていない。
が、直感が告げる。
「・・・理紗には、無理なのだよ・・・」
視線を宙にさまよわせた晴明は、やはり寂しい顔をしていた。
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